2018年10月

執着

執着は外した方がいい ってことはわかりきっているのに

何かに執着してしまう時 ってありますよね。

 

どうやって執着を外したらいいのかわからず、苦しむこともあることでしょう。

執着を持ってしまっているために そのことが気になって気になってしょうがない とか

なんとかしたくてじっとしていられない とか

失うのが怖くて そのことに一喜一憂し 不安に襲われ

いざ 失った時は 死にそうな気分。

私からそれを奪ったのは誰か? と恨みの気持ち だったり

私から去ってこんな思いをさせるあの人を許せない と 怒り だったり

 

いやいや、私にはそんなブラックな思いはありません。

ただ、それが好きなだけ。今は諦められないだけ。

と 思ったり・・・

 

私たち人間は いろんなものへ絡まる思いを持っていたりします。

そう、執着を外すまで 執着の思いはそこにあります。

 

何かに意識を集中させることは 人間にとって 悪い事ばかりではありません。

何か 困難なことを成し遂げる時、その執着心は役に立つかもしれません。

あなたは それを手放すか まだ手放さないか 選ぶことができます。

 

ただ、何かがあなたから離れる流れが来ているのに 手放さないでおこうとしがみつくと

葛藤や 苦悩を味わうことになります。

 

また、人に対して執着心を持ってしまうと、そのエネルギーは相手に伝わりますので

その波動が居心地が悪いと相手に感じさせてしまうかもしれませんし

執着心を強く持つことで 同じような執着心の強い人を周りに集めてしまいます。

これは 波動が同じなので 最初、居心地がいいと感じるかもしれませんが、

じきに 摩擦を起こしはじめます。

 

自分がこだわっているものを 執着だと気づいてすぐに手放せるなら それは執着というまでもありません。

どうしても どうしても、どうしても それだけは譲れない 譲りたくない 

と 思いだしたら、その執着心は緩めた方がよさそうです。

強くなってしまった執着は手放すことが難しく あなたを苦しめるかもしれないからです。

 

調和 とは 圧をかけずに自然に在ることです。

圧が必要になってくることが 全体の波動に緊張感をもたらします。

それは真の安らぎではありません。

 

神は あなたに 選択する自由を与えてくれています

あなたは何を体験してもいいのです。

「好きにしなさい」と言ってくれています

ただ、その結果を受け止める責任は自分自身にあります。

やりたいことは 気が済むまでやってみると 未練はなくなります。

そのために必要な体験もあります。

味わい尽くさねば カルマは終わりません。

感情と向き合い、受け止める ということです。

 

どんな体験も 失敗なのではありません。

あらゆる体験があなたにこの世界の事を教えてくれます。

苦しむことをやってみたら 苦しむ人の気持ちがわかるようになるし、

ひどいことをしてしまったら ひどいことをしてしまった人の気持ちがわかります。

愚かなことをしてしまったら、愚かなことをした人たちの事情と気持ちが理解できるようになったりするのです。

 

あなたの体験に無駄はありません。

魂はこの世界の事全てを知りたいと思っているので あなたにそれをすることを許しているのです。

他者を通して感じることもできますし、自分自身で実体験することも可能です。

 

カルマの体験は 生まれた時から一定の量のカルマを持って生まれてきている と言われます。

それらの体験は避けることはできないようで、ある種宿命のようなものでもあります。

いつかどこかで その辛さや悲しさを感じきって終わらせねばならないのです。

今回の機会を避ければ、また別の機会が与えられます。

ですから 今回の思いにも 向き合って 受け止めて終わらせていくことで あなたのカルマが終わっていくのです。

 

何度も繰り返し言いますが

辛い体験は必要があればやらねばなりません。流れとしてやってくるのです

 

自我の意識が それを避けたいと思っていても、あなたの中にカルマがあれば体験は引き寄せてしまいます。

その時はガッカリしないでください。

カルマの体験は悪い事ばかりではないのです。

 

試練に向き合って、何が愛か を学んで 意識が成長する機会となります。

この世界はあなたの魂が成長することを望んでいるのです。

その方法は穏やかな方法ばかりではないのです。

大きな解放ほど、大きな成長へと繋がります。

未消化の体験は 本当に大事なことが何かをわからないまま流れてしまいます。

あなたの中にある摩擦の感覚に向き合ってください。

 

もし ただ手放すことを望んでいて それが終わる確信が持てずに苦しんでいるとしたら

終ることを信じて 速やかに終了していくことを祈ってください。

終らない試練はないのです。

 

抵抗すればするほど 逆に時間がかかってしまいます。

それはいつかは終わります。

あなたが毎日の瞑想を続けていくと それらは速やかに整っていくでしょう。

無理にはやめようとしない方がいいんです。

必要なだけ時が過ぎ、それらは過ぎ去っていきます。

台風を早く過ぎ去らせることが困難であるのと同じなのです。

私たち人間の感情もまた 自然物なのです。

あるがままの流れに委ねて 流れと共にあってください。

大いなるダルマの流れは 全てを調和の方向に向かわせます。

コントロールや支配の エゴの意向を手放すこともまた真我への近道なのです。

 

