手放せないこだわり(とらわれ)がある場合

とらわれを外す  って スピリチュアルや悟りの教えの中では大きな課題の一つです。

簡単なようで難しい。

なぜなら、何にとらわれているのかを自覚するのがまず難しくて

とらわれは あまりにも当然のように必要な事として認識しているために
それが必要ないものだとは思えないし、
あまりにも当たり前すぎて、それ抜きで物事を考える なんて 想像がつかなかったりするくらい
自分と同化してしまっているからだ。

指摘されてとらわれに気付いたとしても

元々自分はそういう性格なんだ とか

こんな風にしか生きれない なんて思ってしまう。

でも、違う。

そんなとらわれヌキで生きることができるのだ。

カルマの感情が抜けきった時、憑き物が落ちるように「あ、要らない」って理解が来る。

だからそれまでのカルマの解放は必要だ。

1回の瞑想で抜けるカルマは割とライトな軽いカルマ、日々のストレスや他人から被ったもの、

そういうものから取れて行って、深いところに埋まっていた大きなカルマが現れる。

火山が爆発するみたいな大きな解放がドッカーンと出て行って、そして憑き物が落ちる。

あ、元々カルマが薄い人はそういうのは無いかも。

とらわれていない人。 そういう人は何が起きても「あーね」って流せるから ドッカーンもない。摩擦が無いのだ。

でも大抵の日本人は結構な量のカルマを抱え込んでいるので (抑圧されているからね)

大体の人は幾ばくかのドッカーン を経験する。

晴天の霹靂だ。

そのために必要な事が起きる。

それぞれの人にその人にあったドッカーンを体験してもらうために

ユニバースは必要なものを用意周到に準備してくるのだ。 そう、無慈悲にね。

でも、そこを突破したら憑き物が落ちる。

しがみついていたとらわれが要らないことに気付くのだ。

これを経験しちゃった人、おめでとうございます。

すごい複雑な暗いサングラス?を外したかのような新鮮な世界。

「あ、要らね」ってなったら合格。

自我は抵抗しますけどね。

だって、後生大事に握りしめて来たそのとらわれを手放したら
これまでの気の遠くなるような努力が無駄だったって認めることになるんだから。

そんな恐ろしい事見たくないじゃないですか。

いや、でも、実際無駄だったんで 
それに気づいた時はもう笑っちゃうしかない。

すごい壮大な自分劇場を演じていたのよね 私は。

というなんとも痛ましい自虐ネタの悲喜劇

笑い飛ばせれば 自由。晴れて無罪放免となるのです。

 

それにしても、この世界。巧妙に仕掛けて来るよね、

気付きのテーマ。これでもか! とばかりに。

でも、よく考えてみると、自分がそういったカルマのエネルギーをもっていることで起きているのだから

起こしていたのは私だったのね ってことにもまた笑えます。

無意識が現実化して、
コントロールしたい自我の願いは崩壊します。

手放して委ねた方が 豊かになれますよ。

あなたがワクワクすれば豊かさは集まってきます。

 

ちなみにとらわれは「絶対譲れないもの」

害のないこだわりは 好みの範疇で、それは別に「あっても無くても差しさわりはないもの」
この場合あなたの好みが優先されます。(100%ではない。世界側の都合もあるからね)

「大好き・嬉しい」は強力です。

この世界のどこを見るかであなたの人生は変わる

Take it easy