2022年01月

魂の故郷

マインドフルネス瞑想の師 ティクナット・ハン禅師が今月22日にみまかられたそうです。

世界中の多くの人々に 仏陀の心を伝え仏陀の生き方・教えを指導した僧侶。

聖人 と呼ぶにふさわしい方でした。

師を深く敬愛していたお弟子さんや仏教徒たちは 悲しむ と言うよりは

師の旅立ちを受け止め、更に 師の教えと、その存在の大きさと感謝を実感されていたようです。

 

仏教では 全てのものに執着をすることを手放していきます。

 

移ろいゆくこの世界、物事、肉体は永遠ではなく 常に変化し続けるものです。

その変化するこの世界の一片が 私達一人一人です。

全てがあって変化し続ける世界では 存在も起きることも偶然でありながら不可欠

一つ一つが全体を作り上げている 連携した仲間のようなものである 

そして私達人間は頭の中のイメージに振り回されることなく

静かに慈愛の心で世界を観察する 仏陀の目になる ということを 小さな子供にもわかるように

教えておられたティクナット・ハン禅師

肉体を離れられて 全ての場所 全ての弟子や多くの人々の心に生き続けることでしょう。

大きな愛と慈悲を惜しみなく伝えてくださったことに 心より感謝と尊敬申し上げます。

 

ティクナット・ハン師の Q&AをYoutube動画で見た時は心を打たれました。

まだ見たことが無い方はぜひ一度ご覧になってください。癒されます。

ティク・ナット・ハン Q&A #1 (2009 New York) – YouTube

★ティク・ナット・ハン Q&A #2 (2009 New York) – YouTube

 

瞑想の流派は違っても 心は同じものを見ていると思います。

世界と愛と慈しみの心。

平和は自分自身の内側から始まります。

普賢菩薩

今ここ

今日は木曜日。

瞑想者のための週一のオンライン瞑想会のある日です。

ELM瞑想の伝授を受けたことがある方が参加できるオンライン瞑想会です。

週に一度なのですが、一週間が早い事早い事。

なんだか3日くらいしか経ってないような気分ですが、(笑)

これはもしかしたら 1週間の間にあったことを忘れてしまっているからかもしれませんね(笑)

忘却力がアップしております(笑)

忘れないとか 覚えている というのは若い ということなのかな?

いや、執着していないだけなのかもしれません。

良い事も悪い事も特に執着しない。

そうすると今ここに居やすくなります。

瞑想をすると 過去のことや未来のことを考えるよりも

今、目の前にあるものへの注意力が優位になるように思います。

そらは自分の都合に良かろうが悪かろうが起きては過ぎ去っていきます。

今あるものはすべて一時的なもので 移ろいゆく景色を私たちは眺めつづけるのです。

何だっていいじゃないか という気持ちになってきます。

気を揉もうが揉むまいが それらは移ろっていくのですから。

嫌なことが起きたとしても それを永遠のように騒ぎ立てることもありません。

どんなこともやがて過ぎ去っていく。

この世に存在することを 思う存分楽しみたいものです。

嫌な事を探し出す暇があれば 何か楽しくなることをしたいものです。

もし、とても嫌なことが起きて その渦中にいる人は

何か気が紛れることをしてください。

この際、お掃除とか断捨離とか しちゃいましょう。

時間が経つのが早くなると思います。

出来ないというよりもしてしまった方が早いと思います。

 

いろいろある時

前回のオンライン瞑想会、最後に配信の不具合が起こり、大変失礼いたしました。

後で調べたところ、普段使わないノートパソコンの iTuneが自動更新を始めていて、ビジー状態になっていたようです。

( ̄▽ ̄;)

デジタルにはあまり詳しくないので 不具合が起きるとすぐに対応できずすみませんでした。(-_-;)sweat01

こういう時パソコンに詳しい相方がとても心強く、今後そういうことがおきないよう対処してもらいました。(別のトラブルはおきるかもしれないですが)(^_^;)

このところ全国的に変異種の感染拡大が拡がって また人の動きが少なくなっていますね。

・・・・

そんなこんな、深夜にブログを書いていたら けっこう大きな揺れがありました。

日向灘で地震だそうで、大分市や宮崎県の延岡が震度5強だそう。

被害がなければいいのですが。。

宮崎に瞑想者さんがいらっしゃるので ちょっと心配です。

福岡は震度3くらいでしょうか?大したことはなかったですが、

スマホが大きな音を立てたのでびっくりしました。

ニャンズが驚いていました。ゆず君は高い所からケージに入って行きました。

(そこは安全なのか?)(^_^;)

私もびっくりついでに 何を書こうとしていたのか すっ飛んでしまいましたね A^_^;)

