2022年02月

ウクライナ情勢

戦争のニュースが目に入ってきます。

何が起きたのか しばらく時事解説を聞いたりしていました。

人を一つの細胞に例えてみますと、国の争いも

左手の人差し指と中指が喧嘩を始めるようなもの。

傷付くのは誰!?

 

世界をコントロールしようと企む者

彼らは維持できないものを維持し続けるために、神経をすり減らし、多大なエネルギーと犠牲を投入し続けます。

周りをガッツリ巻き込んで。

それが 増大したエゴ 独裁。

国と国の喧嘩は犠牲が大きすぎる。crying

飛び道具(nuclear bomb)隣の国に核落とすのは愚かじゃないのかな?

 

そんなにしてまで 支配に執着する人物

子供の頃に愛が欠落していたのでしょうか?

愛情の欠落 という幻想は 権力でも物でも埋まりません。

彼らは満足と安心を知りません。

エンドレスの渇望

それは愛でしか埋まらない。 

そう、自らの愛だけが本当に幻想を消すことができるのです 。

 

そんな・・・

愚かしいことを実際にしてみないと 自分が何をしているかわからない

人間は愚かです。

でもね、

あなたがそれをやって 多くの人々がそれを見て学ぶのです。

何が愚かで、何が賢いのか。何が大切なのか。愛とは何か?

あなたと共に全体が学ぶ。

 

次世代の若者たちは年配者の愚かさを見て 賢く生きる選択をしてくれるでしょう。

世代交代はすぐそこに来ています。

新しい信頼と愛の意識に。

仲良し

 

コントロールしない

スピリチュアルを学び始めた頃、

おっと、もう20年前になるじゃありませんか!? (^▽^;)

不満だらけの毎日から 良し悪しの識別を外すワークを始め 

周囲の人々やこの世界で起きることにダメ出しをすることを止め、

宇宙の法則 『愛になること』 を基本に生活し 自分の思い癖をチェンジして行きました。

愛とは あるがままにさせておくこと  という教えを 実践していくことになります。

最初は 「なんで 放っておくことが愛なの?」と思っていましたが、

考えてみると、自分も干渉されることが大嫌い。

ただ、自分が構ってほしい時には放っておかれたくないんだけど、

それはこちらの希望する構い方以外はNGなわけで、

構ってもらっておきながら、ケチをつける という coldsweats01

「私の思い通り以外にはしなくていい」という 傲慢さが潜んでた。 (-_-;)

それを 当然の権利のように思っている自分がいたんです。

自分が何をしていたかを自覚する時はけっこう衝撃です、、

それから エゴを手放そうと努力をしてみました。

でも、ちょっとしたことで、エゴイスティックな感情が飛び出してくるんですよ。

「そんなこと、お前ごときに言われたくないわ!」という どんだけ上から目線  とか

自分よりさっさと成果を上げて賞賛される人を見ては面白くない気持ちになったり、

自分が仲良くしたい人と私よりも仲良くなっている人を見ると、あいつが居なくなればいいのに と思ったり (;´∀`)

自分の中にどれだけエゴや傲慢さや醜い感情があるんだろうか? sad と、うすら寒くなったりするんです。

 

でも、ある時、ふと思いました。

人間と言うのは 理性を持っているにしても体は動物の一種なのだ。

少なくとも身体を持たない神様 な わけじゃない。

他の動物たちを見てみると、同類相哀れむ だけじゃなくて、同じ種族で縄張り争いとか死闘を繰り広げる例も多々ありますよね。

同じ種族同士でも敵対する関係というのはあるものだし、自分のエサを他の個体が食べてしまったら怒り狂う とか

優位争いなども、本能としてあるから起きるのはしょうがないことなんじゃないのか。

どんなに清い心で居たいと思っても、自分の衝動とか反応とか本能は無い事にはできないのだろう

と、思ったんです。

あるがままの動物も ペアリングの三角関係などに関しては、 テリトリーに他の個体が侵入した場合!

ライバルを排除!!

