生きる

幻想 その2

幻想は良いにつけ悪いにつけあります。

それはどちらも摩擦の種になります。

ある先生の体験。

その方はカリスマ性もあって多くのファンがいました。

その方の話を聴いて人生が変わったという方も多く、沢山の人に尊敬されていました。

その方の発信する内容は、愛と真理がいっぱいでしたので、

とても優しい人柄に見えますし、その言葉が自分に向けられているかのように感じるので

そこに愛と包容力を見ます。私を愛してくれている ように感じてしまいます。

(その方は全ての存在を愛しているのであって特定の個を特別に愛しているわけではありません)

ただ、とてもユーモアに溢れ遊び心と人を引き付ける個性をお持ちで 明るく前向きな発言で沢山の人がその人を大好きになるのです。

でも、ご本人はそれをそれほど好ましいとは感じておられませんでした。

それは、ある意味誤解だと言うのです。

好きになる というのは 好きになる側の理想や幻想を通して 

その人がまるで自分の理想であるかのように錯覚して好きになる。

そして、近づき、理想でない部分を見つけて 怒りを向けてきます。

「そんな奴だとは思わなかった」 とか

「だなしたな」 とか言うのです。

騙したも何も、最初からずっと このままだっただけで、誤解したのはそちら・・・ というわけです。

カリスマ性を利用したお仕事、インフルエンサーは

ある意味そんな誤解の上に成り立っていたりしますが、

名前が有名になればなるほど、ファンとアンチが増えるのはそういう理由です。

ファンの愛は、理想が剥げたら消えます。

酷い時は好きの度合いだけ恨みを持たれたりします。

差し出したエネルギーを返せ とでも言うように。

勝手に好かれたり嫌われたりするので いくら前向きな性格でも傷付くこともあるのでしょう。

でも、人とはそういう生き物だ という理解も得ます。

この、ファンの立場 を経験したこともあります。

尊敬していて関心がありすぎるあまり、話題にだしてしまうのです。

見聞きしたことだけでなく、推測や想像を盛り込んでしまうこともあります。

自分がそれをされたらものすごくイヤなのに。

される側の立場も多少経験しました。

友人に何かネガティブなこと(当時不安に思ったこと)を言った時「あなたはそんなひとじゃないはずだ」なんて言われて

そんな人じゃないはずだも何も、私は私なんだよ、何だよそれ、 って思った(笑)

良く見られる ということは、その分、その理想形を崩した時のダメージがある ということで

本当の自分ってなんだろう・・・? なんてことになります。

 

本当の自分はエゴも真我も、ポジティブもネガティブも全部あるのが人間。

そして、その部分だけしか見ない とか 部分だけしか愛さない というのは無理があるのです。

表裏一体ですからね。

そう、1つの真実(全部ひっくるめたそのもの)しかない。

そしてその全部をすべて把握する事も不可能なのです。

この世界はあまりにも大きなものだから。

ただ、全てを包み込む愛だけがそれより大きくなることは出来るのだと思います。

 

 

自由な選択

昨日、食の話題を出しました。

私は野菜好きですが、菜食主義ではありません。

完全菜食の食事も美味しくいただきますし、自分でそういうメニューを作る時もありますが、

肉を食べることもあります。

これはヴィーガンの方を否定するものではありません。

できない とも思っていませんが、特にしていないだけです。

理由はありません。今はそんな風 というだけのことで。

意識が高いわけでも低いわけでもない というか。(何を基準にだかわからないけど)