今 何をするかは あなたのハートにしか知りえないのです。

あなたの生きたい方向とは あなたの幸福を感じる方向です。

 

人生は長く、短い。 道は険しく優しい。

あなたが あなたに優しくあることは他者への愛にもつながり、

あなたが他者に愛であることは あなた自身の愛にもなります。

一つだけの答えがあるのではありません。

ただ、愛であることとはどういうことかを 長い時間をかけて学んでいます。

頭の理解でなく 真の理解へと導かれています。

真の理解は 体感です。 

あなたの体験と気付きが あなたを愛にしていくのです。

正しさばかり追う必要はありません。

形を追うことが正解というわけではないのです

愛は限りなく自由です。

愛でない体験が 愛を教えてくれることもあります。

手放して 感じてください。

方位磁石

病む自然さ

病む ということは 不自然な状況だと 一般的には思われています。

エゴが 肉体や生命体に不自然さを強要すると その肉体にとって丁度いい加減を見失ってしまい負担がかかる

それが、肉体を疲弊させ 病気を作り出したりします。

遺伝的な病気は 宿命としてのカルマの種が 発動する時に起きると言われています

これは 自我の意識にとっては不都合で理不尽で不幸な出来事と感じてしまいます。

でも、これは 長い間、世代を超えて蓄積された生き方の不自然さが 病の種であるカルマを子孫に引きついでしまうのです。

これは不幸なことばかりではありません。 

病気に限ったことではないのですが、うまくいかないことや 摩擦を感じる事 辛い体験 というのは

魂を磨く 磨き石のような役目にあります。

そのことに向き合い 自分の思い通りにならないことに嘆き、感情的に荒れ、周囲に八つ当たりするのではなく、

自分に与えられた状況の中で、いかに愛になれるか という魂のステージを上げる試練なのです。

それができるようになると 自分自身に自信がつき、自分や運命を信頼することができるようになります。

 

きつい体験は、そのことを乗り越える覚悟をした時、あなたの魂、あなたの心、あなたの生き方を強くしていきます。

 

ずっと辛い体験が終わらない と感じている方は 何かと向き合うこと 受け止める事から逃げてはいないか?

と見直す必要があります。

 

独りよがりな考え方をしていないか

エゴを発揮して支配を望んでいないか

周囲に期待して 甘えたり 依存を望んでいないか

都合の悪いことを周りのせいにして腹を立てていないか

また、自分自身をないがしろにしていないか

 

あらゆる在り方の歪みや摩擦の体験 身体の不調も

あなたに いろんなメッセージを送って来ています。

 

一言では片づけられるほど単純ではありませんが、

何らかの歪み 習慣や考え方、感情的及びエネルギー的な偏り 負の感情の蓄積

そんなものが あなたの生命のバランスを崩す原因となっています。

 

自然体が 思い通り とは限りません。

意識は自然体にも拒否を出したりします。

 

でも、本当にエネルギーバランスの取れた生命は ストレスを自浄する力もありますし

病気になりにくいですし、老化もゆっくりなのです。

 

エネルギーの歪みに身体はとても正直に反応していきます。

それが病気です。

身体は自然から生まれた自然の産物ですので、反応も自然の通りに起こります。

病気は自然からのメッセージなのです

 

病気になる時、身体はあなたに 「ちょっと待って」と言っています

「休んでください」「何かがバランス悪いです」と 言っています

健康体は多少の不健康要素や毒も 身体から排除する力を持っていますが、

疲弊した身体はその力が弱まっていきます。

だって、環境がストレスフルだから仕方がないんだよ!とおもっておられる方もいるかもしれませんが

物理的な負荷は減らす必要がありますし、自分の肉体を護る責任は自分自身にもありますし

外部の刺激は ストレスにしない方法もあるんです。

 

身体にストレス与える行動をやめられない と 自分を責める必要もありません。

その行動が起きるには 意識の深いところ、深層部分に原因があるからです。

行動だけ制御しても解決にはなりません。

 

意識の深いところは表面意識は上がらないので いきなりはいじることができません。

原因に蓋をして表面や身体症状だけ整えることも無理があります。

薬で抑えることができたとしても根本原因がなくならなければ またなってしまうことも多いのです。

 

まずは溜め込みすぎたストレスのエネルギー(瞑想ではカルマと呼んでいます)を

手放すことが第一課題でもあります。

 

無意識層のお掃除は 意識的にするのはなかなか難しくもあるのですが、

ELM瞑想は 無意識層の感情のエネルギーの方にアプローチして

ダイレクトにあなたの内面をお掃除します。

 

年齢を重ねると 若い時のような弾ける生命力 というわけにはいきませんが

もし長く健康で気分よく過ごしたいと願っておられるなら

ぜび ELM瞑想を実践されることをお勧めしています。

 

伝授を受けたいけれども、受けに来られないという方がありましたら、

一度ご相談ください。

お問合せフォームよりご連絡いただければ いくつかのアドバイスをさせていただきます。

 

皆様の健康な人生をサポートしたいと願う日々です。

 

身体に良い習慣、心に良い習慣 として 瞑想を始められることをお勧めします。

ELM瞑想の効果は驚異的です。

結果を出すために必要なのが 1日2回の瞑想習慣です。

瞑想

瞑想をされている方も されていない方も

皆様は 瞑想にどんなことを期待されるでしょうか?

