意識

情報共有

個展前の慌ただしい日々を過ごしております。

制作モードになると日常の業務がストップしがち。。。

集中モードが違うのですが 以前に比べて切り替えが難しくなってきたかもしれない
どういう加減かはわかりません。年齢のせいかも?(笑)

あれやこれやの雑念を払うのに音楽を聴いたり、音をかけるのですが、
Youtube動画を聴いていて、注目の動画を発見しました。

もうご存知の方もおられるかもしれません。

ネドじゅんさんという方が悟りモードの脳の使い方を体感できる方法を紹介していました。
これはすごい気付きだ~ と思いましたのでシェアしたいと思います

ネドじゅんの三脳バランス研究所 実践スタート基礎1

これはワークの方法なので練習が必要ですが、悟り脳の状態を作るのにとても有効です。

幸せ脳 とか 縄文脳 って言い方もできます。試してみてください。👍 

本質に気付く

10月も後半に入り、ずいぶん涼しくなってきましたね。
そりゃあそうだ と思いながらも
毎年今日は暑い、今日は寒いと言いながら
季節が」変わっていきます。
1年が早く感じるのは歳のせいでしょうか(笑)
ホントに早いです。個展まであと5ヶ月ほどしかない!ヤバいです。

御多分に漏れず、お尻に火がついて焦る性分は直らないというか進行してます(苦笑)
そんなこんな 普通の人間の生活。焦っても仕方がない。
できるようにやろう。というところにいつも落ち着きます。

さて、話は変わりますが
皆さんは 宗教に対してどんなイメージをお持ちですか?

私は30代くらいから仏教に興味があったので、
いくつかの仏教系の宗教団体とかお寺にお説法を聞きに行ったりした時期がありました。
今は行ってないです。お説法はYouTubeで聴けますからね。

36歳の時に福岡に引っ越してきて、ママ友さんからスピリチュアルを教えてもらってからは
特定の宗教団体に入ろうとは思わなくなりました。でも『真理』というものはあるんです。

神 とか 仏 という意識の存在もあると思います。
私にはその声は言葉では聴こえないのですが、
意思や感情は分かる気がします。
なんで神仏がいると思ったのか というと、

それらの意思表示を示してくる時があります。
これはどうしても それ としか思いようが無いだろう!というほど、
はっきりしたものを示してくることがあるんです。

でも、そういうものに気付く ということをしなければ見逃したり、
気のせいだ と思ってしまうものなのでしょう。
流れの方向性や法則を知らないうちもそれは見分けがつかないかもしれません。

ただ、私達人間の在りように合わせて、それに意思表示してきます。
そして、それを感じ取る私達自身のことをハイヤーセルフ と呼びます。

私たちの内側にハイヤーセルフの声を聴く

この世界の動きを見てユニバースの意思を読み取る

そして、ハイヤーセルフやユニバースの喜ぶように生きれば
神仏も私達自身も幸福を感じて生きることができます。

でも、身体の方のシステムの方が強いんですよね。
危険回避のシステム、未知のものを恐れるシステムです。

知らないものが怖い というのは それは敵かもしれない という怖れなのですが
その時に、それが味方や守護だ という可能性は切り捨てちゃうんですよね。

危ないいからチャレンジしない というやり方です。

私の個人的な体験では 未知のものが怖い と思っていた時期は、生きることそのものが恐ろしかったです。

私は不幸になるかもしれない とか、まだやったことも無い事をうまくやれる気がしなかった。

それをやってみたこともないくせに なにもせずに 最初からうまくやろうと思っていたのでしょうかねぇ?
笑っちゃいますよね。当時のプライドはすごく思いあがっていたのかも? 
あるいは ちゃんとできないと愛してもらえない と思っていた とか。

で、まだやってみたことがないことは 最初は上手に出来ないものですよねぇ。普通は。
それを最初からうまくできないと投げ出したら もう何にも出来るようになんてならないですよね(笑)
頑張って褒めてくれる人がいてくれないと成り立たない。
周りの大人に恵まれなかった人は苦労します。
スタートがマイナスだもんね。(^_^;)

