ダルマ

人生何があるかわからないから面白い

いろんなタイプの人がいると思います。

私はちょっと個性的な方で、自分がやりたいと思ったことを我慢するのが苦手な子供でした。

大きくなってからもその傾向は強く、嫌なものは絶対嫌だし、やりたいことは騒ぎ立てるか隠れてでもやったりするような子でした。

でも、ちょっと小賢しいところもあり、大人にとがめられずにやりたいことをやるためにはどうしたらいいか?なんてこともよく考えてましたし、

嘘をつく時はその嘘が本当だと自分も思い込んだ方がバレにくい なんてとんでもないことを考えたりしていた記憶があります。

だけど、実際は嘘はいずれバレるし、嘘を誤魔化すための嘘をつかないといけなくなり

物凄く面倒くさいことになる という事が分かり、嘘をつくことはやめたのでした。

悪いこともやってみて初めてそれをしない方がいい理由がわかる という体験型学習 (笑)

しかし、そんなとんでもないことをやってて親を誤魔化せたのは、

うちの両親があまり子供に興味がなかったからかもしれません。

子供心にうちは放任主義なんだな と思っていました。親の監視がないので、ある意味好き放題 と言いたいところでしたが、

親の決め事だけは絶対 だったので、門限とか、あと、高校生の頃は軽音楽部に入るのを許されなかった(軽音に入ると不良になると思ってたみたい)とか

割と偏った親の価値観の縛りはありました。

でも、子供の様子に無頓着でしたので、中学生の頃、いじめにあって思いつめていたのに気づいてもらえず、担任の先生から報告があって知った時も

「もう解決したならいいです」というような反応でした。

当時、母はワンオペ育児で年の離れた幼い妹もいて大きくなった子のことまで気にしている余裕がなかったんでしょうね。

いじめ以降私が対人恐怖症になっていたのですが、何のケアもないまま時間が経ち、気が付くと15歳で摂食障害になってました。

そこから すごく偏った世界観で若い時代を過ごし、自分の病状を親に隠し、親も見て見ぬふりをして十年ほど経ち、

親に何か期待しても何も取り戻せないとわかったのが25歳。

親が子供の愛し方を知らず、自己承認を出来るようになるためには 自分で自分を育て直さないといけないのだ ということがわかったんですね、

それから、その方法を探すんです。 どう生きるべきか? 何が足らなくてこんなこと(摂食障害)になっているのか

どうしてパニックがやってくるのか? どうすれば普通に生きれるのか? どうして私は普通じゃないのか?

そう、普通じゃない と思ってた。

でも、何が普通なんだろう?

世間でうまくやっている人みたいにできていないことは確かだ。

この、まるで悪魔がついたかのような病気は、自分の意志でどうすることもできない。 私の人生は最悪に見えました。

摂食障害やその他の依存症の原因は、意識のベースに在る不安や恐怖からの逃避なんです。

その原因の方が漠然としすぎていて、恐ろしすぎて直視できないので逃げる。

もしかして、私は誰かも愛されないのではないか こんな私では。。。 という恐怖です。

条件付けされた愛で育てられると そういう風になるようです。

いい子で居れば大好き。おりこうさん よくできた子 などなど。

本当の子供の気持ちは親は興味がなかった。なにをするか 何を言うか だけしか見ていなかった。

それは、その親自身が そのように扱われた経験がない ということ。

愛情深く育てられたことがない人は愛し方がわからない。

それはけっして子供に愛情がない というわけではないんです。

子供は幸せに育てられるべきだし、守らなきゃいけないと真剣に思ってる。

でもそれがすごく形にとらわれたもので 良いであろう型にはめることが子育てだと勘違いされたんですね。

自分自身もその価値観で必死で型にハマろうと生きて来た ということ。

真面目であるがゆえに。

元凶はなんでしょうか?

無知である ということです。

これが仏教でいう 無明(むみょう)

法(この世界の法則)つまり真理を知らない ということ。

でも、真理ってなんだ? という問題も その答えを知る人がすごく少なかったのですから

責めるのも酷ですよね。

人類がありとあらゆる、残念な体験を通して

本当に幸福になれるためのヒントを探す 壮大な旅 ですよね。

この意識の進化が 本当の進化じゃないのか と 私は思うのですが、

そのために 極端にまずい例を体験してみて、真理への渇望を得て そして 見つかるんですよ。

 

今の情報化時代に 真理 宇宙の法則 は

瞬く間に求めていた人たちの元にひろがってゆくのです

苦しむ者は幸いです というのはキリスト教の言葉でしょうか

今 人生に行き詰っている人はターニングポイントです。

そして新たな価値観、いいえ、価値観にとらわれない世界観で生きて良いのです。

自分の求める生き方をしていい。誰かの意見に惑わされなくてもいいのです。

私達自身が 基準を 形のない「愛」に置けば、すべては癒されていきます。

一人一人形は違うけど あるがままで許し合える世界

それが天国の生き方なのです。だれも、非難せず、非難されず。

傷は癒すもの。手当するもの。

命を養い慈しむ。

誰もがあるがままで尊いのです。

怖れを手放して この世界を信頼したなら、不安は消える。

死すらも恐れる対象にはならなくなります。

人生は長ければ良いというものでもなく

あなたが何を体験したかが大事。

その体験を止める必要はないのです。

どんな体験も最終的にあなたに愛を教えるでしょう。

本当はこの世界に愛されているということを知ります。

命を持って生まれてきたことが祝福なのですから。

誰よりも自らが自分を愛してください。尊い命として。

そして、人を助けた時、またあなたも助けられ

あなたが人を愛した時、あなたも人から愛される。

あなたを愛するのは(他者に姿を変えた)あなたなのです。

あなたが本気で信じる世界が あなたの前に展開します。

美しい地球  美しい日本

あなたは日本の美しさを知っていますか?

