意識

時間

時間が過ぎるのが早い とケアマネさんが言いました。
お忙しいんだろうなぁ。

私は忙しいけど、あまり急げなくなっていたりします。
相変わらずのマイペースです。

以前は同時にいくつもの用事を片付けていましたが、今はそれをするとミスをするので
一つづつすることにしています。歳のせいもあるかも。
欲張らない生き方、 というとカッコイイですが、
単に遅いだけだったりするので
あれやこれやと取り落としたりします。

迷惑をかけるといけないので、人様が絡んでいることは優先的。約束は守るのが基本。
自分で期限を決めたものとかは まぁいいや・・・と遅れていったりします。

それをやってもやらなくても そんなに変わらない、大したもんだいじゃない などと思います。

どうしてもやりたかったこと などは ほんとうにそうだったら、最優先にして先にしますが、
それ以外のことは、それほど重要じゃないんだと思います。

こだわりとかプライドとか、そんなものは 本当に個人的なことで、そのことで満足するのは私の自我だけなのでそれは
世界にとってはどうでもいいことだったりします。

ああ、自我か と思うと 割とどうでもよく思えたりします。

ただ、ほんとうにやりたいことは、その場で始めるので

タイミングとか流れも関係あるかもです。

すぐに出来ずにストレスを抱える ということはあまりありません。
だって、流れがそうならないなら、それは運命とか宿命ではないから、また機会がくればすればいいし、そうでなければ、どうでもいいことなのでしょう。

その昔、思ったことがあります。

出来ない出来ないと言っている人は 本当はする気がないんじゃないか と。。。。

ある友人がお母さんが邪魔して自由に出来ないといつもこぼしていました。
家を出た方がいいんじゃない? まわりの友人たちは皆 そう言いますが、その人は出ませんでした。
15年くらいそのままで、ついにお母さんはご病気で亡くなられたのですが、その人の生活は変わりませんでした。
「ああ、出て行きたくなかったのか。」ということがわかりました。

友人が長年取組んでいたの趣味も活動量が増えるわけでもなく、
新しい道が示された時もそちらに行くことはありませんでした。

自由に動かないことを 何かのせいにしていると楽なのかもしれません。

したくないならしなくていいのです。
どうして言い訳をしたくなるのでしょうか?

それはプライドのせいだと思います。
もしくは自分が決めた価値基準に自分で追い詰められて
何か、それが出来ない正当な理由が必要なのでしょう。

そんなもの、本当は要らないのに。

だって、他人にとってはどうでもいいことなんですもの。

皆がそれぞれ、したいようにすればいいじゃないですかねぇ。

何か価値のある者になりたい と思っているのかもしれませんが、
その価値だって 時代が変われば変わる。

自由に生きる幸福を掴んで良いと思います。

人間が価値観に縛られない時は、
人間も動物と同じように
その時々 したいことをしたんだと思います。

条件的に出来る出来ないは別です。
動きたいように動く ということ。

もし、理屈ではなく、感覚で動けるようになったら、
あなたは今より多くの体験をできるでしょう。

理屈があなたを縛るものではなく
あなたの望みを叶えることに力を使うようになったら

あなたは羽の生えたように生き生きと生きることができるでしょう。

どうでもいい言い訳こそがどうでもいいんです。

生きたいように生きてください。

条件を上手に使ってね。

 

感覚のアンテナを大きくするには 瞑想がとても有効です。
どうでもいい言い訳が 本当にどうでも良くなっていきます。
この効果は、二番目のニューライフマントラがとても有効です

