生きる

終戦記念日 心の平和

今日8月15日は あの痛ましい戦争が終わった日でした。

正しいと信じてお国のために命を捧げて散って行った多くの国民

集団幻想としての正義は 時に大きな犠牲を作り出します。

それが正義だと信じさせられた時代。犠牲と痛みの多い試練でした。

今の日本は戦争を放棄して国内では戦闘のない生活をしていますが、

国民はまた別の正義や価値観に縛られてもいます。

この自由な時代の日本で自由に生きていない人々がいる。

資本主義の正義に取り込まれて それに依存しないと生きていけないと多くの人が信じて来た時代

それが戦後の日本でした。

でも、それで頑張って発展して豊かになった日本は、皆が豊かさを享受して幸福に生活しているかというと、割とそうでもない方が多い。

ワーキングスタイル 働き方について ちょっと考察してみましょう。

私のような 組織に所属せずに仕事をしている人間は、時間もスケジュールもノルマも自分次第に融通できますが、

会社組織に入りますと、会社のマネーゲームに追い立てられることになる。

社員の生活や仕事の待遇を守ろうという会社なら良いのですが、利益が第一優先の会社は社員は使い捨ての道具のように見ていたりします

社員さんたちは、この会社を辞めると生活の手立てがない と思い込んでいると辞められず、病むほど仕事をしてしまったりします。

ここで自分を守れるのは自分しかいません。雇用制度があるとはいえ会社が人生を守ってくれるとは限らない。

会社に依存して会社の言いなりになることは正しい事ではなくなりました。(昭和はそれが正解とされていましたが)

経験を積んで仕事を覚えないと仕事がこなせない ということはあるでしょう。それまでは少なからず努力が必要

でも、覚える時間も個人差がありますし、個々で得手不得手は違います。

比較的得意な事と仕事内容が一致していれば成績は伸びましょうし、そうでなければ頑張ってもなかなかです。

会社がそういうことを踏まえて適材適所に人材を配置するような会社ならよいのですが、そうではないところも多いようで。

これは働きにくいですよね。

優秀な会社は人事部もしっかりしているかもですが、そうでないところも多い

会社にとっては誰が歯車になってくれても機能さえすればよいので とにかく成果を要求されることになりますが、

そのゲームはあなたの人生とはあまり関係がなかったりします。会社の都合が個人よりも優先される所。

自分自身が自営業という道を選んで生きてみると、自営業の在り方にはすごく幅があって

それぞれが自分のやり易いようにワークスタイルを組めるメリットがあります。

自分が働いた分がダイレクトに利益に反映し、ただ「時間」ではなく創意工夫が重要になります。

勤め人は業務のことだけ考えればいい というメリットがあるけど、自由さが無い。会社によって待遇がかなり違う

自営業は自由だけど何もかも全部自分の責任でやらねばならず、従業員がいて手分けができる場合はいいけど、組織を作る事も自分で構築する手間が要る。
社会保障や雇用保障などは無い。リスクが大きそう?って見えちゃいますよね(笑) 

確かに。度胸が要るには違いない。もしくは無鉄砲さ?なんとかなる精神?

また 別方面の生き方、最近時々耳にする、自給自足生活。ポツンと一軒家 的な?

これは経験がない都会人にとってはとてもハードルが高そうに思えますが、やったことないから無理と思うのも残念、

もしやってみたいと思う場合は、キャンプなどの野外活動とか、家庭菜園など農業の基礎を体験しておく方がいいんじゃないか と 思いますね。

自給自足の生活は 食べ物を作ったり家を整えたりという労働がメインになると思いますが、そういった大地に触れる作業は 人間の生命力を活性化する作用があるようです。

本当に都会の生活に行き詰ったら 都会から離れた生活も視野に入れていいのかも。

ベテランの瞑想者さんたちのように 気難しくなく、いつも穏やかにいられる方なら どこに行っても生きていけそうですけどね。(笑)

人と摩擦を起こさない方法は 他者のやり方や在り方を否定しない 裁かない ということから始まります。

 

都会には都会の厳しさ、自然には自然の厳しさ。

何が良いというより、あなたが何を求めるか だ。

好きなものに関する苦労は喜びに繋がる。

人生何があるかわからないから面白い

いろんなタイプの人がいると思います。

私はちょっと個性的な方で、自分がやりたいと思ったことを我慢するのが苦手な子供でした。

大きくなってからもその傾向は強く、嫌なものは絶対嫌だし、やりたいことは騒ぎ立てるか隠れてでもやったりするような子でした。

でも、ちょっと小賢しいところもあり、大人にとがめられずにやりたいことをやるためにはどうしたらいいか?なんてこともよく考えてましたし、

嘘をつく時はその嘘が本当だと自分も思い込んだ方がバレにくい なんてとんでもないことを考えたりしていた記憶があります。

だけど、実際は嘘はいずれバレるし、嘘を誤魔化すための嘘をつかないといけなくなり

物凄く面倒くさいことになる という事が分かり、嘘をつくことはやめたのでした。

悪いこともやってみて初めてそれをしない方がいい理由がわかる という体験型学習 (笑)

