2017年10月

人間

人間の一生というものは 長いようで短いものです。

自分の年齢も気が付けば半世紀をこえていますし、

親が老いる年代の真っただ中にいます。

 

自分自身は 瞑想やスピリチュアルにかかわるようになって 死生観がそれまでのものと変わりまして

魂は死なない という感覚をもっておりますので 肉体の死は 単に通過点でしかありません。

この肉体の人生の卒業 としてとらえています。

これはタイやブータンでもそのように考えられていて(チベットでもそうだと思いますが)

輪廻転生やワンネスの世界観を持っている者は 死は恐れるものではないのです。

 

母が病気になって 亡くなるまでの間、 まるで見えないゴールを待ち続けるような日々に

母は 「いつまでこのような状態でいきなければいけないの?」 と つぶやくことがありましたが、

私は 死は恐れるものではないし 生きるという修行もまた 取り組まねばならないもので

その間にどう生きるかを問われている ということを話したりしていました。

 

母にとって 死は 動かない身体からの解放でもありました。

でも死ぬときは怖かっただろうけど、 一番身近で世話をしていた妹に手と頬を撫でられながら 

子や孫たちに囲まれて息を引き取ったことは私はよかった と 思っています。

彼女は育てた者たちに囲まれて 愛されておりました。

それを感じ取ってくれたでしょうか。

 

今は まだ父が健在で、80歳になる今も働いておりますが、

できることをし続ける という父の希望は叶えてやりたいとも思うのです。

母と同様、父も一言では語りつくせない苦労と波乱の人生ではありますが、

この世で生きたことを少しでも 良かったと思えるような気持ちを持ってくれたらいいとも思います。

 

たとえどんなことがあったとしても

魂が存在したということは 輝きであると 思うのです。

カルマを手放して 魂の故郷に帰るまで、 一つでも多く 徳を積んでより輝いて 幸福を手にしてもらいたいと思うのでした。

また 私自身も 子供の思いを思えば そのようにしたいと思うのでした。

人として生きた感動を手にして あの世で光になる 

 

全ての人がそうなのだと 思います。

 

ちなみに あの世はどこか遠くになるのではなく ここに重なって同じ場に違う次元とすぃて存在すると

私は思っております。

ですから 亡くなった人々は混ざったり別れたりしながら 相変わらず一緒にいるのです。

そう 思っております。