あなたは愛の美しさを知っていますか?

あなたはあなたの中の愛を知っていますか?

災害の話題から

近年、大きな自然災害が増えていますね。

激動の時代に突入した と言われてしばらく経ちます。今をピークに前後50年、トータルで100年で世界の意識が入れ替わる と瞑想マスターが言っていました。

今はそのピーク、ありとあらゆる試練に人類は揺さぶられます。

人間自ら愚かなことを引き起こしたり、社会システムが崩壊したり、善良に生きてきてつもりなのに自然災害に見舞われたり。。。

自然災害が起きると被災者の方々は大変困ります。なぜこんな目に合わないといけないのか、

なぜ自分が被災者なのか

大事な人が亡くなったり、家を失ったり、人生が絶望的に感じられたりされる事と思います。

なぜ、神様は私たちをこんな目に遭わすのか 恨めしく思うこともあるでしょう

人生の中の予想外の大変な事。

それは私たちの意識を揺さぶって変容させるきっかけとして与えられます。被災者の方々だけに与えられた試練ではなく、そのことを見聞きする人々まで

それは試練なのです。多くの人々をきづかせるために起きる揺さぶり。

大切なものは失ってみて初めて気付くもの。 依存しているモノが引き剥がされたり、この世は何がおきるかわからないものであること

与えられたものは永遠ではないこと 自分の無力さや、自分たちの無力さ、

逆に、危機的状況における愛の発動。純粋な愛が発揮される機会

助け合うことで実現する 天国式の関わり(与え合いサポートしあうこと)

私たちの力というのは1人だけでするものではない ということ

奪い合うよりも与え合うことで世界は変わる事 地獄とは 天国とは

そんなありとあらゆる諸々の要素が、日常の均衡を破って、目の前に現れる。

エゴはどう動くか、愛はどう動くか あなたはどちらを選びたいのか。

ささいなことにこだわっていたことが いかにどうでもよかったか。

本当に大事なのは命があり愛があること

エゴが吹き飛び、むき身の純粋な愛が現れる瞬間だ。

これまでこだわったつまらないことが吹き飛んでエゴが消えてしまった人。

その生きざまを見る人、揺さぶられる人

悲しみを越えて生きる輝き、

そんな過酷な条件を誰かが代表して体験するのが被災なのです。

少々の事では人間はエゴを捨てない。神様側は小出しに出して試しているようなのですが、

一度に多くを目覚めさせるにはかなりのショック療法が必要らしい。

できれば私たちは早めに気付いて、犠牲は少なくすませたいものです。

関西に住んでいる時は「愛でおまんまが食えるか」なんて言葉を聞きましたが

ここ九州では愛が命を養うのは割と普通な事のように思える。

関西でも愛ある人はいたはず。

私が人を信じていなかったからそういう人ばかりが目に映ったのかもしれない。

この世界は あなたの信じるように動きます。

不信感を持てば、信じられない例を沢山見るし、

信頼すれば 私たちは護られる。

私がどのくらい人を守るかで私がどのくらい守られるかが決まる。

ある意味、そこにいる困った人は あなた自身でもあるのだ。

こんな人が助けられる社会は私が困った時も同じように助けてくる人がいる

あなたがしたことをされる というのはそういう法則で

あなたが他者に何かをする時、あなた自身ならどれほどの思いやりが欲しいのか

迷惑なほど欲しいのか、冷たくされるのか、甘やかされたいのか

人任せで何も自分ではできなくなりたいのか、

怖がっている時、勇気づけられたいのか

イライラして当たり散らされたいのか

失言を重く受け止めて凹まれたいのか

いつまでも傷付いたことを引きずり続けてほしいのか 

 

笑顔と、遠慮と、怒りと、無視と、

あなたはどれが欲しいのか

 

そしてあなたはどれを与えるのか  

自分自身のエゴのすることと、エゴを持った人間をどう許していくのか

 

全ての事象があなたに問いかけているのです。

 

真実は、 あなたも他の人も、 愛で生かされています。

そしてそれぞれの私やあなた自身が愛の源なのです。

そこを発見した時、自分が何を選択したかったのか 何を実践したかったのか

はっきりとわかるようになります。

あなたが出来る方法で 愛で居ればいいのです。他の誰かと同じでなくていい。

ドクダミの花

嫌われがちなこの草の花がどんなに純白で美しいかを 私は知っています。

この植物がどれほど人々を助けて来たことでしょうか。

どんなに良いものでも嫌う人はいます。

それもこれもそっとしておきましょう。問題は、あなたがどう思うかだけです。

あるがまま

久々の投稿です

メッセージは時折降りて参りますが、その時に言葉を引き出さないと泡のようにふんわり消えて世界に溶け込みます。

今日は思うところあって久しぶりに文章にしてみました。

 

この世界は いろんな現われがあります。

その中で生きている私達人間、また それ以外の幾千万の生命体

幾千万じゃ利かないですね(笑) 何千兆?何京?
数えきれないほどの生命体が現れ、そして消える。
息をするように現れては消える・・・
たとえ数を数えられたとしても、その数はその一瞬の数でしかなく、

すごいスピードで数も変わり続けます。

私たちの身体の細胞が代謝するように 地球全体の命の数は代謝し続けます。

変化は早いものもあれば遅いものもあり、変化の少ない無機物からすごいスピードで変化する有機物。

科学的認識ですらもまた とてもファンタジー(幻想的)だと思いませんか?

