2018年10月09日

あるがまま

先日 マインドフルネス瞑想会での会話の中で わかったこと

 

 

その時の会話のテーマとは関係ない話の流れで それは発見されました

参加者のお一人が

関東の方で開かれている瞑想会ことを話されていました。

その瞑想会を開いている方が面白い というお話で

その方の瞑想会は 踊ったり何かを作ったり 瞑想会?と思うようなこともある とか。

踊る時なんて その方が思いっきり踊るもんだから、恥ずかしいと思っていた気持ちもいつの間にか薄れてみんなが一緒になって踊ってる そうなんです。

瞑想会というところは もっと崇高なものがあるんじゃないか?と思っていた人は なんか拍子抜けして この状態をどうとらえたらいいかわからず、困惑したり、

求めていたものじゃない と 来なくなったりするんですけど、

自分はなんだか行きたいんですよね。

と 言われる。

 

あ、恥の意識 ・・・ 自我だわ。  って思ったんです。

 

私自身のモヤモヤした感じは、自分がどう見られるか ということにまだちょっととらわれてるんですよ。

ちょっと変わってる とか 変人とか そんなことはいいんです。 だって、それ 自慢なんですもの。

普通と違うことは自慢みたいに感じます。それを指摘されてもちっとも凹まない。

変人は極めればすごいんです。(笑)

 

でも、なんだか カッコ悪いこと とか 人様にみとがめられそうなこと っていうのが 自分の意識の中にあるんです。

これ、とらわれなんですよ。

ありのまま なんてカッコイイことばかりじゃないんですよね。

自分で知ってるんです。自分のカッコ悪いとこ とか 人にあんまり見せたくないかもしれないとこ。

 

この感覚は 若い頃からずっと持て余していました。

ちょっと 元々あった意識から掘り下げて見てます。

元々の私の意識

カッコよくありたいのであれば、あんまり問題なかったと思うんです。

自分をカッコよく作ってそれで満足するなら 努力すればいいだけじゃないですか。

それなら何の迷いもありません。

 

でも、問題は もっと深いところにあって、

カッコつけてる自分を愛する人は 私ではない 偶像を愛してるわけで 私が愛されてるのと違うんですね

それで ひどい孤独感と虚しさを持ってしまうんです。

だから 尊敬されるのは ひどく苦手です。そんないいもんじゃない。

カッコよくありたいと思っていてカッコつけてる自分は 本当の自分じゃないんです。

本当の私は グダグダでしたから

誰にもその姿は見せられなくて 誰も私の事を知らないわけです。

かなり長い間 その孤独感は自分の深いところにずっとあったように思います。

 

人間だからそういうこともあるよ って思えるようになって楽になりました。

あるがままでいいんです。

 

だけど、許せないものを見るだけで傷つく人もいるんですね。

 

その人たちは 自分自身を許していないので 

心の傷は そよ風が吹いただけでも痛みを感じたりします。

誰も傷つけようと思ってなくても 軽い刺激で 傷をえぐられたような感覚になっちゃう

その傷を自覚しててもしていなくても 反応してしまいます。

そういう方々を刺激しちゃいけない と思っていたりして できるだけ柔らかい表現をしよう と 心がけているわけですが

 

実際は 自分の中には けっこう激しいものを飼っておりまして、

お行儀が悪い部分もあるわけです。はっきりものを言いたがるとことか

本来我が強いんですね。見つけたことを口に出してしまう。

弱いものには優しく、しかしながら強いものには強さが出てしまう。

持て余す 我 です。

この 我 のキャラクターは 私の内側に共存しておりまして、

時々 内側でいろんな余計なことを言ってきますが 割と黙らせています。

でも、その人(我)は 結構面倒くさいやつで 無視するといろんなものを出してきます。

 

で、どこからどこまでが私なのだ? と なる。無視できない存在です

 

ほんとは 境目なんてないんですよね。

自分の中にあるものを 恥ずかしがってるのは誰だ?

自我は真我じゃないなら 何で居るんだ? どこから自我で どこから真我 ん~ 境目なんてない

 

あるがままでいいじゃないですか 

それを許す ってことでしょ?

だから 自我の感情が出たっていいんです。

 

自分があるがままで居ると 

人も あるがままで いいんだ と気付きます。

瞑想会で 思いっきり踊っちゃう瞑想の先生は 自分に制限なんかかけてないんです。

あきれられたっていいんですね

それを見ていると、カッコつけてることがバカバカしくなる と 参加した方は言っておられました。

 

それを聞いた時に

あ~、私はカッコつけてるかも と 思ったんですね。

で、ちょっと、素を出してみようとしたら、 けっこう強いものが出てきて

それに引いちゃうんです。 

これ、あるがままを許してません。(苦笑)

自分の感情をそのままに出すのが まーだ恥ずかしかったり抵抗があるんです。

人が強いのは平気なのに なぜ自分のはダメなのだろう?

我を恥じてる?

 

私が 本当に素のままの自分で居る時 それをそっくりそのまま受け止めて 何のNGも出さずにいてくれる人がいてほしい と 思うのは 自分が自分に制限をかけてるからなんですね。

 

その制限を外す ということは、 そのほかの全ての人のそのままも許す ということなんです。

私の場合は、自分以外は許せますが、自分に対して課すもの 最後の砦がまだ残っているように思います。

これは悪いものだから消す というのではなく、

自分に張り付いてしまっているのでよろしくないのです。

意識的にオンオフできれば何の問題もありません。

 

真我の意識は完全なる自由なんですね。 

自分自身をあるがままに受け止め 大切にできる ということかもしれません。

何をするかは問題ではありません。

 

まとわりつくモヤモヤする薄皮、最後の砦はもう必要ないんです。

とらわれのない完全なる自由な意識でいたい。

 

思いにとらわれない ということですね。

 

この世の理屈はパラドックスなので これもまた唯一の正解の話ではありません。

私についてる薄皮のお話です。

私と同じ人もいれば、違う段階の人もいるし、当てはまらない人もいます。

言葉は物事の一面しか表現しません。

真理は立体よりももっと厚みがあります。

 

カルマのエネルギーを手放すには 

朝夕の瞑想が一番いいです。

 

次々に深い所もクリアになってゆきます。

だから面白いんですね。