でも、やってて楽しい事はそんな評価とか割とどうでもよく何度もやって気が付いたらちょっと人より上手になっていて
また気分良くなってますます上達していきますよね。

だから好きな事をした方がいいんです。

でも、そのことに興味が無い他人は、それを評価しません。

興味が無いんですから 当然です。みんな、興味の対象は違うんです。

なので あなたの好きな事をしてください。 とことん。

そうすると 自分のしていることを楽しめて ハッピーになって他人にも笑顔を見せたり
親切にしたりするようになるんです。
身内に脚を引っ張る人がいる場合は苦労するかもしれません。
その人は たぶん、育っていく過程で 自分が否定されたんだと思います。

その戦いが 敵がいなくなっても続いてしまうのでしょうね。
自分が否定されたくないために他人を否定する という、
誤った方法を取ってしまっているのです。

だから否定しないであげてください。

もちろん、自分も否定しなくていいんですよ。

誰も間違ってはいないのです。一生懸命生きただけ。

そういうことがわかって、あなたが大きな愛に気付くと
世界はあなたを祝福し始めます。

それはやがてリアルな体験をすることになります。

そういうものが 真理として宗教が立ち上がるのですが、
どういうわけか 教えを語り継ぐ間に、本質の愛の意識が空洞化してしまうようです。

それが形骸化した宗教です。

あなたは本質を知るだけで 真理を体験します。

この世界は愛でできていますので、
人間の怖れや我欲、恨み を手放してしまえば
愛しか残りません

何が愛で 何が愛でないのかを 私たちは学んでます。

宗教の教えは 縛るものではありません。

それを頼りに愛を見つけていくためのものなのです。

縛り始め当た時、本質を見失います。

体験を通じて 人間の我と愛を見極めていくのです。
あなたは 愛を体験してください。

愛を選べばよいのです。

視野

世間ではいろんなことが話題に上がりますね。
災害が起きたりスキャンダルが話題になったり。

刺激的な出来事が起きると人々の関心は一気に持って行かれますね。

関心事って意識という画面の大部分を占めちゃいますね。

ロシアのウクライナ侵攻はこの世界、地球上という単位でみると、随分規模が大きな出来事のように見えますが、
個人的なトラブルなんかは個人としてはウクライナ以上の関心事だったりする。

意識 というスクリーンの中での大きさは、実際の大きさとは関係なく捉えられる。

瞑想者、覚者が達観する というのは、
このズームアップされた関心事項から 限りなくズームアウトして
広範囲を捉える ことですね。

問題は一瞬でちっぽけなものになってしまいます。

痛みにフォーカスしている時は 
この世の終わりのように思える痛みも、
過ぎて痛みが消えてしまうと すっかり忘れてしまったりもするのですが、
カルマのエネルギーが抜けきってない場合はまだまだ痛んでいるので、その傷は大きな厄介なものに感じてしまいます。

神視点では一時的な通過点でしかない出来事も
痛みを感じている当事者には酷い許せない出来事にしか見えなかったりします。

ですがそれも、いずれ過ぎて消えてしまうものなのですが。

痛みから離れたい場合はカルマを終わらせるか、

刺激から離れるか、どちらかしかないでしょう。

でも、カルマを終わらせたい魂は 痛みを感じて昇華しているので
いずれにせよ持ち越しているカルマの痛みは避けようがないものもあります。

それでも、もっと早く終わらせたい 場合には、

赦して 責めない

ということを受け入れますと、摩擦は起こらなくなります。

平和な心というのは そういうものです。

摩擦に懲り懲り とおもえたら、摩擦から手を引こう と思えます。

でも、不思議と人間と言う生き物は 摩擦や苦しみを好みますね。
平和は退屈だったり寂しかったりするのでしょうか。
刺激は魅力的なのかもしれません。

 

一方的に酷いことに巻き込まれる魂は、

先祖のカルマを請け負って、終わらせていく使命を持っているのだそう。

とても勇気があり、愛の大きな魂なのでしょうね。
試練を引き受けた魂は大きく愛へと成長し
蝶のように羽ばたきます。

手放せないこだわり(とらわれ)がある場合

とらわれを外す  って スピリチュアルや悟りの教えの中では大きな課題の一つです。

簡単なようで難しい。

なぜなら、何にとらわれているのかを自覚するのがまず難しくて

とらわれは あまりにも当然のように必要な事として認識しているために
それが必要ないものだとは思えないし、
あまりにも当たり前すぎて、それ抜きで物事を考える なんて 想像がつかなかったりするくらい
自分と同化してしまっているからだ。