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何かがほどけるかもしれません。

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真の平和

暑い日が続きますね。

今週はこのあと台風が九州方面に向かっているようで、大事にならないことを願います。

今年、来年は 色々と試練が多いという話題を耳にします。地震や天変地異や戦争などなど、

こういった話題は、ネガティブに人心の不安を煽りますが、私はそういう意味ではあまりネガティブには捉えません。

地震は地球上のこのエリアでは定期的に起きるものですし、天変地異も喧嘩も昔からいろんなところで起きるものなので、

それほど特別ではないように思います。

戦争は 人間が人間を殺したり苦しめたりする という、本当に愚かしい行為だな と思います。

人類の仲間割れ、同種の生き物同士がテリトリー争いをして、自然にその数を調整しているのでしょうか。

まだまだ人間の文明や文化は低いのかもしれません。

前時代の意識の大人が、愚かさを演じ反面教師になることで 子孫たちは愚かさを学ぶのでしょうか。

ここで、子孫、次世代の若者たちは 憎しみ合ったり、否定する事では平和は生まれない ということを少しずつ学んでいきます。

それが真の智恵や賢さです。

平和を望むなら、喧嘩や嫌悪をしない生き方が必要になってきます。

そう、だから人の悪口を言っている場合ではないのです。

愚かな行為を見ると、怒りは湧いてきますが、その怒りのままをぶつけることでは平和は生まれない

世界が平和であるためには、個々の心が平和である必要があるのです。

よく、権利や平和を勝ち取る という表現がありますが、

勝ち取る や 奪い取る が 憎しみや罰することに続いている限りは真の平和は手に入りません。

どんなに自分が気に入らないシチュエーションでも、相手には相手の価値観や都合がある、

まずはそのことも理解しないと本当の平和には繋げられないでしょう。

なので、本当の平和を生み出す人は、過程で戦わざるを得なくなったとしても、戦いは最小限に終わらせることを望むと思います。

そして、戦わない解決法を探すでしょう。

戦争と喧嘩は同じです。

双方の利害が反発して摩擦が起き、事が大きくなると武器を使った戦い(戦争)になるのですが、

真に智慧のある者は 戦わずにに解決する方法を探すでしょう。

他者を尊重するという生き方は、大変公平な意識だと思います。

自分だけが得をするのではなく、全体のバランスを取ることを目指します。

それが平和で 愛 なのです。

豊かさとは 愛 です 

 

浄化 瞑想の効果

過去のトラウマやフラッシュバックのある人でも それが消せる というのは
実体験で実感しております。現在はとらうまのtの音すら 片鱗も残ってはいないのです。

私の場合はまず スピリチュアルの宇宙の法則を知って生きる方向性が変わり

瞑想を始めてから フラッシュバックが消えました。
突然見舞われる言いようのない不安が 起きなくなっていったのです。

その変化を感じた最初は1か月目くらいでしょうか あれ?ちょっと気持ちが楽かもと思い始め、それから徐々に不安感は出なくなって行きました。

これがなくなったら困る というような依存はしばらく手放せずにいましたが、依存度が徐々に薄れます

瞑想でストレスが減りますので持ち堪える余裕ができるのです。

すぐには消えなくても徐々にゆるみやがて手放す流れになるので 最終的には手放すところまでいきます。

まだあるけどまあいいや。今はまだ必要なのかもね くらいに思う。

忘れた頃になくなるので気にしないのが一番効果が上がります。

最終的に決別する瞬間はちょっと怖れが出ますが、流れは浄化し続けますのでどうしても自立の方向に立たされます。それを飛び越えるのは自分自身にしかできない。

思い切って飛び越えてみると、

着地したそこに立ってみて初めて 自分が大丈夫だという事を自覚します。この時、励まし合える学びの仲間がいると尚心強い。

 

瞑想習慣がつくと浄化は進みます。自然にゆるやかに解放が始まります。

一人で通るには怖気づいてしまいそうですが、実際には全然大丈夫。

経験者が近くにいると本当に心強いものです。

やったことがないことは誰しも怖いと思うのですが、

でも、それはできないのではなく、できないと思い込んでいるだけなのです。

大事だと執着してしがみついていたものがなくなると、一瞬頭は真っ白

子供みたいに泣いたりなんだりの解放が起きれば更にラッキー、

解放が落ち着く頃、世界は静寂なことに気付きます。

そして、実際は何もおきておらず、騒ぎは自分の中だけのことだ ということに気付きます

それどころか、私を見守っている温かい目の存在にも気付いたりします。

これを失ったら と もがいて、特定のものしか見ていなかったのは 私だった。

それがあるかないかだけにこだわり、それ以外のものを完全に無視してないもののように扱っていたのは私だった。

周りに在る愛は 視野を狭め 拒絶する私をただ見守っていたにすぎません。

ただ、そっと見守って好きにさせてくれていた。

ネガティブな幻想が砕け散った後に見えたもの でした。

恐れていた幻想、理想を失う事が 無理なことだったということに今まで気づかずにいたのでした。

私は理想だけを見て、本当のことに蓋をしていたのかも。

真実をみることを拒否していたのかも。 

執着していたものが無くとも 私は普通に息をして 生きている。これは何だろう?

ふと、 なぜアレがないと生きていけないと思っていたんだろう?と不思議に思えました。

あれほど、不確かなものにどうしてしがみつこうとしたのか? 私はそこに何を見ようとしたのか?