しかし、そんなとんでもないことをやってて親を誤魔化せたのは、

うちの両親があまり子供に興味がなかったからかもしれません。

子供心にうちは放任主義なんだな と思っていました。親の監視がないので、ある意味好き放題 と言いたいところでしたが、

親の決め事だけは絶対 だったので、門限とか、あと、高校生の頃は軽音楽部に入るのを許されなかった(軽音に入ると不良になると思ってたみたい)とか

割と偏った親の価値観の縛りはありました。

でも、子供の様子に無頓着でしたので、中学生の頃、いじめにあって思いつめていたのに気づいてもらえず、担任の先生から報告があって知った時も

「もう解決したならいいです」というような反応でした。

当時、母はワンオペ育児で年の離れた幼い妹もいて大きくなった子のことまで気にしている余裕がなかったんでしょうね。

いじめ以降私が対人恐怖症になっていたのですが、何のケアもないまま時間が経ち、気が付くと15歳で摂食障害になってました。

そこから すごく偏った世界観で若い時代を過ごし、自分の病状を親に隠し、親も見て見ぬふりをして十年ほど経ち、

親に何か期待しても何も取り戻せないとわかったのが25歳。

親が子供の愛し方を知らず、自己承認を出来るようになるためには 自分で自分を育て直さないといけないのだ ということがわかったんですね、

それから、その方法を探すんです。 どう生きるべきか? 何が足らなくてこんなこと(摂食障害)になっているのか

どうしてパニックがやってくるのか? どうすれば普通に生きれるのか? どうして私は普通じゃないのか?

そう、普通じゃない と思ってた。

でも、何が普通なんだろう?

世間でうまくやっている人みたいにできていないことは確かだ。

この、まるで悪魔がついたかのような病気は、自分の意志でどうすることもできない。 私の人生は最悪に見えました。

摂食障害やその他の依存症の原因は、意識のベースに在る不安や恐怖からの逃避なんです。

その原因の方が漠然としすぎていて、恐ろしすぎて直視できないので逃げる。

もしかして、私は誰かも愛されないのではないか こんな私では。。。 という恐怖です。

条件付けされた愛で育てられると そういう風になるようです。

いい子で居れば大好き。おりこうさん よくできた子 などなど。

本当の子供の気持ちは親は興味がなかった。なにをするか 何を言うか だけしか見ていなかった。

それは、その親自身が そのように扱われた経験がない ということ。

愛情深く育てられたことがない人は愛し方がわからない。

それはけっして子供に愛情がない というわけではないんです。

子供は幸せに育てられるべきだし、守らなきゃいけないと真剣に思ってる。

でもそれがすごく形にとらわれたもので 良いであろう型にはめることが子育てだと勘違いされたんですね。

自分自身もその価値観で必死で型にハマろうと生きて来た ということ。

真面目であるがゆえに。

元凶はなんでしょうか?

無知である ということです。

これが仏教でいう 無明(むみょう)

法(この世界の法則)つまり真理を知らない ということ。

でも、真理ってなんだ? という問題も その答えを知る人がすごく少なかったのですから

責めるのも酷ですよね。

人類がありとあらゆる、残念な体験を通して

本当に幸福になれるためのヒントを探す 壮大な旅 ですよね。

この意識の進化が 本当の進化じゃないのか と 私は思うのですが、

そのために 極端にまずい例を体験してみて、真理への渇望を得て そして 見つかるんですよ。

 

今の情報化時代に 真理 宇宙の法則 は

瞬く間に求めていた人たちの元にひろがってゆくのです

苦しむ者は幸いです というのはキリスト教の言葉でしょうか

今 人生に行き詰っている人はターニングポイントです。

そして新たな価値観、いいえ、価値観にとらわれない世界観で生きて良いのです。

自分の求める生き方をしていい。誰かの意見に惑わされなくてもいいのです。

私達自身が 基準を 形のない「愛」に置けば、すべては癒されていきます。

一人一人形は違うけど あるがままで許し合える世界

それが天国の生き方なのです。だれも、非難せず、非難されず。

傷は癒すもの。手当するもの。

命を養い慈しむ。

誰もがあるがままで尊いのです。

怖れを手放して この世界を信頼したなら、不安は消える。

死すらも恐れる対象にはならなくなります。

人生は長ければ良いというものでもなく

あなたが何を体験したかが大事。

その体験を止める必要はないのです。

どんな体験も最終的にあなたに愛を教えるでしょう。

本当はこの世界に愛されているということを知ります。

命を持って生まれてきたことが祝福なのですから。

誰よりも自らが自分を愛してください。尊い命として。

そして、人を助けた時、またあなたも助けられ

あなたが人を愛した時、あなたも人から愛される。

あなたを愛するのは(他者に姿を変えた)あなたなのです。

あなたが本気で信じる世界が あなたの前に展開します。

美しい地球  美しい日本

あなたは日本の美しさを知っていますか?

あなたは愛の美しさを知っていますか?

あなたはあなたの中の愛を知っていますか?