指摘されてとらわれに気付いたとしても

元々自分はそういう性格なんだ とか

こんな風にしか生きれない なんて思ってしまう。

でも、違う。

そんなとらわれヌキで生きることができるのだ。

カルマの感情が抜けきった時、憑き物が落ちるように「あ、要らない」って理解が来る。

だからそれまでのカルマの解放は必要だ。

1回の瞑想で抜けるカルマは割とライトな軽いカルマ、日々のストレスや他人から被ったもの、

そういうものから取れて行って、深いところに埋まっていた大きなカルマが現れる。

火山が爆発するみたいな大きな解放がドッカーンと出て行って、そして憑き物が落ちる。

あ、元々カルマが薄い人はそういうのは無いかも。

とらわれていない人。 そういう人は何が起きても「あーね」って流せるから ドッカーンもない。摩擦が無いのだ。

でも大抵の日本人は結構な量のカルマを抱え込んでいるので (抑圧されているからね)

大体の人は幾ばくかのドッカーン を経験する。

晴天の霹靂だ。

そのために必要な事が起きる。

それぞれの人にその人にあったドッカーンを体験してもらうために

ユニバースは必要なものを用意周到に準備してくるのだ。 そう、無慈悲にね。

でも、そこを突破したら憑き物が落ちる。

しがみついていたとらわれが要らないことに気付くのだ。

これを経験しちゃった人、おめでとうございます。

すごい複雑な暗いサングラス?を外したかのような新鮮な世界。

「あ、要らね」ってなったら合格。

自我は抵抗しますけどね。

だって、後生大事に握りしめて来たそのとらわれを手放したら
これまでの気の遠くなるような努力が無駄だったって認めることになるんだから。

そんな恐ろしい事見たくないじゃないですか。

いや、でも、実際無駄だったんで 
それに気づいた時はもう笑っちゃうしかない。

すごい壮大な自分劇場を演じていたのよね 私は。

というなんとも痛ましい自虐ネタの悲喜劇

笑い飛ばせれば 自由。晴れて無罪放免となるのです。

 

それにしても、この世界。巧妙に仕掛けて来るよね、

気付きのテーマ。これでもか! とばかりに。

でも、よく考えてみると、自分がそういったカルマのエネルギーをもっていることで起きているのだから

起こしていたのは私だったのね ってことにもまた笑えます。

無意識が現実化して、
コントロールしたい自我の願いは崩壊します。

手放して委ねた方が 豊かになれますよ。

あなたがワクワクすれば豊かさは集まってきます。

 

ちなみにとらわれは「絶対譲れないもの」

害のないこだわりは 好みの範疇で、それは別に「あっても無くても差しさわりはないもの」
この場合あなたの好みが優先されます。(100%ではない。世界側の都合もあるからね)

「大好き・嬉しい」は強力です。

この世界のどこを見るかであなたの人生は変わる

Take it easy

自由意思

「ありがとう って感謝すると良い事がるよ」 というのは本当です。

あなたが何を感じているかはあなたの波動として世界に発信されます。

いつも出来事の良い面を見つけて感謝が沢山できる人は感謝できる出来事がやって来るのです。

嫌なことが皆無になるよ とは言いません。

嫌な事には それを乗り越える学びがありますから、それは乗り越えた時に感謝が湧きます

本当は起きることには何の意味も無いものなのですが、

体験する私たちはその体験を実感しながら意味を見い出して行きます。

だから意味は我々次第で良くも悪くもなる。

ただ、その中で喜びをより多くみつける人が多くの光を見つけ得ていく という仕組みがあります。これが学びです。

あなたを成長されるための試練は起きて行きます。それは偶然でもあり、
巡り合わせ というご縁でもある。引き寄せの物理法則も働いている事でしょう。

「何で私がこんな思いをしなければならないの?」という問いかけの答えは

「私の魂がそれを選んで来たから」 です。

決めてきた なんて 覚えてないですけどね。(笑)
覚えてたら体験に新鮮味がないですから。

「あの嫌な奴はどうなるの?」 というのは

あなたにその体験をさせるためにその役を引き受けている魂です。これもご縁

被害者という体験があれば、加害者という体験と学びもある。
どちらの心情もやってみなければわからないようです。
いずれはどっちも経験するようですよ。あるいは加害経験はあまり覚えていないのですが
物理法則的には やったことがやられるらしい。
身に覚えが無い時は
前世でやったことが今生でやられる立場になる って言われてますけど。