死闘 ・・・ですな。 エゴだけど それはもう本能だったら仕方ない。

そんなことを気付いてからは、 自分の中に起きる 負の感情も嫌悪することを止めました。

生き物なんだから反応はするさ。 それは自然。

だけど、その後、何を選択してどう行動するかは 理性で選ぶこともできる。

広い視野で見てみると、戦争よりも平和を選択する方が幸福になれるとも思うし

怖れから攻撃したとしても決して良い結果にはならないこともわかる。

 

そんなこんな いろんな体験を通して この世界のことがまた一つ見えるようになるのでした。

 

愛であること

許すこと 手放すこと 信頼する事

善人が愚かに見えるようなことがあったとしても、善人であることを選択したい

その時にそれが損な役回りだったとしても ただ 愛と慈悲であることを選択したい。

誰が何を言おうと 誰に先を越されようと 何かを盗られようと 意地悪をされようと

私は善意でいることをやめません。自らの波動は 愛を選択します

そう決めてから 今まで そのスタンスはブレることはありませんでした。

その位置にいると、心かが安定するからです。

内側から エゴの声がしても

特に否定もせずに「人間だからそういう感情も出て来るよね。普通のことだ」

そう思って意識的に愛でいようとチューニングし直すのです。

そのうち そんな風に愛を選ぶことが癖になりました。

何の問題も残さず 今に至っております。

愛は 強いですね。 足元でしっかりと大地を踏みしめている気分です。

 

愛とは あるがままにさせておくこと。あるがままを受け止めること。あるがままを愛する事。

人は愛に触れると 愛になることを望むようになります。

本当の美しさを見つけたようでした。

こんなところに花

どんなところでも咲く

それは笑顔の事ですね。

今にくつろいでください。あなたの笑顔は癒しです。

意識を拡げる

このところ 雲黒斎さんのお話が興味深いのでまた話題に出しちゃいます。

今日 私が見ましたのは 9/21の うんチャンネルYoutubeの配信

【ゲリラ配信】雑談アワー 「フォーカス」 – YouTube

この回の主要な話題は9分ころから始まります。主要部25分くらい

漠然と聞いていると「何の話?」ってなると思いますので ちょっと解説しますと

普通の 自我の意識だと なぜ悟りの意識がわからないのか?

自我の意識と悟りの意識は何が違うのか? というお話をされています。

自我の意識はフォーカスしてものを考えていて、

悟りの真我の意識は 漠然と全体を見ている ということをおっしゃってます。

感覚的にも そうそう って感じです。

通常、悟っている人は 全体を眺めている時と 自我の意識で何かにフォーカスしている時が混在しています。

フォーカスする必要が無ければ眺めている意識です。(つまり考えていません)

考えていなくてどうしているのか?というと、

ただ観ているのです。 観察しています。 何の結果も期待せず、何の判断も持ち込まず ただ観察しています

そう、リラックスしたまま観ています。何も探していないし、何も追い求めていない。

感覚でとらえています。 そして全体 というか 広い範囲が見えています。

どうかすると裏側まで視えていたりします。

「え?何で裏側がみえるわけ?おかしいやんそんなの!」と思ったあなた

観る 視る っていうのは、視力だけしか使っていない わけじゃないんです。

五感を使って第六感まで使って 視てるんですよね。

まぁ、人間は無意識にも五感使ってますけどね。

そもそも 五感でできてる?

 

ちょっと話が逸れました。

元に戻します

人間の自我の世界 と 目に見えない霊界の世界 と 高次元の神の世界 が混乱して何をどう思ったらいいかわからない と言う方 いると思いますが。

なぜそうなってるのか を解説されています。

 

まずはどうぞ動画をご覧になってください。

 

昨日のブログで書きましたが、

私は、思考するのがけっこう好きだったりします(笑) 

( ̄▽ ̄)b 言語化 割とハマります。人間は思考好きなんだと思います。

私の場合は、説明しにくいものを言葉にする作業が面白いんですが、これは全員がそうなのではないと思うので

そういうものはやりたい人がすればいいと思う。

ただ、何事も行き過ぎると疲れますよね。

本人が思考好きで楽しんでても、調子にのってバカみたいに長いメールを送り付けてしまい迷惑なヤツ になったりもしますけど。

一つの性質は良くも悪くもなりますよね。良し悪しなども本当はない。

もちろん、それ(思考とか言語化)しなくても生きていけます。

便利ですけどね。生きることには必須ではありません。

好きな事を有効利用で 仕事に使ったりしてます。(得意は活かすべし)

ただ、おしゃべりが得意なわけではないので 活かしどころが難しいです(笑)

言葉は、言葉を介して 意識が救われることも多いので、

役に立つツールです。

 

しかしながら、言葉は万人共通ではありません。

方言とかちょっと離れたところなだけで使う言葉が変わりますし

国が違うとか、もう言語自体が違ってて通じない。 

文化が違う とか 認識が違うとか 本当に一つの物じゃないんですよね。

言葉を使ってのコミュニケーションも 正確に伝えるのはとても大変です。

時々ありませんか?