もし、日本の食文化や食材事情が変わって来たら それに合わせて手に入るもので食事を作っていくでしょうね。

食事情は経済の問題でもありますし。良いものでも高すぎれば買えないし。

もし、家庭内に小さな子供が居たら、使うものはかなり厳選するようになるでしょう。

そして、もし、食べさせる人が病気やアレルギーがある場合もかなり食材を選ぶようになります。

そしてたぶん、一緒に暮らしている人がヴィーガンだったら、自分もそれに合わせて一緒に食べると思います。

環境やご縁に左右されています。

誰かの真似をするわけではなく、ただ、影響されるのだと思います。

多くの人々はそうなんだろうと思いますし、何か信念があったとしても、自分の信じていることが全て とは限らないことも理解しておきたいと思います。

そもそも1つの固定された正解というものは無いわけですから。

「いやいや、大事なことはこれなんだよ!」と大きな声で言いたい方がいらっしゃることは重々承知ですが、それでもなお、

固定された正解など 存在しない ものなのです。

主流は正解なのではありません。天動説が異端だったこともあるわけですから。

人々が当たり前だと思っているいろんな事柄は、それが本当にそうなのか否か は、長い年月と共に徐々に明らかになって来ると思いますが

食品に関して考えると、古くからあるもののことが徐々に分かるようになるのと同時に、新しい薬品や加工食品、便利なもの が出て来て 

それもまた 時間が経ってから身体に良くなかったとわかるようなこともあるでしょう。

そういうニュースを聞くと「ええ~っ、めっちゃ食べてたやん bearing」てやり場のない怒りと残念さを感じます。

でも、もうその人体実験は自分の代でやって子孫の皆さんは同じ轍を踏まないでね って思うしかなかったりします。

食品ではありませんが、個人的な体験では化粧品、けっこうやらかしました。

自然派のオーガニック植物由来の化粧品に 私の皮膚はカブレます。湿疹出ちゃうんですね。刺激が強すぎて。そう、過敏肌。

上皮が薄いらしいです。外部の刺激が過剰に浸透しちゃう。顔中腫れたこともあるので、新製品はおっかなびっくりでパッチテストとかしたりして

いや、正直言うと面倒くさがりなので、つけてみてかゆくなってきたらアウトですぐに洗い流します。二度と使いません。

でも、そんなことしなくても全然大丈夫な健康肌の人もいるので、自分の基準と他の方の基準は違います。

自分に合ったものを使えばいいだけの話です。

食事もライフスタイルも生き方も同じかもしれません。

これが正しいという一つの答えではないのです。

 

それは自分の子供に対してもです。

親子は体質は似ていますが、好みも性格も価値観も違います。

あなたが他者の基準を押し付けられると居心地が悪いように

あなたの家族もあなたの価値観や基準を押し付けられると居心地が悪い。

それを知っていると、お互いに尊重し思いやり合うことができます。

「あなたの良いように」 そう言ってあげられるといいですね。

 

スナック菓子をモシャモシャ食べている家族を横目で見つつ

私はあんまり欲しくないんだな。と 手を付けない。 「身体に良くないんじゃないのかな?」

言おうか言うまいか迷って 「大人なんだし、自分で決めて」って思います。明らかな毒を食べてたら止めるけどね。

もし配偶者に対して何らかの依存があると コントロールしたくなってイライラするのでしょうが、

情報提示は1,2回でいいかな。家族の言う事ってなかなか聞けないもののようですし。

そうそう、私も好きなものはなかなか止められない。たぶん。

自分の健康を大事にしつつ、我慢よりハッピーを優先もするのでした。(笑)

自分で決めたらいいと思いますよ。ハッピーは大事ですからね。

仲間意識

ほら、違ってても仲良くできます。互いによく知れば、愛で繋がれる。

クリスマス

寒い日がつづきますね。

今日はクリスマスです。どんな風にお過ごしでしたか?