 

最近の瞑想ブームで注目されているのは 身体の健康と精神の安定です。

瞑想には記憶中枢に働きかけ、過去のネガティブな感情を手放す作用があります。

体験した嫌な出来事にまつわる負の感情を終了させていくのです。

内面のお掃除です。

この効果は どの瞑想法にも当てはまることですが、

ELM瞑想は この効果が群を抜いて高いのです。

その秘密は 瞑想のやり方にあります。

 

瞑想は内側の静寂をつくることに取り組んでいきます

心の内側が静寂 ということは 内側にストレスが生じていない ということで

内側にストレスが無いと 心も体も自然体に戻り、自然治癒力が発揮されるのです。

 

手法はいろんなものがあり、瞑想といっても やり方は様々です。

瞑想を実践したいという場合、どこに行ったらいいのか 迷ってしまうかもしれません。

どんな種類があるか、具体例をあげてみますと、

 

・意図的に思考を止める禅の瞑想

・身体に意識を集中させて 行動のみに意識を向け思考を止めるビパッサナ瞑想 や マインドフルネス

・瞑想音楽に感覚を向けて 思考から離れる音楽瞑想

・ろうそくの炎を見つめ続けるトラタカ瞑想

その他 流派なども分類するとかなりの数があるかと思います。

目を開けてするものもあれば、目をつむってするものもあります。

瞑想する時の手順はずいぶん違うんです。 扱うエネルギーやアプローチも変わってきます。

 

ELM瞑想(旧フルフィルメント瞑想)は 伝授されたエネルギーが 空気清浄機のように

瞑想者の内側のエネルギーをクリーニングします。

波動が自動的に作動しますので 瞑想者は極力抵抗することをやめて波動にクリアリングを任せます。

瞑想時に 意図を外すことによって負のエネルギーが解放しやすくなるのです。

解放 - 内側にため込んでいたエネルギーが外に出ていくんですね。

身体から見ると 空気清浄機 というよりは 換気扇的かもですが、

外部を汚すこともなく ネガティブエネルギーは消滅するので やはり空気清浄機 が近いのでしょう。

ですから ELM瞑想を日常習慣として実践される方は ほとんどの方が体調や心の状態の改善を実感されます。

しかもいつの間にか 改善しているのです。

 

ただ、ご理解しておいていただきたいのは 内側にストレスのエネルギーを大量に抱え込んでおられる方の場合、

また、ストレスを自覚することを避けて、我慢に我慢を重ねて肉体を酷使された方、また自分自身の思いを封印してしまっていた方は このお掃除を始める時に ちょっと覚悟しなくてはいけません。

大掃除になります。

少し時間がかかる ということです。

でも、苦しんできたこれまでの年月を思えば 3ヶ月とか 半年とか 1年など 短いものです。

瞑想を日々の生活習慣に取り入れてしまえば あなたの意識の世界には ゴミが溜まりません。

不安や、疑いや、嫌悪や、怒りや、嫉妬や 憎しみの気持ちは  瞑想者の心には留まることができません。

 

瞑想中、エネルギーのお掃除が始まりますと 

身体の中に封じていたものが動く時に 身体がムズムズ、心がザワザワ、 

ギシギシ、悶々、ドキドキ チクチク、モヤモヤ  いろんな反応が目につきます。

それが何かを確かめる必要はありません。

内側のカルマのエネルギー(過去の感情の記憶、細胞の感情の記憶) が 出ていく時、身体に刺激を起こします。

出て行ってくれてる それが確認できるのはラッキーです。

すごく沢山のものが出て行ったことがわかります。

 

ELM瞑想の波動はあなたの負のエネルギーをいろんな形で 解放してしまうのです。

一度出て行ったカルマは もう身体へは戻れません。

 

静かでない瞑想は クリアリングの過程です。 失敗だと思わないでください。

それらは伝授された瞑想の波動がやってしまうので お任せしきった方が早く終ります。

抵抗して 掃除の邪魔をしない方がいいんです。

 

ラッキーなことには、 ELM瞑想では

意識が深い所(空のエリア)に引き込まれる特徴があります。

意識が空を体験している時、 身体の感覚は とても小さく遠くなります。

お昼寝している間に掃除が終わってた そんな感じにもなります。

常に同じ状況ではありませんので、 その時々によってさまざまな体感を経験されることでしょう。

でも、どれも失敗はありません。

ELM瞑想に失敗があるとしたら、 体験を誤解して瞑想をやめてしまうことです。

 