TVのNHKで情報を聞いていますが、フィリピンプレートの沈み込みが原因と専門科の方が言っていました。

揺れたエリアの方は余震にお気をつけください。

こういう時は、無駄に心配しても仕方がないので、

今できることをして(災害グッズの確認など?)落ち着いて

身体が休まるように 眠れない方は瞑想してくださいね。

私も今日はこれで休むことにします。

何かある時ほど落ち着いてよく眠るようにしてください。

自分が決めてることに気付く

殆どの人は苦しむことを避けたいと思っています。

当然でしょ!? と思いますよね。

でも、不思議なことに わざわざ苦しみのある方向にばかり向かう人もいます。

苦しい出来事で頭がいっぱい、

自分を苦しめる人のことが大好きだったり?離れなれなかったり。

自分を苦しめる人を憎んでいるのになぜかその人のそばにいる人。

また、よくわからないけど、なぜか人生が生きづらい と思うなら
あなたも苦しみを好む人かもしれません。

人生には時々 すごく辛い事があります。

その事をずっと考えている人は苦しいと思います。

「え?私の人生は辛い事ばかりなのにどういうこと?」 って思ったあなた。

人は幸せそうに見えて自分ばかりに辛い事が起きている と 思っているかもしれません。

とても不公平に思えるでしょう。

神様は不公平だ と。

あの人は幸せなのに私は不幸。そうですね、本当にそうなのかもしれない。

ハッキリ言いますと

辛い出来事が多い人と、そうでない人がいます。

カルマが多い カルマが少ない の違いですね。

これは自分だけのせいじゃないです。

どんな人生を選んで生まれて来るかは 生まれる前に決めてくるそうですけど、
そんな自覚はないですけどね、そうらしい。

人生はとても不平等なんです。

しかも 選べないことが多い。(魂が選んできたそうですけど、今となっては選べない。もう決まってますからね)

ですから、抵抗しても苦しいばかりなんですよ。

苦しい事は、 どうやって受け流すか  が問題!

もちろん、割と幸せだわ と言う方は 心置きなく喜び その状況に感謝してください。
幸せが増えます。(引き寄せの法則)

生きるのが辛い という方は、できるだけ心の痛みを癒してください。

少しでも心が安らぐように生きるのです。

こんな状況でどうやって幸せを感じろというの? と思う方、

その苦しさは永遠ではありません。

先が見えない時は 真っ暗なトンネルを手探りで歩いているようなものです。

でも、そのトンネルには出口があります。

そこまで ヨタヨタとでも歩いて行くのです。

出口に来たら 途端に景色が変わるでしょう。

そこまでは歩いて行かないといけないのです。

止まっていたら 前に進みません。

後ろを振り返っても出口はありません。

出口のことだけを思えばいいのです。

出口に向かって歩いているんだ!と思うのです。

私が、昔、そんな気分だった時は、出口の外は黄色いお花畑が拡がっている風景をイメージしていました。丘一面の菜の花畑。空は青。春のそよ風が吹いています。

漠然と トンネルの出口はそんなところ と ずっと思っていました。

今は まぁ そんな気分ですね。(笑)

出口、ありましたね。

今の私からは 過去のトンネル時代は想像つかないかもしれませんが、(笑)

 

でも、その頃と今と、何が違うのか? というと、

気分が違うだけかもしれません。

大変なことは今でもそれなりに起きていたりします。

でも、いつも笑って楽しそうに生きていられるのです。

大変なことを苦しいと感じていなかったりします。

生き方は随分変わりました。

嫌な事を嫌々する ということがなくなりました。

子供時代はできなくても 大人になった今は自分で自分を生かすことができるのです。

鎖で繋がれているわけじゃない。この身は自由です。

嫌ならしない するなら嫌だと思わない。

だって、それをすると選んでいるのは私だから。

誰かに無理やりさせられる ということが一切なくなりました。

それは私に何かを強制する人がいなくなった のではなくて、

自分が嫌々何かを引き受ける ということがなくなったのです。

誰かが私に何かを押し付けようとしたとしても、

嫌なら絶対しないでしょう。

それでどんなに損失があったとしても

どうしても嫌ならしない。

でも、損失を出したくない という意識が強ければ

私はそれをすることを選ぶかもしれません。

普段ではしないようなことも 必要があればするのです。自分の意志で。

それと関連して 他者に何かを押し付けたり、人を変えようと思うことが無くなりました。

自分が何かをさせられるのは嫌なので、人にも無理強いしませんし、私の正義を押し付けません。

私は完璧な人間じゃないので、他者に完璧にしろ とは言えないのです。

折り合いをつけた方がいい場合は協力してもらえないか持ちかけます。

答えがNOだったら 別の選択肢を考えるでしょう。

生きるという事は選択の連続です。

するかしないかを選んでいるのは他人ではなく自分です。

どうしても従えないなら出ていけ と言われるならそこから出ていくでしょう。

でもね、転んでもただでは起きませんよ。(笑) たぶんね。

時には 煮え湯を飲むような悔しさを味わったり、

途方に暮れるようなことがあったり、これは限界だ!と思うような時があったり するかもしれません。

その時は どうするかを 自分に問います。

このままいくか 別の方法を取るか。

過去に言ったことを翻すかもしれません。

その時々で状況は変わるのです。

何を優先するかは その時次第です。

自分を何かの犠牲にしようとは思いません。

自分を大切にするのは命に対する務めのようなものです。

でも誰かを守りたくて自分が泥をかぶることもあります。

どの選択も後悔はありません。

いつもそれがベストだと思ってどれかを選びます。

激しく失敗することもあります

でも1日1日を生きるのです。

何をしたらいいのかわからない時や 何もしたくない日もあるかもしれません。

それでもいいのです。

できることをすればいい。

人生に意味を持たす必要はありません。

意味を作りたかったら作ればいいですけど、それは必要不可欠なものではないのです。

生きているから生きているのです。

何があるかわからないから面白い、 そう思えたらもう大丈夫。

生きることを楽しんでくださいね。

ゆず

 

