生きる

記憶

以前、記憶力が悪いので瞑想をしたら記憶力が良くなりますか?

とおっしゃる年配の方が 体験瞑想にこられたことがありますが、

記憶力が上がった という自覚は 教師の私もございません。

年齢と共に 物忘れ 順当に来ちゃってます

ただ、疲れやストレスで頭が回らない のは 瞑想で健全な体調になれば改善されますし、

忘れてても必要な時に必要な事を思い出す ということはよくありますが、

この場合の必要な事 というのは 流れ的に であって

エゴが満足するもの とはちょっと違う気がします。

瞑想をしているからなのか?わかりませんが 必要のないものは忘れていきます。

それが自然体と 言えるでしょう

人間のマインドは 能力のキャパを越えて 全てを完璧にしたがるものですが、

取り落としたそれは 本当は必要が無いことかもしれません。

 

こだわりを持つことがカッコイイと 思われた時代もありましたが

今は自然体で ゆるっとおおらかである事の方が素敵 と 思う人が増えているようです。

瞑想的には 波動が高い事が自分も周りの人もより幸せになれる という点で 好まれますが、

人によっては低い波動を体験したい魂もあるので

そこは一人一人自由に生きていいと思います。

誰かのために 自分を変えなければならない なんてことは ありません。

あなたが生きたいように生きてください。
但し、「流れに逆らうこと=摩擦を起こす」なのでそれは常にセットで存在します

そういう世界の中で あなたの素敵なものを追求してあなたがハッピーになればいいのです。

私は 本当にコレがしたかったんだ! そう思う生き方をしてください。

何がしたいのかわかりません って方がいらっしゃったら

一度アトリエ霽月にお越しください。

ヒントがみつかるかもしれませんよ

6月

こんにちは2度目の緊急事態宣言の最中、早くも今年が半分近く過ぎております。

私は先月末頃にお誕生日が来まして 高齢者の域に仲間入り?(笑) 年金給付まであと5年

そうか、みんな平等に歳をとっていくのだなぁ と

感慨深い今日この頃です(笑)

年金はまだまだ先でいいかも。

加齢による不具合は 特に目に出ておりまして

何しろ、ずっと遠視気味に見えすぎていた左右2.0から 

作品は細密画?とも言える特殊なジャンルに関わっておりまして

何かと視力に不自由を感じるようになりました。裸眼で見えない。

厚めの凸レンズを装備しての制作で机に張り付く日々です。

これ、平均的な日常生活には必要ない作業 ですけどね(笑)

絵は 見えれば描けるようで 顕微鏡で手術するお医者さんに親近感 

私の日常はマニアックすぎる日々です(笑)

そんな作業を以前は裸眼で出来ていたのかと思うと なかなか感心しますね

失って初めて知るありがたみ(視力) です。

 

他にも ずっとあったのでありがたみを忘れているものが沢山あるんだろうな と思います。

人間のマインドは足らないことを探すのが仕事 と感じてるので

マインドはついつい足らないこと 不満な事 出来ないことにスポットを当ててしまいますが

我々がどれだけ多くの事柄を自由にできるか 改めて数え直したら すごく沢山の幸福があることに気付かされます。

身体があること 移動できること 食べることができること

眠ることができること 息ができること

誰かに触れることができること 笑顔を作れること

愛を感じることができること

緑を見ることができること

朝陽や夕陽の色 空のグラデーションを見ること

花や果物のいい匂い

洗濯したてのシャツ

小鳥のさえずり

猫の ニャー

地球の広さや大きさを感じること

星のまたたき 

瞑想 

お風呂、温泉

風の感触と温度

腐葉土のやわらかさ

何もしないこと 何もしない時間

選ぶことができること

意識の突破

笑い

ああ、そういえば そんなポエムもありましたね。

谷川俊太郎さんの詩とか。

私は感じることが仕事です

単純作業も好きです。

毎日 自分がどう生きるかを選択することができる

悩むことも 悩まないことも 選ぶことができる

やりたい時は思いっきり悩む。

そんな機会はほとんど減ったけど(笑)