いろんな宿命や因果応報の理が働いています。それがどんなに悲惨でどんなに理不尽なことであっても、魂は様々な体験をしにいろんな姿になってこの世に降りてくるのです。

魂は 様々なレベルを体験し、より高い波動を見出して愛へ到達するのです。

ハッっと気がつけば 思い込みという幻想に取り込まれて 自分を窮屈な檻に閉じ込めていたり、

重い手枷足枷を引きずって疲れ果てていたり、

逆に 何か背負うものがないと生きていてもいいという感じがしなかったり・・・

人間て不思議です。

本当は あなたは 自由にあなたとして生きていくのがいいのです。

何もしたくない時はなにもしなくていいし、寝たい時は寝ていいし、したいことをしていいのです。

でもそうさせない檻に入っていたい時は 入っていてもいいようでもあります。

本当は私たちは自由意思でここにいる。全部自分で決めている。誰かに従うということも。

世間や社会がそうさせない なんて思い込みにも気付いていかないとですね。

何かを失うのを恐れて 枠から出たくない魂もあることでしょう。

だけど、他者がどう思うかを気にしなくても 充分に生きていけますよ。

それを出て、動物園を出て、自分自身がワクワクする人生を選んでいいのです。

ここでもいいし、ここでないところでもいい。

あなたの意識が変われば 本当はどこにいても世界は変わっていきます。

どうせ思い込むなら、自分に都合のいい思い込みにしましょう。

 

基準を当てた立派さなんて無意味です。あなたにとっての幸せな瞬間はどれなのか

あなたのハートに尋ねてみてください。

理屈は不要です。ハートの声には理屈も理由もありません。

ただフィーリングだけがあるのです。それがあなたの声なのです。

それを大切にするためのチャレンジにエネルギーを注いでください。

幸福感やワクワクするものを選んでください。

あなたがあなたのために選ぶのです。あなたが一番選びたいものを。

 

それぞれの世界観

このところ引き寄せの法則関係のお話を書いています。

今日もその辺のお話をします。

引き寄せの法則のこと、もう熟知している方は読み流していいですよ。

 

自分の世界観ってどんなだろう? って考えてみたことありますか?

世間はこんなもの、常識はこういうもの、私はこんな人、あの人はそんな人、

自分を取りまく環境の中で 自然に世界観というものを持ってしまっています。

それはあなたが設定した世界 です。

いやいや、世界がそういうものだから私がそう思うだけで設定なんてそんな・・・ 
なんて思うかもですが 違ったんです。

世界は あなたが設定したとおりのものをあなたに見せてきます。

世界はあなたにあなたが見たいものを見せるようにできていたんです。

最初は「またまたそんなぁ、オカルトみたいな」って私も思ってたんですが、物理学的にも証明されてしまった。

そう。あなたがイメージしたことは現実化する。

「ああ、どうしていつもそうなるの?忌々しい」なんて思うと

「いつも忌々しいそれ」が現実化します。

あなたがイメージしたそれはどんどん強化されてよりリアルにあなたの目の前に現れ始めます。

「この人はいつもそうだ」とか「この人は○○だ」という決めつけでもその人はそんなキャラを演じさせられますし、そこが気になれば気になるほどエスカレートする。

まだ起きていないこと「○○になったらどうしよう・・・」なんて想像はやめた方がいい。

そんなものは現実化してもらわなくていいからです。

もしあなたが決めなければ 起きる時には起きますし、起きない時は起きないのです。

想像すらしないことはあんまり起きない。(自分以外の人も思考するので周辺で起きることもある)