お部屋は暖かくされていますか? heart01shine

クリスマスなのでケンタッキーフライドチキンを買いに行ったら、予想通り行列でした。

でも、予約のお客さんはサクサク受け取って帰られるので普通の持ち帰りも10分も待たずに買えました。

私は野菜料理が好きですが完全菜食ではないのでお肉も食べます。

以前、夫に完全菜食を提案したら 即答で「無理」と返ってきたので、肉料理は適度に入れます。

ヴィーガン(完全菜食)が良いのか普通の雑食が良いのかは 考え方に由ると思います。

私は、極端に走ることは避けています。

概ね野菜沢山と肉などの動物性たんぱくを少し頂くことが多いです。

肉を全く使わない和食も嫌いではありませんし、その時食べられるものを楽しんで感謝して頂くようにしています。

人間は、元々雑食性の生物ですので 肉を食べることが罪 というのは後付けのルールだと思います。

生物としては飢餓よりも食べることが大事ですから、飢餓状態の種は、種の保存のために共食いなんかも起きるわけで、

ただ、人間は人間を食べるのはタブーになっていて、それは大罪のように扱われるのですが、

他の種の生き物に関してはものすごく無神経にその命を食べ物をして見ていたりします。

私は人間の肉は食べたこともありませんし、今後食べることもないと思うのですが、

他の動物を食べるという事はそれと何が違うのか 疑問に思うことはしばしばです。

同じに扱ったりすると 頭がおかしい!人じゃない!みたいに言われそうですが、

ヴィーガンの人の多くは人間のそれと動物たちのそれを同じに扱っている ということですね。

ただ、そのような問題だったとしても、神が雑食性の動物や肉食の動物を創り出した ということは

それは罪なのか? というと どうなんだろう・・・と思う訳です。

自然とは、 自然 なんですよ。

でも、不自然なものがあるとしたら それよりは自然であるものを選びたい

そういう願望、あるいは傾向 としてとらえています。

肉が美味しいと思う時に、その命に、私になってくれてありがとう と感謝を向ければ

命が少しは報われたり、無駄な殺生が減るのかもしれません。

人間は自分たちがしていることを自覚して生きる方が

この世界は調和しやすくなるのでしょう。

 

食べ物で避けているものはあります。(最近特に)

食品添加物です。今時の加工食品はかなり食品添加物が多いようですので、できるだけ素材で買って来て自宅で調理するように心がけますが、

これも完全シャットアウトではありません。それしかない時はコンビニやスーパーのお弁当も食べます。

お釈迦様は 中庸、極端に走らないこと を進めておられますし。

とかく、現代は、話題になったものがもてはやされたり、また逆に忌み嫌われたりしますが、

本当に大事なことはゆっくり明らかになっていきます。

そもそも、もてはやされるのは 販売のための戦略なことも多いですし。

一時的に大流行して、そしてみんな飽きて忘れ去られる

これもまた不思議な現象ですよね。

良いものは良いから残るのでしょうが、

全国のスーパーから1つの商品だけが消える現象が起きると、

いつも思い出すのはイナゴの大発生 で、

大発生したイナゴが畑を丸裸にする光景ににているよなぁ。と苦笑するのです。

あれもまた ブームが去ると嘘のように何も無かったように戻る。

で、結局、同じものだけを食べ続けた弊害などが起きて、ネガティブな側面もまた明らかになったりするのでした。

極端は、あまり良いことは無い ですね。

いろんな考え方があって、いろんな感性があって、いろんな体質がありますので、答えは一つではありません。

自分の感性を大事にしていれば、何が良くて何がそうでもないのかを自分の身体で感じ取ることができますよ。

 

命や神を大切にしたいと思うなら、まず自分の命を大切に扱って、頭(マインド)に流されず、

優しく愛に満ちた生き方をしてみましょう。

自然は あなた自身です。欲ではなく、愛を大切にすると温かさを知ります。

あなたの愛があなたを温めます。愛を胸に 温かく生きてみましょう。

cherryblossom 

ピンクの光

 

