世間ではいろんなことが話題に上がりますね。
災害が起きたりスキャンダルが話題になったり。
刺激的な出来事が起きると人々の関心は一気に持って行かれますね。
関心事って意識という画面の大部分を占めちゃいますね。
ロシアのウクライナ侵攻はこの世界、地球上という単位でみると、随分規模が大きな出来事のように見えますが、
個人的なトラブルなんかは個人としてはウクライナ以上の関心事だったりする。
意識 というスクリーンの中での大きさは、実際の大きさとは関係なく捉えられる。
瞑想者、覚者が達観する というのは、
このズームアップされた関心事項から 限りなくズームアウトして
広範囲を捉える ことですね。
問題は一瞬でちっぽけなものになってしまいます。
痛みにフォーカスしている時は
この世の終わりのように思える痛みも、
過ぎて痛みが消えてしまうと すっかり忘れてしまったりもするのですが、
カルマのエネルギーが抜けきってない場合はまだまだ痛んでいるので、その傷は大きな厄介なものに感じてしまいます。
神視点では一時的な通過点でしかない出来事も
痛みを感じている当事者には酷い許せない出来事にしか見えなかったりします。
ですがそれも、いずれ過ぎて消えてしまうものなのですが。
痛みから離れたい場合はカルマを終わらせるか、
刺激から離れるか、どちらかしかないでしょう。
でも、カルマを終わらせたい魂は 痛みを感じて昇華しているので
いずれにせよ持ち越しているカルマの痛みは避けようがないものもあります。
それでも、もっと早く終わらせたい 場合には、
赦して 責めない
ということを受け入れますと、摩擦は起こらなくなります。
平和な心というのは そういうものです。
摩擦に懲り懲り とおもえたら、摩擦から手を引こう と思えます。
でも、不思議と人間と言う生き物は 摩擦や苦しみを好みますね。
平和は退屈だったり寂しかったりするのでしょうか。
刺激は魅力的なのかもしれません。
一方的に酷いことに巻き込まれる魂は、
先祖のカルマを請け負って、終わらせていく使命を持っているのだそう。
とても勇気があり、愛の大きな魂なのでしょうね。
試練を引き受けた魂は大きく愛へと成長し
蝶のように羽ばたきます。