熱心な実践者ほど、目を見張る変容を起こされます。

 

カルマから解放されて うっとおしい解放の反応もサラっと流して どんどん意識を高波動にされていく生徒さんを見るのが とっても楽しみです。

 

もし途中経過で停滞感がある方は すぐにご連絡ください。

実践して失敗することはありません。

信頼して実践すること と 抵抗する自分のエネルギーを手放すことで

新たな境地を体験します。

大いなる流れは あなたの味方です。

世界は あなたの心の平安を待っています。

瞑想チャクラ図

観念でとらえるイメージ

私のブログを読まれたある方が 

「あなたの人生は苦難の連続なんですね?」 とおっしゃいました。

 

いえ、そんなことはありません。

皆さんと大して変わりません。

 

失恋したり 人間関係に悩んだり 家族の中で葛藤の気持ちがあったり 経済問題に頭を悩ませたり

お人好しなのか たまに人に騙されたりすることもありますし、

基本 おっちょこちょいで 間が抜けていて 

けっこうバカなんじゃないか と思います (笑) 

無防備にいろんなところに飛び込むことが多いです。

やってみないと気が済まない質だったりします。体験重視なのです。

物事を感じている感覚が 人よりも大きい  かもしれません。

感情の振れも大きいようで すぐ感動しますし、もらい泣きも即効です。

でも 怒りはどちらかというと外側に行かないで 自分を責めます。

外側を責めるのは無益な気がしています。

ずるいことは好みませんし 割と真面目かもしれません。でも勤勉ではありません。気ままです。

 

そういう自己イメージです。

他人が見ている野津寿子は 違って見えているかもしれません。

どちらも 正しいとは限りません。

全部見えていないから です。

人は掴みたいイメージしか採用しません。自分のことも他人のことも。

 

まあ、そんなことはどうでもいいんです。

自我が野津寿子というイメージをどう思っていようがいいんです(笑)

 

野津寿子の仕事関連の特意なところでは 物事を感じ取る といいますか、エネルギーを読み分ける能力は高い方なのだと思います。これは そういうものに注意を向けてきた経験も影響しています。

瞑想教師なので当然必要な能力とも言えます。(笑)

 

でも、世の中には 私など比較にならないすごい特殊能力の人たちが沢山いらっしゃいまして、その才能にたびたび驚かされます。

でもそれは個性なので うらやましいとは思っていません。

特化した才能は役に立つ面と邪魔になる両面を持っています。

才能は 使いこなした者勝ちなんです。

性質を理解してバランスを取るのです。

 

特化したものがない 普通の才能というものもあります。この方がバランスはとりやすいと思います。

とても普通に幸せであることです。

でも、個性のある人間には ちょっと難しく感じるかもれません。

普通の幸せをお持ちの方は 自慢していいですよ! (∩´∀`)∩

個性のある人は ちょっと平均的なところからずれた位置でバランスを取ります。

それがあなたの丁度いいところです。

ガーベラ

静かな心ができるまで

感受性の高い人のお話をします。

いろんな方にお会いして 話してみてわかったのですが、 

多くの感受性が敏感なみなさんは 最初はそのことに自覚がありません。

自分が普通で 感じにくい人は鈍感だ無神経だ と 思っていたりします。

 

そうでもないです。感受性が高い人は全体の15~20%です。

これでも日本人の感受性の高さは世界一です。

諸外国の感受性の高い人の割合は5%ほどです。

 

感受性の高い人々は、なにがしかの生きづらさを感じていることが多いんです。

他の人がわからない違和感を感じてしまったり、

いろんなことが気になったり、

外側に起きる刺激に一々大きく反応してしまいます。

無視できないんです。 気にしない ということをしたくてもできない。

小さなことがストレスになって疲れ果ててしまいます。

 

日本人はそういう感受性の高い人が多い社会ですので、

そういう人を驚かさないよう配慮をする文化が発達しています。

気配り です。

感受性の人は 気配りせずにはいられない人が多いので 

そういう文化が発達しています。

 

他にも感受性が強い というのは 絵を描いたり、文章を書いたり、

何かを表現したりすることには とても役に立つ才能です。

それを心配事や不安など 負の働きにばかり使うのは もったいないです。

 

でも不安や恐怖は好き好んで感じてるわけじゃないですよね。

感じたくもないのに感じてしまうのはどうしたらいいんでしょうか? と思ってしまう

 

それがどこから出てくるのかわからないうちは

外側に起きる出来事に怒りを覚えてしまいますね。

刺激のある出来事や、刺激を起こす人が悪い! 刺激を防がない人が悪い!と 怒りが出てしまうのです。

 

声がうるさいので隣の公園で子供を遊ばせないで なんて苦情言っちゃったりする人は

どうしようもなく内側が一杯一杯であふれる負の感情がいろんなものに絡まっていきます。

 

内側にため込んだ感情は 折に触れ、出てきて いろんなものに絡むんです。。

 

これがカルマの感情が出てきた時の反応です。

 

外側の何をどうすればいいか  ということは表面的なことなので

表面をいじっても根底にある本質は何も変わらないんです。

目の前の問題をなんとかどうにかしても

また同じような問題が次から次へとやってきます。

キリが無い!