災害の話題から

近年、大きな自然災害が増えていますね。

激動の時代に突入した と言われてしばらく経ちます。今をピークに前後50年、トータルで100年で世界の意識が入れ替わる と瞑想マスターが言っていました。

今はそのピーク、ありとあらゆる試練に人類は揺さぶられます。

人間自ら愚かなことを引き起こしたり、社会システムが崩壊したり、善良に生きてきてつもりなのに自然災害に見舞われたり。。。

自然災害が起きると被災者の方々は大変困ります。なぜこんな目に合わないといけないのか、

なぜ自分が被災者なのか

大事な人が亡くなったり、家を失ったり、人生が絶望的に感じられたりされる事と思います。

なぜ、神様は私たちをこんな目に遭わすのか 恨めしく思うこともあるでしょう

人生の中の予想外の大変な事。

それは私たちの意識を揺さぶって変容させるきっかけとして与えられます。被災者の方々だけに与えられた試練ではなく、そのことを見聞きする人々まで

それは試練なのです。多くの人々をきづかせるために起きる揺さぶり。

大切なものは失ってみて初めて気付くもの。 依存しているモノが引き剥がされたり、この世は何がおきるかわからないものであること

与えられたものは永遠ではないこと 自分の無力さや、自分たちの無力さ、

逆に、危機的状況における愛の発動。純粋な愛が発揮される機会

助け合うことで実現する 天国式の関わり(与え合いサポートしあうこと)

私たちの力というのは1人だけでするものではない ということ

奪い合うよりも与え合うことで世界は変わる事 地獄とは 天国とは

そんなありとあらゆる諸々の要素が、日常の均衡を破って、目の前に現れる。

エゴはどう動くか、愛はどう動くか あなたはどちらを選びたいのか。

ささいなことにこだわっていたことが いかにどうでもよかったか。

本当に大事なのは命があり愛があること

エゴが吹き飛び、むき身の純粋な愛が現れる瞬間だ。

これまでこだわったつまらないことが吹き飛んでエゴが消えてしまった人。

その生きざまを見る人、揺さぶられる人

悲しみを越えて生きる輝き、

そんな過酷な条件を誰かが代表して体験するのが被災なのです。

少々の事では人間はエゴを捨てない。神様側は小出しに出して試しているようなのですが、

一度に多くを目覚めさせるにはかなりのショック療法が必要らしい。

できれば私たちは早めに気付いて、犠牲は少なくすませたいものです。

関西に住んでいる時は「愛でおまんまが食えるか」なんて言葉を聞きましたが

ここ九州では愛が命を養うのは割と普通な事のように思える。

関西でも愛ある人はいたはず。

私が人を信じていなかったからそういう人ばかりが目に映ったのかもしれない。

この世界は あなたの信じるように動きます。

不信感を持てば、信じられない例を沢山見るし、

信頼すれば 私たちは護られる。

私がどのくらい人を守るかで私がどのくらい守られるかが決まる。

ある意味、そこにいる困った人は あなた自身でもあるのだ。

こんな人が助けられる社会は私が困った時も同じように助けてくる人がいる

あなたがしたことをされる というのはそういう法則で

あなたが他者に何かをする時、あなた自身ならどれほどの思いやりが欲しいのか

迷惑なほど欲しいのか、冷たくされるのか、甘やかされたいのか

人任せで何も自分ではできなくなりたいのか、

怖がっている時、勇気づけられたいのか

イライラして当たり散らされたいのか

失言を重く受け止めて凹まれたいのか

いつまでも傷付いたことを引きずり続けてほしいのか 

 

笑顔と、遠慮と、怒りと、無視と、

あなたはどれが欲しいのか

 

そしてあなたはどれを与えるのか  

自分自身のエゴのすることと、エゴを持った人間をどう許していくのか

 

全ての事象があなたに問いかけているのです。

 

真実は、 あなたも他の人も、 愛で生かされています。

そしてそれぞれの私やあなた自身が愛の源なのです。

そこを発見した時、自分が何を選択したかったのか 何を実践したかったのか

はっきりとわかるようになります。

あなたが出来る方法で 愛で居ればいいのです。他の誰かと同じでなくていい。

ドクダミの花

嫌われがちなこの草の花がどんなに純白で美しいかを 私は知っています。

この植物がどれほど人々を助けて来たことでしょうか。

どんなに良いものでも嫌う人はいます。

それもこれもそっとしておきましょう。問題は、あなたがどう思うかだけです。

魂の体験したいこと

「私の生きる目的は何?」という疑問をもつ方がおられます。

また「私は何のために生きているんだろう?」なんて、1度は思ったことがありませんか?

生きる目的、、、それは ずばり

生きる ということを体験する。

 そこには学びと気付きが満載✨

えっ? 役に立つとか、何かを成し遂げるとか、後世に名を遺す とかじゃないの??と 思うかもしれませんが、

そんなことはありません。それは結果として出てきた物であって 目的ではない。

私たちが生きているのは 生きるという事を体験するため。

そんなの不本意だわ 、意味がわからない と思う方は、なぜそう思うと思いますか?

今まだ全然幸せじゃない  とか  こんなのでは満足しない からでしょうか?

あなたは その目的と思っていたものを達成した後、どうなると思いますか?

なにか、欲しいものや望みがあって、それを手に入れた後、しばらくしてやって来るのは

「それで?・・・」という疑問、何かを手に入れた満足は通過点でしかありません。

例えば、結婚をしたいと思っている人、とりあえずは結婚が目標ですが、

そのゴールの先のことはあまり想像がついていません。

結婚したら幸せになると思っていたけれど。。。 結果はどうでしょうか?