 

いままで恐れていた すごく深い谷底!と思っていたのが、ただの段差程度の全然大したことないものだった とか、そんな感じです。

幻想が落ちる瞬間て、直前は絶叫マシンみたいなんですが、終わると、安全にスタート地点にもどってカートを降りるような普通さです。

なので、みんなそこを悟ると笑っちゃうんでしょうね。

私の場合、気になることは試してみないと気が済まないような気質もあって、

このままに留まるくらいならダメもとで死んでもいいや~!なんて極端なことを思ってしまうところもあって

実践してみましたところ、ほんとに笑っちゃう結果でした。

執着は とっとと外した方がいい!

恐怖は幻想!

問題は起きてみないと対処法はわからない。

未来は予想外の事が起きるので完全に事前準備するのは無理。

むしろ 流れに乗って 流れを楽しんで

選択の時に好きな方を選べば良い

究極の選択(どちらも試練)の時は、ハートの赴くままに進め。

基準はハッピーに生きられる方を選ぶ。

今を生きる! いまここを生きる

 

瞑想で習った数々の言葉は 面白い流れをもたらし、

予想以上のハッピーな生き方を与えてくれます。

100%の理想 ではありません。 そもそも理想にも上がらなかったもっと面白い状況が来ます。

私たちが世界を信頼して流れに任せる という事が出来れば

流れは私たちの追い風となり 必要なものを循環させます。

あなたはあるがままのあなた ハートの望むように生きてください。

理屈や形にとらわれることはありません。

なにせこの世界は壮大です。何を与えてくれるか 楽しみです。

あなたが生き生きと生きれば生きるほど 世界はそれにふさわしいものをもたらします。

今この瞬間を楽しんでみましょう。

緩むも良し、動くも良し🌸

意識の進化

赤ちゃんの時、意識はまっさらで
全てのものが初めて見るもので、
それは刺激と反応。

湧き上がる衝動のままに表現する
本人的には 何の意味もなく、意味という意味すら知らない。

ただ、記憶は蓄積して その中の法則性を肌で理解していく

その頃にいろんな上(先祖)からのカルマのシャワーを浴びたり、浴びずに済んだり。
つまり、親からの負の遺産を受け継ぐこともあれば、先祖からの徳でポジティブな基本姿勢を身につけたり。

子供を育てる親は、まだまだ意識が未熟で、自分のカルマをまだまだ抱えたままだったりする。

その意味もわからないままに 自分の反応のままに戸惑いながら子供と向き合わねばならない。

20代、30代、40代、10年20年経ったくらいで 悟りの境地など知る由もなく
どう生きたらいいか暗中模索してウロウロしているのだ。
少しでもいい子育てをしたいと切に願っていても、
子育ての正解が分かっている親など ほとんどいない。

自分が本当に言い育てられ方をした という人以外は、子育てのやり方はわからないものなのだ。

それでも、ほとんどの人は幸せに生きたいと願っていて、
自分の子供には幸せになって欲しいと切望している。

正解がわからないまま、これが幸せというものだろうという予想の下に
それを信じて目指している。それが失敗だと気付くまでそれは続く。

随分の多くの体験を通して、幸せでないもの、幸せにならないものを体験して
そのやり方はダメだったな と、消去法で探す気の遠くなるような長い時間。

多くの人々の多くの涙の体験を経て、今があるのだ。

先に見つけた人が残した教えや文献を通して、真の答えのヒントが与えられる。

読んでいるだけでは理解できない。
それを実践してみて初めて それが有効かどうかを知ることができるのだ。

詳細なマニュアルは作れない。 形ではないからだ。
しかも、一つの方向性でも正解になったりそうでなかったりする。

バランスの方が大事。このくらいがちょうどいい というエネルギー量のバランス。
その人が望むちょうどいいバランス というとてもわかりにくい基準。

それは他者には測れない。

本人の感性でしか確かめることはできない。

でも、感性を使って生きるようになると、他者のエネルギー量も感じ取って見えるようになってくる。

そして余計なエネルギーを注がなくなる。

「あなたの望むように」 というのはそういうことだ。

 

人間は まっさらで生まれ、自我を体験して、

摩擦も体験して、調和を学ぶ。

もし、幼いころからそれが出来ていると、早めに理解できるが、

その機会がないと、摩擦の処理に苦戦しながら 暗中模索で時間をかけて調和が良いということを学んでゆくのだ。

調和が良い という答えの方向性を見つけるのに時間がかかる人がいる。

摩擦の処理は調和だ と思えないので、摩擦の対象を排除することに夢中になってしまう場合。
戦い続けて満身創痍になる。
もしくは戦いたくない人から敬遠されてしまう。

愛の循環は無く、奪うという方法しか知らないエネルギーの欠乏した状態。

 