この地球、この宇宙はなんとダイナミックで神秘的 そしてファンタジックなものでしょうか。

こんなイメージを巡らしていると、まるでSF映画の中にでも入り込んだような気分になりますが、それらは常に私たちの身の上、そして
この世界に起きている事でもあります。
私たちはそのごく一部にすぎません。

私たちそれぞれの視点からは、変化は 時に早く、時に遅く、、
終ってしまえば泡が一瞬にして消えるほどの瞬間でしかありませんが、思いの中では語り尽くせないほどの長編小説のようです。

でもその過去たちは、今は消えてしまった幻想のストーリーでしかありません。

過去というのは現実にあるものではなく、記憶にプリントされたストーリー。文字にもなっていないストーリー。

そして、それに対して 時々思うのですが、

人間の記憶は いかに自我に都合よく作られていくのか ということ。

自我は常に物事を自分の都合に合わせて脚色してストーリーを紡ぎ出して行きます。特にあれやこれやの考え事が多いタイプの方、(私もそのタイプでした)

居心地の悪い出来事が起きると、思考がフル回転してこの出来事を座りの良い解釈を探し求めてずっと答え捜しをします。

なぜそのようなことをしなければならなかったのか
それは仕方がなかったことだという理由を。
そして、自分を守るためにそれを他者に語り出す。

私はあんなこんな体験をしたんです・・・

どうです、酷いでしょう?私は頑張ったのに悪くないのに

いや、ちょっと悪かったかもだけど、それも仕方がないことなのよ、ねぇわかって頂戴。

だってあんなことがあったのだから・・・わかってほしい

私をダメだと言わないで

なんてことが自分の中で起きる。
それは言葉になっていたりいなかったり。

分かってくれない人は自分の味方ではない と感じたり。

味方(理解してくれる人、愛してくれる人)かどうかを一生懸命見極めようと目を皿のようにして世界を見張る。

というようなことは、ご自分を愛することが出来ていない時によく起こります。
上記のようなパターンはちょっとばかりこじれた例かもですね。
これは、自分自身がありのままではダメだ という前提でそういう思考が起きます。

生きるための理由や価値が必要になる。(それが無いと思っているので)
多くの方々がわたしはそこまでこじれてない なんて思たりもするのですが
それも自我のポジショニングの一つだったりしますね。

自我(思考)はいつも一生懸命です
私はそんなにおかしくない と思いたい。
これはほとんどの自我がそう思うようにできておりますので
普通に起きます。ある意味 正常な自我。

ただ、その思いというのは、真実とは別のものなのです。

自我が薄い、あるいは自我にとらわれていない方はそういう思考は起きないかもしれません。

あるがままで良ければ、意味を探す必要は生じません。

意味が必要になるのは、「意味が必要」という考えを採用してしまっている場合にそう思います。(ここは意外と無自覚)

 

真実はただ起きたそのままのこと。

命はただ現れて経験します。

それには良いも悪いも無く、ただそれは起きるのです。

色んな要因が揃ってただ現象が起きる。

満たされて調和することも 摩擦が起きて荒れることも

ただの現象に過ぎません。

私たちは生き物ですので 刺激に対して反応します。

摩擦が多ければそこは居心地が悪い。ジタバタともがいたりもします。

しかしながら、
エネルギーが余り過ぎている者にとっては
エネルギーが消費されない状況は、試練よりも辛い退屈となります。
若い生命エネルギーは溢れますので、外に出さないと内圧がストレスになります。

丁度いい出来事とは エネルギーに見合った環境です。

発散できる場が必要です。経験する必要があります。試練を乗り越えてこその気付きと充実感です。

このことに気付いていれば、皆、好きなことに取り組んで体験し発散(解放)し、順調に成長しますが、

人間のマインドは閉じ込めること(封印する、行動を禁じる)のが大好きです。それらは危険回避のために行われます。

抑圧から解放へ変えることは、意識的に作り出すことが可能ですし、

自分に丁度いいエネルギー量の磁場へ移動する という選択肢もあります。

でも、丁度いい場所が見当たらない場合、また無意識に居心地の悪い磁場を創り出してしまっている場合(どこに行っても摩擦を発生させてしまう場合)が困るところですね。

自我の意識が宇宙の法則を理解していない場合、思い通りにならないことにとても苛立ちます。
自分の摩擦は周囲へと伝染しますし。

そして自分がそれを創り出している ということを見つけるまで
その試練は続きます。

この課題は、世界観を変えなければ解決しないので、答えを出すには時間がかかると思います。

分かりやすく言えば「悟ればわかるよ」なのですが、

今までの価値観の範囲では悟りは見えません。
それはこれまでの価値観の枠の外にあるからです。

こういったお話を常々お伝えしたいのですが、話が抽象的すぎてなかなか伝わりません。(笑)

言葉だけでは枠は超えられないのです。

この答えを出すには、瞑想をして、そして体験を通して学んでください。
枠を外すことを学ぶ というのは妙な感じかもですが、かかったロックを外すような作業ですので、智恵の輪みたいなものかなぁ。頭で理解するのが難しい。

ワークやセッションも紐解くきっかけになりますので

いろんな方法をチャレンジしてくださいね。
もちろん、瞑想習慣は必須です。

なぜなら、こびりついたカルマは瞑想無しにはなかなか綺麗に取れていかないものだからです。

私は大勢の方に話をするのはあまり得意ではありませんが、対話形式の方が伝わりやすいという実感を持っております。

ご興味がある方、謎解きをしたい方は瞑想セッションをお申込みください。

また、思考のもつれを解くのは1日瞑想会は大変有効です。

まだまだ いろんな出来事に揉まれているかもしれませんが、

それらはしっかり味わってください。どんな体験にも役目がありますしそれらは必要な体験なのです。

そして、全ての体験の中で、ただ
ご自身の命を感じてみて欲しいのです。(それができると理解は早いです)