同じ日本人なのに 話がかみ合わないこと。

え?配偶者と話が?み合わない? 

それはなかなかヤバいかも。(笑)

そうそう、

あなたの周りに 不思議ちゃん いませんか? coldsweats01

面白いですよねぇ。「なんでそうなるのっ!?」(欽ちゃん風に)(古っ!!)

もしかして、もしかしたら、実は

不思議ちゃんはこちら側かもしれないですし  ?(●´ω`●)??

価値観が違うことを「宇宙人」などと称したりいたします。

 

言葉はツールです

正しく伝わるかどうかは時の運。

伝わっていなくても なんの不思議もございません。

ほとんどの人が 自分のこと(自分のストーリー)にしか興味ないのでございます。

共感するには、、 五感を開け! ですよ。

意識を拡大したら(=フォーカスをやめる) 全部見えるのですけどね。

五感を 駆使してくださいね!

全身がパラボラアンテナ、 大きな網でキャッチするのだ!(笑)

アンテナ

逃避

このところ 何かを説明する という作業が頻発し

なんだか説明づいている今日この頃です

(笑) 何のこっちゃ? という感じですが

そう、説明にハマっておりますね。

ちょっとしたことで (必要があって)何かを始めると

その作業にハマって 調子づいてしまいます coldsweats01

これは 私に限った癖ですね。たぶん。

子供の頃、お絵かきにハマり、マスコット作りにハマり、ビーズ細工にハマり、編み物にハマり、

計算ドリルにハマり、その他諸々、

ハマっては 飽きるのです。 

ザ・器用貧乏!

いや、そんなことはどうでもいい。。んだった。

そう言う一面もございます と言うだけの話。

書きたかったのはそんなことではなく、、、!

このところ説明するために 思考を駆使しておるのですが、

思考は嗜癖と同じなのかもしれない と 思ったりします。

嗜癖 はある種の 逃避行動 でして

何か嫌な事から気をそらしたい時、 無意識にそちらに走る『衝動』のことです。

で、逃げたい元凶は何か? といいますと、

いまここにある自分と現実を直視すること なんですね。

今のあるがままの自分と向き合うと苦しくなる場合、

問題と直面したくない時。

意識が何か別の問題を掘り起こしたり、探し出したりして

その問題に取り組みだすんです。

あるがままの自分がどうしようもない とか

とりくなまければならない問題から逃げ出したい とかいう場合に

別のもっとわかりやすい問題 特に自分以外の問題に意識が逃げようとするわけです。

(ある種の自己防衛反応)

 

でも、本当はその元凶?と思っている自分のこと って

凶 なわけじゃないんだけど、自分の価値観とかルールの中で ダメ出しがおきるので

もし、自分の価値観が自分にダメを出さないものであれば

逃げる必要がなくなるんですよね。

妙な話ですが そんなものですね。

 

もし、本当にすごい大変な現実と 真剣に向き合っていたら、

思考などする暇はありません。

暇がなければ 思考や悩みに 取り組んでいる暇が無いのです。

 

で、

思考へハマる私が逃げているのは なんだ? 

『やらなきゃいけないこと』 ?でしょうか?(笑)

暇が嫌いで用事を詰め込んで忙しすぎる という ・・・ 人間は割と矛盾した生き物だと思います。

単にバカなだけかもですが。

ああ、これ、私の話です(笑)

気が進まないことやプレッシャーのあることをしないといけない時に

それ以外のどうでもいいことをしたくなる というのは 人間によくあることのようです。

テスト前に辞書を読みたくなる って人がいました (私もあったw)

仕事の前に掃除をしたくなる とか

忙しい時ほど 料理をしたくなる とか(笑)

悩むというのもその一つなんじゃないか と 思っています。

何かを越えるのを避けるために迷う とか 受け止めることがういやなので 抵抗し続ける とか。

そんな こんな。

とりとめもないお話です。

本当は 私はいない

悟りのお話をする方で私が一番よく聞いている 雲 黒斎さんのYoutube動画、

興味深い解説をされていたので ご紹介いたします。

お時間のある方はご覧になってください。

【ゲリラ配信】雑談アワー 「三位一体 トリニティ」 – YouTube (1時間強)