皆さんもぜひ 何物にも縛られない を体験してほしい

あなたが手放せないものは

あなたが 手放したくないものだ ということを

自覚するだけで

あなたはいつも自由意思だということに気付きます。

全ては無いけど どれもだれのものでもない

この世界があなた で どんな世界を作るかが あなたの人生観なのだ ということを

私たちは気付くだけでよいのです。

そして 

どれもOK。

欲はきりがないけど、欲を捨てると 豊かさがいっぱい。

お試しな出来事

今、身辺でとても大変な事が起きている というご相談

このコロナ禍の中 状況に揉まれておられる方は少なくありません

この大変な状況 というのは 一見とても不運なことに感じられるかもしれません。

でも それだけではない ということが少しずつわかってくるようになります。

 

スピリチュアルを学び始めた頃、こういった 『困難』と呼ばれるシチュエーションを

『お試し』を呼んでいました。

自分がこだわりをもっていることを最初は良い事のように思っていました。

でもそのうち手放した方がいいこだわりがあることに気付き始めます。

こだわりがあることで生きづらさを感じた時です。

それは自分自身を悩ませます。

こだわりから外れたことを受け入れられないようになってしまっているのです。

そんなこだわりと改めて向き合ってそれを手放すということに取り組み始めます。 

こだわりを一掃してなにも色付けしない目(意識)になるのです。

その手放す取り組みは 意識的に取り組んでいる人だけに起きるものではないのです。

困難や、不愉快なことに直面する時 それはあなたのこだわりや偏見に気付かされる学びの体験なのです。

自分がどう反応するか で 無意識のこだわりを見せられ、

それが何度も繰り返し試されているのです。
お試しが来る時は決まって 気が揉める出来事は抵抗することを手放すまで続きます。

 

摩擦を起こす原因は自分の方にあるので それが何回も自分の目の前で起きて自分自身を見せられます。

この場合、原因は 責任云々は関係ありません。自業自得というものでもなく

ただ それが起きる という運命(宿命)を持っているだけでそれは起きてくるのです。

理不尽だろうがなんだろうが流れが寄越してくる学びは容赦がありません。coldsweats02

出来事が起き始めた時は 途方に暮れたり、泣きたくなります。

でもどうしようもない。 

試されているのです。

自分の思い通りにコントロールしようとしたり、何かを攻撃したり、拒否したり、嫌ったり

していると、事態がどんどんこじれていきます。

「ああ、もう降参です」

「私にはどうしようもありません」

「コントロールを手放します」

「流れにお任せします」

「ごめんなさい」

「ありがとう」

「愛になります」

そんな風に 意識が変わってくると、

本当にしっかり意識が変わった時点で

流れがガラリと変わる というのを何度も体験しました。

もう不思議でなりませんでしたが、自分自身の波動の影響ってそんなにあるんだ と感心しきりでした。

腹を立てていた相手に 怒りをむけるのをやめて相手を理解して赦せた時

出来事を恨んで自分が不幸だと思うのをやめて ただ出来事を受け止めて

皆が幸せでありますように と祈った時

ひどいことをされたと思う相手を恨むのを止めた時

怒りを昇華で来た時

反発を愛に変えた時

流れは即座に方向を変えました。

そう、急に風向きが変わるように です。

それ以来 自分を愛にしておくこと以外のことは あまり考えなくなりました。

そして徐々に

他者の喜びは自分の喜びと同化するようになりました。

今まで嫌っていたものを嫌うのをやめました。

嫌うという事はただ自分を不快にさせる行為なのです。

私は自分や人を幸福にさせることに熱心になりました。

幸福である波動が居心地が良いのです。

瞑想の効果で自分の内側に不幸な感覚が無くなって以来

私は内側も外側も幸福な波動で満たすことに熱心です。

何か頑張って取り組むわけではありません。

何もしなくても幸福な気持ちであればそれでいい

動いて幸福なら動くし、動かないことが幸福なら動かない

でも、他者が幸福を感じてくれるためにうごくことは増えました。

それは自分を幸福にさせるのと同じ価値がありました。

人が喜ぶのをみると嬉しくなるからです。

もちろん嫌がることはしませんので、おせっかいなことはしません。

一方的に何かしてあげて喜んでくれなくても不満に思いません

だって 本当の幸福感しか要らないのですし、動いたことが効果的でなかったからと言って

落胆などしないのです。(ちょっとくらいテンションは落ちるかもですが)(笑)

私は私を機嫌よくさせておくことに熱心です。

世界がどんな様相であっても どんな状況に置かれても

その姿勢は変わりません。

地球家族

自己肯定感

あなたは 自分がこれでいい と思えてますか?

