2023年10月

人間の身体と心

すっかりブログをサボってしまいました💦

このところは、ぼちぼち仏画の個展準備に入っておりまして、
そういうモードになると頭の中が仏画一色になってしまいます。😓
集中する というよりか、他の事が抜け落ちてしまう感じ。。
できる人もいるかもしれないけど、私には無理っぽい。😅
これがどうにも修正できないのでいつのころからか諦めた感じ。
「完璧は無理」ポンコツを認め、降参しました。

しばしば思うのですが、特に私?(もしかしたら他の人も)
日常生活で 自分の行動が気分に左右されることが多いなぁ と思います。

何を決めるにしても気分で決めているようなものかもしれない。
客観的に 考えたり判断したり は、瞑想をするようになって感情が静かになってからやっとできるようになったことで。。
そうでない時はいつも感情でゴチャゴチャだった。
(なにせカルマ満載でしたから)
だから他の皆様が感情に振り回されるのはごく普通のことだと思います。
それに女子は特にホルモンバランスに左右されますしね。
男性にもホルモンバランスあると思いますよ。女子ほど上下の振れ幅が顕著じゃないだけで。
ストレスでホルモンバランス崩れたら体調も意識も不安定になるでしょ。
カルマとホルモン これは大きいなぁ。
振れ幅には 個人差も大きいですけどね。

集団に属していたり、人目があると 規範通りに動こうとするモチベーションが高くなりますが、
行動が個人的なものになるほど、気分に左右されやすいものだと感じます。

会社で働いている時や人目を気にしないといけない立場ではキチンとしたいのは日本人の特徴かもしれません。
でも、そういった自分の気分を抑え込んでしまう行動は、
いろんなものを抑圧したり、ストレスが溜まりますので
別の所で解放がおきたりするものなのです。

2023年の現代はどうなのかわかりませんが、
ちょっと前までのサラリーマンのお父さんがお酒の席で羽目を外すのなんかはそういうのなのでしょうね。

今の時代は昔に比べてかなり圧力は抑えられて来ているようですが、それでもまだまだありますよね。

ただ、社会・・というか(集団)会社の常識 とやらに 意識的にとらわれている人もまだまだ多いようですので
意識的に縛られて不自由な日常になっている人が多いかもしれません。

組織や集団の縛りは 適度ですと人間が効率よく働くのに役立ちますが、
過剰になっていくほど、人々が奴隷のようになってしまいます。

自分自身が 自分の思い込みの奴隷にならないよう気を付けたいものです。

あなたが苦しければ それは 適度 ではありません。

充実していて、よく働く自分を褒めてあげられる程度が充分な量なのです。
悲しくなるほど働いてはいけません。

適度なストレスは 人生のスパイスです。平和過ぎると人々は退屈でストレスが溜まります。
活動するようにできていますからね、この体は。
でも、やはり過度のストレスは病気の元です。

苦しくなったら、ひとまず全ての問題を脇に置いて、
何も掴まない心の状態に戻ります。(心だけ荷下ろしします。しばらくの時間だけでもいい)

押し寄せる感情の波に飲み込まれている時でさえも
内側の静寂に立ち返るのです。瞑想はそのための時間。
飛ぶ鳥も羽を休めなければなりません。

もしも 今
あなたの人生に試練が現れているなら、あなたは愛のためにそれを乗り越えてください。
愛でないもののために戦う必要はありません。

そして、本当の愛とは何なのか という大きなテーマを
見直してほしいのです。

それが分かった時、あなたは新時代の生き方ができるようになるでしょう。

感情の波が過ぎ去った時、あなたは本当に大事なことがわかります。
そのためにも試練は必要なのです。
あなたが試練を越えた時、あなたの魂は大きく成長しています。

焦らず、心を鎮めて 静寂から世界を見てください。

愛の波動

人を動かしたり変えたりする原動力は

怖れ か 愛 のどちらかです。

カルマ か 愛 か

この 愛 は 恋愛や執着を含まない エターナルラブ 永遠の神の愛 のことです

人間の本質にある 優しさや慈悲の心で それは見返りを期待する意識はありません。

日本人はこの愛「困っている人があれば助ける」という意識を持った人が多いので

全世界から賞賛されることも多いようです。

日本の文化は素敵です。

でも、エゴはあらゆる隙間に入って来ては
意識に我を混ぜ込んでしまいます
これは肉体を持つ生き物の防衛反応なので仕方がないのですが、
エゴの意識は 全体を見渡す余裕が無い ということと
愛ではない波動(怖れ)を持ち込み始めるので せっかくの愛の波動を下げてしまうのです。