それよりもいい方法がある。

愛は 生命力と共に 内側から湧いてくるもの
それは本当は無限だ。ご飯を食べれば出てくるようなものだ。

でも、閉じた状態ではすぐ枯渇してしまう。

自分の内側を自分の愛で満たせないため、

他者の愛で自分を満たそうとする。

本当は溢れる愛があるんだよ。誰にでも。

何かのきっかけで閉じただけ。

怖かったのかもしれない。

疲れ果てたのかもしれない。

傷付いたのかもしれない。

でも、時間と共に傷は癒える。

あなたが望みさえすれば。

あなたが愛に生きようと思ったその瞬間から 流れは変わる。

源はあなた

本当は 存在そのものが 愛なのだから

愛を信じると 愛の循環が発生する。

愛は契約ではない

愛とはあるがままにいさせること。誰も縛らない。

体験瞑想 及び 個別体験瞑想

真面目過ぎる悩み

日本人は真面目です。概ね真面目な傾向です。

このところ、真面目過ぎるお悩みのご相談が続いてる真面目ちゃん月間です

 

ルールを守るのは他者に迷惑をかけたくないため。

善い生き方をする という美徳が意識の根底に根付いています。

それは素晴らしい意識だね と、世界的にも評価され、海外からの評価も高い所です。

ただ、一つの性質は、メリットばかりではありません。どの性質にしてもそうです。

過ぎたるは猶及ばざるが如し と申します。

過剰適応は 美徳を越えて、弊害を生じます。

過剰な正義感は 他を裁き始め、怒りを露わにしだします。

愛とは程遠く、黒い感情(罰したい) と エゴ が渦巻き始めます。

世界は私の理想通りでないと許せない と思い始めます。

そして自分を取りまく存在に噛みつき始めます。「どいつもこいつも!」と。

すっかり愛を見失った状態です。

他者に迷惑をかけるな!! と息巻く迷惑なお方 になってしまいます。
(コロナ禍時のマスク警察とか、)

そういう方々そうなる理由や経緯はあったのでしょう。
それが正義だと信じ、本人の正義を守ってそうなっていただけです。
それが正義と疑うことなく妄信

自覚のないまま 自分が疎まれる存在になるのは
ちょっと残念です。善意なのに迷惑って・・・。

目の前のものより 理想を追いすぎるとそうなってしまう可能性があります。

余裕が無ければ無いほど、頑張れば頑張るほど、視野は狭くなりがちです。

肩の力を抜いてみましょう。

怒りを感じているなら、ひとまず鬱憤は出した方がいい。


でも、
だれかれ構わず、感情を吐露するのはあまりお勧めしません。
(相手に受け流す余裕がなければ、また、受け止めすぎる真面目過ぎるキャラの方などにはむやみに負の波動を押し付けてはいけません。
あなたの怒りにその人は押しつぶされてしまいます。弱者には重いものは振らない。)

自分で感情の解放を済ませていくと、だんだん客観的に モノが見えるようになってきます。

より客観的に見たい場合は、自分が相談された側だったら、という仮定で他人にその悩みを聞かされた時 というのを想像してみます。

もし、誰かが今の私と同じ悩みを私に相談してきたら、私は何と返事をするのだろうか?

また、自分の信頼する先生だと、どう答えてくれるだろうか という想像なんかもかなり役に立ったりします。

想像がつかない時は 本当にその人に相談してみる。

今の自分を客観的に見る という事が出来れば、かなりの進歩です。

あなたが見える視野が拡がれば拡がるほど、

あなたには答えが降ってきます。

 

すぐに答えが出ないものも多いでしょう。焦る必要はありません。

神様の答え(閃き)にはタイムスパンがありますから

すぐに応えのでないものはちょっと棚上げです。

「私に答えをください」を投げかけて 放置しておく。

必要ならば答えが返ってきますが、

まだ今の体験を味わう必要があるなら、その状態を味わいます。

充分な体験があって、そして答えが現れます。

なるほど~ と納得できるほどの体験がなければ、

答えが与えられても、その答えを受け取ろうとしません。
(私の求めているのはそんなんじゃない と思ってしまう)例えば、基本の望みが支配の場合。

学びのシステムは壮大です。充分体験してください。それは必要があって起きています。

私(たち)は何を気付かなければ ならないのでしょうか?