自我の視点と真実

前回のブログで 

『自我が強いと 自分がどう扱われるかが最大重要事項になってしまうので、真実は見えません。』

と書きました。

真実って 何? と思った方、お一人ではなかったと思いますので もう少し書き進めてみたいと思います。

そもそも人間の意識、自分が見たものを自分の都合で解釈しております。

相手がどう思っているか、それはどういうことなのか、 結構誤解していたり、決めつけて固定してしまっていたり気持ちの行き違い そんなことがとても多いと思いませんか?

「あの人が怒っているのは私のせいだ」とか「こんなことをやらかしたら、おしまいよね」とか

「失礼な人!私をバカにしているわ」とか 。。。 本当にそうだと思いますか?

ちょっと古い意識となるとわかりやすいですよ

「結婚できない人は何か欠陥がある」なんて私の親の世代はそう思っていました

「出世しないと世の中から認めてもらえない」「大企業に勤めないと負け犬」などもそう

もっと古い時代の意識だと 忠義は最高の美徳だったわけです。

お殿様のために死ぬのは栄誉?

命よりプライドが大事とされた武士たち。ご苦労様です。

価値観に縛られる時代は終わって行きますね。

時代が変わってどんどん物差しも変わって行きますけど、そんな形を変わる物差しを頼りにすることほど心もとないことは無い。。。

みな、自分の信じていること以外の奇妙さはすぐにわかりますけど。

自分のことだけは よくわからないんですよね。 不思議。

これね、からくりがあるんですよ。

誰しも、自分の信じていることは 真実にしか見えないんです。

 

物事の流れは 信じているように展開する 宇宙の法則が働いていますからね。

あなたの信じていることがあなたの回りに起きます。

これ、すごく楽しくていい事ばかりでハッピーな人生なら ぜひそのままでいいです。

でも、そうでないとしたら あなたは何を信じてしまっているんでしょうか?

要らない思い込み 手放した方がお得です。

 

瞑想では、全ての思い込み 全ての幻想を手放してただ事象を眺めるモードに立ち返っていきます。

赤ちゃんみたいに 無垢に何の思い込みも持ち込まず、

でも、今のあなたはいろんなことを知った上で 思い込みにとらわれない生き方を選んでいくのです。

これは考え方の癖を修正するようなものでもありますので

瞑想でカルマを手放して反応を緩め、意識は、意識的に要らないものを手放します。

それができると、啓発したマインドで生きることが可能になります。

啓発(悟り)、 自由で軽い カルマの幻想にとらわれない意識 です。

 

真実とは何か 以前、あるお友達が分かりやすいお話をしてくれたのを思い出しました。

小学生の男の子を持つお母さん、

ある日、学校から電話がかかってきて担任の先生が言いました

「息子さんがお友達の喧嘩に巻き込まれて怪我をされました。ちょっと切ったので病院で処置をしました。酷い怪我ではなくお医者様も大丈夫とのことでした」

あら、嫌ねぇ、などと思ってしばらく待っていると息子が学校から帰って来ました。

頭に包帯を巻いています。

えっ?頭?大丈夫なの?思っていたよりひどい事になっていて お母さんはびっくり。

なんで他の子の喧嘩でうちの子がケガさせられなきゃいけないの?

お母さんは頭に来て 息子に聞きます。

誰があなたに怪我をさせたの?許せないわ。謝らせないと!

お母さん、大事な息子が悪くも無いのに傷つけられて怒り心頭です。

すると子供が言いました。

おかあさん、誰も悪くないよ。

A君とB君がふざけて取っ組み合いをしてたのに僕の足がひっかかってコケて怪我しちゃっただけだよ。

誰も僕を怪我させてないよ。先生やA君B君は心配してくれたたけど、僕は元気だよ。

と笑顔で言ったんです。

 