結婚は通過点でしかありません。環境が変わって、また新たな日常がはじまるのです。

何かがあなたを幸せにしてくれるわけではありません。

あなたを幸せにできるのは 本当はあなたしかいないのです。

あなたの在り方があなたを幸せにする。

生きる意味も同じです。

意味は後付けですので、なんとでも言えるのです。

今のあなただって、否定的にも肯定的にも意味付けすることができます。

それは物事のポジティブな面を表現するか

ネガティブな面を表現するかで決まります。

今のあなたに肯定的な意味付けができないとしたら、

それは単に言葉が見つからないだけかもしれません。

また、あなたが肯定するのに必要なハードルを高く設定してしまったがために、

生半可なことじゃOKが出せないような高いハードル、オリンピックの棒高跳びみたいなことになっていたりします。

できないことをできないと地団太踏んで不愉快でいることは 何と言いますか。。。どうでしょうか?

ハードルを下げれば、すぐにOKは出せます。

そんなことで満足する私じゃないの。 って、誰が決めたんでしょうか? あなたです。

え?、お母さん?ですか?お父さん?

あなたはその人たちのために生きているのでしょうか?

その人たちはその結果に責任が取れません。本人じゃないですから。

あなたの人生の結果を受け取るのはあなたしかいません。

だったら、好きに生きる他ありません。

イヤイヤやってる と言いながら、それをさせているのはあなた自身なのです。

自分の行動を決めているのは自分自身。その基準を採用しているのも自分自身。

そのことに気付くと、あなたは選ぶものを変えると思います。

あなたはあなたが選びたいものしか選べないのです。

今選んでいるものを選んだ理由を採用しているのもあなた自身。

他者の価値観やルールに縛られて生きても、その結果はあなたしか責任が取れないのです。

好きなものを選んでいきます。あなたのフィーリングで あなたがうれしくなることを沢山していきます。

そうすれば、あなたは何のために生きているのか?という問いかけをしなくなるでしょう。

そんなことをする必要がなく生きていて楽しく充実するからです。

 

自分の好きな事や楽しい事に 価値を置いていない場合もあります。

それは他者の価値観を採用している時です。

あなたはあなたの感性で優先順位を決めることができます。

あなたの感性はあなた以外にはわかりません。

それぞれの人が同じです。だからそれぞれ、自分の感じるままに生きることを許し合いましょう。

価値観が違う場では生きづらいです。それは当然のこと。

あなたはあなたに合う場所を探す権利があります。

あなたは自由なのです。待っていても、誰かが与えてくれるわけではありません。

でも、あなたが喜んで生きていると、あなたに相応しいものは引き寄せられます。

ですから、あなたはあなたが好きなものを好きだと言ってください。

そして喜んで。

できることしかできませんが、それでいいのです。日々の課題は小さなもの。

結果は積みかさねでできていきます。日々の喜びの積み重ね を増やして大きく育てていくのです。

あなた自身の感性に自信をもってください。そのままでいいのです。

そうやって生きてみて、どうしても摩擦が多いと感じる場合、

何が摩擦を起こしているか 原因が見つかります。

その原因を外していけば、流れはスムーズになります。

そんな作業のお手伝いをするのもアトリエ霽月の瞑想指導です。

 

一人では何をどうしていいか、わからなくて迷子になってしまう というあなたは

ぜひ一度アトリエ霽月で瞑想教師とお話してください。

アトリエ霽月 瞑想教師のカウンセリング 1時間5000円です。

何かを変えたいと思っている方、瞑想伝授コースをお勧めいたします。

日々の瞑想が あなたの中のあなたらしさを輝かせます。

あなたの中に眠るブッダが目を覚まします。

 