エゴが受け取りたくない、エゴにとって都合な悪いものの場合が多いです。

エゴは愛より支配を望みます。

でもそこには幸せは待っていません。

愛のない理想の形 というものは長くは維持できません。短命です。
(理由は、エネルギーバランスが悪いから)

愛による調和はすごくエネルギーバランスがいいのです。

どこも満たされるので 密度が高く、崩れにくいのです。空洞がない。もろくない。
そして皆がその状態に安らぎ、維持を望む。

 

話を元に戻します
真面目過ぎると、ルールに縛られがちです。融通がききません。

柔らかくとらえてください。

厳しすぎる所は選択肢が狭すぎで多様性を排除しますから
ハマれない人にとっては居心地が悪いのです。

あなたのベストが誰にとってもベストとは限りません。
あなたの世界にはいろんな登場人物があり、時には摩擦も起きますが、
わざわざ摩擦を煽る必要はありません。
他者には他者の事情がある。そっとスルーします。

あなたが世界を支配しなくていいのです。

世界は調和したがっています。

勝手に調和しようとします。

あなたは調和に ちょっと手を貸すだけでいい。

摩擦の感情を手放し、あるがままで良し。勝手に調和する と。

流れに任せてしまえばいいのです。

 

これらは 真面目過ぎる多くのみなさんへのメッセージです。

 

最初から他者との関わりに興味がない方は「何のこっちゃ?」ってなるでしょう(笑)
それはそれ。

色んな人がいますからね。

マイペースな人に腹が立つあなたは、思い通りにならないことは放っておくようにしてください。
多様性のこの世界はそんなものです。

チームやゲームではその限りではないですが、それは特定のルールの中で活動する場合にその縛りが発生します。
あなたはその取り組みに参加するかしないかを決める権利があります。

ゲームは、何か一つの目的を達成するという取り組みです。
それはそのゲームをしている間のみの価値観です。

そこから出るとそのルールはあまり意味がありません。

本当は自由に生きられますが、組織の中でしか生きたことが無い方は、自由な生き方がわかりません。

でも、神様は自由に生きることをやってみたくて人間を作っていますし、
その人間を体験して、数々の失敗を体験して ある意味 楽しんでいるのです。

そう、私たちは神の一部ですから。

この途方もない広い世界で、何を選ぶか自由にしなさい と解き放たれているにもかかわらず、

知った範囲から出たくないのは不思議なものですが、

短い一生ですからできることにも限界があるのでしょう。

とりあえずは 幸せに生きるためには何をどうすればいいのか をそれぞれが模索しています。

皆が不完全で、偏りがあり、だけど幸福を望んでいます。

偏りがあっても不完全でも、調和できるなら なんら不自由はありません。

意識や愛の交流があるところでは この上ない幸福感まで味わえることになるでしょう。

あなたがそれをできるのか? と問われているのだと思います。

もちろん、孤独を愛する方もいらっしゃるので、

それぞれが望む生き方を認め合います。

あなたが生きたいように生きて良い。

本当はあなたもあるがままでよいのです。

仕事とプライベートは別物。

プライベートが本当のあなた。

 

他を傷つければその因果が戻ってくるし、他を愛すればまたその因果も戻ってくるのです。

あなたが受けたいものを発してください。。

もらうからあげるのではなく

あげるからもらえるのです。

物質ではないですよ、あなたの思いです。

愛なのか利害なのか 発する波動を見極めるとよくわかります。

あなたはあなたと同じ波動のコミュニティーに所属して己を学びます。

学びが終われば、そのステージは卒業になり、あらたな展開があります。

流れはあなたに必要なものを与えます。

 

あなたが愛そのものになった時、あなたは輝きを放ち

あなたの周りには沢山の愛の花が咲き始めます。

 

どの面を生きる?

この世界は 多面的。

どういうことかと言いますと、世界観は一つではない ということ。

いろんな価値観があり、いろんな感じ方があり、世界とはこういうものだ というイメージは様々だ ということ。

なので、それぞれがそれぞれに 自分の世界観を持って この世界を見ている。

それと同時に、自分のイメージを世界に反映して それを体験している。

似たような価値観の人が集まりやすく(ご縁がある)

すごくキライなタイプの人ともご縁がつながりやすい。

なぜなのか? それは、意識の中に強くイメージするからです。

印象に残るものは 現れやすい。

なので、このことを知っている人は、嫌なもののことを長く考えません。

スルー

その代わり、それを圧倒するほど、好きなもののことを考えます。

欲しいなぁ じゃないんです。(その思いは持ってないことが前提なので持ってないイメージ)

これいいなぁ、大好き! これがあって幸せ! って

私に必要なものは必ず与えられるのよね!という根拠が無くても確信すること。
(来ないものはたぶん必要でないんでしょうね)
(もしくは無意識下で無いという状態が体験したい。)