お母さんの 加害者ありき な視点と、息子くんの何の偏見も無い視点

この違いがわかりますでしょうか。

真実とは何なのか 改めて物事をとらえ直してみてもいいかもしれません。

それにしても 笑顔は無敵 かも。

ワンコ

プライド 

先日 某ユーチューバーさんが話していた内容に妙に同意してしまったので ちょっと書いてみます。

「プライドの高い人って 実はあまり誇れるものが無いってことなんですよね。」

「過去の功績をわざわざ自慢するなんて」

うーん、なるほど。 

って言うか、自信が無い ってことなんですよね。

誇るものがあるかどうか は 価値観の問題もあるので個々の基準によります。

すごいことを成し遂げていても自信の無い人もいます。

自分で自分の価値をしっかりと認めているかどうか なんですが、それが価値基準によるんです。

どんな物差しをあててOKとかNGとか出ているのか。

その基準って 絶対的なものってあり得ないんです。

ただのイメージですから。

それで、

どれだけ大きな実績を作っていたとしても 自分に自信が無いと、

確かめたくなるんですよ。

他者からの承認

私に価値があるかどうかを他者に「イエス」と言わせたい。

他者に承認させようと圧をかけたりなんかして より尊大に振舞う人もいらっしゃいますね。

「俺を誰だと思ってるんだ!」 なーんて。

何様? って笑っちゃいますけど、自我はこれをやりたがるんですね。

そういう反応になってる。

だって、多くの大人たちは 自分より目下だと判断した相手に 丁重に扱われないと腹立てるじゃないですか。(笑) ええ、私も時々反応しますね。

そんな 生意気な若者は 本当に間違っているんでしょうか?

いや、実は 世渡りが下手 とか 年長者のエゴを逆撫でする という

単に世間知らずなだけ だったり、

本当のことを言いすぎるだけ だったりします。

(; ̄▽ ̄) イッチャダメナコト

自我は真実が見たいわけじゃない。理想的な幻想を好みます。

そう、世の中は 幻想(理想)や 表面的な見え方にとらわれているかぎり、

腹黒くても心地いい言葉を吐く人間が好まれます。

自我が強いと 自分がどう扱われるかが最大重要事項になってしまうので、

真実は見えません。

誰がどう言おうと、本当のことは一つしかないんですけどね(笑)

私は嘘は言わないけど、本当のことも必要がなければ言わないことも多いです。

言って 誰かがやる気をなくしたり 無駄に波動が下がるなら言わない方がいいと思ってます。

 

瞑想はいいですよ。

何しろ無害です。

ずっと毎日の瞑想を続けていると、

どういうわけか、エゴが少しずつ小さくなっていって、

目に見えない 波動 などというもののニュアンスが なんとなくわかるような気がしてくるのです。

気のせいかな?と思うほどの 微妙な違いです。

でもね、これ毎日毎日毎日 ずっと続けてみると

何年も経ってから ある日気が付くんですよ。

昔と感じ方が随分違う と。

怒りは緩やかになり、徐々に客観的な視点が保ちやすくなります

身体の健康状態もそうです。

回復力は明らかに違ってきます。

ストレスが取れてしまうのですから当然なんですけどね。

これは続けてきた人にしかわかりません。

1日はちょっとの差でも、結果的に すごい違いになっています。

面白いですよね。

続けた人がお得です。

瞑想者の方は 瞑想会をご活用ください。

もっと座談会的なオンライン瞑想会もいいかも と思ったりしています。

ご意見募集中です。

今週末日曜日 1日瞑想会の日です。

瞑想者さんの参加申し込みもう少し可能です。

メールやラインでご連絡ください。

 

それ以外にもご質問募集中です

ブログに回答を書いてもいい という方はぜひ 質問投げかけてくださいね。

お名前は出しません。

色々、みなさんが参加しやすいやり方など アイデアがありましたら教えてくださいね。

対話は楽しいものです。

 じゅんみな

見える景色

このところ少々間が空きがちなブログです

お待ちくださってありがとうございます。

瞑想の教え というものがありまして、

これは古代インドの経典 ヴェーダ というものが元になっております。

仏教の基本概念もそれに基づいています。

なぜなら、お釈迦さまが インドの王子様だったので

生まれ育った地域の文化圏 で 当時の聖者たちはヴェーダを学んでいるわけです。

ベースがヒンズー教というわけですね。

シバとかビシュヌとかブラフマーとか出てきます。

日本人にはなじみが薄いですが。

専門科、もしくはマニアな方はご存じかと。。

ブラフマー

ブラフマー 創造の神

顔が4つ 蓮台に乗る

 

ヴィシュヌのサムネイル画像

ヴィシュヌ 維持者

5匹の蛇(コブラ)を背負う

 