愛でないものは摩擦を生みます。
摩擦が生じた時に、愛はその摩擦を溶かしますが、
愛でないネガティブな波動は 火に油を注ぎます。

なので、事が起きた時は特に 波動を愛に戻す ということが必要なのです。

他者のエゴが あなたの何かを奪ったとしても、
あなたは愛でいたほうがいいのです。

あなたの持つ波動は あなたに次の豊かさをもたらします。
物質的豊かさとは限りません。
あなたが満たされる状態になっていくのです。

そういうことを説いている宗教や宗派は多いので 
それで救われる人々も沢山おられるでしょう。

ただ、人間の心には隙間に染み込むエゴと潜んでいるカルマがありますので
きがつかないうちに怖れを元にした考えが発生してしまいます。

危険なものは回避すべきですが、行動のベースが怖れになっているなら
あなたは 愛を忘れているかもしれません。

宗教は、真理を教えとしているものも多く、それを手掛かりに幸せな生き方ができるようになることも多いです。
何か心強いよりどころを感じて安心することによって、怖れから離れ、波動が上がります。
でも 宗教 という仕組みに問題があって、
教えを理解する前に、戒律という形にとらわれ、怖れてしまうことや
それで他者を裁き始めることなのです。
それをせずに 愛がベースで快く戒律を守って暮らすことには何の問題もありません。
(怖れを煽って信者を集めている宗教はこの限りではありません)

波動を愛にする ということがどういうことか を理解した時
多くの宗教が 真理を見ている ということに気付きます。

教えや戒律の表現はそれぞれに違っていたり、時には何かにとらわれたものもあるかもしれません。
摩擦を回避することに熱心になりすぎて 人間の本質を忌避したり、悪を生み出したりすることもあります。
でもそれは怖れに他なりません。

大事なのは 愛 に戻ることです。

そうしなければならない のではなく、そうした方が幸せに生きられるからです。

目先の問題ではありません。

おうちの中や家の周りを掃除するのと同じです。

綺麗な場所で気持ちよく暮らす 

(笑) 片づけられなくても 愛に満ちた波動ならば
それはそれでいいですよ。

笑顔のある生活を。

本質に気付く

10月も後半に入り、ずいぶん涼しくなってきましたね。
そりゃあそうだ と思いながらも
毎年今日は暑い、今日は寒いと言いながら
季節が」変わっていきます。
1年が早く感じるのは歳のせいでしょうか(笑)
ホントに早いです。個展まであと5ヶ月ほどしかない!ヤバいです。

御多分に漏れず、お尻に火がついて焦る性分は直らないというか進行してます(苦笑)
そんなこんな 普通の人間の生活。焦っても仕方がない。
できるようにやろう。というところにいつも落ち着きます。

さて、話は変わりますが
皆さんは 宗教に対してどんなイメージをお持ちですか?

私は30代くらいから仏教に興味があったので、
いくつかの仏教系の宗教団体とかお寺にお説法を聞きに行ったりした時期がありました。
今は行ってないです。お説法はYouTubeで聴けますからね。

36歳の時に福岡に引っ越してきて、ママ友さんからスピリチュアルを教えてもらってからは
特定の宗教団体に入ろうとは思わなくなりました。でも『真理』というものはあるんです。

神 とか 仏 という意識の存在もあると思います。
私にはその声は言葉では聴こえないのですが、
意思や感情は分かる気がします。
なんで神仏がいると思ったのか というと、

それらの意思表示を示してくる時があります。
これはどうしても それ としか思いようが無いだろう!というほど、
はっきりしたものを示してくることがあるんです。

でも、そういうものに気付く ということをしなければ見逃したり、
気のせいだ と思ってしまうものなのでしょう。
流れの方向性や法則を知らないうちもそれは見分けがつかないかもしれません。