普遍の答えはどこに。

本当の正解 つまり 真理とはなんぞや、

というところから始まった答え探し。50年くらいかかってようやく見つかったのは、

正解などという一定の答えは無い ということ

一人一人の人生で これだ と思えるものはそれぞれに違っていて

どれ一つ同じではない。

あなたらしく というのはそういうことだ。

貴方の答えはあなたの中にしかなく、他者の答えは本人の中にしかない。

社会のるーるや周囲の基準、家族の思惑など、良い悪いに分別するいろんな基準があるけれど、

それは正解なわけではない。

同じ事柄でも人が違えば違うように作用するし、違うように感じられるし、

うまくいくかどうかも、その人の状態によって変わって来る。

自分が納得のいく結果が欲しいと思うなら、己の求めているものをしっかりと見据えて行動したり、

全力で体験をして 思い通りにならないことを経験して、

自分の思い込みにすら思い違いがあったことに気付き、一つづつ

自分のあるがままとはなんだったのか を発見していく。

人生は長い旅だ。いや、終わってみれば短い旅かもだけど。

できることや時間に制限があり、その中で何をするかを決め、

闇雲に体験する という 妙な旅だ。

ヒントもなく、時には間違ったルールが最初にあったり、

不自由な制限からスタートすることもある。

この世界がそんなに広いことも知らず、目に見える目先の事だけを手掛かりに何かを探しているのである。

わけわかんねぇ世界。 

でも、そこに探すべきものがある ということにふと気づき、

手がかりの無いところから、あちこちさまよってヒントを探し、

結果的に何十世代も繰り返しながら、現代に到っているのだろう。

今もまだ過渡期かもしれないけど、

本当はヒントは何千年も前に見つけた人がいて、

ご丁寧にそれを世界に伝えるべく広報活動までくていれていたりする。

目の前の現実しかめていない人には理解不能だったり、その中でも何人かはそれを理解しようとし、

一定数の理解者が育って行った。

そして、なんとなくそれを掴み始め 理解したと言えなくもない所に来て思う事、言えること。

悟れば苦悩は消える。

全てが縁で繋がり、今の現実を展開させた自分 この世界は私の現われなのです。

何のために生きているのか? の答えは

生きるという事を体験するため。

何をしてもいいので、皆、自分の思うようにしている。

何かに縛られてそのように生かされていると思っている人は、

その立場をすることを選んでそこにいる。

それ以外のことをできないというルールを自分に当てはめ、そこから出ないことを選択し続ける。

そんなことも自由なのだ。

出れないのではない。出たくない のだ。

出たいという自分の本心を、マインドがストップをかけ、縛る。

マインドは形のない鎖である。目に見えない壁。

本率はそんな人間の性質を利用して作られた 目に見えない制限なのである。

「守らなきゃ罰(ペナルティー)ね~」という圧 と 怖れ。

人間の性質を利用したコントロール方法だ。

集団幻想の場合、それを実践しようとするマインドが多数発生するのでそういうものが同調圧力として働くし

ホンモノの物質の檻も出来上がる。

ジャングルに猛獣が生息するように、都会には目に見えない複雑な制限システムも存在する。

あなたは、都会で生きても、田舎で生きても、ジャングルで生きても、どれでもいいのだ。

ただ、慣れていない場所に恐怖を感じる。

マインドは未知の領域が大嫌いだ。

未知 というリスクを避けるために 居心地の悪い既知を選びたがる。

神様は言う。

どっちでもいいけんね。どっちゃでもええんやで。

さあ、あなたは自由です

好きなように生きてみなさい。

 

世界、不親切だよ~ って思ったんです。
わかんねぇよ、聞いてねえよ そんなの~ って。

でも、どうやら、人類発生の古代からそういうものらしい。

一生やそこらで見つけ切れないのが普通。昔は出会えることすら稀だった。

しかし、、、

インターネットなどというツールが出て来てから
一気に拡がった情報。 今はヒントもいくらでも見つけられる。
わかった人がどんどん発信するからね。

興味を持ちさえすればね。情報はある。

でも、けっこう複雑というか、いや、

元々のこちらのマインドの方が複雑にこじれているので
答側の超シンプルがどうにも掴めない。

こじれた複雑を掃除して取り払ってしまわないと
この世界のシンプルさは見えない。

面倒臭~ と嫌になってしまった人は、

何もかも放り出して、「幸せでいよう!」と 飛び出してください。

それが答えです。

 

余談ですが、
神への問いかけは、発信して そして、しばし待つ。
忘れた頃に答えが降ります。なので発信後はすぐ手放す。
願い事も同じ。

今日は九州地方、地震があって一時緊張感が走りました。
宮﨑のお友達が無事で胸を撫でおろしました。
福岡は震度2~3の微弱な揺れでした。

寅に翼の新キャラ

前回の朝ドラの話
もうちょっと書いてみたいと思います。😅

朝ドラのことが書きたくなったのは、

新潟編で登場した闇深キャラ女子高生 サイコパス美佐江ちゃんの登場で一気に緊張感が増しまして、

寅子が凍り付いておりましたねぇ 「うわぁ~、これどういう展開になるんやろ~」と
身を乗り出してしまいました。(ドラマを見ていない方ごめんなさい)

サイコパス美佐江ちゃんは、頭が良すぎて 体験は少ない 

どうして(悪い)人を殺したらいけないんでしょうか? という発言を出しちゃいまして、

思わず その答えは??? ってマジで考えたりして。。。

戦争で大切な家族を何人も失った寅子さんは 絶句ですよね。

人を殺しちゃいけないに決まってるだろ~ なんて叫んじゃいたい人も多いはず。
痛みを体験した人はそれがどんなに痛く、残酷な事なのか と思う訳ですが、
美佐江ちゃんは 痛みよりも正義とか合理性にウェイトが行っちゃうんでしょうね。

でも、考えてみたら
戦争では堂々と殺し合いするんです。人間は。

そこでは 正義 という大義名分で 免罪符持っちゃうんですよ。

何なら良くて何なら良くない という基準は意外といい加減に設定されているような気がする。

ううん、たぶん、最初に誰かの都合が先にあって、正義という理由すらも後付けかもしれない。

敵国の人間は殺してもいいと設定すると その対象は虫けらのように見えるんでしょうか、
婦女子でも欲望に任せて蹂躙したりなんかして。
どうせ殺すんだから何してもいい? そういう兵士たちは裁かれるわけではない。
戦争 という 特殊な環境下ではルールが変わる。

これはどこの国の人間がマトモでどこの国の人間が狂ってる ってことじゃなく、

どこの国の人間もそういうことしてきた歴史があるんですよね、殺し合いも強姦も。

我々日本も 身分制度のある時代では切り捨て御免もあったわけで、、

それなのに 今のルールがこの世界の全てのように思っているのは なんだか奇妙。。

美佐江ちゃんの質問はまんざら愚問でもないのだ。。今の価値観からは外れるけども。
(これは決してそれを容認するものではないのですが、人間のルールの矛盾と言いますか。。。)

法律は正義か? というと 実際そうでもないものもあるし、

徐々には変化していますけども、不平等な法律とか、一部の人間に都合のいい法律とかありますしね。

死刑というのは殺人ではないのか? とか 

答えの出ていない問題も未だにある。

こういう問題を考える時、私がいつも思い出すのは、殺してはいけないのは、人間だけなのか? ということ

人間以外の生き物は? 