 

ご存じの方も多いでしょうか、これが引き寄せの法則 です。

自分自身の持つ波動や 思いが それを呼び寄せる

自分自身がその問題を作り出している原因になっていることにまず気付かねばなりません。

この世界を作っているのは自分の意識。

 

この根本的な問題を改善して 悩みが起きないようにしていくには

私たちの無意識層を掃除(浄化)しなければ なりません。

 

ネガティブな出来事を引き寄せるのは ネガティブな意識や負の感情だからです。

 

これは意思でなんとかなることではないのです。

なにしろ無意識層の問題ですから。

 

鬱も心身症も ストレス性のあらゆる病気も 不遇も 不幸も

無意識層の波動がそれを集めます。

これを効果的に浄化するのが ELM瞑想 あるいは EFT療法なのです

無意識層のネガティブイメージ、ネガティブエネルギーをクリアリングして 

気持ちのいい風が吹き抜ける空間を作ります。

それが静寂の境地

 

福岡に瞑想を習いに来るのは遠すぎる と言う方は

こちらクリックしてください →  ELM教師リスト

伝授はどの先生から受けられても同じ効果です。

伝授後のフォローアップの指導の仕方は それぞれに個性と特色があります。 

瞑想教師のみなさんはとても愛の大きな方々です。経験には差があります。

教師を紹介してほしいというご相談も乗りますよ。

 

EFT療法も できれば対面がベストですが、 移動が困難な方は テレビ電話やパソコンのzoomを利用してのセッションは可能です。

まずは 問い合わせフォームよりご相談ください。

状態が深刻な方でも よりベテランのセラピストをご紹介することもできますのでご安心ください。

お医者様の専門科のように症状によっては取り扱いの慣れたセラピストが望ましい場合があります。

意図 と 大いなる流れ

ありとあらゆるいろんなものが雑多にひしめき合うこの世界

その中で 摩擦が起きたり 調和したり 自然はいろんな表情を見せます。

人間は まるで自分が統制のとれたものであるかのように思って生きていますが

実のところ、衝動に突き動かされ 無意識と意識の区別があるようでないような 

理屈がつけられない部分は 一生懸命考えて いかにもまともであるかのような

面白い理屈をひねり出したりもします。

そう、自我の意識のために。

自我は自分自身や、周囲の環境を支配することを 無意識に望んでいるので

思い通りにならないものに 憤りを覚えたり、干渉してコントロールしようとします。

 

コントロールするか しないか

そんなことは 実際どっちでもいいんです。

やりたければ、やってみる

神はその自由を人間に与えています。

 

もっとも神そのものが 意識の根源ですから

神はありとあらゆる体験を望んで 人間にそれをさせているのかもしれません。

 

天国や あるいは地獄

 

それらを実際に体験してみたかったのでしょう。

やってみなければ それがどんなものであるか わからないですから。

 

実際にやってみて いい感じだったことと

ひどいことがあったと思います。

 

もうこんなこと二度とごめんだ と 思うようなことも。

 

また、嫌に違いないのに その原因がわからず

なぜか 何度も繰り返すことも。

 

解決策を見つけていないうちは どうしたらいいかわからない

闇雲に禁じたところで

本能が起こす衝動をどう統制したらいいか わからない。

 

仏教ではこれを無明 と呼びます。

明るさが無い 光が見えていない のです。

闇の中をもがいてさまよう  その人間の苦悩

それは心の中の闇なのです。

 

瞑想で使うマントラのエネルギーは

灯り なのです。

 

灯りを持って 洞窟に入って行くと、 潜んでいたコウモリが驚いて

バタバタと騒ぎながら 外に逃げてゆく

 

これがELM瞑想のしくみです。

 

明かりを内側に灯すと

カルマのエネルギーは バタバタと 外に出ていきます。

 

これが瞑想の初めに起きる 雑念の状態です。

 

カルマのエネルギー(過去の感情の記憶)は マントラの波動に 外に押し出されてゆきます。

 

雑念だらけだった瞑想は失敗ではありません。

私たちがしようとしているのは 内側の掃除だからです。 

 

静寂な瞑想は 意図だけでは作り出すことはできません。

掃除しないで綺麗にはならないからです。

 

掃除 = 浄化 とも言います

 

浄化が進んだ結果 内側の静寂が実現するのです。

 

お掃除は 何も難しくはありません。

 

日に2回 座って目をつむるだけだからです。

詳しいやり方は 伝授の時にお教えします。

 

瞑想 いいですよ。 good

健全な心身は 効果のあるメンテナンスの賜物です。

 

瞑想会でも 更に浄化が進むコツ  お教えします。

瞑想室祭壇

命が私を生きている

生きる というのは どういうことでしょうか?