あなたは それ以上でも以下でもありません。
ただ輝く尊い命そのものであり、この命を取りまくこの世界そのものが
あなたそのものなのです。

これまで その体験を選んでこの世に降りて来た。

そしてこの世界で愛を見つけるために生まれてきたのです。

何度も生れ変って何度でもチャレンジしているのです。

とてもスパンの長い課題であり、またある日突然終わることもできる課題です。そのために体験を重ねています。

体験は何を選んでもよいのです。
変えたければ選択方法を変えてみてくださいね。
フィーリングで幸せや愛や光を感じる方向へ進めばよいのです。

失敗はありません。全て必要な体験なのです。

自分が何を選ぶのかも見えて来るでしょう。

 

謎解きしたい方、自分を知りたい方 は、
瞑想セッションを お問合せフォームからお申込みください。

人間という奇跡

私たち人間はこの世界を謳歌してきました。

色んな夢を膨らませ、いろんな功績を積み上げ、

色んなものを得たり、失ったり、

そしていろんな感情を味わって生きています。

この変化こそが人生の旅路です。

善きにつけ悪しきにつけ、それらの変化は 人生の彩りです。

もし 今、

あなたが、あなたの人生を気に入ってなかったとして、

何でこんな風なんだろうとか、

自分に与えられたのはなぜこんなものなのか?

と 思う方もあるかもしれません。

それは、

ありとあらゆるバリエーションの中から、あなたの魂が選んだ環境やご縁でした。

自分が選んだ記憶などはありません。
ですが、あなたの魂はそこに生まれてくることを承諾したみたいです。

え~、こんなのなんて知らなかったよう!ひどすぎる!

って思ったとしても、 たぶん、

「うん、それでいい」って言っちゃったんでしょうね (;´∀`)

何度も生れ変る輪廻の体験の一つです。

ここで、何かを掴んで帰るもよし、

まぁ、無駄な時間だったかもな なんてこともあるかもですが、、、

いえいえ、決して無駄なものなどないんです。

だって、それは貴重なデータの一つなのですから。

薬品開発のエビデンスも大いに越したことは無いですし。

魂の記憶のバリエーションも検証するデータが多ければ多いほど

正確な結論が出せるというもの。

そしてまた、すごく貴重な 例外を体験するのもまた

大変興味深いことなのです。

どんな人生も貴重な体験です。

そこで学ぼうと思えばいくらでも 愛 を学べます。

だってここには多くの人間や生き物が生きている世界で、

あなたが愛を渡したり、受け取ったり、

奪ったり、奪われたり、拒否ったり、拒否られたり、 と

様々な体験ができるのです。

愛とエネルギーの法則

スピリチュアルに関心が高い方はもうご存知でしょうが

最初は、「なんだよ、そんなルール(法則性)あるなんて聞いてねーよ!」とか

やさぐれそうになっちゃうんですけど、

それが分かった時、

「ええ~、知らんで損したぁ~~」って叫びつつ

自分を使って検証するわけですが、

これがもう最高に面白くてシビア。

全ての人間、いや人間だけじゃなくて全ての存在に対して平等にはたらいてるんですよね。法則性は。

ただ、その本人がどんなエネルギーや波動を発しているかの自覚があるかないか は違いますけど。

降り立った地と、オリジナルの装備(正確とか体質とかの個性)と 自分の波動(思いや生き方)で なにがしかの作品を紡ぎ出しているわけです。

気がつけば、無意識にやってきたことも多く、

実は自分のことが一番わからない。

だけど、この世界を自分の身体を使って どう生きるかを選びだしたら

今までになかった面白い人生が展開していくのです。

 

今の時代は幸いです。

こんな面白い事が分かり始めて、それがじわじわと多くの人々に拡がって知られるようになりました。

まだ知らない、知りたい!という方はぜひ アトリエ霽月にご連絡ください。

この新しい世界観に必要なのは内側のお掃除です。

多くのものを抱え込んでいる状態では 新しい贈り物を受け取ることができないですから

頭の中に一杯になった未消化の感情を浄化するためにELM瞑想がとてもお薦めなのです。

瞑想を始めているけど まだわからない という方は 荷下ろしがまだ終わっていないですので そういう場合にも瞑想教師との対話をお薦めいたします。

人生の行き詰まりを感じたら、チャンスです
新しい世界へ進む扉の前に立っています。

あなたからのご連絡をお待ちしております。

瞑想伝授、瞑想セッション、カウンセリングのご用命は

お問合せフォームからご連絡ください。
お急ぎの場合はお電話でご連絡くださいませ。
電話に出られない場合はお問合せの旨留守電メッセージをお残しください。手が空き次第コールバックいたします。

アトリエ霽月 戸村寿子

愛の波動

人を動かしたり変えたりする原動力は

怖れ か 愛 のどちらかです。

カルマ か 愛 か

この 愛 は 恋愛や執着を含まない エターナルラブ 永遠の神の愛 のことです

人間の本質にある 優しさや慈悲の心で それは見返りを期待する意識はありません。

日本人はこの愛「困っている人があれば助ける」という意識を持った人が多いので

全世界から賞賛されることも多いようです。

日本の文化は素敵です。

でも、エゴはあらゆる隙間に入って来ては
意識に我を混ぜ込んでしまいます
これは肉体を持つ生き物の防衛反応なので仕方がないのですが、
エゴの意識は 全体を見渡す余裕が無い ということと
愛ではない波動(怖れ)を持ち込み始めるので せっかくの愛の波動を下げてしまうのです。