「はい」というお答えの方 いいですね~ happy01heart04

「いやいや、いいとはいえないでしょ」という方、

それはなぜ? 

それ以上に何を自分に要求しますか?

私たちは 今 これ以上もこれ以下も無くそのままがあなたです。

誰にどう見せようとしても あなたはそのまま あなたです。

それは良いとか悪いとかないんです。本当です。

誰が何と言おうと 今のあなたはそれでいいのです。

あなたは ずっとあなたのまま生きています。

ただ、一瞬一瞬 あなたは変化しているので

あなたを測ってこれがあなたと示すことは不可能です。

今というこの瞬間 あなたも他の誰も

世界の中で完璧にバランスがとられています。

 

でも あなたの自我は 理想を引き合いに出して

その理想と自分に差を見つけて

一喜一憂するのです。

本当はあなたはあなたのままでいいのに

あなたは 自我がつかんだ理想を生きようと四苦八苦します。

自分の価値を誰かに認めさせようと 四苦八苦します。

それをやり遂げても 幸せになるわけではないのですが

自我が求めて 飽くなき努力を続けようとするのです。

努力が無駄だ とまでは言いません。

努力が楽しかったり、充実感があったり

努力も幸せな時間になり得ます。

楽しめない努力 それは誰のための努力なのでしょうか

あなたが もし 辛い試練を好んで選択しているとしたら

それはあなたは確信して挑むでしょう

嫌々しているとしたら あなたは自分の人生に責任を持っていません。

するのか しないのか あなたの意思で選んでください。

絶対にイヤなら しないでください。

いつだって あなたに選択権があるのです。

選択して流れを受け止める

自分に正直に生きていいのです。

期待と落胆

私達人間が怒る時というのは、

心地よい状態じゃない時

思い通りにならなかった時

理想が崩れた(崩されたと思った)時

 

「やめて!」という表現はわかりやすい

私が心地よくないからやめて 

それはとってもシンプルな理由

 

でも、本人が感じている感覚は本人にしかわからないので

相手がそれに気づいていなかったり 共感できずわからないままだと

単に「ダメだ」「やめて」と言っても

「何で?」 と返されて 事態が改善されなかったり

相手の価値観で裁かれて却下されてしまうことも。

これは 一方的にされるばかりでなく 互いにそれをやりあっていることが多いです。

「あの人、なんでああなのかしら!?信じられないわ」

「あいつ、意味わかんないんだよね。おかしいよ」

互いの感覚を正義だと思って、

いや、自分の感じ方を正当化して いろんな理屈を持ってくる という方が正確な表現かもです

相手を悪者にして 腹を立てています。

本当は悪い人などいなくて

誰かの都合と 誰かの都合が合わないだけ。

これは相手を責めるばかりでは攻防がずっと続きます。

和解してわかってもらうには

こちらも相手の目線や立場や心情を理解する必要があり

更に必要なのは 違いを話し合うことです。

相手を責めないで。

戦う波動を少しでも持ち込むと

相手も必ず戦ってきます。

どちらが正しい という問題ではありません。

ただ 違いがあるだけ

共存するには

双方の理解と譲歩と尊重が大事です。

互いの都合が存在しています。

 

あなたの愛が 頑ななカルマを溶かしてくれます。

威嚇や攻撃的なのは 傷付けられることを怖がっているからです

異種交流

アート

3月に仏画展を控えて 準備作業が追い込み状態です。

生徒さんの作品の額装、表装、

そして自分の作品の表装。

昨年末にこの展覧会が終わるまでイベントに出るのはやめておこう と思っていたのに

うっかり2月にイベント出演を承諾してしまい(笑)

余裕をもってやるはずの準備が 

いつも通りバタバタになってしまいました(苦笑)