シバ神


シバ神 破壊の神

青い皮膚 豹の毛皮を纏う 

 さすがインド、神様も濃いですね~

でも、これはこういう姿をした神様がいる という訳ではなくて

世界を保っている

創造 → 維持 → 破壊 → 創造 → 維持 → 破壊 → 繰り返し

という サイクルを 神の意志 として擬人化してとらえているんです。

ビジュアルにするとインパクト強いですから 教えが把握しやすい ってことですね。

シバやブラフマーやビシュヌのお話は膨大にありますので ここでは超大雑把な説明ですけど。

ヴェーダは この世界の成り立ちや構造や人間のこと魂のこと波動の事 ありとあらゆることが書かれています。

ただ、大昔の人が書いたものなので 現代の概念と文化が違う ということもあり、

物語形式になっている とのことでした。

それはいつもボブがレクチャーで聞かせてくれるのですが、そのお話で この世界の成り立ちや秩序がどうなっているのか 腑に落ちて行ったことが多々あります。

ヴェーダそのものは私も 自分で全部読んだ訳ではなく、一部のお話を教えてもらった程度なので 専門科の方からすると 表現がおかしい とか思われるかも知れませんが。

瞑想的には この世界がどんなものなのかをザックリとでも把握すると 無駄な悩みを持たなくなります。

だって、悩み続けるのは無駄だ ということがわかるからです。

人間のエゴがどれだけ抵抗しようが なるようにしかならない 巨大な世界を相手にしているわけですから 一々引っかからずに受け流してゆく方がずっと健全だからです。

目の前に起きている出来事は 巨大な世界のほんの一部の接点で、
どうして も こうして も どうでもいいほど 起きるべくして起きているだけ なのです

なのに それに罪悪感など持つ必要はないし、必要なのは起きてもいないことを心配する事でも 起きたことを後悔する事でも 起こした犯人を責めることでもなく、

どうバランス取って うまくやるか だけ なんですよ。

だから 自分がこれでいいか なんて 誰かに聞いたり 確かめたりする必要はありません。

あなたも私も 在るように居る だけなので この世界の波を自分の感覚を使って バランスを取ってください。

そうですね、うまくバランスを取れるかは 経験値もあると思います。

他者との摩擦は 自分がどれだけ尖った摩擦を持っているか で起きることが変わります。

あっちとこっちの いわゆる波動同士の摩擦なわけですから

荒々しい波動で煽っているのは 自分 かもしれないのです。

「私は穏やかにしたいのにあちらときたら!!」なんて憤慨しているお方、

その攻撃性に気付いていないのは非常に残念なので 先ずは 自分が発する波動がどんなものか 気付く必要があるので

自分の周りでどんな波立ちがあるかを観察してください。

それは 関係者であるあなたも共有している波動なのです。

(鏡の法則)

あなたの周りが穏やかであれば あなたが穏やか ということですね。

好みと 出しているものは違うのでご注意ください。

 

基本は 愛であること を念頭におきますと、とても優しい波動になりますよ。

自分が荒らした世界も 他者が荒らした世界も 私が愛に戻す と思って

バランスを取りますね。

そんな大変な事出来ない? と 思ったあなた、

それは間違いです。

大変でもなんでもなく、 むしろ何もしない だけなのですから。

そうそう、やり返さない、 何もしない。

あるがままにさせておく。

あなたは ただ、見守るだけ

特に何かをする必要はありません。

何かしたかったらしてもいいですが。

しなくてもいいんです。

それが穏やか。

どうですか?

穏やか  いいですね

反抗期?

SNSのみなさんの投稿を見ていると時々しばしばとても好い事が書いてあって嬉しくなります。

ある方の投稿で 「反抗期って子供が親に逆らう時期、ではなくて、親が子供の成長に抵抗する時期なんですね」って書いてあって、

あ~、そうよ、そうそう。って笑いました。

私も子供の成長の際には抵抗を感じる時があって、

自分のやり方が受け入れてもらいにくい時とかに「う~む」と「どうしたらいいのじゃ」と困惑する事がありました。長女次女共に高校生の頃ですね。

当時の私は丁度、『あるがままにさせておく』という取り組みをしていたので

ああしろこうしろ と口を出すことを必死にガマンしていました。

と言っても しばしば 自分の考えを言ってしまうようなことはありましたので

これはジッと見ていたら、ぜったい言ってしまう と思いましたので、a

あまり見すぎないように頑張っていましたね。

小学生の間は まだ幼いので生活のルールなど、いろんなことを教える時期だと思いますけど、

中学高校になって来ると(若いですが)もう子供(児童)ではないので

自分で考えて行動させる、自分のすることに責任を持たせる ということをしていました。

これは、この頃、私も自分の仕事を再開する取り組みをしていたので家事や子供の世話が行き届かないということも一因でしたが、

子供のすることに口出しをしすぎて良いことなど何にもない ということは分かっていたので

放っておく というよりは、いろいろ娘たちに頼む ということをしていました。

一番最初は、してもらうことは 逆に手間がかかったりします。

やり方を教えたり、ちょっとの労力だけで出来るようにお膳立てしたりと下準備がかかりましたからね。

でも、子供自身が自分たちの生活を自分で回せるようになる ということは大人になって行く上で大事な事だと考え、親がなんでもやってしまわない ということが私自身にも必要でしたので頑張りました。

そんなこんな経過があり、長女が大学2年の頃、私はチェンマイでの2ヶ月の瞑想教師コースに行ってしまうのです。

当時の最初の夫は 家事をしてくれる人ではなかったのですが、娘たちが食事を作れるようになっていたので 大丈夫だ と思ったんですね。

何事もなく平穏無事?というわけではありませんでしたが(笑)