生まれて生きているのは 誰でしょうか?

私が生きているのでしょうか?

それは誰の意思でしょうか?

 

あなたは何者でしょうか?

私は 誰でしょうか?

私は 何者でしょうか?

何処から来て どこに行くのでしょうか?

命って何でしょうか?

 

アイデンティティーは 私 でしょうか? アイデンティティーには実体はありません。

私のストーリーもまた  実体のあるものではありません。

どれも脳の中のイメージなんです。

この肉体は物質的にここにありますが、どの細胞も どのタンパク質も どの水分も

この世界からの借り物にすぎません。

 

命は なぜ生きているのでしょうか?

命にとってストーリーは大事なんでしょうか?

 

価値判断は誰がしているのでしょうか?

それは誰にとって大事なんでしょうか?

 

少なくとも 自分にとっては 他人の価値基準は 大した意味がありません。

 

自分が好きと感じるか そうでもないか・・・

そんな感覚が 優先されて生きています。

 

命は 意思とは関係なく 生きています。

とても死にたい時があった時でも 死ぬことはすごく難しいことでした。

自我の意識が、こんな思いをするのはもう嫌だ死にたい なんてことを主張しても

全身全霊が死ぬことを拒否します。いえ、自分を殺すことを拒否します。

とてもできなくて 仕方なしに生きてることがありました。

 

こんなことを書くと どんな目にあったんだ? と思われるかもしれませんが、

死にたいと思うのは 単なる逃げたい気持ちでしかなかったと 今ではわかります。

たぶん ヘタレな性格で 辛いことがあるとすぐに死にたいとか思っちゃう若者だったんだと思います。

今思い返すと笑ってしまいますが (笑) 当時は深刻だったんでしょうね。coldsweats01

思いつめすぎて抑鬱になったりとか

どれだけ逃げ道がなかったんだ?と思います。

相談できる人がいなかったということもあったでしょうね。

 

そういえば、何かのために 自分の命を投げ出す ということに直面したこともありました。

自分の命よりも優先して守りたいものがある と思った時です

その時は 運を天に任せました。

生きたい とか 死にたい とか そんな選り好みを言ってる場合じゃなかったんです

守りたいもののために 必死で対処するのみ でした。

これは意識の変容によいチャンスとなりました。

自分の事だけだとここまで覚悟を持てないだろうことを、覚悟させてもらえたいい経験でした。

度胸がつきました。

 

大変な時は 大変な時なりにベストを尽くします。

大変な時期はいずれ落ち着いていきます。

このことをなぜか私は知っていました。

出来事には波があり、常に変化して過ぎ去っていくものです。

思い通りになるわけではありません。でも、時の流れを四季の移ろいのように見ています。

 

安定はある意味 ちょっと 退屈に感じるかもしれません。

エネルギーのある人間は少々波がある方が心地よいのかもしれません。

ですから 人生にいろいろ起きることを不服には思っていません。

いろんな事が起きて 必死になっている時も生きている実感がありますし、

平和な時は平和な時で 緩やかな流れを感じて 幸福を味わうことも好きです。

 

人生の予想外のことは案外面白いと感じます。

自分の思い込みが事件を起こして驚いたり、

思い込みが取れて真実が見えた時などは とても感動しますし

何よりも この世界に愛が溢れていることを実感する時 心からの幸福を感じます。

 

この世界に 愛が多い という言うよりは、

この世界にある愛に共鳴して

この体いっぱいに愛が拡がる時、私は至福の中にいるのです。

 

この世界は多くの愛を 私たちに与えようとしています。

でも、人間の意識は 違うものを欲しがるようなんですね。

青い鳥を探すのに違うところを探している状態です。

 

青い鳥は 常に一緒にいるんです。 

そう、内側にいるんです。 

仏性、 あるいは 愛 と呼ばれています

私は ただ 内側にある愛を振動させるだけで 世界の愛のハーモニーに加わるような感じがするんですね。

そして

ただ愛でいるだけの存在は どれだけ私に愛を感じさせるか 私は知っています。

 

生きる ということは 面白い現象です。

私は命に生かされています。

芝桜と青空のサムネイル画像

地球上のあらゆる存在が 折に触れ 愛を放っています。

命を生きる事そのものが 愛なのかもしれません。

 

 

アトリエ霽月

随分涼しくなってまいりました。

皆様はご機嫌よくお過ごしでしょうか? 

私は秋が好きです。 秋生まれの母はコスモスの花が大好きでした

コスモス

今年はコスモスを見に行けるかな?  そろそろ行かないと終わっちゃうかもです heart02

 

今週は 第3日曜日の1日瞑想会、月曜日の仏画教室、第4火曜日のランチタイム瞑想会 と 恒例イベントが続いております。来週末は市民文化祭の展示

そんなこんなで?