それらは あなたが強化しなければ1回で済むかもしれないです。

でもでも、私は毎日「幸せになりますように」って祈ってるのにならないじゃないですか~ というお声があったりしますが、

現実化は 確信してることが現実化するので

祈っている というのは「まだなっていない」という確信があるのでまだなっていないという現実がここにあるんでしょうね。

一番いい祈り方(アファメーション)は「私、幸せです!」という宣言や実感です。

難しいですか? 今のあなたの状況や基準ではOKはもらえそうにないでしょうか。

それなら、別の基準でそれを作ることができます。

アメリカの有名な女優さん、アンジェリーナ・ジョリーは若い頃、家庭が不和でどれも暗くて自死願望が強かったそうですが、ある映画の撮影でベトナムに行った時、戦争後のその国で生きることに必死な現地の人々を見て自分が不幸だと思っていた状況は不幸ではなかった と気付いた と言っていました。それ以降の彼女の活躍はいうまでもありません。

世界観が変わることで生きる意欲や問題意識や何が一番大事なのか も変わります。

『旅』 というのは そのためにあるんじゃないでしょうかね。(可愛い子には旅をさせろ って)思い込みを打破する新しいものの見方をゲットする

貴女の歩みを邪魔するものは あなたの外側にあるのではありません。

あなた自身のとらわれにあります。

怖れ、思い込み、罪悪感、 

いろんなものがあなたを縛るでしょう
でもそれらはみんな幻想で 実体はありません。

実体というのは、今まさにあなたに刃物を向けて襲い掛かろうとしていえる人 や

あなたの目の前にいる牙を剝く野犬や毒蛇

あなたに暴言を浴びせかけ続ける人 であって

それらの人や獣は あなたの目の前に今は いません。

もしそういう襲い掛かる存在に遭遇したら、逃げてくださいね。

暴言の場合は耳を塞ぐだけでもいいですけど。
ちなみに暴言に対する私のやり方は、

受け取らないで脇に流します。

それ、もし日本語じゃなければ私の頭の中に入ってこないようなものですし。
その人の言ってることはその人の見解であって真実でも事実でもない。
だから傷付くいわれが無い。
あるいは事実であったとしてもそれが何なんだ。
怒りというものはただのカルマの解放に過ぎません。