愛でないものは摩擦を生みます。
摩擦が生じた時に、愛はその摩擦を溶かしますが、
愛でないネガティブな波動は 火に油を注ぎます。

なので、事が起きた時は特に 波動を愛に戻す ということが必要なのです。

他者のエゴが あなたの何かを奪ったとしても、
あなたは愛でいたほうがいいのです。

あなたの持つ波動は あなたに次の豊かさをもたらします。
物質的豊かさとは限りません。
あなたが満たされる状態になっていくのです。

そういうことを説いている宗教や宗派は多いので 
それで救われる人々も沢山おられるでしょう。

ただ、人間の心には隙間に染み込むエゴと潜んでいるカルマがありますので
きがつかないうちに怖れを元にした考えが発生してしまいます。

危険なものは回避すべきですが、行動のベースが怖れになっているなら
あなたは 愛を忘れているかもしれません。

宗教は、真理を教えとしているものも多く、それを手掛かりに幸せな生き方ができるようになることも多いです。
何か心強いよりどころを感じて安心することによって、怖れから離れ、波動が上がります。
でも 宗教 という仕組みに問題があって、
教えを理解する前に、戒律という形にとらわれ、怖れてしまうことや
それで他者を裁き始めることなのです。
それをせずに 愛がベースで快く戒律を守って暮らすことには何の問題もありません。
(怖れを煽って信者を集めている宗教はこの限りではありません)

波動を愛にする ということがどういうことか を理解した時
多くの宗教が 真理を見ている ということに気付きます。

教えや戒律の表現はそれぞれに違っていたり、時には何かにとらわれたものもあるかもしれません。
摩擦を回避することに熱心になりすぎて 人間の本質を忌避したり、悪を生み出したりすることもあります。
でもそれは怖れに他なりません。

大事なのは 愛 に戻ることです。

そうしなければならない のではなく、そうした方が幸せに生きられるからです。

目先の問題ではありません。

おうちの中や家の周りを掃除するのと同じです。

綺麗な場所で気持ちよく暮らす 

(笑) 片づけられなくても 愛に満ちた波動ならば
それはそれでいいですよ。

笑顔のある生活を。

本質に気付く

10月も後半に入り、ずいぶん涼しくなってきましたね。
そりゃあそうだ と思いながらも
毎年今日は暑い、今日は寒いと言いながら
季節が」変わっていきます。
1年が早く感じるのは歳のせいでしょうか(笑)
ホントに早いです。個展まであと5ヶ月ほどしかない!ヤバいです。

御多分に漏れず、お尻に火がついて焦る性分は直らないというか進行してます(苦笑)
そんなこんな 普通の人間の生活。焦っても仕方がない。
できるようにやろう。というところにいつも落ち着きます。

さて、話は変わりますが
皆さんは 宗教に対してどんなイメージをお持ちですか?

私は30代くらいから仏教に興味があったので、
いくつかの仏教系の宗教団体とかお寺にお説法を聞きに行ったりした時期がありました。
今は行ってないです。お説法はYouTubeで聴けますからね。

36歳の時に福岡に引っ越してきて、ママ友さんからスピリチュアルを教えてもらってからは
特定の宗教団体に入ろうとは思わなくなりました。でも『真理』というものはあるんです。

神 とか 仏 という意識の存在もあると思います。
私にはその声は言葉では聴こえないのですが、
意思や感情は分かる気がします。
なんで神仏がいると思ったのか というと、

それらの意思表示を示してくる時があります。
これはどうしても それ としか思いようが無いだろう!というほど、
はっきりしたものを示してくることがあるんです。

でも、そういうものに気付く ということをしなければ見逃したり、
気のせいだ と思ってしまうものなのでしょう。
流れの方向性や法則を知らないうちもそれは見分けがつかないかもしれません。

ただ、私達人間の在りように合わせて、それに意思表示してきます。
そして、それを感じ取る私達自身のことをハイヤーセルフ と呼びます。

私たちの内側にハイヤーセルフの声を聴く

この世界の動きを見てユニバースの意思を読み取る

そして、ハイヤーセルフやユニバースの喜ぶように生きれば
神仏も私達自身も幸福を感じて生きることができます。

でも、身体の方のシステムの方が強いんですよね。
危険回避のシステム、未知のものを恐れるシステムです。

知らないものが怖い というのは それは敵かもしれない という怖れなのですが
その時に、それが味方や守護だ という可能性は切り捨てちゃうんですよね。

危ないいからチャレンジしない というやり方です。

私の個人的な体験では 未知のものが怖い と思っていた時期は、生きることそのものが恐ろしかったです。

私は不幸になるかもしれない とか、まだやったことも無い事をうまくやれる気がしなかった。

それをやってみたこともないくせに なにもせずに 最初からうまくやろうと思っていたのでしょうかねぇ?
笑っちゃいますよね。当時のプライドはすごく思いあがっていたのかも? 
あるいは ちゃんとできないと愛してもらえない と思っていた とか。

で、まだやってみたことがないことは 最初は上手に出来ないものですよねぇ。普通は。
それを最初からうまくできないと投げ出したら もう何にも出来るようになんてならないですよね(笑)
頑張って褒めてくれる人がいてくれないと成り立たない。
周りの大人に恵まれなかった人は苦労します。
スタートがマイナスだもんね。(^_^;)