喜べば喜ぶほど ご縁が強くなるし。

あって当たり前だと思うことは必ず実現する。

これ、引き寄せの法則なんですが、

面白いことにこの法則通り、 同じ世界に住んでいて、

思いの違いで随分と違った体験を生きるんですね。

そんなこと言ったって、ネガティブ思考がそう簡単に撮れないんだよ~

と泣いたのはかつての私。 トラウマとか意識的に消せるものじゃなかったんですが、
ある方法で変えることができた。

思いを変えてみて 人生を変える人が続出しています。

内側を浄化して、喜びとポジティブを体現しだしますと、

人生は変わります。

浄化の方法は、瞑想と、それと積極的な取り組みです。

重要なのは瞑想。・・・たぶん、瞑想無しでは難しいかと。

特にこのELM瞑想の効力はすごい。

瞑想経験が長ければ長いほど その差は大きいのです。

他の瞑想法に関しては効果が無いとは思いませんが、長期実践者の状態を見てみますと

他の瞑想法よりも短期間で変容するのが特徴です。

ただ、いずれも、実践しないことには変容は起きませんし、意識を変える気がない人も時間がかかる。
習慣的な重い癖は癖を変える他ないですから。

瞑想の実践があると、邪魔をするもの(カルマ)が取れて行きます。

心身の浄化は 日々の努力の賜物ですが、

ELM瞑想に関してはその手順がとてもシンプルであることと

どこでも 誰でもやろうと思えばできるものです。

出家も必要ありませんし、宗教宗派を超えて実践が可能です。

無宗教の方も取り組めます。

あぐらを組む必要もないし、目を瞑って(椅子でもOK)座れる人なら誰でもできます。

こんなに簡単に空の境地を体感できるようになれるのは ELM瞑想の特徴です。

瞑想は難しくありません。

気持も良く、体調も整うので、モチベーションを維持するのはそれほど難しくないです。

やらないと物足らなくなるくらいですね。(笑)

体験したい人、ちょっとペースを落としちゃった という人は、アトリエ霽月に瞑想をしに来てください。

お申込み・お問合せはページ上部の メールでのお問合せ からお願いいたします。

情報共有

個展前の慌ただしい日々を過ごしております。

制作モードになると日常の業務がストップしがち。。。

集中モードが違うのですが 以前に比べて切り替えが難しくなってきたかもしれない
どういう加減かはわかりません。年齢のせいかも?(笑)

あれやこれやの雑念を払うのに音楽を聴いたり、音をかけるのですが、
Youtube動画を聴いていて、注目の動画を発見しました。

もうご存知の方もおられるかもしれません。

ネドじゅんさんという方が悟りモードの脳の使い方を体感できる方法を紹介していました。
これはすごい気付きだ~ と思いましたのでシェアしたいと思います

ネドじゅんの三脳バランス研究所 実践スタート基礎1

これはワークの方法なので練習が必要ですが、悟り脳の状態を作るのにとても有効です。

幸せ脳 とか 縄文脳 って言い方もできます。試してみてください。👍 

本質に気付く

10月も後半に入り、ずいぶん涼しくなってきましたね。
そりゃあそうだ と思いながらも
毎年今日は暑い、今日は寒いと言いながら
季節が」変わっていきます。
1年が早く感じるのは歳のせいでしょうか(笑)
ホントに早いです。個展まであと5ヶ月ほどしかない!ヤバいです。

御多分に漏れず、お尻に火がついて焦る性分は直らないというか進行してます(苦笑)
そんなこんな 普通の人間の生活。焦っても仕方がない。
できるようにやろう。というところにいつも落ち着きます。

さて、話は変わりますが
皆さんは 宗教に対してどんなイメージをお持ちですか?

私は30代くらいから仏教に興味があったので、
いくつかの仏教系の宗教団体とかお寺にお説法を聞きに行ったりした時期がありました。
今は行ってないです。お説法はYouTubeで聴けますからね。

36歳の時に福岡に引っ越してきて、ママ友さんからスピリチュアルを教えてもらってからは
特定の宗教団体に入ろうとは思わなくなりました。でも『真理』というものはあるんです。

神 とか 仏 という意識の存在もあると思います。
私にはその声は言葉では聴こえないのですが、
意思や感情は分かる気がします。
なんで神仏がいると思ったのか というと、

それらの意思表示を示してくる時があります。
これはどうしても それ としか思いようが無いだろう!というほど、
はっきりしたものを示してくることがあるんです。

でも、そういうものに気付く ということをしなければ見逃したり、
気のせいだ と思ってしまうものなのでしょう。
流れの方向性や法則を知らないうちもそれは見分けがつかないかもしれません。