罰があるとしたら 因果応報という形でやってくるので、人は自分がしただけのことをちゃんと受け取るし、そんなものは放っておけば勝手になる。

もし自分自身が罰を受けるとしたら、そんな覚悟も無くて自由勝手に生きている訳でもないし、言うほど人を傷つけていきているわけでもない。

ただ、あなたのワガママに応えられないだけの話だ。
気に入らないなら見切って下さって結構。

みたいな感じになっちゃう。(苦笑) 可愛くねぇ😂

「やだ~😩ごめんなさい~、ゆるしてぇ~、置いて行かないで~」なんて言うにしても
全力で正直に 素直な気持ちで言うと それなりにちゃんと伝わりますけどね。

いずれにしても、この世で起きている出来事、特に

自分の目の前で起きている出来事は、夢のようなもの と言いますか、

客観的にみると茶番劇のようなものなので 深刻に考えることはありません。

なんだってそれなりに なるようになっていくのですから。

欲張ったところで 大して良いものが手に入るわけでもなく、

多くのものを与えた人が 多くの愛を受け取ることになるでしょう。

神様が喜ぶ行動は 沢山笑うこと だそうです。

内なる声の聴き方

私のハートがどう感じているのかわからない、

あるいは

内側で繋がっているという 神の声を聴いたことが無い、聴きたい

というお気持ちがある方。

内なる声の聴き方をご説明します。

内なる声を聴くにはまず、内側を静かにさせなければいけません。

わぁわぁと誰かがお喋りして騒ぎ立てているところで、静かに話す声はかき消され聴こえないものです。

あなたの自我の意識がお喋りや騒ぎ立てるのをやめないうちは それらは聞こえないでしょう。

自我はあなたの本当の気持ちを抑え込むためにいろんなことを操作しようと必死です。

あなたの本当の気持ちを悟らせないために。

なので、あなたは本当の気持ちに正直になり、やりたいことを自分にさせた方がいいのです。

本当に感じたことをそのまま感じて感じつくした方がいい。

そうすれば抑え込まれたものを止めようと騒ぐ声もなくなっていきます。

そうして頭の中が静かになると、内なる静寂がやって来て、あなたの内なる声ハイヤーセルフの声に気付きやすくなるのです。

瞑想は そんな浄化と静寂がやってくるのを促進します。

解放が静まり、あなたは内なる声を素直に受け取るようになります。

瞑想するという意図意図すらも外してリラックスして静けさにくつろいでください。

その時あなたはただ、委ねます。

「そんなんで見えるのか?」「うまくいくのかな?」なんてお喋りも邪魔です。

まだ内側からゴミ出し(カルマの解放)をしている時は騒々しいですから、ゴミ出し期間に聴こうとしても無駄です。

人生の何十年も溜め込んで来たゴミ(ストレス、ネガティブ感情)は結構な量ですから

ある程度時間がかかることは覚悟してください。

ただ、瞑想中に時々、お喋りがとまることもあります。

空(くう)を垣間見る瞬間です。

それは一瞬ですと気付きません。

それがそれだと気付くにも少し時間がかかるかもしれません。

これか~ と認識する体験が必要です。

それは毎日瞑想習慣をつけていくと 解放が進み、内側のお掃除が進んで出すゴミが少なくなっていきます。

最初に訪れる静けさ、、第一エリアのお掃除完了。

しばし静けさを楽しみます。内なる声も聴こえているかもしれません。

第二エリアの扉が開くと、次のゴミ出しが始まります。

おや、体験出来ていた静けさがなくなって、また騒がしくなってしまった

瞑想効果がなくなってしまったのか??

いえ、そうではありません。

第二エリアのお掃除中です。そして、しばらくすると掃除が終わって静かになります。

そして第三エリアに進みます。

内側にはふたを閉めた多くのエリアがあるそうです。

中には隠した部屋が少ない人もいますが、我慢強い人なんかは別室が大きかったりゴミの量がすごかったりします。

でも、根気よくお掃除(瞑想)すれば それらは片付いて行きます。

あなたは瞑想中、掃除をゆだねてください。

あなたが意図してする掃除ではないのです。

あなたが掃除の邪魔をしないことが大事です。

出てきたゴミを見たくないと仕舞い直さないようにしてください。

ちゃんとゴミ出ししてサヨナラします。

ゴミ出しに文句は不要です。

出て行ってくれてありがとう✨

出て行っておめでとう!

カルマのエネルギーが出ていくと あなたはますます輝きを取り戻します。

静かに微笑むことができます。

その時はもうあなたはいつでも内なる神と繋がれます。

私がわたしとして生きていることは 神が私として生きるということなのだ

と 理解します。

あなたが喜べば神も喜びます。

もう一喜一憂しません。 永遠の愛に気付き、もう誰もあなたを不幸にはできなくなるのです。

記憶

時々、思うのですが、

記憶というものは実に曖昧で幻のようなもの。

体験した全てを覚えている訳でもなく、

自分の目線から見えた物事の一部分だけを取り込んでいて、

しかもそれをストーリーとして取り込むのに、

何度も思い返しては意味付けを繰り返します。

「そうだ、私はあの時、こんなこんな事情もあったんだった、だから悪くない」

意識的にではなく、いつのまにかそういう作業をしていて、一番おさまりの良い説明で腑に落としていきます。

もちろんこれはポジティブシンキングでもやるんですけど、

心理学的に言いますと、防衛機制 という心のシステムがあって
転換とか投影とか合理化とか逃避とか抑圧、その他などなど、いろんな形があるんですけど、
要は、不安な事をどうとらえて収めるかで自分の心を護るんです。
そういう心のシステムがある。

それによって、起きたことを自分が楽なように記憶に収めるわけです。

これは解決が問題ではなく、とらえ方なので
自分の都合が良いように納まっていくんですね。

これって、普通の人がごく普通に当たり前に起きるので良いとか悪いとかいうことではありません。
ただ、これらの防衛機制の絡んだ記憶は 事実とはちょっと違う。
色々と色付けされちゃうわけです。