【閲覧注意!】目覚めちゃうかもしれない 超危険な雑談アワー – YouTube (45分)

ノンデュアリティを話す講師の方々が 何をもって『私はいない』と言うのか

からくりを説明されています。

 

私 と言う感覚は 自我の意識が 「わたしがいる」ということにしているだけで、本当は 私 という確実なものは無い

この体は ただ『命』という生命活動の一環でこの世界に発生している現象に過ぎない。

それをまるで 私がいて私が死ぬ  私は生まれてそして死んで存在が消えてしまう ということを思うのでそこに恐れや苦しみや葛藤が生じる

というお話 です。

通常の人間の世界観で聞くと「えっ?どういうこと?」ってなりますが、

このからくりを見破ると 怖れから解放されて いまここにくつろぐことができるようになるのです。

過去や未来にとらわれず、真実は常に今しかない

今 この世界全体が変化し続ける世界の中で今を生きる 意識になるのです。

 

今のあなたは どう今を感じていますか?

思考を止めて感覚に意識を向けなければ それは感じ取ることができません。

 

ただ、自我は身体の意識ですので、自我を消滅させることはできませんが、

自我がどういう現われを起こそうが、いまここに意識をむけると

いつでも真我の意識へ寛ぐことができるのです。

瞑想は いまここにくつろぐためにするプラクティス(練習)なのです。

 

瞑想がまだまだくつろぐ感覚にならない方は ぜひ瞑想会にご参加ください。

内面のお掃除が早まります。

瞑想を続けるためにも瞑想会は効果的です。

 

まだ伝授を受けたことがない方は

ぜひ一度ELM瞑想を実践して その効果を体感してみてください。

空の感覚はなかなか他で味わうことは難しいそうです。

(思考が静まりやすい人ほど空がわかりやすいです)

コツ お教えします。

雲

循環させるもの

昨日ブログをアップしたつもりで、未公開の設定になっていました。(^_^;)

日々やらかしております。。

とりあえず、その文章をアップ coldsweats01

clover

この世界は 不公平です。

それぞれの人に与えられるものは それぞれに違います。

生まれた国、場所、時代、家庭、ご縁、経験、etc.

置かれた環境は様々で、

恵まれた世界で生きることもあれば、とても大変だったり過酷だったり

なにか重い課題を背負っている場合もありますが、

その条件をどう捌いて?幸福を見出すか は まるでゲームみたいなものかもしれません。

物質的に豊かな環境にいながら、幸せじゃなかったり、いつも不満ばかりに意識を向ける人もあれば、

過酷な環境の中で 幸せを創り出していく人もいます。

これらの違いは何でしょう?

それも 環境や材料や出会う人が良いから? かと思われることも多いのですが、

実は ちょっとした幸せになるヒントを知っているかどうか 

また、それを実践するかどうか だけだったりします。

それは意識的にしているとは限りません。

でも意識的にもできます。

今の時代は良いですよ。ヒントに溢れています。

少し前までは、ヒントに出逢うだけでも大変だったし、そのヒントを知っている悟った人が

ものすごく少なかったんです。

でも、一人の人が悟ると 周りの百人が悟りに気付くそうで

今、爆発的に悟る人々が増えています。 ものすごい勢いです。

時代時代で、またあるエリアで 悟って暮らすコミュニティもあったようですが、

悟りは緩く、エゴの欲深さに飲まれてかき消されてしまった時代もあったようです。

しかしながら、地球上で人間がここまで増えてしまうと さすがの地球もそれほどの欲は養えないんですよね。

欲望の遊びは 資源が底をついてしまうのも時間の問題です。

湯水のように贅沢を貪れません。

一部の人がまだそれをしようとしていますが、 それもそろそろ諦めて行かなければならない状況が来ていますね。

滅びゆく中で物質的豊かさはもはや望めないのです。

でも、豊かに生きることは可能です。

物質が豊富には無い中で 豊かに幸福に生きることもできます。

与え合う世界です。

私は与え、周りから与えられるのです。

 

ちょっと想像してみましょうか?