ただ、私達人間の在りように合わせて、それに意思表示してきます。
そして、それを感じ取る私達自身のことをハイヤーセルフ と呼びます。

私たちの内側にハイヤーセルフの声を聴く

この世界の動きを見てユニバースの意思を読み取る

そして、ハイヤーセルフやユニバースの喜ぶように生きれば
神仏も私達自身も幸福を感じて生きることができます。

でも、身体の方のシステムの方が強いんですよね。
危険回避のシステム、未知のものを恐れるシステムです。

知らないものが怖い というのは それは敵かもしれない という怖れなのですが
その時に、それが味方や守護だ という可能性は切り捨てちゃうんですよね。

危ないいからチャレンジしない というやり方です。

私の個人的な体験では 未知のものが怖い と思っていた時期は、生きることそのものが恐ろしかったです。

私は不幸になるかもしれない とか、まだやったことも無い事をうまくやれる気がしなかった。

それをやってみたこともないくせに なにもせずに 最初からうまくやろうと思っていたのでしょうかねぇ?
笑っちゃいますよね。当時のプライドはすごく思いあがっていたのかも? 
あるいは ちゃんとできないと愛してもらえない と思っていた とか。

で、まだやってみたことがないことは 最初は上手に出来ないものですよねぇ。普通は。
それを最初からうまくできないと投げ出したら もう何にも出来るようになんてならないですよね(笑)
頑張って褒めてくれる人がいてくれないと成り立たない。
周りの大人に恵まれなかった人は苦労します。
スタートがマイナスだもんね。(^_^;)

でも、やってて楽しい事はそんな評価とか割とどうでもよく何度もやって気が付いたらちょっと人より上手になっていて
また気分良くなってますます上達していきますよね。

だから好きな事をした方がいいんです。

でも、そのことに興味が無い他人は、それを評価しません。

興味が無いんですから 当然です。みんな、興味の対象は違うんです。

なので あなたの好きな事をしてください。 とことん。

そうすると 自分のしていることを楽しめて ハッピーになって他人にも笑顔を見せたり
親切にしたりするようになるんです。
身内に脚を引っ張る人がいる場合は苦労するかもしれません。
その人は たぶん、育っていく過程で 自分が否定されたんだと思います。

その戦いが 敵がいなくなっても続いてしまうのでしょうね。
自分が否定されたくないために他人を否定する という、
誤った方法を取ってしまっているのです。

だから否定しないであげてください。

もちろん、自分も否定しなくていいんですよ。

誰も間違ってはいないのです。一生懸命生きただけ。

そういうことがわかって、あなたが大きな愛に気付くと
世界はあなたを祝福し始めます。

それはやがてリアルな体験をすることになります。

そういうものが 真理として宗教が立ち上がるのですが、
どういうわけか 教えを語り継ぐ間に、本質の愛の意識が空洞化してしまうようです。

それが形骸化した宗教です。

あなたは本質を知るだけで 真理を体験します。

この世界は愛でできていますので、
人間の怖れや我欲、恨み を手放してしまえば
愛しか残りません

何が愛で 何が愛でないのかを 私たちは学んでます。

宗教の教えは 縛るものではありません。

それを頼りに愛を見つけていくためのものなのです。

縛り始め当た時、本質を見失います。

体験を通じて 人間の我と愛を見極めていくのです。
あなたは 愛を体験してください。

愛を選べばよいのです。

視野

世間ではいろんなことが話題に上がりますね。
災害が起きたりスキャンダルが話題になったり。

刺激的な出来事が起きると人々の関心は一気に持って行かれますね。

関心事って意識という画面の大部分を占めちゃいますね。

ロシアのウクライナ侵攻はこの世界、地球上という単位でみると、随分規模が大きな出来事のように見えますが、
個人的なトラブルなんかは個人としてはウクライナ以上の関心事だったりする。

意識 というスクリーンの中での大きさは、実際の大きさとは関係なく捉えられる。

瞑想者、覚者が達観する というのは、
このズームアップされた関心事項から 限りなくズームアウトして
広範囲を捉える ことですね。

問題は一瞬でちっぽけなものになってしまいます。

痛みにフォーカスしている時は 
この世の終わりのように思える痛みも、
過ぎて痛みが消えてしまうと すっかり忘れてしまったりもするのですが、
カルマのエネルギーが抜けきってない場合はまだまだ痛んでいるので、その傷は大きな厄介なものに感じてしまいます。