ただでさえ、そういうものが絡んでない記憶にしても、目線が自我なら 目に見えた一面しか見ていないですし、(背景とか原因とか見えてない)
それにカルマの感情や防衛機制が絡むと、解釈が生じて、ニュアンスが変わってきたり、ストーリーが付け加えられたりします。

そして、自我はこれを大いに利用します。

対立している2者からそれぞれの事情を聴くと、全く違った内容が出てきて 何が起きたのか余計に分からなくなることすらありますね。

記憶は無意識に自分に都合が良いように 記憶を書き換えてしまう性質もあります。
その出来事が自分の価値を揺るがしたり、脅かしたりするような怖れがあると
ついつい 嘘をついちゃうんです。自分までだましてしまう。

それは 悪意があるからではありません。防衛機制です。

人間がそういうことをしてしまう生き物である以上、そういうものは無くなりません。

ですから してはいけないこと なのではなくて、そういうものと上手に賢く付き合っていかなければならないのです。

特に自分自身に自信が無い自我は理論武装します。

自分自身を愛していない意識は沢山の怖れを持っています。
自分が自分を愛していないぶん、他者から愛されなければならないからです。

本当は自分で自分を愛せば、他者の力を借りなくてもグランディングできるのですが
わざわざその能力を放棄しています。

これは愛されないかもしれない という過去の怖れ、
愛されなかった という過去の痛み つまりカルマが起こす幻想です
「私は価値がないかもしれない?」

そんなことはありません。

この世に生れ落ちるすべての命は愛で出来ています。
たとえそれがどんな生涯を送ろうとも
どんな負の体験を担当しようとも、

この命は 愛であることを思い出すためにこの世に降りてきています。

ですから、あなた自身の命を幸せに導いてください。

本当はストーリーなど 何とでも書き換えられるのです。

癒しが足らないだけかもしれません。

もしどうしたらよいかわからない時は
誰かを癒してみませんか?

人を癒すと、あなたも癒されます。

(あなたから奪う人は愛では満たされませんのでご注意を)

自我の言い訳

私たちは大抵 私たちの、自分のルールに縛られています。

ルールを守ることが自分を守ることだと信じているので

時代に合わなくなったルールや他者が作ったルールまで守らねばならないものだと

いつの間にか信じ込んでいたりします。

それは絶対のものではありません。

それはコミュニティの中で摩擦を減らす役に立ってきたものかもしれません。

でも、変なルールも沢山あります。

今では役に立たないルール、と言えば 旧時代のルール

君主には従え というものだったり、

身分の低いものは切り殺されても仕方がない というものなどは

もう今の時代には全く通用しません。

200年前に当たり前だったルールが消えています。

今の大人が信じている常識やルールも 2世代3世代後には いろんなものが消えているでしょう。

その変化を 年老いた者は「今時の若者は・・・」などとぼやきます。

高齢者の時代のルールを当たり前だと思っていない若者がいるからですが、

そんなことはずっと昔から同じなんですね。

年長者の常識と 若者の常識は違います

大事なのはルールではありません。

 

では普遍的な善いもの とはなんでしょうか?

それは 愛

そこに愛はあるんか? ってCM ありますけど、

やはり常にこの問いかけなんです。

何をするか よりも 愛があるのかないのか

そちらの方が重要です。

流れに大きな影響を与えます。

ルールが変だ と感じたら 愛の観点から観ると 何がベストなのかを探してみてください

これは自己犠牲ということではありません。

他者を大事にしても 自分を犠牲にしてはそれは愛とは言えないのです。

他者の期待は 喜んでできなければ応えなくてもいいんです。

自分を大切に出来ない人は人を愛することも下手です。

自分だけ愛して他者のことは意に介さない というのも偏っています。

自分を取りまく世界で何が起きているのか 真実を観る ということが大事です。

それが分からなければ 解決策は見つかりません。

どうしたらいいか 分からない時は ハイヤーセルフ、神、ユニバース、守護霊

というような 大いなる存在へ委ね、祈ってみてください。

答えをください でも 善き方向にお導き下さい でも 幸せになります でも 

よろしくお願いいたします でもいいんです

私は成長します ありがとうございます。 っていうのも前向きでいいですね。

本質の意識 魂は 出来事を通して成長しようとしています。

自我がそれを止めようとしても 魂は成長に向かいます。

起きることが起きるだけなのです。

それをどう生きるかが あなたに与えられたチャンスなのです。

より愛に。 より自由に。 突破してみてください。

二見ヶ浦 糸島

本当のことはシンプル

ところで みなさま、

口数、多い方ですか?少ない方ですか?