途中でく上げ過ぎて貯め込んでしまって 何も流れなくなった川、そこから下流は枯れてしまった川

常に流れのある川 

同じ水の量で 環境は激変です。

エネルギーも物理法則はあります。

物質の流れも エネルギーの流れも変わりません。

滞ると澱みます。

 

エネルギーは 与えましょう。

そうすると流れます。

そう、愛するという事。

愛を与えると 世界から愛が流れてきます。

愛を循環させてくださいね。

人間はエネルギーのポンプみたいなものですね。

自分が流すエネルギーはどんなものか観察してみるといいですよ。

入ったものが出るのではなくて 出すものが入って来るようです。 


 

対流する世界

決まった幸せの形は無いんです。

良いだけの世界とか悪いだけの世界なんてものも無い

この世界は常にすべてが流動している固定できない世界です。

ただ、今この瞬間がどんな状態なのか だけ

その今は刻々と形を変え続けています。

諸行無常 です。 全てのことが一定ではない。

一瞬たりとて一定ではないんです。

人間の頭の中はある1点に囚われるということがしばしば起きます。

気になること 嫌な事 執着しているもの 支配したいもの 欲望 願望

これは今ではありません。 記憶と妄想

そう、思考は記憶と妄想で遊んでいるようなものなのです。

明鏡止水

平らな水面、静かで美しいですね。

ただ、対流しない水は澱みます。

太陽から恵みをいただいているこの地球上の物質は常に全体の中で対流していきます。

それがこの世界の摂理です。

変化しないように見えているものでも、何百年、何千年、何億年の時と共に 一定の形では存在しません。

また目に見えないものでも、分子が分裂したり結合したり 集合したり拡散したり

飛んだり 弾けたり 激しく動きながらこの世界にあらゆる形を表現していきます。

ミクロからマクロへ、意識を向けるとその壮大さとダイナミックさに感動を覚えます。

私たちはそんな世界の一部です。

世界の中で発生して 維持され、やがて消滅していくのです。

意味はありません。

それはただ自然の摂理です。

自然の摂理は美しく、ある時はおどろおどろしく、

ある時は残酷で また 愛に満ちています。

意味はありません。

それはただ自然の表現物なのです。

それが生きている事。

人間は その中で自由にいろんなことをするチャンスを持っている生き物です

集団に収まるもよし、自由に飛び回るもよし

あなたにとってどちらがいいのかは、あなたのフィーリングが教えてくれます。

あなたに合うものは、あなたにしかわからない ということですね。

フィーリング、 感じる習慣をつけてみましょう ♪ winkshine

不安定な歪みは整えられる

2月は寒いですね。暖かくされていますか?

今時の風邪は オミクロンとかで 家族が風邪をひくと一家で自宅待機になっちゃいますね。

ほんの数年前までは 熱出たくらいで休んでられないのよ なんて フラッフラになりながら満員電車に乗ってる人がいた ってこと

もう忘れそうです。

今だとそんな大罪ありえない! みたいな感覚になっていて

ほんの2,3年で 随分意識が変わるものだなぁ と 不思議な感覚がいたします。

そんな体調不良に敏感な今日この頃ですが、相変わらずブラックな会社もあるようで

そういったコロナ自粛で従業員が急に休んだりするものですから 在籍している人だけで回そうと無茶してまた従業員が辞める

などという 存続不可能なことになっている という話も聞きます。

もう これからの時代、時代に合ったシステムを導入しないと 経営が成り立たないんじゃないかなぁ って思いますね。

その、ほんの数年前まで どう見ても過労で倒れそうなのに「無理してでも働かないと生きていけないじゃない」なんて人何人も見て来て

世の中おかしいんじゃないか?と感じていたので この流れは必然だよなぁ と思ってしまうのです。

都市部だけに人間が密集してる とか。

東京や大阪の人混みと その中で取り残される孤独感とか すごく変なものに見えていました。(社会問題というやつ)

そんな社会のシステムそのものが根本的に激変しているのを目の当たりにしているのが 今 なんです。

歴史を見てみると 一揆とか米騒動なんかもそういう崩壊現象の一つですが

今の天災による変化は 人間の意図を越えているのでとても興味深いです。

 

無茶な発展、歪みのあるシステムは いずれ崩壊します

歪んだままの発展やシステムは残さなくていいと思っています。

歪みのある状態で構築されたものは 弱い。

だから もっと落ち着いて安定のある方向へと 世界は流れて行っています。

人間の感覚で言うと、居心地の悪い状態、苦しい状態が歪みです。

負のエネルギーが溜め込まれている状態

豊かさがスカスカになっている状態。

そこからは意図的に脱出すべし です。しがみつく必要はありません。

 