でも、やってて楽しい事はそんな評価とか割とどうでもよく何度もやって気が付いたらちょっと人より上手になっていて
また気分良くなってますます上達していきますよね。

だから好きな事をした方がいいんです。

でも、そのことに興味が無い他人は、それを評価しません。

興味が無いんですから 当然です。みんな、興味の対象は違うんです。

なので あなたの好きな事をしてください。 とことん。

そうすると 自分のしていることを楽しめて ハッピーになって他人にも笑顔を見せたり
親切にしたりするようになるんです。
身内に脚を引っ張る人がいる場合は苦労するかもしれません。
その人は たぶん、育っていく過程で 自分が否定されたんだと思います。

その戦いが 敵がいなくなっても続いてしまうのでしょうね。
自分が否定されたくないために他人を否定する という、
誤った方法を取ってしまっているのです。

だから否定しないであげてください。

もちろん、自分も否定しなくていいんですよ。

誰も間違ってはいないのです。一生懸命生きただけ。

そういうことがわかって、あなたが大きな愛に気付くと
世界はあなたを祝福し始めます。

それはやがてリアルな体験をすることになります。

そういうものが 真理として宗教が立ち上がるのですが、
どういうわけか 教えを語り継ぐ間に、本質の愛の意識が空洞化してしまうようです。

それが形骸化した宗教です。

あなたは本質を知るだけで 真理を体験します。

この世界は愛でできていますので、
人間の怖れや我欲、恨み を手放してしまえば
愛しか残りません

何が愛で 何が愛でないのかを 私たちは学んでます。

宗教の教えは 縛るものではありません。

それを頼りに愛を見つけていくためのものなのです。

縛り始め当た時、本質を見失います。

体験を通じて 人間の我と愛を見極めていくのです。
あなたは 愛を体験してください。

愛を選べばよいのです。

物理法則とスピリチュアル

スピリチュアルって以前は非科学的なものとして扱われていましたよね。
超常現象 って表現されたり。

でも、知れば知るほど、物理法則どおり。
今は物理学的にも意識の波動とか証明されちゃったので
いろんなところでいろんな人が引き寄せの法則とか意識が現実化することを発信していますね。

面白い時代になったものだと つくづく感じます。

ちょっと考えてみると、昔(ちょっと前まで)は
自分たちが知らない物理法則は 超常現象 って言ってたのか・・・ 
非科学的とか迷信 なんて言い方もあるけど。

その昔、地球が平らなお盆のようなものだと思われていた時に
地球は丸い!と言った人を「頭がおかしい」って周りのみんなが言ってたのと同じ。
当たり前 ってのは「正解」とは限らないのですよね。

面白いですよね。

人間ってどれだけ自分を賢いと思いたいのか? って笑っちゃいますよね。

正義を振りかざす っていうのも同じですよね。

主人に滅私奉公したり、君主に忠義を誓うのがカッコイイ生き方だと思っている人、現代はもういませんしね。
いるのかな? いないと思うけど。

あ、いや、いるかも。
社畜と呼ばれるみなさん、滅私奉公しちゃってる。
でもこれは 主人にじゃなくて、給料に滅私奉公してるんですかね。
資本主義社会 というのはそういう社会。

これは人間が幸せになれそうにないシステムみたいですね。
お金の奴隷にはならない方がいいし。

でも、お金を持っていないと生きづらい都会に人間が集まっちゃって
お金が無いと生きにくい生活を続けようと必死に労働して お金を流通させてる。

これ、「六道輪廻から抜けられないよう~」っていうのと
同じ構造じゃないかな?

お金の崇拝をやめないと経済六道輪廻から抜けられない
つまり、天国になったり地獄になったりの綱渡りが続く ってことですね。

お金と文明、お金が無くなることへの不安から
増やそうとして 無くしたり、取られたり、
なかなかに怖い六道輪廻かも。

そういう時、不安をあおる原因の一つに
病気になったらどうしよう とか 死んだらどうしよう 
路頭に迷ったらどうしよう っていうの がありますね

これ、魂は死なない ということがわかると、途端に怖くなくなっちゃうんですよ。

身体が死んだって私はいるんですもの。存在するんです。意識が。

そしてまたどこかに生まれるかもしれないし。生まれないで見てるだけをするかもしれないし。

その意識の状態が かつて戸村寿子だったことを覚えているかどうか なんてことはどうでもいい。

それはほんのひとときの経験でしかないのだから。

人生なんて本当に一時の経験でしかないです。 
というのはもう残りの方が少ない人間だからそう思うんですけど。(笑)

確実にある期限を見てそれが来るのを恐れる というのは なんか面白くないですよね。
それは、死 というのがあまりにも未知だと感じているからでしょうね。

知らないものは怖い。
だから使い勝手が悪くても知っているものの方が安心 なだけで。

資本主義社会は、それを操っている人のためのもので、
お金は単なる手段で神ではない。

道具に命をかけたり、道具のために魂を売ったりするのは
悪魔に魂を売るのと同じに思えるのだけど。

それが正しいことだと信じていたり、嫌だけどそれでしか生きられないと思い込んでしまっていたら、
かなり生きづらいだろうな と 思うのです。

この世界の人間が作ったシステムだけを見るのではなくて、

もう少し元からある自然の流れや意識の持つ力のことを知って
この世界を生きやすい生き方をしてみませんか? と私は大きな声で言いたいのです。

で、それが知れ渡るのが次世代の人間の生き方。

新しい時代の到来なのです。

宗教性と科学は融合するでしょうね。
誤った宗教性も淘汰されるんじゃないかな と 思っています。

でも、人間は間違ってみないとわからないので、
どれもが必要なプロセスなんでしょうね。

妄信は危ういです。「間違った考え」という表現は微妙なんですけど、
妄信って何世代にも渡って引き継がれちゃうものですしね、
気が付いたら幸せになれないものにしがみついてる。