人間のマインドって不思議なんです。

ここまでは〇、ここからは× なんて、線引きすると その境界線で罪の意識を完全に分けてしまえる。

貴族は殺したら大罪だけど、奴隷は不問 とか。
家畜は殺していいけど、ペットはダメ とか。
牛や豚は食べていいけど、人間はダメ とか。 
人間を食べたら狂気だけど、 牛や豚やそれ以外の動物は目を輝かせて食べちゃう とか。

もっと突っ込んでみると、食物連鎖というものがあるので、肉食は自然の摂理なのでそれ自体があってはならないこと というわけでもない。

人間は雑食性だし。お肉も食べるようにはできているし。

いちばん気持ち悪いのは、焼き肉屋さんの看板に牛や豚がコックの格好をしていたり、ナイフやフォークを持ってたりするもの。

どうしてそういう図になるわけ? とツッコミたくなる。

彼らにとっては殺戮に他ならないのになぁ。切り刻むなんて猟奇的~

映画の「マトリックス」で食肉用に生産されている人間が、最初は使役で仕事をあてがわれて奴隷状態なんだけど、

ある程度育つとそこを卒業して人肉分解して食用プロテインに加工する工場に送り込まれる、

そういうのは胸糞悪くなるのに、なんで現存する堵殺場はOKなんだろ?って思いますし。

かといってああだこうだ言ってる私はヴィーガンでもなくてお肉も食べます。

私、もしかしたらサイコパスかも~。堵殺場の事知っていてお肉食べれてる。

自分が生き物である以上、罪を犯していないことなど無いと思うのですね。
(だから余計に食べ物を無駄にすることに怒りを感じるのかもしれないのですが。)

動物もテリトリー争いで同族で殺し合いもしますが、人間は話し合いで解決できるのか?というと

未だに殺し合ってますよねぇ。

第三次世界大戦までやっちゃうんでしょうか?

そういう意味では 人間ってけっこうな下等動物じゃないか と。

本当に進化して高度な知能と意識を獲得したら、殺し合いをせずに、人口をコントロールしたり格差を縮めて

分配したりするようになるんでしょうかね。

そういえば、お釈迦様が前世に、自分の身を飢えた虎に捧げた話などもありますが、
それは自殺とは言わないんですかね とか

なんだか奇妙なことがいろいろとあるんですよ。

何がマトモで 何がマトモでないか

正しさとは何か? これはたぶん、未だに解明されていないのかもしれません。

自分が持つ正義というものに 何の疑いも持っていないという方が

実は恐ろしいのかもしれません。

本当は正しさなんてどこにもない。あるのはそれぞれの都合だけ。

他者に怒りを感じる時、それはあなたの都合なんです。

あなたの正義の都合

自分の都合と自分以外の都合を 両方考えられるようになった時、

バランスを取る という解決方法が使えるようになります。

揺さぶり

今年は波乱の幕開けでしたね。

元旦の地震のニュースは日本中にも激震をもたらしました。

被災された方々へ 心よりお見舞い申し上げます。

なかなか災害救援などが届きにくい地理でのことだそうで

この寒い時期の被災、どれだけご苦労の多い事かとお察しいたします。

一刻も早い救援や安全な生活の再開を願っております。

このような大きな揺さぶりや犠牲は 災害地域以外に住む人間にも揺さぶりをかけます。

これらは決して他人ごとではありません。

いつどこで誰が被災するか などわからないからです。

これはそれを恐れたり 不安になったり 苦しんだりしろ ということではありません。

それだけ私たちの平和など 永遠ではない という自覚が必要だということです。

今在る幸せは永遠に約束されたものではない 儚いものなのです。

私たち人間の命は 限られた儚いものです。

その人としての命をどう生きるか 問われているのです。

何事かを成し遂げろ という意味ではありません。

命を大切に生きているか? と問われているのです。

私達の意識が この身体に居る時は、ありとあらゆる制限があります。
身体から抜けてしまうとそうではありませんが、

身体にいるうちはいろんな制限があり、出来ることには限界があります。

でも、だからといって、つまらない生き方を我慢しろ というわけでもない。

あなたにできる最大限の喜べる生き方をしていい 

身体はともかく、物質的に自由になるものが少ない と 嘆いている方は

自分自身の可能性にまだ気付いておられません。

物質に依存してぬくぬくと生きている間は自分の可能性に気付けないことも多いのかもしれません。

だから、いろんな予想外の体験を経て、本当に大事なものは何かに気付き、

自分の真の可能性に目を向けだすのです。

人生がひっくり返るような衝撃的な出来事を経て、多くの魂たちが目覚め始めます。

その魂たちは 新しい世界を創り出して行くでしょう。

多くの人が助け合える可能性を使い始め、人が支え合う強さを認識するのです。

この文化は日本はとても発達しています。

先の東北の震災でも、熊本の震災でも 大雨の被害でも人々は助け合って再スタートをしました。

愚かな方法は捨て、愛あるコミュニティーを作っていくのです。

些細なことにこだわることを手放し、

本当に大事なものを見据えていくのです。

次世代の若者にエールを送りたいです。

新しい世界を作るのは優しさを知っているあなた方です。

どんなサポートができるのだろうか?と考えたりしていました。

私は未来の若者の生命力と感性を信じています。

あなた方は大丈夫だ 自分を信じろ とお伝えしたいです。

逞しく 優しく。

古い観念を打ち破り、自由で 愛に溢れた 世界を作ってください。

大人は全力でサポートを。

愛に気付くだけで拡がります。

人間はまんざらでもないのです。

 