こういったウッカリ事件は 流れが作る偶然で、

自分の意思ではないけど、自分がしていて、

それは私の神様?か守護霊さんが私に与えた仕事だろうととらえています。

まぁ、出演を喜んでくださるなら 出演する甲斐がある というものです。

そう言うご縁は大事にしないと です。

昨年のコロナ自粛以降、仏画教室の人数を分散させる目的で

教室日数を増やしたら、

生徒さんが増えて 教室運営が安定してきました。

仏画教室は 私自身もとても楽しいので回数が増えても負担は感じません。

そのせいか、昨年末以降、仏画制作の依頼も2件入ってきました。

今年は絵を描く時間が増えそうです。

瞑想や心理セラピーのお仕事も楽しいので

仕事は概ねお楽しみ時間です。

量が増え過ぎない事を配慮すれば 最高です。

2015年の金銭トラブルに巻き込まれる事件以降のいろいろ大変だった頃はもうずいぶん昔な気がしていて、

今は仕事が安定して 気持ちに余裕ができました。

思えば いろいろあった困りごとも それがあったからこそ 真剣に仕事に取り組んだり、新しい事にチャレンジしたりしたので

本当に何が幸いするか 予想なんてできないものだ と つくづく思います。

これまでの人生の中でも 本当に辛いと思っていたことが

自分に必要な体験だったり、

困ったことに取り組んで 多くのことが改善されるなど、

悪い事と良い事はいつも一緒に、あるいは交互に来るので

人生は本当に塞翁が馬だな と思うのです。

今の自分は、

どんな試練も 必要があって起きている と思うことができるので

困ることでも 落ち込むことはほとんどありません。

これで気分を落とさなければ

たぶん、また 良い事や嬉しい事が起きてくるだろうと思っているからです。

それに問題を解決すべく取り組むのは嫌いじゃありません。

困難を克服したり、世界と調和する という実感を感じられることは

とても嬉しい体験だからです。

上手にできなくてもいい

生きていることを充実させて生きていれば

沢山の笑顔の花が咲きますから。

どうかみなさまも 沢山笑顔でいてください。

自分を大切にして。信じる道を行きましょう

私は 与えられた仕事を頑張りたいと思います。

今年のテーマは、

アート です art

人生も芸術的に面白く。

2021仏画展DM  

欲と執着

ふと思ったんですが、物欲とか エゴとか

そういうものって 生きるモチベーションとかエネルギーをパワーアップさせるものなのかな?

いや、エネルギーが溢れかえってるので そちらに欲望が向くのかな?

と。(笑)

同じ状況にあって ある人は 愛するものを失ったことに大きなダメージを受け

悲しみに暮れ 生きる気力を失い

ある人は そんなことよりも生活や流行の冬物コートが気になる

これ、どっちが強いか? というと 後者だったりする。

たくましすぎる (^_^;)

いや、むしろ 「すごいよ君!」と賞賛したくなったりして。。

何が違うのか? 魂が若い、感受性の差

二人とも人間だけど、違う生き物みたいだ。

人の感受性は千差万別。

感受性に関しては、ハイセンシティブジャパニーズとしては前者の状態もよくわかる。

辛いね、痛いよな、可哀相、できれば助けたい。でも傷を癒せるのは結局本人。

でもね、傷付いた分だけ強くなり愛が深くなるよ。

弱いままでいちゃダメだ。

沢山泣いて浄化するしかない。

どんなに悲しんでも身体は生きようとするから。

エネルギーを持っていない人はそこで弱って死んでしまう人もいる。

昔の時代はそうやって 失恋とかで体調崩して死んじゃう人もいたんだよね。

平安時代とか。

現代は医療が発達しすぎて身体はなかなか死ねないけど。

 

頭の中のイメージは 実は頭の中にしかない世界

外で起きていることはいつも淡々と起きることが起き続けている

それが自分の都合に合わなくなった時

頭の中の世界のつじつまが合わなくなる

それを受け入れられないのが 大きなストレスであり、傷心。

でも、お釈迦様は言うんです

それは空の雲のようなものだよ

現れては消える 幻想

あなたの頭の中にあるあなたの世界の崩壊。

「ああ~、これでもう終わりだ!」と絶望して

自分の身体を殺せなかった者は

その後に 何事もない世界を見てしまう。

「なんだ、何も変わらないじゃないか」

「崩れたのは自分のアイデンティティだけ」

「それでも私は生きている」

「それでもここで生きている」

 

深い闇の世界というのは確かにあるにはあるのだろうけど、

そんな地獄は リアルには一般市民とは無縁。

起きやすいのは脳内の闇(病み)で それはただの幻想にしか過ぎないし、

悩みで病んで脳が委縮してしまったり、セロトニンが出なくなっちゃった状態

実際には起きていないことで 思いだけで病気になれるなんて 人間てすごいね

言葉だけで毒を盛ったみたいに殺せたり

情報だけで病気にできたりするなんて

面白い生き物だ。

でも、これは逆に 負の妄想を払拭すれば元気になれる という話で、

悟りはそこにあるんですよね。

それ、幻想だよ?