私は たぶん 口数は少ない方なんだと思います。

が!! 時々めちゃめちゃ喋りまくります。

興味あることは頭の中に情報がいっぱい!いくらでも話せますよ~
マニアックな内容でよければ。

でも興味の無い話題だと もう露骨にスルーとかしてて失礼極まりない奴かも。

口数もシチュエーションによって 極端。 かも。

 

たまに おしゃべりな人を見ていると、なぜそんなにしゃべるのか?

すごく不思議になる時があります。

何の必要があってそんなに?? (どうでもいい)話をしゃべり続けるのか
 

誰もそんな時 理由は考えてないんだと思うんですが、

たぶん それぞれ理由はあるんだと思います。

あることを思い出しました。

その昔、自分が20代の頃に思ったことがあった・・・

当時の自分は 人が自分を理解してくれるのかどうか というのが

ものすごく重大なことのように思えて、他者に対してそれを試すようなことをしたり、

自分のことをよく理解してもらうために自分のことを語りたがる ということがよく起きていました。
(必死でやっていた というか、しかも話を聴いてくれるのかどうか から すごく気にしてた)
 

でも、聞いてくれる優しい人がいたとしても、やってもやっても「これで良し」と思えたことがなく

際限なく 手ごたえが無いアプローチをし続けて疲れ果てる などということが起きていました。

めっちゃ 面倒くさい構ってちゃんですよね(苦笑) 相手もそのうち嫌がって来る(苦笑)

で、ある時気付いたんです。

「あ、誰も自分のこと以外にそんなに興味が無いのかも?」

詮索好きは 面白がっているだけかもだし。

「人がどうしてこうして、、なんて ホントはどうでも良くない?」

欲しいのは単に刺激だけ?

「本当はそれぞれが好きにできればそれでいいだけで、何がよいかなんて他人が決めることじゃないし」

他者に禁じるのは 自分に禁じているからで。

「私はどうなの? とか 私ってどうなの? って

割と気にしがちだけど、 そんなのも、本当の所は

『私は愛してもらえるんでしょうか?そうでないんでしょうか?』
という質問に尽きる ってだけで

しかも その答えは 「相手次第」」

そだよ、そんなものコントロールなんてできないし。

愛してもらう事ばっかり気にして誰も愛してない人を 誰が愛するのか? って話。

そこまで気づいて、それまでしていた人を試す行為がいかに無駄だったかを 思い知るのである。。。

でも、それをしていた頃は行動も無意識の衝動で起きていたので

気付いて初めて 無駄な行動へのモチベーションが消えた(カルマが消えた)ってっことなのかもです。

人って 無意識の衝動にけっこう振り回されてますけど

無意識の意識に気が付き始めると、全ての人はかなり共通していることがわかります。

なるほど、人間てそういう生き物なのか・・・

本当の理由を見ないために必死でいろんな脚色してストーリーを絡めて正当化したり誤魔化したり。

もがいちゃってるんですよね。自我が。思考が。価値観が。世界観が。

でも、自分と同じように 他者も気付いて行動が変わる ってことが起きる ってことですから

衝動的に何かを必死でアピールしなくても 本当はみんな

平和で穏やかに 他者と信頼関係を繋いで生きていくことができる。

 

色んな人が気付いて行くと 世界中に信頼が拡がる。

カルマも自然に消えて行くのですよね

今はそういう時代がやって来ています。

面白い時代になってきた。

まずは そのままの自分で充分いいよ ってことを 気付くことですよね。

ほんと、一体だれが否定入れちゃったの? そんなもの 要らないんです

生きてるだけで素晴らしい。

好きな事をすればいいんです。

そのために考えよう。

どうすれば 面白いか。

どうすれば幸せか 

今の時代はヒントがいっぱい! \(^o^)/

楽しんで ♪ (*´▽`*)heart01

ゆずくん