何が違うのか というと、
摩擦を起こす行動は生きづらく、摩擦を手放すとスムーズ。
(だけど慣れない生き方は怖いみたい)

そもそも、なぜわざわざ生きづらい生き方を選んで来たか ですが、
人間はスムーズだけだと刺激が足らなくて退屈するみたいで
欲にかられたりして いろんな摩擦に飛び込むんですよね。
たぶん、今生で魂がそれをやりたかった ってことみたいですが、
それが嫌になったら、止めていいんですよね、本当は。
(だけど、慣れない生き方は怖いみたい)

いつだって 本当は選択は自由。

ただ、集団の妄信は沢山犠牲を出すので
早めに大勢が目覚めて欲しいなぁと思うのでした。

戦争なんてのも集団自殺みたいなものです。

まだ寿命でもない生きているものを殺すのは本当に大きなエネルギーが要る。

そんなところにエネルギーを使わないで
分け合って多くの命を育むことに使って欲しいですよね。ほんとに。。

現代人のテーマも同じです。

分け合って多くの命を育む というのは

自分の命も守られる ということです。

私がするから 私もされる。 それしかないのです。 エネルギーだから。

愛の波動はピンク色 だそうです。
ピンク色の中で喧嘩しにくいですよね(笑)

あ、これは桃色かなぁ(笑) 概ねピーチのペールピンク🍑
個人的にはこのピンクが好きだけど
ボブさんはマジェンダのピンクって言ってたので

👇こっちですね

これでも少々 私の好みに寄せてます(笑) 色ね。

新しいステージ

今、起きている変化や苦境は

これまでの古い生き方や古いシステムの終焉です

これまで積み上げてきた常識やシステムが崩れる時

それに慣れ親しんだ意識は慌てるでしょう。

見知らぬ新しさなどは まだどんなものか分からないわけですから
不安を感じる人も少なくありません。

でも、この世界は刻々と変化しつづけるのです。

積み木も一つ一つ積み上げて、随分と積みあがって来たら
上の方を支えきれなくなって崩壊する時があります。

たとえ接着剤で固めていたとしても、
頭でっかちになれば頭の重さに耐えきれなくなってひっくり返ってしまいますし、
樹木のように生きているものも 巨樹、古木になっていくと共に
古い部分が朽ちて崩れ落ちてしまう時が来るのです。

この世界のものは不変のものはありません。

旧体制が終わる時、 それは新しい世界の始まりです。

古いやり方の悪しき部分はいつしか不必要になっていくでしょう。

私は高度な文明というのは、
「宇宙人アミ」の世界だと思います。

自分たちの世界が安定して生きやすい世界を作れることが
文明の進化の目指しているものだと思います。

目先の欲望に飲まれて罪を犯すことが身を亡ぼすことだと
気付ける理解力をもつこと。

自分たちの住む場所を安全でクリーンにしておくという事がどういうことなのか?

幸せと言うのはどうやって作り出すのか?

本当の豊かさに気付けること。

これには知能と広い視野が必要です。

沢山のとらわれがあり、狭い視野でしか物事を見られないうちは、
真理は見えません。

世界はそれらのとらわれを外そうと、我々人間を揺さぶっていきます。

また若い意識は、旧体制の生き方を見て学ぶのです。
反面教師も教師です。

とらわれは外れます。

それが必要ないものだと理解した時

そのとらわれは持ち続ける必要はなくなります。

それに気付くための変化はいずれやってきます。

 

お金の奴隷になることを止め、

プライドにとらわれることを終了し、

戦う虚しさに気付きます。

 

私たちが古い感情を出し切ってカルマが内側から消えた時、

私たちはもう無駄な苦しみを背負う必要がなくなるのです。

カルマがなくなった今は、あった時の感情はもうありません。

それは最初からなかったのと同じレベルです。

カルマは実体の無い幻想のようなものです。

ただ、衣服の上についたホコリのようなもので、払えば落ちてしまうようなものなのです。それはあなたの性格でも何でもありません。
ただのカルマです。

手放しきってしまえばよいだけです。

芽は、大木になれるかなんて気にしていません。

ただ、伸びるだけなのです。

草も、冬に枯れることを嘆きません。

また春に発芽するからです。

私たちもやがて肉体を脱いで、また新しい命に宿ります。

命とはそういうものです。

生きている今を愛にします。

愛になればなるほど、その魂は幸福に生きられます。

罪と罰

本日のタイトル、かの文豪の歴史的文学小説のようですが
すみません、それとは関係ありません。

最近はTVはほとんど見ないのですが、ネットでニュースなどを見ます。このところは長年隠蔽されてきた罪が暴かれて問題になっている事件などがありますね

犯罪の被害者と加害者 という関係、
迷惑をかけられたものとかけたもの という関係性において
怒りや恨みの気持ちをどう取り扱えばいいか ということについて
ちょっと書いてみます。

怒りの感情は 誰にでもあります。
理不尽な怒りならいざ知らず、当然の怒りも起こります
怒りに良い悪いは本当は無いのですが、正当に思える怒りは
復讐してもいい、あるいは賠償してもらっていい という認識があったりします。法律で決められていることもありますしね。

昔の時代と違って、武士はそれ以下の民が気にくわなかったら切り殺していい なんて法律はもうなくなりましたけど、
それを思うと、法律の正しさなんてわからないものだ ということは理解できるでしょう。

魂とか神レベルでのお話をします。

私は神ではありませんので断定はしませんが、
この世界の道理 としての法則 でこういうのもある ということなので理解して損にはならないでしょう。

今 理不尽に迷惑をかけられている関係がある時、

それは前世での関係が起因しているそうです。
それは、

迷惑をかけられている場合は、前世に自分がその人に同じ迷惑をかけていたことの報い だそうで、
今生で迷惑をかけられていることで前世の自分の罪が帳消しになる
そうなのです。

自分のカルマを解消するために、今人に与えたものを受け取って±0に戻している。 ということらしい。

そんな、、前世のことなんて覚えてない~っ!