ブログを書きそびれていましたが・・・ coldsweats01

実はイベントが続くのは さほどブログに支障はないのですが、夜中に作品を作る日が増えて参りますと

ブログがお留守になってしまいます。

 

絵画作品を作る神経と 文章を書く神経が どうやら違う部分にあるようで 

脳みそのチャンネルを切り替えるのに苦心しております catface

なぜか 夜中にならないと制作に集中しにくいので

勢い 夜型生活に偏る今日この頃です。。 night

 

さて、 そんなこんなの慌ただしい日々ですが

今日も ふと浮上した話題を 書いてみます。

 

人は 自分自身を通して 人間というものを見ています。

人を信頼できない と思っている人は 自分自身が信頼できない人間だと思っています。

人を信頼できるものとして対応する人は 自分が信頼に応えることができる者だと思っています。

 

いろんな人がいる中で 人間の弱さや愚かさも含めて なぜ信頼できるか と言いますと

人は失敗をしたり、欲にのまれることもある中で、本当の心の奥底では 愛 を持っているからです。

 

1ミリたりとて愛を持たないように見える人は 愛が無いのでしょうか?

いえ、愛が表に出てこない方は かつて深く傷ついて 心を閉ざし、

心の奥深い所に隠れ、扉に強力な鍵をかけてしまった人です。

 

また、愛を見る時、強い悲しみや怒りがまとわりつくと、愛は変質して恨みの感情になってしまいます。

恨みは愛が変質したものなので 実は愛と近いエネルギーがあります。

強い関心がある のです。 

悲しみはエネルギーを奪い、怒りのエネルギーは破壊的なエネルギーです

温度を奪う冷たさ と 灼熱の炎です。

愛とは全く逆のエネルギーは 無関心です。 そこにエネルギーが存在しません。

 

愛は 誰にでもあります。

あなたは愛で出来ているからです。

私たちの命は この世界の 愛で出来ています。

すべての存在 すべての命が 愛に育まれています。

キリンビール園のコスモス

記憶 

心に焼き付いた記憶は 辛かったことほど鮮やかに残っているものだと言います。

 

手放す ということをするようになって 過去は温かい靄の中に薄れていくようになって

トゲのある記憶はもう手の中にありません。

 

心が傷付く という経験は 衝撃的なものですが

その時に傷ついたシチュエーションは 果たして真実なのか? ということは甚だ疑問なのです。

 

確かに そのことで私は傷付いた。 大きな衝撃と悲しみに痛みを感じていた。

でも、傷ついた原因は 本当に傷つくような内容だったのか?  と 確かめてみたことがあるでしょうか?

 

例えば、子供の頃 

お母さんに 何かをしてもらいたくて  それはそのことを通して愛を感じたかったのですが

とっても、してもらいたいことがあって

こんな風にしてくれてら、私はとっても満たされるだろうと感じていて

お母さんの所に行った時、 お母さんは他の問題に気を取られていて

いいから、ちょっとあっちに行ってなさい なんて 言われた時

子供はとても傷ついたりします。

 

これは大人でも同じです。

 

夫と仲良くしたい。仲良く会話したい。私の話を聞いて欲しい。

毎日外に出かけていく夫に対して 子育て中の妻は 家に缶詰めになって夫が帰るのを待つだけの生活になると

返ってきた夫が疲れて話を嫌がっただけで 傷ついてしまいます。

これはどちらかが悪い というわけではなく、ただ、いろんなことがすこしずつずれてしまって起きる摩擦です。

 

友達が近くにいない とか その時誰も相談できる人がみつからなかった とか

たまたま決算期で残業続きで くたくたになっているにもかかわらず

疲れた疲れたなんて愚痴をこぼすのは妻に悪いと思って 黙っていただけかもしれません。

話が苦手 とか なんて返事をしたらいいかわからない とか 

うまく思いやりを表現できないもどかしさ とか

そんな 根底に流れる 愛が見えなくなっている時

 

表面が乾いて 摩擦が起きるんです。

 

お母さんがついたため息

夫が見せる暗い表情や 不服そうな表情

友人の一瞥

事情を話せないまま叱られたこと 怒らせたこと

 

上手く説明できない私

 

罪悪感

 

そんなものが 乾いて擦れて 摩擦の痛みになります。

 

本当は誰も悪くないんです。

 

何か誤解して腹を立てている人は 真実でないものに腹を立てています。

 

私がムカついたそれは 果たして真実なのでしょうか?