私は途中で帰らされることもなく 瞑想教師の資格を取って帰国しました。

2011年のことです。

正直言うと、私は子育ては苦手だったんですね。

子供が大好き とは言えなかった。

私の母はずっと「子育ては大変だ。子供はすごく手がかかって親の自由はなくなる」なんてことを私に言って聞かせていたので、小さな子供は苦手だったんですよ。

でも、実際に結婚して産んでみると、それはそれは可愛かった。

確かに子育て、超寝不足になりますし「え”え”~っ」って言うほど大変な時期もあるんですが、

手がかかる時期ほど 子供って可愛いので、これはしんどさもチャラだな なんて思った。

ただ、自分の性格に問題を感じていましたので、充分覚悟してかからないと ちゃんと育てられないかもしれない って 危惧してたんですよ。

なので、ずっと家に籠って子育てだけする ことは避けました。

保育園に預けて仕事をしたんです。

そのくらいの時間が自分には合っていたと 思いますし、

子育てが上手な保育士さんに預けることは 安心の一つでもあったんですね。

担任の先生は素晴らしい方も「ん?」という方もおられましたが、

多くの子供たちと関わりながら育った娘たちは とても健全に育ってくれて

私はそれが一番幸せなことだと思っています。

何かに抜きんでていようがいまいが、

大きな欠点があろうがなかろうが

その個性を持って 自由に羽ばたいて欲しい 成功も失敗も 自分の意志で選んで

人生を味わい尽くしてほしいのです。

私自身がエゴが強い子供だったので、そもそも人の言う事をあまり聞かない方なので

親が言う事を聞かそうとしたら余計に悪いことになる ということは分かっていました。

反発していた頃は わざと言われる事と反対のことをしていたこともありますし(ひどいshock

私のことを勝手に決めるな!って思ってたんですね。

嫌な事は絶対できないし、納得しないで言う事を聞く ってことはあり得ない という

超面倒くさい小賢しい子供で、(-_-;)

いや、まだ親とのバトルが あれだけだったのは 辛抱強いいい親だったんじゃないか って ほんと思いますよ。coldsweats01

子供は思い通りにしようとすればするほど、反抗します。

自分が生んだかもしれないけど、別の魂だ ということをしっかり理解した方がいいですよね。

成功や安全だけがすばらしいこと なのではないのです。

特に若い魂、いろんなイレギュラーを味わう時期なので 

揉まれた方がいいです。

決して枠にはめないであげてください。

世間に出れば それなりに頭を打って 角が取れて行きます。

 

そう、角が取れないと生きづらいですよ。

そのとんがった エゴというトゲトゲで他者を攻撃したり、自分がヒリヒリしたりして

守ろうと思えば思うほど生きづらい。

枠は首輪のように自分を締め付けます。

自由は、物理的なものではありません。

あなたの意識が自由かどうかが大事です。

目をつむって、世界を感じる時、無限に広がれる自由さです。

 

どんな物理的不自由があろうとも

魂が自由ならば あなたのストレスは霧が晴れるように取れて行きます。

本当は自由だった 制限を設けていたのは 私の意識だった。

誰かから言いつけられたかもしれないそのルール

採用するもしないも あなたの自由なのです。
 

あ、法律?

それは、法律の場合は、破るとペナルティーがある というだけのことです。

ペナルティーあるなら 引き受けて自由でいればいいんじゃないでしょうか。

私はそう思っていましたね。

どういう結果であろうとも なるようになっていくものなのです。

あなたの意識が 愛である限り、あなたの周りには愛しか集まりません

愛じゃないものがあったとしても 愛に戻って行けばいいだけなのです

 

子供にそう教えたかったんですね。

伝わっているのかどうかわかりませんけれども 

自由で素敵な大人でいてください。

マーガレット

フィーリングとマインド

ふとしたことで、昔 感じていたことを思い出しました。

まだ20代の頃だったと思います。

その頃 自分のことを理解してもらいたい と強く望んでいたことがありました。

自分のことを分かって欲しい

気持とか事情とか、苦しさとか、なぜそうなっているのか とか

伝えたいけど伝わらない焦り みたいなものがありました。

言葉にするのが難しい ということもありましたが、

そもそも 自分が何をどう感じているのかを 自分でもわかっていませんでした。

自分のことを説明するのに 自分の生い立ちとか体験を話すことを必要だと思い込んでいましたが、

どれだけ言葉を重ねても伝えきったという感覚が全くもてませんでした。

たとえ、相手が わかったよ と言ってくれたとしても 

本当のことを分かっていないとすぐに不安になってまた 説明したくなる

というような 超めんどくさいジレンマに陥っていた 感じがします。

今の自分がそれを振り返ってみると

そりゃそうでしょうよ と 言いたくなります(笑)