ただ、私達人間の在りように合わせて、それに意思表示してきます。
そして、それを感じ取る私達自身のことをハイヤーセルフ と呼びます。

私たちの内側にハイヤーセルフの声を聴く

この世界の動きを見てユニバースの意思を読み取る

そして、ハイヤーセルフやユニバースの喜ぶように生きれば
神仏も私達自身も幸福を感じて生きることができます。

でも、身体の方のシステムの方が強いんですよね。
危険回避のシステム、未知のものを恐れるシステムです。

知らないものが怖い というのは それは敵かもしれない という怖れなのですが
その時に、それが味方や守護だ という可能性は切り捨てちゃうんですよね。

危ないいからチャレンジしない というやり方です。

私の個人的な体験では 未知のものが怖い と思っていた時期は、生きることそのものが恐ろしかったです。

私は不幸になるかもしれない とか、まだやったことも無い事をうまくやれる気がしなかった。

それをやってみたこともないくせに なにもせずに 最初からうまくやろうと思っていたのでしょうかねぇ?
笑っちゃいますよね。当時のプライドはすごく思いあがっていたのかも? 
あるいは ちゃんとできないと愛してもらえない と思っていた とか。

で、まだやってみたことがないことは 最初は上手に出来ないものですよねぇ。普通は。
それを最初からうまくできないと投げ出したら もう何にも出来るようになんてならないですよね(笑)
頑張って褒めてくれる人がいてくれないと成り立たない。
周りの大人に恵まれなかった人は苦労します。
スタートがマイナスだもんね。(^_^;)

でも、やってて楽しい事はそんな評価とか割とどうでもよく何度もやって気が付いたらちょっと人より上手になっていて
また気分良くなってますます上達していきますよね。

だから好きな事をした方がいいんです。

でも、そのことに興味が無い他人は、それを評価しません。

興味が無いんですから 当然です。みんな、興味の対象は違うんです。

なので あなたの好きな事をしてください。 とことん。

そうすると 自分のしていることを楽しめて ハッピーになって他人にも笑顔を見せたり
親切にしたりするようになるんです。
身内に脚を引っ張る人がいる場合は苦労するかもしれません。
その人は たぶん、育っていく過程で 自分が否定されたんだと思います。

その戦いが 敵がいなくなっても続いてしまうのでしょうね。
自分が否定されたくないために他人を否定する という、
誤った方法を取ってしまっているのです。

だから否定しないであげてください。

もちろん、自分も否定しなくていいんですよ。

誰も間違ってはいないのです。一生懸命生きただけ。

そういうことがわかって、あなたが大きな愛に気付くと
世界はあなたを祝福し始めます。

それはやがてリアルな体験をすることになります。

そういうものが 真理として宗教が立ち上がるのですが、
どういうわけか 教えを語り継ぐ間に、本質の愛の意識が空洞化してしまうようです。

それが形骸化した宗教です。

あなたは本質を知るだけで 真理を体験します。

この世界は愛でできていますので、
人間の怖れや我欲、恨み を手放してしまえば
愛しか残りません

何が愛で 何が愛でないのかを 私たちは学んでます。

宗教の教えは 縛るものではありません。

それを頼りに愛を見つけていくためのものなのです。

縛り始め当た時、本質を見失います。

体験を通じて 人間の我と愛を見極めていくのです。
あなたは 愛を体験してください。

愛を選べばよいのです。

物理法則とスピリチュアル

スピリチュアルって以前は非科学的なものとして扱われていましたよね。
超常現象 って表現されたり。

でも、知れば知るほど、物理法則どおり。
今は物理学的にも意識の波動とか証明されちゃったので
いろんなところでいろんな人が引き寄せの法則とか意識が現実化することを発信していますね。

面白い時代になったものだと つくづく感じます。

ちょっと考えてみると、昔(ちょっと前まで)は
自分たちが知らない物理法則は 超常現象 って言ってたのか・・・ 
非科学的とか迷信 なんて言い方もあるけど。

その昔、地球が平らなお盆のようなものだと思われていた時に
地球は丸い!と言った人を「頭がおかしい」って周りのみんなが言ってたのと同じ。
当たり前 ってのは「正解」とは限らないのですよね。

面白いですよね。

人間ってどれだけ自分を賢いと思いたいのか? って笑っちゃいますよね。

正義を振りかざす っていうのも同じですよね。

主人に滅私奉公したり、君主に忠義を誓うのがカッコイイ生き方だと思っている人、現代はもういませんしね。
いるのかな? いないと思うけど。

あ、いや、いるかも。
社畜と呼ばれるみなさん、滅私奉公しちゃってる。
でもこれは 主人にじゃなくて、給料に滅私奉公してるんですかね。
資本主義社会 というのはそういう社会。

これは人間が幸せになれそうにないシステムみたいですね。
お金の奴隷にはならない方がいいし。

でも、お金を持っていないと生きづらい都会に人間が集まっちゃって
お金が無いと生きにくい生活を続けようと必死に労働して お金を流通させてる。

これ、「六道輪廻から抜けられないよう~」っていうのと
同じ構造じゃないかな?