夜の時代の終焉

こんにちは。10月に入って そろそろ中旬、ようやく寒いと感じる瞬間がやってきましたね。
長い夏でした。

時代は移り変わって いろんなものやいろんな状況が変化していきます。

四季もまたいつも同じではないようです。

タイトルの「夜の終焉」というのは、

ここしばらく年老いた父の事業の整理の成り行きを見ていて、資本主義の夢が終わったな という実感を持ちました。

戦後、昭和の高度成長期、バブル景気 と もう過去の遺物だと思いますが

老朽化した様々な事態を見て 何とも言えない感覚を感じています。

でも、それもまた 夢のように消えて行くものでしかありません。

そして、我々がとてもリアルに感じ、大切にしがみついたり、許せないと怒りに震えてきたようなものですら、

消えてしまう夢でしかないのだ とわかります。

それらは実存するものではなく、頭の中の思い(考え)記憶でしかありません。

お金のルールを巧みに駆使して構築した財産という数字は、あっても無いのと変わりないのかもしれないな と思いました。

この世で所有しているすべてのものは ただユニバースからの借り物でしかありません。そこに名札をつけて自分のものだと主張しても

いずれは身体ごと手放さなければならない。

そういう所有権に欲望やエゴを絡めしがみつき、感情的に過ごすのは 

人間として生きることの一番残念な過ごし方ではないか と 思いました。

私たちは 最初から何も持っておらず、ただ、この世界から生きるのに必要な体というものを預かっているだけに過ぎません。

その身体と置かれた環境の中で ただ生きているもの それが人間です。

若いうちは幸い歩いて移動する事も出来れば働いたりいろんなことができるでしょう。

万が一のために備蓄したり備えたりするのも良いと思います。

でも、いざという時の為だけに時間を費やして何も体験しない というのも残念ですから

生きているうちはいろんな体験を味わってそしてあなた自身の心を豊かにしてください。

苦しい事も悲しい事も 解放が済めば消えていくのです。
怒りや苦しみや悲しみを 後生大事に握り締めたりしなくていいのです。

今この瞬間、あなたの目の前では 何も起きていない

そんな記憶に悩まされる場合は、ただそれを涙と共にユニバースに預けてください。

なにものでもないあなた自身だけになった時、この世界は豊さでできていることに気付き始めます。

何もなくなったのではない。何ものにもとらわれなくなっただけなのです。

あなたの命は 今も輝いています。

台風一過

福岡地方、大型台風も去り、涼しさ満喫です。

私は四季の中で秋が一番好きですね。

スキーンとした空気、高い空。

集中力が増します。体もよく動く。

夏が終わるのが苦手 と言う方もおられるようですが、体感にも個性があって、それはどうしたいかとは全然別次元の問題ですよね。

身体が何を感じるか というのは 意図とは関係が無い。

そんな 感覚も与えられたものなのでしょうね。

私たちの身体や好みは 選んでいるものではなくて、与えられたもの

だから 自分自身の感覚もまた 自然の一部なのです。

自分自身に対して、こんなだったらよかったのにとかあんな風な人だったらよかったのに なんてことを思っても

自分もまた与えられた自然ですから それは文句を言ってもしょうがない というか ただあるがままを受け止める他ないのですが、

自我は色々望みます。

努力して何かができるようになることもまた人生の醍醐味だったりしますけど、

それが喜びや達成感で輝くならいろんなチャレンジは素晴らしい事ですが、

そのチャレンジが成功しなかった時 

その体験をあなたの人生の重荷のようにはしないでください。

それにはなんの良い事もない。

それは失敗だったからじゃない

あなたは全ての体験をあなたのために活かすことができる。

様々な体験はこの世界を広く理解するために役に立ちます。

失敗した時、うまく行かなかった時に感じる感情、人々の気持ち、その時何が起きるか

その時何が必要なのか あなたは体験を通して知ることができるのです。

うまく行くことだけが大切な体験ではない ということを 知っているあなたはとても強くて懐の深い大きな存在になります。

 

 

悟りを模索していた頃

まだこの瞑想と出会う前、

私は『悟り』というものに憧れていました。

心の中の葛藤や苦しみから解放されるという 悟り を体験してみたいものだ と。

先に心が軽くなった友人から「手放せばいいのよ」と言われるものの

「どうやって手放したらいいのかわからない~~ crying

という状態が長く続いて、悶々としていました。

色々、執着とか 依存 があったんですね。

依存は 苦しみを紛らわせる気休め みたいなものです。

苦しみや葛藤が大きいと辛いので、依存対象に気持ちが向いてる時は 苦しみのことを忘れられているので

心が苦しみで壊れるのを避けるために 起きる心の仕組みです。

これは無意識の領域で体が心をまもるために起こす現象です。

苦しみは 理想と現実のギャップで起きます。

こうしなければならないのにそうではない自分を許せない と言う時、

大きな葛藤が生じます。

こうしなければならない という事柄がどういうわけがガッツリ心に刻まれてしまった時

その考えを外すことができなくなります。

それは その事柄を守れないととても 大事なものを失う とか

自分の存在を認めてもらえない とか

愛されない とかいうペナルティがある と信じ込まされることで起きます。

そう、ある種のマインドコントロール。集団幻想の仕組みです。

エゴが作った社会で 集団的にその考えを採用してしまっています。

お金が無いと生きていけない  だから稼がないといけない

老後に2千万ないといけない だから 何が何でも貯めなきゃいけない

大学を出ていないと、底辺の生活しかできない。

だから何が何でも大学へ行かせておかなければならない。

そのためにお金を貯め込まなきゃいけない。

 

それは本当に真実でしょうか?