安定とは 調和 です。

豊かさが満ちる時 そこにまんべんなく足りている均衡ができるのです。

豊かさは 物質のことではありません。心の豊かさが物質の豊かさも生み出します。

豊かさとは愛のエネルギーです

愛のエネルギーに暗いところはありません。

もしあなたが見ている愛に暗い部分を感じたら

それは愛ではなく執着だと理解してください。

愛は泉のように湧き出すばかりで 何かを吸いこもうとはしないのです。

溢れるばかりの泉は澄みわたっています。それは浄化でもあるのです

愛だけを流せば浄化は起きます。

その愛は出しているあなたの身体にも染みわたります。

人が自分から出る愛を見失って枯渇すると他者から愛をもらいたくなりますが、

本当は自分自身に愛を向けることできるので大丈夫なんです。

ただ、閉じた愛を開くのに他者の愛が働くことがよくあります。

愛は相互作用で更に活性化します。

愛あるところに愛が集まるのです。

ぜひ 内側の奥にある愛の源を再発見してみてくださいね。

まず ご自分に愛を向けてみてください。

この体ありがとう。

心臓さん、消化器さん、呼吸器さん、膀胱さん、腎臓さん、血液さん、血管さん、その他諸々の臓器のみなさん

毎日働いてくれてありがとうございます。心から感謝いたします。

あまり無理をさせないよう気を配りますね。

必要な事があったら教えてください。改善いたします。

チャクラ図

身体からのメッセージ、聞いてみましょう

 

共存できる世界

私たち人間の思考、自我システムはこの身を安全に長らえる仕組みです と 以前のブログに書いたことがあります。

私たちは人間という生物に生まれたわけですが、全ての生物は自己保全(自分の命を守る)システムがあります。

生命そのものが 生まれてきた生命体としてそれぞれの生命というシステムを終えるまで(外敵から身を守り)生命維持しようという目的を持ったプログラムをDNAの中に組み込んでします。

それは自分が作ったものではなく、生命体というシステムがそれを創り出している

自然の摂理の一部です。

これかの自然の摂理の中の生命体は あのコロナウイルス(ウイルスは生命体なのかどうか?微妙な位置づけですが、システムとしては同じと考えますと)

ウイルスは時間と共に変異していきますよね。

最初は殺人ウイルスみたいに恐れられていましたけど、新しく出てきたオミクロン株は弱毒化しているようで人間たちはちょっと安堵しているようですが。

なぜそういう変化を創り出したか?という理由に なるほどとおもったことがありました。

殺傷力が強すぎて 寄生する対象を絶滅させてしまうとウイルス自体も繁栄できないので弱毒化して寄生対象を守りに入った・・・とか。

おお、ウイルスにとっては人間は牧場みたいなものなんでしょうかね。coldsweats01

自然というものは 調和するようにできています という宇宙の法則が働いているようで

この調和しないものの衰退 というものに かなりのインパクトを受けたことがありました。そうです、

進化して 合わないものは衰退 あるいは絶滅するわです。

 

話を元に戻します。

人間の思考の傾向は 人間が増えて反映するために与えられたプログラムなんですが、

そのプログラムが 何か特定のものに引っかかって調和とは違う方向性に拡大すると 自然の調和は崩れ、

それはやがて 行為した人間という種族そのものの衰退へと進んでしまう

このことに気付いている人間と気付いていない人間がいます。

これまでの世界は、まだ人間の数がそれほど多くない頃から、地球の膨大な資源にあやかって

人間がそれを頂戴しながら(自然の恵み)繁栄してきたわけですが、

増えることが幸せとばかりに どんどん増えて行った結果、資源の危機がどんどん実現しそうなことになっているんですね。

人間たちは 資本 とか 貨幣 とか 財産 とかいうものに 異常に執着を示して

それを増やすゲームにすっかり没入してしまって 現実世界で何がおきているのか わからなくなっていたのですが、

それに対して、「大人!ええかげんにせいよ!!!」と 怒りだした若者が世界の話題になって久しいです。

これは当然の流れでしょうね。

それを横目に見ながら 今までの消費生活をやめられないすでに大人になった人々は あと20~50年もすればすっかりいなくなるので

この世界にいる人間の生き方はやがて大幅に変わることでしょう。

ただ、資源があるうちに順応していくことも求められていますね。 

若草山の草を全部食べつくした鹿の大群が飢えて死滅する なんてことになってしまったら元も子もないですから

私たちはそろそろ、大人や老人たちも順応を意識して そろそろ消費を自粛 物を大切にする生き方を練習せねばなりません。

(人間がしないと自然の摂理が制限掛けてきます)