生きる

遅めの夏休みを過ごしていました。

楽しい時間はあっという間に過ぎていきますね。

と言っても、最近は何をしても時間は早いです(笑)

台風12号の後、空気が秋っぽくなっています。

高齢の父の世話をするようになって10ヶ月ほどになります。

父は25歳年上なのですが、親を見ると25年後の自分を想像してしまいます。

父は自分の親の介護は全くしなかったし、遠くに暮らしていたので、
自分が歳をとることを想像していなかったみたいです。

認知症なのですが、なぜ 自分が今こうなっているかよくわからないみたいで、
まるでずっと働けるつもりだったかのように話すので、
これは本当に考えて来なかったのか、ボケたせいなのかよくわかりません。

以前の父がどうだったかを思い出してみても、
元々 かなりいい加減だったので 年齢のせいだけじゃない気がしますが、
いまとなっては どっちでも一緒です。

ただ、自分もいずれそんな感じになるかもしれない という可能性だけはあるんだということが分かります。

これは恐れているわけではなくて、
生き物としては避けて通れない宿命みたいなもののように思います。

そう、歳をとる ということ。

みんなが平等に歳をとりますが、肉体年齢に関しては個人差があるので
ちゃんとメンテナンスはしておいた方がいいな と思うのです。

瞑想は 身体の機能を整えますので 健康を保つのにはとても良い習慣なんです。

それだと瞑想をしていない父と 瞑想をしている私とでは 差がつくかもしれませんね。

それでも、少しづつは歳を取っていきます。

機能は使っていると活性化するので 身体も頭も働かせるのがいいなと思います。

感情は極端すぎず、適度な抑揚があるのがいいと思います。

刺激が大きいと感じる方は 心が若いのかもしれません。

どんな体験もダイナミックなものです。

反応するということは生きているということですから。

人生はどのように生きても構わないのです。

あなたが望んで あなたが幸せなように生きてください。

それにはいいも悪いも 本当は無いのです。

いいじゃありませんか、

いずれにせよ 生きたいように生きてきたのです

今からはもっと生きたいように生きていいのです。

手持ちのコマとかカードとか駆使して生きたいように生きましょう。

出来るように生きればいいのです。あなた以外の誰も
それを責めることなどできません。

今の身体で生きている時間は意外と短いものです。

だけど、この体が老朽化して終わっても 私たちの魂は消滅するわけではありません。

命はずっと続いて私たちは命として続いていくのです。

また生まれる地球を住みやすい所にしておきたいものですよね。

美しい地球に生まれてよかったと。

自分の荷物

私達一人一人が自分の人生を生きるために
それぞれの課題を引き受けます。

これはあなたがしたいことに対する課題です。

自分のハートが望むように
あなた自身が自由に選択できることを
選んでいくのです。

その時 あなたが背負う荷物に重さは感じません。
なぜなら、あなたは希望に向かって喜びの方向に向かうからです。

それはドキドキワクワクするものであなたは内側にパワーを感じるでしょう。

もし、あなたが背負っているものにひどい重さを感じたなら
それは貴女の荷物ではありません。

他人の荷物を背負っている時、
人は苦しさや重さを感じます。
背負わされている、あるいは足枷や重りのように感じるでしょう。

それらの重い荷物は手放した方がいいんです。

もし、それらの荷物をあなたに背負わせている人がいて、
あなたが荷物を降ろしたらその人たちが困る という時は、
あなたは他者の荷物を盗んでいる ということになります。
人の荷物を背負うことはできませんし、盗んではならないのです。
それらはその人たちの学びなのですから奪ってはいけません。

自我の意識は、学びをさけたがります。
そんなの誰かほかの人がやってよ。自分はラクチンがいいな~ って自我は思います。
でも、それは夏休みの宿題が終わっていないのと同じです。

それは自分でしないといけないんです。

宿題をやっていなくて困るのはその本人です。
宿題は自分でやらなければなりません。
何のために?本人の魂の成長がかかっています。
依存的に生きることから自分で人生を切り開いて自由になる課題です。