あなたが見てるリアル 社会の集団幻想。

みっともない とか カッコイイとか

誇らしいとか みじめ とかも。

だれが何を言おうが そんなイメージに振り回される必要は無く

依存するものを無くしていれば 恐怖すら起きなくなるのです。

 

あなたを陥れるのは執着を依存。

だから最初に書いた 落ち込む傷心の人と 物にしか興味のない人

どちらも大して変わらない。

もしあなたが幻想から目覚めて悟ったら

あなたはその命があるだけで幸せになれるから。

あなたは 愛というものを発信できる光だから。

だから 目覚めよう。

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本当に必要な事

私たちが日々携わっていることは たぶん生きていくために必要な事 なのでしょう。

そう信じているから嫌でもそれをしているわけです。

でも、それは今後も必要でありつづけるかどうかわかりません。

人間が作った社会システムは盤石ではない ということが わかり始めた昨今

これからの人間がどう生きるのか?を 問われています

これまで 納得がいかなくてもそういうもんだと思って従ってきた社会の常識

これは見事に打ち砕かれていきます。無駄なものは朽ち、必要なものだけが残る世界へ

移行する始まりの時代です。

もしあなたが 今やっていることに疑問を持っているとしたら、それはもう終わりの兆しなのかもしれません。

私が今後変わると思っているのは、

お金の仕組み・価値

一般常識・価値観

人々の習慣・ライフスタイル

仕事のしかた 

です。

人との関わり方も変わるでしょう。

程よい距離感と 違いを認めて共存できる世界へ移行します。

なぜそうなるのか と言いますと、あなたがそうし始めるからです。

それができる人の周りには そういうコミュニティが形成されるのです。

こういう集まりがどんどん多発的に増えて

今までよりもずっと気持ちよく共存できる社会が実現していきます。

これまではどれだけ無駄な習慣や思い込みで 互いを縛り合ってきたことでしょうか?

エゴの主張と 仕事の方針をごちゃ混ぜにして

無駄な引っ張り合いや奪い合いをしている団体は衰退していきます。

奪ったその瞬間は多く持っていても、奪ったものはやがて失う運命をたどります。

もう奪い合う生き方では生き残れないのです。

多くの人々が 与え合う生き方を学び始め、

必要の物は与えられる社会へじわじわと変化していきます。

足りるとか足りないとかよりも

分け合うことをします。

足りないものは 他から与えられ、

それだけに欲張る人はいなくなります。

欲張ればもらえなくなってしまうからです。

自然のバランスは実に合理的です。

 

自然のルールでバランスを取って生きる生き方

神や世界と一体になって 世界を動かすのは あなた自身です。

チェンマイの日輪

clover耳より情報

新しい世界の考え方をわかりやすくお話しされる長谷川浩二さんのFacebookライブ

ご興味のある方はぜひお聴きください。目からウロコが落ちますよ

FacebookライブKojikin2020年最後のお話会

死生観

死後の世界にどんなイメージを持っておられるでしょうか

死後の世界がどんなものか いろんな説がありますね

でも、実際は生きている人には経験できないものなので その実態を証明する手立てはありません。

ただ、一部の人はそちらの世界を垣間見た人もけっこういらっしゃるようなので、

一部の人々は 何らかの確信を持っています。

 

私の死生観は 瞑想の空の世界観に基づいています。

私たちの意識、すなわち魂と呼ばれる意識は、真我のことです。

それには カルマは絡まっていません。

カルマは身体についたホコリのようなもので、

私達そのものではありません。

また身体も私達そのものとは言えないのです。

この体は、世界にある生命システムによって現れた肉体で

魂の乗り物としてあります。

食物であった分子が再構築されて身体を表現し、いろんな使い方に適応すべく、

柔軟に変容する肉体です。いろんな性能や装備もありますが、メンテナンスも大事です。

何を入れるかでも形は変わりますが、そのシステムは概ねスケジュールが組んであって、

どのくらい経つとどのように変化する という成長と老化のプログラムが組み込まれています。

え?その自然の摂理に抵抗してみたいですか?(笑)