必要な変化に抵抗するよりも 何が必要で何が不要なのかを見極めていく目が必要かと思います。

今話題のサステナブル ですね。 調和する生き方。

大切なものを思い出させる出来事が頻発するのは流れの一環です。

早く気付いたもの勝ちですよ。

 

あるものを大事に分け合う世界

奪い合う世界 ではなくて 与え合う世界。

愛は豊かさです。

物質的な贅沢よりも 心の豊かさを満喫するようになります。

そこにはきっと幸せな人が沢山いるでしょう。

変化を恐れている人も ダメな人やひどい人なのではありません。

ただ慣れないものが怖いだけ。 もし人々が愛ある社会を創り出せば 変化は不安に包まれることはありません。

護るのは愛の力。

貪り、競争して奪い合う社会で死滅するよりも 共存を選ぶ ウイルスの方がちょっと人間より賢いのかもしれません。

青い惑星 地球上での出来事です。

繁栄も衰退も自然の摂理。常に進化 調和していきます。


地球

 

相手をどうみるか

子供の頃から生き物を観察するのは大好きでした。

今はアトリエで猫を3匹飼っています。

「猫は日々あるがままを生きてるね」 なんてよく言われますけど

そうですね。自分の気持ちに正直です。 それしかありません。

自分を偽る なんてことはしません。

嫌なのに「いいよ」なんて言わないし、嫌な時は嫌そうにします。

ある時ある人が言いました。「猫は気楽でいいなぁ。何も考えなくても養われて。」

ん? そうかな? それはなんか違うかも と 思いました。

彼らは、エサが欲しい時は媚びます。

ゴロニャ~ン 撫でていいよ~ って撫でられに来てスリスリして大好きアピールをしてきます。

「オヤツくれないかニャ~ン?」 その意図を読み取られてないと

「なんだ、撫でるだけかよ。ならもういいわ」って どこか行ってしまいます。

どうしたら飼い主がおやつをくれるのかを けっこう覚えていて、

わざと可愛く鳴いてきます。「ミャ~ン」大きな図体になっても頑張って子猫っぽく鳴いてみたりなんかします。

更に、飼い主が一方的に撫でたがる時にも ちょっとガマンして撫でさせてくれたりしています。

しっぽが「もうそのくらいにしてくんないかなぁ」 ってプンプンフリフリしてますが、

それを飼い主やお客さんが気付かずに撫で続けようとすると「ゴメン、もうカンベン」とスタっと立ち去ってしまいます。

猫は言語以外の意思表示方法を持っています。

目で訴えて来ることもあります。

「おやつ欲しいなぁ、ママ~」黒目がちなウルウルの目をぱちくりさせて目で語ってきます。

なんか美味しいものなーい?  誰か遊んでよ~う!

うっとおしいニャ、 うるさいニャー、 どうでもいいニャ、 ホントにもう!!  イライラするっちゃん!

今はやめて! イライラガリガリ、 プンプンウニャウニャ

もう人間の感情とほとんど変わらなく見えます。

ただ、人間みたいに前にあったことを思い出してイライラしないだけで 

今現在を豊かな感情で生きています。

人間はいろんなタイプがいて 我が家の旦那さんはかなり猫に近い(?)人で (笑)

彼の感情を深読みする必要が無いので 私は疲れません。 私にはとっても良いパートナーさんです。

更に、彼は 自分の価値観を押し付けない所も猫さんたちと同じなので 私も猫のようにいまここを生きやすい という家庭環境です。

そう、私も猫っぽいかもしれません。 他者の価値観に干渉することがほとんどないからです。

(相談を求められたら意見を言いますけどそれはあくまでも自分の見解で正解というものはありません)

もし私がもっと人間っぽかったら、自分の価値観で相手を裁いたり自分の価値観に合わさせようと相手をモラハラよろしく責めたり非難したり欠点をあげつらったりするかもしれません。