だって、自分で これはNGだ こんなんじゃダメだ と思っていることを

それは事情があってしょうがない ということにしたかった(無意識の意識)があったのです。

これは 当時の私だけがそうなのではなくて、

多くの人間の自我さんたちはそれをしているんですね。

こんなんじゃダメなんだけども、自分の意志ではどうにもならない避けられない事情があってそうなっている ということを他者に証明したい  と言う願望。

そうでもしないと自己承認ができない 自己イメージの低さから来ている思い なんですよ。

自分のことを否定するジャッジ。

これ、必要ないんですよね。

なぜ? かと言いますと、

自分の衝動 と言うのは、そういう風な生き物に生まれてきているから  なんです。

でも、社会生活を送る上で 不都合な衝動は 抑えるように訓練されているのが大人だったりするわけですが、

自分の内なる欲求や身体の求めるものをマインドが過剰に抑え込んだ結果が

強烈なストレスになるわけです。

これ、過剰適応 って言うんですね。

そのルールを採用しているのは他ならぬ自分自身なんですが・・・

最初は親の意向だったかもしれませんし、学校の先生とか

周りの大人とか ともだちとか 環境に適応しようとしてそれを採用したかもしれませんが、

そのルール

使うも使わないも あなた次第なのです。

この自由選択ができているか自分に許してないか の違い。

え?? それ外しちゃダメでしょ? 生きていけないでしょ?

な~んて いつの間に思いこんでしまっていたのか。

生きていけます。 そんなルール無くても 生きてる人が沢山います。

私はダメなの なんて 自分で制限かけるほど バカバカしいことは無いんです。

え? なぜかって?

そんなの生きづらいから ですよ。

生きやすいように生きましょう。

それはダメ っている呪いを解いちゃいましょう。

だって、宇宙には良いも悪いもないんです。

ただ、因果という あなたの行動による結果があるだけ。

あなたの選択と結果

どっちもどっちな

究極の選択になるかもしれませんが、

ほとんどがそんなものです。

だから選択するんですよ。

マインドは 安全無難リスク回避を重視しますが、

その結果 あなたがワクワクする体験を禁じてしまいます。

無味乾燥な感動の無い人生はつまらない

だから ハートは「あちらに面白い事がある!」と あなたを駆り立てるのです。

そこには人生の学びや気付きが山盛りです。

リスクはいやだ と思っても 安全策の方に落とし穴が無いわけでもなく

どのみち いろんな出来事があります。

どうせなら 楽しくて魂がキラキラと輝く時間を選んでください

何があなたをそうさせるかは あなたにしかわからないのです。

他者は あなたを感じることはできません。

自分で感じて選んでみましょう。

わからない なんて言わないで 

毎日の瞬間瞬間 全てが 選択の連続です。

それをするのもしないのも それを飲むのも飲まないのも

新しい事をするのもしないのも どっちでもいいんです。

感じる ということへ意識を向けるようになると

他者の感じ方も分かるようになってきます。

こんな時はこう感じるのだな

こうされるとこんな風な気持ちになるのか

あなたの経験は あなたの人生を豊かにしていきます。

だからネガティブな感情も無駄にはなりません。

今 辛いことがある方は それをしっかり味わって そして手放してください。

そうすると あなたの魂は経験を積んで一回り大きくなるのです。

あなたは 人間の人生 というものを味わいに この世に生まれてきたのですから。

 

全ての体験にありがとうと言いたい。

それが私の心に愛を育ててくれたから。

この道筋は 全ての魂が何回も生れ変って学んでゆく道なのです。

魂が成長したら何があるのか?って?

それは 存在の至福 という大きな幸福感です。

あなた自身が愛そのものになるのです

そこは不幸が存在できない状態になります

 

自我の意識は 私たちにいろんなチャレンジをさせてくれています。

自分を禁じたり 自分を罰したり そんな体験も知っていれば 他者の苦しみを理解することができますし。

ただ、この世界全てを知ろうとしなくても大丈夫です。

全部を知るにはこの世界は大きすぎ広すぎなのです

だから意識は何十億もの身体に分かれて体験しているのでしょう。

あなたのこの瞬間を工夫してあなたのために生きてください。

何をするかは あなたのフィーリングと環境の具合のバランスです。

あなたは 自分で選び

他者には自分で選ばせてください。

注意することは 他者を傷つけると 自分も傷つけられます。

そう 悪気が無くても人を傷つけることもある。

そして、他者を許すと 他者に許されます。

あなたがこの世界を作っているから 

あなたの行動を躊躇させる心の傷は

癒すしかない。

それは 癒えます。

だから 安心してください。

癒すことには熱心でいてください。

強くても弱くても どちらでもいいんです。

生きやすい生き方、しましょう

どんな生き方がいいのかは 人それぞれです。

あなた自身にしかわかりません。

もしくは 

あなた自身にも分らないかもしれません (笑)

流れは神のみぞ知る。 お任せできれば 味方してくれますよ。

神とも信頼関係で繋がっています。

内なる神を信頼してください。
神の手段は突飛ですけどね。すごいです。

瞑想の光

子供の反抗期はおめでとう

三ヶ日が終わり 今日からお勤めの方も多い事と思います。

良いお正月を過ごされましたか?