 

脳の中の記憶は あなたの日常にストーリーを与え、あなたと周囲の人たちを

キャスティングして ドラマを作ります。

 

ふと覗いた家族のドラマに出演している自分の役割を垣間見て

衝撃を受けたりします。

家族がついたため息は あなたの存在への落胆などではありません。

あなたのやり取りの中であなたに憤慨したりため息をつかれたりした時

相手は 自分の思い通りにならない現実に対して ため息をついています。

 

理想のイメージとは違う真実を受け止めきれていない だけなのです。

 

あなたは 自分を歪めて人の理想を生きる必要はありません。

それをすると とても息苦しい人生になってしまうからです。

 

家族や友人や いろんな関わりの中で

自分と相手のパワーバランスをとって 双方の居心地のよい関係にするには コミュニケーションが必要です

 

自分の気持ちを話すことを恐れないでください。

相手の理想に合わせられないことに 罪悪感を持たないでください。

あなたが あなた自身でいることに自信をもってください。

 

愛のエネルギーは 摩擦を潤し、痛みを消します。

悪者がいるわけではありません。

恐れている者が威嚇や攻撃をしてしまいます。

 

荒れた感情の根底には痛みがあります。

 

それを見ることが 観音菩薩の慈悲です。

 

人間の心の底の痛みを癒すのは 愛のエネルギーです。

愛のエネルギーは 行動に変わる前から効果を持ちます。

あなたは ただ 愛を持っていてください。

あなたの愛が すべてを癒していきます。

あなたの中に観音菩薩がいるのです。

観音菩薩 顔 淡彩

宗教の役割

古代から 宗教は 人々の苦しみを軽減する教えとして とても大切な役割を持っていました。

人々が生きやすくなる教え が宗教です。

教えは広まると その教えを支持する人々が集まってコミュニティを作るようになります。

教えを深く理解する者はリーダーになってまだ教えを理解できていない人々を導きます。

これが体系化して 宗教の団体、教団を管理する仕組みなどが発生します。

 

本来 宗教の教えには 法律のようなルールがあるわけではありませんでした。

それはその宗教の指導者を育成する僧院において 修業のための規範 戒律が決められるようになりました。

その戒律を守れなければ僧侶は僧院で修業を続けられません。

それぞれの宗教は 教えと共に戒律を在家信者たちにも適応するようになりました。

宗教が国家的に支持されるようになると、宗教の戒律が法律のベースにもなっていきます。

 

社会が進化するほどに、戒律や法律は 根本の精神が抜けて 形骸化するようにもなります。

形だけを大切にしてしまい、 根本の一番大事な精神が忘れ去られてしまうのです。

 

これは人間の世界が進化したり、社会の変化、ライフスタイルの変化、価値観の変化が起こる世界に

最初の容れ物である戒律が 合わなくなっていくのです。

長い時を経て、 また、人づてに語り継がれるうちに 意味が変わり、質そのものが 変容してしまう ということも起こります。

 

私たちは 変化する生き物で、この世界も 膨らんだりしぼんだり、雑多な波動が入り込み、コミュニティも形がある物質ではないものですから 型にはめようとすると 無理がでてくるのです。

 

私たちの世界は 流動的な性質をもっているため、

形として見ては判断を誤ってしまいます。

では、何が大事なのか と 言いますと

エネルギーの質とバランスです。

 

分かりやすい言葉で言いますと

愛であるかどうか エゴが介入しているかいないか  です。

 

言葉を頼りにしてしまうと、間違ってしまいますので

もし、何か 迷うことや どう判断したらいいか 分からない時は

それは 愛なのかどうか?

あなたは 愛でいるかそうでないか? を 見て感じてください。

そこにある波動を感じてみるのです。

 

愛あるものは 温かく 優しく包み込む力を持っています。

目の前にあることがたとえ悲劇であったとしても、 そこには 優しさや愛を感じることができるでしょう。

愛には感動が伴います。

 

他人がどうしているか は重要ではありません。

あなた自身が どんな波動を出しているかを見てみてください。

わが身を振り返って そこにどんな波動があるのか? を感じてみるのです。

 

正義を振りかざす時、 それは愛ではありません。

人を裁きたくなる時、 そこに愛はありません。

愛は 何かをするかどうか ではなく

ただ、愛を満たすだけなのです。

 

もし、あなたが 愛に満たされた気持ちで毎日を過ごすことができたら

もう戒律は要りません。

 

あなたが 全身で愛を感じていたとしたら、

あなた自身が愛であるならば、

あなたの中に神がいて、

あなたの仏性が 目覚めているのです。

 

人々は 純粋なエネルギーに心打たれることでしょう。

そして愛の波動に包まれると 癒しが起こり、

人も愛になるのです。

 

あなた自身の悲しみや苦しみすらも あなたの中の愛が癒すようになるでしょう。

神と 内側でつながるような感覚です。

 

それ自体が 多くの宗教の根本にあるものです。

 

もしそうではない宗教があるとしたら、 それは悟りには至らない宗教でしょう。

 

あなたの中の 愛に出逢いたいと思うなら

ぜひ 瞑想を生活に取り入れてください。宗教や宗派を問いません。

どの宗派であれ、求めるものは内側の気付きです。

あなたの神(真我)とつながるルートをお掃除するのが瞑想です。

瞑想によって 苦悩の感情は出ていき あなたの心が穏やかになります。

 

アトリエ霽月は 瞑想習慣をつけるお手伝いをいたします。

ELM瞑想の効果は素晴らしいです。

 

穏やかな心 は あなたのすぐそばにあります。

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