「あの人こういうところがおかしいと思うのよ」 「そんな常識もわからないの?大人なのに?」なんてことを口にするかもしれません (したことはあるかも)

でも、ある時に気付きました。

猫レベルにできないことが沢山ある私は、人様を責めるなんておこがましい事はしたら申し訳ない・・・

片付けが悪い とか 約束を忘れてしまうとか ルールを知らない とか 言ったことを翻す とか

気が利かないとか 興味のない話は退屈そうにしてしまう とか 社交辞令とかお上手を言えないとか

そんなこと、私も出来ないことですし、自分がちゃんとできないことを責めたりすると ちょっと恥ずかしくなってきてしまいます。

脳内オバケの 『オマエモナー』 が出てくる

また、出来たとしても別のできないことが沢山あるわけですから 

人様を非難する などということは私のようなポンコツ人間が言えるようなことやないなぁ と思ってしまいます。

ちょっとやそっと 迷惑かも とおもったとしても、自分がそれ以上の迷惑を知らずにかけていることがあるかもしれないし、

自分自身などは できることtできないことがあって、出来ないことはそれがどれだけ素晴らしい事であったとしてもなかなか出来ないし

無理をしてそれをしようとすると 本来の自分の長所が死んだりするので、

「ごめんやけど、私はこのままでいさせてもらうわ」 という選択になってしまします。

だから、他の人が自分と同じようにできないことを責めることはしないようにしています。

 

「あの人、なんでこんなこともできないのかしら!?理解できないわね」 なんて言葉を聞いただけでも

「あなたではないからだ」 とか 「あなたも最初から出来たわけじゃないでしょうに」 とかいう言葉が脳裏に浮かんできたり

大体は 人を責めてしまうとその後 言った言葉が向きを変えて 悶絶するハメになってしまいます。(脳内オバケ出現)

 

自分自身のこともすべて完璧にコントロールできる人間はいません。

息をしたり、心臓を動かしたり、成長したり老化したり、それら(臓器)は意図するだけでは止めることもできません。

この体さえも 意志だけでは自由には出来ないのですが、他者を自由に自分の思惑に合わさせよう、コントロールしようというのは

エゴの傲慢じゃないかな と思うわけです。(無理な事をしようとしている)
 

他者の価値観は自分の価値観とは違う 

どちらが正解という訳でもないんです。

そもそも 価値なんて最初から存在しているわではなく、それぞれがそれぞれの理由で価値づけをしているだけ。

そんな一定じゃない基準で測られても どうすればいいのかわからないですよね。

 

最近はYouTuberのひろゆきさん流『論破』という言葉が流行ってますけども

自分が正しさを証明する というのも 屁理屈っぽくて面白かったりしますが、

正しさを証明する って 本当はなんか不思議ですよね。

裁判や法律を使って悪人が勝つなんていうのも不条理ですしね。

エゴを戦わせている限り 結果は不毛な気がするけど。。。

 

じゃあ、何が良いのか? って 答えはなかなか難しいというか、

エゴの世界では成り立たないかもしれませんが、

愛になった時に成立する 『それぞれがそれぞれのしたいようにすることができると生きやすいな』 と思うわけです。

これね、環境がどう という問題ではなさそうです。

自分自身の内面が愛かどうか で 周囲との関係性が変わります。

(なぜかと言うと、自分が愛だと周囲が癒されて、周囲のエゴが減少するから)

 

これからやって来ると言われる 心の時代 は とらわれが少なく自由で豊かな心 がよりクローズアップされるようになり 人々は生きやすくなっていくようです。

だから皆様も 今までの価値観に合わないわ!と 腹立てたり不安がるのはやめましょう。

もう昔には戻りません。常に今が展開・進化していくのです。

 

ちょっとこれも言いたかったのですが、

にゃんこも1匹1匹 性格や好みが違います。

好きなものが違うし、行動も違います。 一定の対応ではダメだ ということです。

1人1人の個性をちゃんと観察していると 何が一番いいのかを判断できるようになります。

人間の価値観を押し付けても お互いがストレスなだけでしょうね。

人間同士の関係は・・・ ちょっと 雑 なのかもしれませんね。coldsweats01

相手のそのままをそのままみ見る ということは すべての生き物に対して大事な事じゃないでしょうか。

思い遣ると そこには愛のつながりが生まれます heart04

蓮の花びら