我が家は 去年あたりから温泉にハマり出した夫と年末年始 元旦から温泉ドライブでした。

温泉マニアとしては最高のお正月 (笑)

その昔、自分の実家は商売をしておりましたので 一時は年中無休だったこともあり

正月行事はかなりいい加減な家庭でしたので 自分も正月の流儀は疎いのですが

最初の嫁ぎ先が出雲地方の伝統を踏襲していましたので 実は島根流は割と知っていたりします。

でも お正月の風習というのは 地方地方で随分違っているのですよね。

ここ福岡ではまた違った慣習があるようですが、あまり詳しくは知りません。

12月に 時間の余裕があったら またいつかそう言う事も習ってみたいな と 思ったりします。

今年は 今の主人の実家流のお雑煮を初めて作ってみました。

関東風で千葉の『はば海苔』という海苔を入れるのだそうで、夫がそれを取り寄せてくれました。

御出汁はカツオを使いましたが、鶏肉を入れます。白菜や大根、青菜、ニンジン、焼いたお餅

器にこんがり焼いたお餅を入れて汁と具材を盛り、食べる時に海苔を入れます。

ここで気が付いたのが、その『はば海苔』、島根の板わかめを同じ味でした。

はば海苔は近年手に入りにくくなっているそうなので、板わかめで代用できそうな気がしました。

あ、それと乾燥岩海苔も入れましたが美味しかったです。

伝統食も良いものですね。いろんなところのお雑煮、食べてみたいものです。

 

さて お風呂に入ったり食べたり と ゆっくりしまくり のお正月だったので 
ブログに書くようなテーマが なかなか思い浮かばなかったのですが、

今日は1日 妹の通院に付き合っていたので 子育ての苦労を1日がかりで聞いていました。

自分の所はもうすっかり子育ては終わり、むしろ子供に説教や心配をされる立場なので

すっかり忘れていましたが、(^_^;)

思い出しました。子供をどう扱ったらいいかわからず悩む というお母さんの悩み。

そうですよね。小さい時は一心に守ってやろうと我も忘れて 子供の世話をしてきて

気が付くと子供が反抗的な態度。

お母さんは悩みます。。。「なぜ?あんなに可愛くて素直だったのに?」とか思ったりして。

いろいろ、子供の欠点や足らないところが目について 心配でたまらない とか

そのままじゃいけないから 口うるさく言って改善させる とか。

そんな取り組みに四苦八苦したりして。。。

 

子育てがすっかり終わった立場から言いますと、

欠点を矯正する必要はありません。

口うるさく言うのは逆効果。

その時は従っても 子供に自我と力がついてくると覆されます。

お子さんに反抗期がやって来たら、

「ああ、よかった~~!うちの子はとても正常に成長してるわ~」と 喜んでください。

反抗期は遅くてもいずれ来ますし、来なければ外に出せなかった負のエネルギーが内側に籠って
あまりよろしいことになりません。

なので、すごく生意気な口をきいたり、反発してきたら、

「おおそうか、お前もそんな口が利けるようになったんだね。」

「じゃあ、そろそろ自分のすることに責任を持つ ということをできるということだね」と

何か責任を持つ仕事(家事もしくは自分の世話)を一つさせてあげることにしましょう。

口出しはされないけれど、結果の責任を取る ことです。

何か責任を持つ のは 大人の入口です。

最初は失敗したり できなかったりすることも多々あるでしょう。

でも、結果には責任を持つのです。

自分のことを自分で出来なくて自分が困る というのが一番いいでしょう。

人間 困らなければ成長しませんから。

それに、困らなくてしない という選択がある ということも 親が受け入れる必要があります。

しなくて困るのは親だけ な場合 子供はしません。

当然だと思いませんか?

親のために何か頑張ってくれている時は ありがとう って言いましょうね。

もし、お母さん、お父さんがそれを言えなかったら 子供さんだけにありがとうを要求してはいけません。 それは とても理不尽なこと だからです。

 

そうそう、子供は親の言う事はあまり聞きませんが、

親のする通りにします。

もし 親御さんが子供さんにどんな風にかなって欲しい理想を お持ちなら、

その理想通りに生きてみてください。

その生き方は見習われます。

本当に、そんなことまで真似しなくていいのに ってくらい

親のする通りに子供はします。

なので、もし 子供に不満を言いたくなったら、
自分がこれまで何をどんなふうにしてきたかを思い出してみてください。

自分ができないことを要求してはいけないと思いますし、
特性が違う場合 パートナーさんの特性を受け継いでいる場合もありますし、

違いを認めることができるかどうか で、

親御さん自身がお子さんにどれだけ大切に思われるか も 決まって来るのだと思います。

何が大事 なのかは 個々で違いがあるので、何が大事とか 何ができるかは問題じゃありません。

自分自身を愛し 他者を尊重したり 愛したりできるかどうかが

本当に互いを大事にし合える基本なのです。

個の価値観にとらわれていては この世界は見えません。

本当の幸せは あなたの生き方が作り出すものなのです。

見え方や物質にとらわれているうちは 表面的な悩みは尽きません。

あなた自身の 本質の愛が どこにあるか を探してみてくださいね。

見えなくなっていたら それが悩みの原因です。