お金の崇拝をやめないと経済六道輪廻から抜けられない
つまり、天国になったり地獄になったりの綱渡りが続く ってことですね。

お金と文明、お金が無くなることへの不安から
増やそうとして 無くしたり、取られたり、
なかなかに怖い六道輪廻かも。

そういう時、不安をあおる原因の一つに
病気になったらどうしよう とか 死んだらどうしよう 
路頭に迷ったらどうしよう っていうの がありますね

これ、魂は死なない ということがわかると、途端に怖くなくなっちゃうんですよ。

身体が死んだって私はいるんですもの。存在するんです。意識が。

そしてまたどこかに生まれるかもしれないし。生まれないで見てるだけをするかもしれないし。

その意識の状態が かつて戸村寿子だったことを覚えているかどうか なんてことはどうでもいい。

それはほんのひとときの経験でしかないのだから。

人生なんて本当に一時の経験でしかないです。 
というのはもう残りの方が少ない人間だからそう思うんですけど。(笑)

確実にある期限を見てそれが来るのを恐れる というのは なんか面白くないですよね。
それは、死 というのがあまりにも未知だと感じているからでしょうね。

知らないものは怖い。
だから使い勝手が悪くても知っているものの方が安心 なだけで。

資本主義社会は、それを操っている人のためのもので、
お金は単なる手段で神ではない。

道具に命をかけたり、道具のために魂を売ったりするのは
悪魔に魂を売るのと同じに思えるのだけど。

それが正しいことだと信じていたり、嫌だけどそれでしか生きられないと思い込んでしまっていたら、
かなり生きづらいだろうな と 思うのです。

この世界の人間が作ったシステムだけを見るのではなくて、

もう少し元からある自然の流れや意識の持つ力のことを知って
この世界を生きやすい生き方をしてみませんか? と私は大きな声で言いたいのです。

で、それが知れ渡るのが次世代の人間の生き方。

新しい時代の到来なのです。

宗教性と科学は融合するでしょうね。
誤った宗教性も淘汰されるんじゃないかな と 思っています。

でも、人間は間違ってみないとわからないので、
どれもが必要なプロセスなんでしょうね。

妄信は危ういです。「間違った考え」という表現は微妙なんですけど、
妄信って何世代にも渡って引き継がれちゃうものですしね、
気が付いたら幸せになれないものにしがみついてる。

何が違うのか というと、
摩擦を起こす行動は生きづらく、摩擦を手放すとスムーズ。
(だけど慣れない生き方は怖いみたい)

そもそも、なぜわざわざ生きづらい生き方を選んで来たか ですが、
人間はスムーズだけだと刺激が足らなくて退屈するみたいで
欲にかられたりして いろんな摩擦に飛び込むんですよね。
たぶん、今生で魂がそれをやりたかった ってことみたいですが、
それが嫌になったら、止めていいんですよね、本当は。
(だけど、慣れない生き方は怖いみたい)

いつだって 本当は選択は自由。

ただ、集団の妄信は沢山犠牲を出すので
早めに大勢が目覚めて欲しいなぁと思うのでした。

戦争なんてのも集団自殺みたいなものです。

まだ寿命でもない生きているものを殺すのは本当に大きなエネルギーが要る。

そんなところにエネルギーを使わないで
分け合って多くの命を育むことに使って欲しいですよね。ほんとに。。

現代人のテーマも同じです。

分け合って多くの命を育む というのは

自分の命も守られる ということです。

私がするから 私もされる。 それしかないのです。 エネルギーだから。

愛の波動はピンク色 だそうです。
ピンク色の中で喧嘩しにくいですよね(笑)

あ、これは桃色かなぁ(笑) 概ねピーチのペールピンク🍑
個人的にはこのピンクが好きだけど
ボブさんはマジェンダのピンクって言ってたので

👇こっちですね

これでも少々 私の好みに寄せてます(笑) 色ね。

視野

世間ではいろんなことが話題に上がりますね。
災害が起きたりスキャンダルが話題になったり。

刺激的な出来事が起きると人々の関心は一気に持って行かれますね。

関心事って意識という画面の大部分を占めちゃいますね。

ロシアのウクライナ侵攻はこの世界、地球上という単位でみると、随分規模が大きな出来事のように見えますが、
個人的なトラブルなんかは個人としてはウクライナ以上の関心事だったりする。