と思うのは当然なんですが、覚えてなければそれが無くなるということにはならないので、どうとらえたとしても起きることは起きるのです。
ほんと、そういうのは科学的に確かめようがないですしね。
前世自体もほんとうにあるかどうかわからない と言ってしまえばおしまいですが、この世界はそういうものらしい。

そういうと、魂自体、個別にずっと存続するわけじゃないので

私と言う個人は、神に戻り、また神の一部としてこの世に戻って来る仕組みから考えると、

人類が為した罪を人類である子孫は負う ということになりますね。

この世に罪がある限り、子孫たちはそれを癒すしかない。

なので仕返しをするのは 罪や遺恨を終わらせない方法でしかないので、

私たちに戻って来る罰は終わらないわけです。

でも、個々が担当するカルマの解放は、
今生持ってきて担当する分だけの苦しみを体験して解放してしまえば、とりあえず自分のカルマは終わる そうですし、

他者の解放や癒しを手伝うと、光貯金が増えてカルマはどんどん昇華されますし、親族や先祖の分まで問題やしこりを解決していくと、

自分個人だけでなく所属するコミュニティの範囲までの私たちをどんどん浄化していくことになります。

あなたがいる環境を浄化していく ということはそういうことなんですね。

物質的にお掃除するのと同じように
エネルギー的に浄化していく これをする人としない人の人生が違うのは当然です。

自分の環境がよろしくない というのは
これまでの先祖が行いを怠ってきた とか 罪を重ねてきた
ということで、この因果応報は子孫に請け負わされるのですが、
魂はその学びの系列に再び生まれ変わる という性質があって
自分が自分の子孫の系列に再生する なら、それはやはり自分の罪を今生で浄化していくことに他なりません。

なので、嫌なことがあったら、これまでの身に覚えのある罪もない罪もがここで終わりにしてもらえるということなので

それ以上に人に痛みを与えたり罰をあたえたりする必要が無い。

罪を犯した人や他者に痛みを与えた人はその人の人生においていずれその応報を受け取ることになるので放っておけば流れに任せておけばいい ということなのです。

もちろん、出たがるものは出して構いません。それも流れです。
嫌なものは嫌と言います。降りかかる火の粉は払います。
怒ってもいいし言いたいことを言ってもいい。

そうして過ぎていく時の中で

いつまでも恨みを持続する必要は無いし
あなた自身はあなた自身を癒して心安らかに生きるだけですべてが健やかに巡っていくのです。

あなたが好きな気持のよい風景と空を眺めましょう。

距離感

みなさん、毎日ご機嫌よく過ごされていますか?

「はい!」と言える方、素晴らしいです。もうそのスタンスでずっと行ってください。(≧∇≦)b

そう簡単に「はい」とは言えない方、あなたは標準的な日本人です。人付き合い って、楽しいこともあれば、疲れることもありますよね。

気が付くと、自分はとても気を使っているのになんだか悩ましい事ばかり なんてこともあるでしょう。

それはすごく普通な感覚です。でも いくら普通でも心地よくないことは終わらせていきたいものです。

この世界は 私たちの理想通りではありません。
他人の求めるものは、自分の求めるものとは同じでもありません。

単に好みの違いでも意見は相違しますし、
利害が対立することだってある。
自分の動きが他人に影響を及ぼすこともあれば、他人の行動の余波が自分に被って来ることもある。

そんな事象にイライラしていますと、

キリがありません。

私たちは外側の余波を受けながらそれを上手にかわしながら生きるように出来ているのです。

波に揉まれるより波乗りになって波を楽しみましょう。

正面から波を受けて 戦っては負けます。すごい圧ですからね

それはミリの差でかわすだけで受けずに済みます。

スルー。

それだけでも随分と摩擦は減ります。

お仕事関係は波というよりは雨みたいなものでしょうか。

あるいは洪水の水。溜まって来た水は外に出さないと溺れちゃう

もうダメ~処理できない!となると、自分の力の問題ではなくなってくるし、洪水対策してもらえない時は 引っ越しするしかない。

そうだ、丘へ逃げましょう。

生きられるように生きる というのは 自分の知っている範囲だけでしか生きていけないわけじゃない。

もしかして、あまりにも狭い世界で生きていたんじゃないか ということに気付いてもいいかもしれないんです。

自分がいる世界を狭く囲い込んでいるのは他ならぬ自分自身ですから、どんな生き方ができるのか いろんな経験談を聴いたり読んだりしてみてくださいね。

私は九州に住んでからは、自然と近い生き方に憧れています。

今の所まだ都市部に住んでおりますが、自然が近いのでその恩恵を沢山受けることができています。

これからの時代、若い意識はもっともっと自然と共存できる社会に移行していくのではないか と感じます。

都市部の反映は最盛期を過ぎ、空洞化していきます

この社会という生き物の生命を思うと、生まれ変わりの時期は遠くないという事がわかります。旧体制の意識の終わりです。
価値観が変わります。

なので、あなたの無意識の価値観も 時代遅れになっていくかもしれないのです。

ルールにとらわれず、今この瞬間に 愛があるのかないのかを見極めてください。愛ある決断は癒しが起き、世界を調和させます