大学を出たけど やっぱり幸せでない人は?

高卒だけど、職人になって 才能豊かな人生を送ることもあれば、

農業に従事して会社勤めしない人もいれば、

敏感な感性をを活かして 占い師やヒーラーになる人もいれば、

個人事業主になって お金持ちになる人もあれば、

山奥で自給自足の生活をしてお金は稼がないけど幸せに暮らしている人もいる。

上記の人々でうまくやっている人達は 不安を選択しません。

可能性があること できることを一つづつ地道に形にしていくということを続ける人です。

そんなことでうまく行くわけない なんてやる前に思ったりせず、ちゃんとチャレンジする人たちです。

でも、しない人はなぜ、できっこないなんて思ったのでしょうか?

それはチャレンジするのが億劫だからです。

行動を起こすのはエネルギーが入るので面倒くさいです。

それに初めてのことはドキドキしますし、失敗を恐れていると腰がひけてしまいます。

失敗、そんなのやってみないとわからないことです。

1度の失敗で諦めるつもりなんでしょうか?

失敗は うまく行かないやり方がはっきり見える体験です。

そう、問題点をちゃんと体験できる機会。

経験しないとわからないことだらけですから。

その点では、本格的に取り組む前に その事柄のシュミレーションを沢山しておく方が効率がいいですね。

闇雲にチャレンジするのではなく、エクササイズ、プラクティス、そう、練習です。

事前に体験してそのことをより理解しておく ということが大事です。

もちろん、誰もやったことが無い初めてのことは、自分が初チャレンジなんですが、

軌道にのるまでの試行錯誤を惜しまない人がそれをちゃんと確率していくというわけですね。

それはもし、「これは本当にダメだ」 と潔く思えば手を引きますし、

可能性があるなら何度でも調整して再チャレンジしてみます。

この時に、カルマの感情(不安、怖れ、怒り、悲しみ)などに飲まれていては行動できません。

だからカルマの感情は常にお掃除・浄化する必要があるのです。

大きく成功している方で瞑想をしている経営者さんもいらっしゃいますね。

それは 狼狽える心を落ち着け、冷静な判断や洞察に 瞑想が有効だからです。

何より、心の中の苦しさが瞑想によって浄化されどんどん軽減されていくのです。

そして ついには 

なぜそのような自分を苦しめる思い込みに縛られていたのか という根本的な問題に気付きます。

 

そうか、思い込みに支配される必要はなかったんだ!

自分を苦しめ続けてきたのは他でもない自分自身だったじゃないか!

それって、独り相撲みたいなものかも!? え~~~ ((´∀`;))

そう思えたらあなたはもう自由です

あなたがどう思うかはあなたが決められるのですから。

思い込みを外す・・・初めてのチャレンジ でしたら ぜひ勇気をもって前進してくださいね。

あなたが行く道は前にしかありません。

過去は過ぎ去って頭の中にしかない ただの幻想なのです。忘れ去っても問題はありません。

できるならば、その記憶に感謝して 解き放ってください。

今から私は自由な選択ができます。

幸せなものを選択します。

私が今 幸せであることを選択します。

喜怒哀楽は日々移り変わるお天気のようなものです。

温かい日の光で 沢山の命に花を咲かせてください。

雨と泥を養分にして。ただあるがままの命を咲けばいいのです。

スイレン

お花は 笑顔 ってことですかね。

生きてるよ~ という証。

 

解放と光

暑いですね (;´∀`)

 

今日のブログの内容、どういうわけか、本文がアップされません crying

何度貼り直しても

アップしたら「暑いですね」 しか残らない (´;_;`)

こういうことたまに起きるのですが。

誰が何の目的でじゃましているのか

はたまた どういうテクニカルエラーがおきているのか

全く原因がわかりませんが、 

そういうわけで今日のブログは後日再チャレンジしてみます。

良い事かいたのになぁ~ ((;´∀`A

というわけで、今日は断念します。

エネルギーバランス

エネルギーバランス って言葉で何をイメージしますか?