意識 というスクリーンの中での大きさは、実際の大きさとは関係なく捉えられる。

瞑想者、覚者が達観する というのは、
このズームアップされた関心事項から 限りなくズームアウトして
広範囲を捉える ことですね。

問題は一瞬でちっぽけなものになってしまいます。

痛みにフォーカスしている時は 
この世の終わりのように思える痛みも、
過ぎて痛みが消えてしまうと すっかり忘れてしまったりもするのですが、
カルマのエネルギーが抜けきってない場合はまだまだ痛んでいるので、その傷は大きな厄介なものに感じてしまいます。

神視点では一時的な通過点でしかない出来事も
痛みを感じている当事者には酷い許せない出来事にしか見えなかったりします。

ですがそれも、いずれ過ぎて消えてしまうものなのですが。

痛みから離れたい場合はカルマを終わらせるか、

刺激から離れるか、どちらかしかないでしょう。

でも、カルマを終わらせたい魂は 痛みを感じて昇華しているので
いずれにせよ持ち越しているカルマの痛みは避けようがないものもあります。

それでも、もっと早く終わらせたい 場合には、

赦して 責めない

ということを受け入れますと、摩擦は起こらなくなります。

平和な心というのは そういうものです。

摩擦に懲り懲り とおもえたら、摩擦から手を引こう と思えます。

でも、不思議と人間と言う生き物は 摩擦や苦しみを好みますね。
平和は退屈だったり寂しかったりするのでしょうか。
刺激は魅力的なのかもしれません。

 

一方的に酷いことに巻き込まれる魂は、

先祖のカルマを請け負って、終わらせていく使命を持っているのだそう。

とても勇気があり、愛の大きな魂なのでしょうね。
試練を引き受けた魂は大きく愛へと成長し
蝶のように羽ばたきます。

新しいステージ

今、起きている変化や苦境は

これまでの古い生き方や古いシステムの終焉です

これまで積み上げてきた常識やシステムが崩れる時

それに慣れ親しんだ意識は慌てるでしょう。

見知らぬ新しさなどは まだどんなものか分からないわけですから
不安を感じる人も少なくありません。

でも、この世界は刻々と変化しつづけるのです。

積み木も一つ一つ積み上げて、随分と積みあがって来たら
上の方を支えきれなくなって崩壊する時があります。

たとえ接着剤で固めていたとしても、
頭でっかちになれば頭の重さに耐えきれなくなってひっくり返ってしまいますし、
樹木のように生きているものも 巨樹、古木になっていくと共に
古い部分が朽ちて崩れ落ちてしまう時が来るのです。

この世界のものは不変のものはありません。

旧体制が終わる時、 それは新しい世界の始まりです。

古いやり方の悪しき部分はいつしか不必要になっていくでしょう。

私は高度な文明というのは、
「宇宙人アミ」の世界だと思います。

自分たちの世界が安定して生きやすい世界を作れることが
文明の進化の目指しているものだと思います。

目先の欲望に飲まれて罪を犯すことが身を亡ぼすことだと
気付ける理解力をもつこと。

自分たちの住む場所を安全でクリーンにしておくという事がどういうことなのか?

幸せと言うのはどうやって作り出すのか?

本当の豊かさに気付けること。

これには知能と広い視野が必要です。

沢山のとらわれがあり、狭い視野でしか物事を見られないうちは、
真理は見えません。

世界はそれらのとらわれを外そうと、我々人間を揺さぶっていきます。

また若い意識は、旧体制の生き方を見て学ぶのです。
反面教師も教師です。

とらわれは外れます。

それが必要ないものだと理解した時

そのとらわれは持ち続ける必要はなくなります。

それに気付くための変化はいずれやってきます。

 

お金の奴隷になることを止め、

プライドにとらわれることを終了し、

戦う虚しさに気付きます。

 