神視点では一時的な通過点でしかない出来事も
痛みを感じている当事者には酷い許せない出来事にしか見えなかったりします。

ですがそれも、いずれ過ぎて消えてしまうものなのですが。

痛みから離れたい場合はカルマを終わらせるか、

刺激から離れるか、どちらかしかないでしょう。

でも、カルマを終わらせたい魂は 痛みを感じて昇華しているので
いずれにせよ持ち越しているカルマの痛みは避けようがないものもあります。

それでも、もっと早く終わらせたい 場合には、

赦して 責めない

ということを受け入れますと、摩擦は起こらなくなります。

平和な心というのは そういうものです。

摩擦に懲り懲り とおもえたら、摩擦から手を引こう と思えます。

でも、不思議と人間と言う生き物は 摩擦や苦しみを好みますね。
平和は退屈だったり寂しかったりするのでしょうか。
刺激は魅力的なのかもしれません。

 

一方的に酷いことに巻き込まれる魂は、

先祖のカルマを請け負って、終わらせていく使命を持っているのだそう。

とても勇気があり、愛の大きな魂なのでしょうね。
試練を引き受けた魂は大きく愛へと成長し
蝶のように羽ばたきます。

手放せないこだわり(とらわれ)がある場合

とらわれを外す  って スピリチュアルや悟りの教えの中では大きな課題の一つです。

簡単なようで難しい。

なぜなら、何にとらわれているのかを自覚するのがまず難しくて

とらわれは あまりにも当然のように必要な事として認識しているために
それが必要ないものだとは思えないし、
あまりにも当たり前すぎて、それ抜きで物事を考える なんて 想像がつかなかったりするくらい
自分と同化してしまっているからだ。

指摘されてとらわれに気付いたとしても

元々自分はそういう性格なんだ とか

こんな風にしか生きれない なんて思ってしまう。

でも、違う。

そんなとらわれヌキで生きることができるのだ。

カルマの感情が抜けきった時、憑き物が落ちるように「あ、要らない」って理解が来る。

だからそれまでのカルマの解放は必要だ。

1回の瞑想で抜けるカルマは割とライトな軽いカルマ、日々のストレスや他人から被ったもの、

そういうものから取れて行って、深いところに埋まっていた大きなカルマが現れる。

火山が爆発するみたいな大きな解放がドッカーンと出て行って、そして憑き物が落ちる。

あ、元々カルマが薄い人はそういうのは無いかも。

とらわれていない人。 そういう人は何が起きても「あーね」って流せるから ドッカーンもない。摩擦が無いのだ。

でも大抵の日本人は結構な量のカルマを抱え込んでいるので (抑圧されているからね)

大体の人は幾ばくかのドッカーン を経験する。

晴天の霹靂だ。

そのために必要な事が起きる。

それぞれの人にその人にあったドッカーンを体験してもらうために

ユニバースは必要なものを用意周到に準備してくるのだ。 そう、無慈悲にね。

でも、そこを突破したら憑き物が落ちる。

しがみついていたとらわれが要らないことに気付くのだ。

これを経験しちゃった人、おめでとうございます。

すごい複雑な暗いサングラス?を外したかのような新鮮な世界。

「あ、要らね」ってなったら合格。

自我は抵抗しますけどね。

だって、後生大事に握りしめて来たそのとらわれを手放したら
これまでの気の遠くなるような努力が無駄だったって認めることになるんだから。

そんな恐ろしい事見たくないじゃないですか。

いや、でも、実際無駄だったんで 
それに気づいた時はもう笑っちゃうしかない。

すごい壮大な自分劇場を演じていたのよね 私は。

というなんとも痛ましい自虐ネタの悲喜劇

笑い飛ばせれば 自由。晴れて無罪放免となるのです。

 

それにしても、この世界。巧妙に仕掛けて来るよね、

気付きのテーマ。これでもか! とばかりに。

でも、よく考えてみると、自分がそういったカルマのエネルギーをもっていることで起きているのだから

起こしていたのは私だったのね ってことにもまた笑えます。

無意識が現実化して、
コントロールしたい自我の願いは崩壊します。

手放して委ねた方が 豊かになれますよ。

あなたがワクワクすれば豊かさは集まってきます。

 

ちなみにとらわれは「絶対譲れないもの」

害のないこだわりは 好みの範疇で、それは別に「あっても無くても差しさわりはないもの」
この場合あなたの好みが優先されます。(100%ではない。世界側の都合もあるからね)

「大好き・嬉しい」は強力です。

この世界のどこを見るかであなたの人生は変わる

Take it easy