成果よりも健康が注目されつつある時代になってきたので、健康状態のことを思い浮かべる方もあるかもしれません。

身体のバランス、それは自分で自分の身体が調子が良いか悪いかを感知することなんですが、

そもそも、普段が不健康すぎると、このエネルギーバランスは感知することは難しくなってしまいます。

だいぶ汚れた所に少しくらいゴミを混ぜても変わった気がしないのと同じで

疲弊した身体は、疲れが何パーセント増えたかなんて微妙なところまでわからないです。

でも、普段健康状態を良く保っていると、多少の疲れなら少し休むとすぐに浄化されてしまいますし、

自分の身体の変化はよくわかります。

綺麗な水に小さなゴミが入ったら すぐに見える。 ああ、ゴミの欠片あるなぁ  って。

だけど、 我慢強くて甘えを許さない、責任感ありすぎ、完璧主義・・・っていう人は

自分に休むことをなかなか許さないので 気が付くとかなり疲弊してたりします。

ちょっとの疲れ位なら頑張れる! って

頑張ることに貪欲な人。 それが癖になっちゃってる人

そろそろ、ご自分に優しくなってください。

愛は 他者にだけでなく自分にも向ける必要があります。

自分を大切にしてこそ他者を思い遣れるというものです。

 

もう一つ、愛のエネルギーバランス

これは同じだけ与えたり受け取ったりするバランスです。

愛されたいと思ってそれが足りないと感じている人は 

自分も相手に愛を向けていないことが多いそうです。

よくある「これだけしてやってるのに」とかいうのも 愛じゃないんですよね。

対価を求める取引。

愛されるから愛せる のではなくて

愛するから愛される のです。

 

決して犠牲になってはなりません。

喜んでできないことは、相手にも何か犠牲を求めてしまうのです。

やりたくもないのにやらねばならないことは

自分がそれを進んでする という意識でないのなら やめてしまいましょう。
やらなくてその場が混乱するのを見たくなくてやるのは、自分の都合なのです。
何なら混乱させておいてもいいのです。
あなたのせいじゃない。

諸事情を考慮して その選択を選んだ自分自身の意志。

もし、あなた自身が出来事をすぐに誰かのせいにする習慣があるなら、

出来事が自分のせいにされることを恐れるかもしれません。

でも、あなた自身が出来事をだれかのせいにすることをやめたら

全ての出来事はただの成り行きでしかなくなります。

怒っている人 というのは 

自分の思惑通りに進まなかったことに腹を立てて、その感情を周りにぶつけているだけです。

誰かが悪いわけではない。

きっかけは 複雑に絡み合って出来事を生み出します。

それは自然の中では必然なのですが、

自我の意識は誰かがした という風に見えてしまうのです。

出来事は刻々とただ起きてしまいます。

予防しててもしなくても 起きることは起きるのです。
多少減らすことは出来ますけどね。

それもまた 人生の学びの一つ。

出来事と感情を 受け止めて 乗り越え

魂を成長させましょう。

受け止められるものが大きくなればなるほど

あなたはバランスを取ることが上手になっていきます。
安定感を増す ということですね。

 

この世はハプニングだらけ。

避けようと思わず、面白がってみましょう。
 

成り行き次第

なりゆきに委ねてみよう。

 

私達人間は ついつい物事をコントロールしたくなる

「あらあら、そうじゃないでしょ?こうやってって言ってるでしょ?なぜ言う事を聞いてくれないの?」

「そんなこともできないの?」「そんなこともわからないの?」

 

と、言われたら

「なぜ言う事を聞かなきゃいけないの?」とか「わからねぇに決まってるだろ」的なことを思ってしまう?(笑)

若い時のそれは 生意気で反抗的と思われ、叩かれがちですが、

今の私は そういうことを思っても、ちょっと方向性が違います

「ああ、言う事を聞いて欲しかったのね」「みんな思うことはそれぞれなんで言わないとわからないですね」

「この世界は思い通りにならないものですよ」

でも、逆に自分がそんな風に(そうじゃないでしょと)思ったりすることもありますよね。

「え~、できないんだ」「ちょっとちょっと、そうじゃない」「あー、それヤバいやつ」「あーらら。」

みんなが最初からちゃんとできるなら揉め事なんて起きないでしょうけど、ちょっと待って。

揉め事作っているのは 責めてる方なんですよね。

 