私たちが古い感情を出し切ってカルマが内側から消えた時、

私たちはもう無駄な苦しみを背負う必要がなくなるのです。

カルマがなくなった今は、あった時の感情はもうありません。

それは最初からなかったのと同じレベルです。

カルマは実体の無い幻想のようなものです。

ただ、衣服の上についたホコリのようなもので、払えば落ちてしまうようなものなのです。それはあなたの性格でも何でもありません。
ただのカルマです。

手放しきってしまえばよいだけです。

芽は、大木になれるかなんて気にしていません。

ただ、伸びるだけなのです。

草も、冬に枯れることを嘆きません。

また春に発芽するからです。

私たちもやがて肉体を脱いで、また新しい命に宿ります。

命とはそういうものです。

生きている今を愛にします。

愛になればなるほど、その魂は幸福に生きられます。

罪と罰

本日のタイトル、かの文豪の歴史的文学小説のようですが
すみません、それとは関係ありません。

最近はTVはほとんど見ないのですが、ネットでニュースなどを見ます。このところは長年隠蔽されてきた罪が暴かれて問題になっている事件などがありますね

犯罪の被害者と加害者 という関係、
迷惑をかけられたものとかけたもの という関係性において
怒りや恨みの気持ちをどう取り扱えばいいか ということについて
ちょっと書いてみます。

怒りの感情は 誰にでもあります。
理不尽な怒りならいざ知らず、当然の怒りも起こります
怒りに良い悪いは本当は無いのですが、正当に思える怒りは
復讐してもいい、あるいは賠償してもらっていい という認識があったりします。法律で決められていることもありますしね。

昔の時代と違って、武士はそれ以下の民が気にくわなかったら切り殺していい なんて法律はもうなくなりましたけど、
それを思うと、法律の正しさなんてわからないものだ ということは理解できるでしょう。

魂とか神レベルでのお話をします。

私は神ではありませんので断定はしませんが、
この世界の道理 としての法則 でこういうのもある ということなので理解して損にはならないでしょう。

今 理不尽に迷惑をかけられている関係がある時、

それは前世での関係が起因しているそうです。
それは、

迷惑をかけられている場合は、前世に自分がその人に同じ迷惑をかけていたことの報い だそうで、
今生で迷惑をかけられていることで前世の自分の罪が帳消しになる
そうなのです。

自分のカルマを解消するために、今人に与えたものを受け取って±0に戻している。 ということらしい。

そんな、、前世のことなんて覚えてない~っ!

と思うのは当然なんですが、覚えてなければそれが無くなるということにはならないので、どうとらえたとしても起きることは起きるのです。
ほんと、そういうのは科学的に確かめようがないですしね。
前世自体もほんとうにあるかどうかわからない と言ってしまえばおしまいですが、この世界はそういうものらしい。

そういうと、魂自体、個別にずっと存続するわけじゃないので

私と言う個人は、神に戻り、また神の一部としてこの世に戻って来る仕組みから考えると、

人類が為した罪を人類である子孫は負う ということになりますね。

この世に罪がある限り、子孫たちはそれを癒すしかない。

なので仕返しをするのは 罪や遺恨を終わらせない方法でしかないので、

私たちに戻って来る罰は終わらないわけです。

でも、個々が担当するカルマの解放は、
今生持ってきて担当する分だけの苦しみを体験して解放してしまえば、とりあえず自分のカルマは終わる そうですし、

他者の解放や癒しを手伝うと、光貯金が増えてカルマはどんどん昇華されますし、親族や先祖の分まで問題やしこりを解決していくと、

自分個人だけでなく所属するコミュニティの範囲までの私たちをどんどん浄化していくことになります。

あなたがいる環境を浄化していく ということはそういうことなんですね。

物質的にお掃除するのと同じように
エネルギー的に浄化していく これをする人としない人の人生が違うのは当然です。

自分の環境がよろしくない というのは
これまでの先祖が行いを怠ってきた とか 罪を重ねてきた
ということで、この因果応報は子孫に請け負わされるのですが、
魂はその学びの系列に再び生まれ変わる という性質があって
自分が自分の子孫の系列に再生する なら、それはやはり自分の罪を今生で浄化していくことに他なりません。

なので、嫌なことがあったら、これまでの身に覚えのある罪もない罪もがここで終わりにしてもらえるということなので

それ以上に人に痛みを与えたり罰をあたえたりする必要が無い。

罪を犯した人や他者に痛みを与えた人はその人の人生においていずれその応報を受け取ることになるので放っておけば流れに任せておけばいい ということなのです。

もちろん、出たがるものは出して構いません。それも流れです。
嫌なものは嫌と言います。降りかかる火の粉は払います。
怒ってもいいし言いたいことを言ってもいい。

そうして過ぎていく時の中で

いつまでも恨みを持続する必要は無いし
あなた自身はあなた自身を癒して心安らかに生きるだけですべてが健やかに巡っていくのです。

あなたが好きな気持のよい風景と空を眺めましょう。