あなたの力でそれができるのです。

足らないのは経験だけ。

それには一歩踏み出して外に出るしかありません。

誰も助けてくれない、だれも協力してくれない なんて決めないでください。

あなたが自立しようと決心した時から、あなたのサポートたちが発動します。

あなたが踏み出さないかぎり動き出しません。

他者の力によって得ていたものは失うかもしれません。

でもあなた自身に大きな力があることに気付くでしょう。

あなた自身のサポートと大いなる存在の後押しを見た時、あなたはとても感動するでしょう。

そんな感動的な体験を他者からも奪ってはならないのです。

あなたは やりすぎている手助けから手を引いてください。

ただの便利屋で感謝もされず文句を言われるのは もう沢山 って思っていいのです。

あなたはあなたの喜びのために動きます。

あなたは見返りを求めてはなりません。

本当にしたい事だけをしてください。
本当に自分の責任でしようと思う事だけをしてください。

自立した人生は時に孤独です。
でも、独りぼっちではありません。
多くの自立した魂たちと共に在ります。

あなたは1人ではありません。

あなたを自由にしてください。
鎖から解き放たれてください。

奪う人ではなく、本当の愛になって見守る存在になってください。

家族の学び

親子関係の学びについて考察してみました。

先日、娘に子供時代に傷ついた話をされて上手に対応できなかった話を書きましたが、

最近、父の前で妹が泣いて部屋を出て行ったということがあったそうで、
妹がなぜ泣いたのかがわからず、父がとても困惑している ということが起きています。

同じやん。。😅

私の父はたぶんとてつもないノンキ者と言いますか
たぶん、かなり鈍感な人なので、妹が両親の板挟みになってたことがよく理解できないんですよね。
自分が落ち込んだり、他人のことで心を痛める ということがあまりない
良く言えばスーパーポジティブな人なので、人が苦しむ ってことになかなか共感できないっぽい。

妹は私なんかよりもとても繊細ですから、他者がどう感じているかを察する というより被ってしまうのでとても辛かったと思います。
私などは、親の問題は親の管轄、私には関係ない とスルーを決め込むことができたんですが、
妹は私よりも両親に近い位置で生活していましたし、振り回されることも多かったですから可哀相でした。
感受性は変えようがありませんしね。

ここのところ、私の長女の主張と全く同じなんですが、
親側の視点から言いますと、当時はそれでも一生懸命生きてて、それでも最大限に頑張ってた・・・としか言いようがなく、それ以上に自己犠牲も払えなかった(情けないのですが)
方法がわからなかった のかもしれません
これはもう「力不足でした、申し訳ありません」 としか言いようがない。

でも、本人には自分を守るためには強くなって頂くしかありません。
代わりに苦しみを背負ってやることはできないんです。
仕返しされたところで (本人のためにも) 何の解決にもならないし。

同じような思いをしている方は年齢に関わらず多くおられると思います。

両親は、年を取れば取るほど、変わるのは難しくなります。

もしご両親が若ければ、決裂することも覚悟でぶち当たった方が私はいいと思っています。

もしそれができないなら、離れても生きていけるように自立した生活をしてください。
何らかの依存がありますと、離れられなくなりますし、依存関係はそうやって依存するように作り上げられたりしがちです。
傷付けられるところに長居してはいけません。

私は依存から離れたかったので30代に入って、父から給料を出してもらう仕事はやめました。

親にとっては娘の生活を心配しての援助のつもりだったかもしれませんが、
それが娘の人生の重荷になっていました。

成人した子供は自立させてください。

親御さんが頼りないと思えるご家庭は幸いです。
子供は自然に自立します。
子供には愛情さえあれば良いのです。

親が子供の人生を支配コントロールしては、ろくなことになりません。
いつか それらはひっくり返される時が来ますし、復讐されちゃいます。

私自身は、不思議なことに30代の終わりに、あるセッションを受けたのが原因だと思いますが、
夢に出てきた父が私に謝ったことで父への怒りが消えてしまいました。それ以来、過去の怒りは起きないんです。その時に夢で泣いて解放しちゃったんでしょうね。

父と母がうまく行かなかったのは父だけが原因ではないし、
どの人と夫婦になるか というのも宿命ですし、人生の学び と思いますので、
恨みで終わらせてはならない という風に思っています。

そういう意味では怒りの気持ちを手放せなかった母の方が学びを終えられなかった と思っています。彼女は来世で学びの続きをすることでしょう。でも、亡くなって魂になった母は本当のこと答えを分かっているとも思います。
今の魂だけになった母は自由になって昔の事なんか忘れてる気がするんですよね(たぶん)

身体を抜ければ皆 本当の事が分かるそうですよ。

だから、恨み苦しむのはこの体にいる間だけですし、その恨みも、カルマを解放しきってしまったり、学びが得られて愛を見つけられて赦せたら、怒りはなくなるのです。
魂は怒りは持って帰らないけど、現世に置いて行きますけどね。

人は皆 愛で繋がりたいのに エゴが前に出てくると奪い合いになってしまいます。

愛だけを出す人が すべてを愛に変えていけます。

それが分かってからは迷いません。
自分が出すものは愛だけで十分です。

もちろん、身体にはエゴはありますから、エゴの感情は湧き出します。

でも、わかっているなら、何を出すかを選べます。

怒りが出てきたら、それが消えるまで待ちます。

怒ったっていいんです。解放が終わらなければ消えません。

妹はとても優しいんです。
父も本当はとても優しいんです。

母はとても愛情深い人だった。だけど生い立ちが辛かったので孤独だった。

人間には愛する余裕がなくなる時だってあります。

誰も最初は愛しかありません。
でも、いろいろ恐れるようになって 愛から離れてしまうのです。
自分たちがこの世界から愛されていることを忘れて 孤独になってしまうのです。

もしあなたのご家族が愛を忘れてしまっている人なら 離れていいのです。

心配することはありません。

私たちは生かされ、愛されています。

また、人を生かし、愛する手となって動くこともできます。

愛に溢れた人は 本当に幸福なのです。