この世界は 思い通りにならないからこそ面白い世界だ とも。

全部思い通りになったら、ドラマは生まれないですからね。

ドラマ、楽しんでください。ドキドキ ハラハラ

それはただのドラマです。

コントロールしようと思わなければ いろんな展開を楽しむことができます。

結果を「これがいい!」って 決めちゃうと そうでない展開が許せないじゃないですか。

どのみち 思い通りの展開にならないのが常ですので

予想外を楽しんでください。 

なんでもあり。

それはかなり面白い世界です。

こだわり? 

そんなものは あってもなくてもどっちでもいいんですよ。

無駄なこだわりは どのみち剥ぎ取られますから。(笑)

無くなっても 困りません。

 

恋愛

先日、

スピリチュアル的には恋愛ってどういうものなのですか?

というご質問をいただきました。

ツインソウルとかいう言葉もありますね。

私はツインソウル的な存在は 感じたことがありません(笑)

すごく仲が良かったり、そうでなかったり、

パートナーは いろんな関係性があると思います

が、概ね 魂の学びの相手であることが多いようです。

どんな学びか と言いますと、

自分が愛になる学び です。

どうすれば愛されるか ではなく

いかに愛するか  です。

この場合の「愛」は 恋愛的な愛ではありません。

恋愛のように惹かれ合うのは 種の保存のための感情です。

これは長続きしません。することして気が済んだらいずれ冷めていきます。

3ヶ月か3年か30年後、その感情は消えているでしょう。

ただ、恋愛感情が 「愛」に変わっていれば 仲良く添い遂げることはできます。

恋愛は求めること 愛は受けとめる(赦す)こと

真我の愛は ありのままでいさせること です。

スルー や 無関心ということではありません。

温かく静かに見守って 相手の選択を尊重する

相手を信頼する ということです。

あんな相手じゃ信頼なんてできないですよ! と言いたくなるのはエゴの視点なんです。

それは相手があなたの理想になってくれる ということではありません。

本人の命が生きて その命を全うする その運命を受け止める いつか愛に気付く という信頼です。

その命の中に愛が存在する という信頼です。

いやいや、あんな性格、愛なんて欠片もない! なんて思う人もいるかもしれません。

それは 愛でないものが現れているだけのことで、愛はどんな命にもあるのです

いえ、むしろ生命体は愛でしかできていない とさえ言えるほど 愛の結晶なのです。

見るべきものは 相手が愛か愛でないか ではなく、

あなたの波動が 愛なのか そうでないのか、 

あなたがあなたの中に愛を見つけられる という学びなのです。

相手に対してイライラしている時、あなたは相手に何を要求しているのでしょうか?

もし、パートナーのそばにいることがあなたを傷つけることになるならば、

そのことが改善されることがないならば あなたは自分自身を大事にするために

その相手からは離れなければなりません。

この時、執着があると苦しみます。

でも、本当の愛は何か?

相手も自分も大事にするためにはどうすればいいか を見ますと

自ずと方向性は見えてきます。

 

ちなみに、この時、執着が強すぎて執着が手放せないでいますと、

結構な割合で地獄?(あるいは修羅)の感情を見ることになるので

お早めに手放して愛でいることを選択することをお薦めしたいです。

でも、自我は納得しないことには なかなか動きません。

とことん思う通りにすると、最後は(思い通りにはできないと)降参することになりますので

ハートが求めるままに行動することで 最終的には愛になっていきます。

いかなる体験も 最終的には愛に行きつくことで平和が訪れます。

 

恋愛関係だけでなく、親子関係も同じです。

支配せず あるがままに学ばせてあげてください。

体験して愛を学んでいきます。

叱ってもしかれなくても

親の言う事を聞いても聞かなくても 自然の摂理と愛に目覚めるしかないのです。

愛でいれば 愛を見て

愛でないことをすれば、愛でない結果を見るだけのことです。

あなたは ただ 温かい愛でいてください。

それに気付けることが 魂の学び なのです。

蓮華