人間は欲がありますので、肉体の一番良い状態を長く維持したいと思う方も少なくないでしょう。

私自身もそうかもしれません。

ただ、老化は止めることはできませんが、ゆっくりにすることはできます。

また、ストレス量を軽減することで 発病プログラムを牽制することもできます。

私達人間は、生命の長短をコントロールするほどの知能を持ってきたすごい生命体でもありますよね。

ただ、それは闇雲にしてもダメで

本当に自然の摂理を理解して有効にすることが可能になります。

そして、宿命的ないイベントに関しては 私たちは回避することができません。

死は、全ての人間が必ず経験する 平等な宿命です。

遅い早いはあるでしょう。

でも、それは生まれてきた時に約束してきたことなのです。

避けたいと思っていても、受け入れたくなくても

それは約束通りに起き、そして避けることができません。

抵抗してみたかったらしてもいいと思います。

思う存分やってみるのもいいでしょう。

それはあなたの自由です

ただ、私が思うのは

今という時間を怖れで曇らせてしまうのは 生きている時間を汚してしまうような感じでもったいない気がするんですね。

それよりも 今という時間を輝かせることの方がずっと素敵な気がします。

受け止める試練は苦しい経験かもしれませんが、

その抵抗を手放した時、私たちは思い込みから解放されるのです。

苦悩の時間ではなく、

最善の時間を過ごすことができるようになります。

あるものを大切以する ということです。

 

身近で早く逝ってしまった友人たちは残される私たちに

「あなたの今を大切に生きなさい」というメッセージを送ってくれているような気がします。

どれだけの幸せを創り出せるか。

どれだけの人の笑顔を作れるか

あなたも光の体験へ向かいませんか?

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もっともっと意識を光へ開きたいと思う方は

ぜひ瞑想リトリートを役立ててください

そこでは大きな浄化と魂の拡大が起きます。

今月のリトリートは募集締め切りになりましたが、

今日中のお申込みなら融通できるかもです。

迷っている方はすぐにご連絡ください。

お問合せフォームで対応いたします。

今日中ならなんとかなるでしょう。

タイミングが合わない方はぜひ次回にshine

明日と再来週の1日瞑想会もお待ちしています

今月は2回あります

11/15? 11/29?

 

ボブ・フィックス雲仙瞑想リトリート

11月20日~23日 雲仙休暇村 生命エネルギー・ソーマのマントラが伝授されます

ダースのサムネイル画像

あるがままの自分とは

人は死を恐れます。

死後の世界が怖い、

今の世界から離れることが怖い のです。

多少困難を感じていても 慣れ親しんだところにはそれ以上の恐怖はありません

未知の場所では何が待ち受けているのでしょうか

人は未知のものを怖がります。

知らない ということは不安なのです。

どうなるかわからない というだけで怖がります。

それは 未知の場所に怖いものがある という前提に基づいています。

「知らない場所は恐ろしいよ。だから言ったらダメ」

そんな風に幼い頃に言われたからでしょうか?

 

怖がらない人というのは 好奇心が強い人

リスクやスリルを楽しんでしまう人です

この違いは 単に恐れることを知らないか

あるいは エネルギーに溢れていて、エネルギーを消費する場を求めている場合に起こりやすいです。

通常は 若い個体は生命エネルギーに溢れているため、困難や試練など、

エネルギーを消費する場を必要とします。

子供たちが無茶をするのは そういう理由ですね。

実際してみて その実態を知ったり 学んだり 懲りたりするわけです

知る体験は 経験の財産です。

生命体は 成長するプログラムを持っていますので、

いろんな体験をしながら成長します。

大人になってしまって、それ以上成長の必要が無くなってきた場合に

試練にもまれることから遠のいていきます。

穏やかに暮らしたい と 望むようになります。

でも、それぞれの個性も 人生全般にチャレンジし続けるエネルギーを持った人や、

逆に若いうちから 静かに暮らしたい人も中にはいるので

年齢だけで決まることではないです。

それらは本人の希望とかではなく、DNAによって左右されます。

本人の持つ宿命によります。

自分のあるがままに生きる ということは

自分の思い通りに生きることとはまた別なことです。

あなたのあるがままを受け入れて あるがままを生きると

あなたはとてもあなたらしく生きることができるのです