生きる

命が私を生きている

生きる というのは どういうことでしょうか?

生まれて生きているのは 誰でしょうか?

私が生きているのでしょうか?

それは誰の意思でしょうか?

 

あなたは何者でしょうか?

私は 誰でしょうか?

私は 何者でしょうか?

何処から来て どこに行くのでしょうか?

命って何でしょうか?

 

アイデンティティーは 私 でしょうか? アイデンティティーには実体はありません。

私のストーリーもまた  実体のあるものではありません。

どれも脳の中のイメージなんです。

この肉体は物質的にここにありますが、どの細胞も どのタンパク質も どの水分も

この世界からの借り物にすぎません。

 

命は なぜ生きているのでしょうか?

命にとってストーリーは大事なんでしょうか?

 

価値判断は誰がしているのでしょうか?

それは誰にとって大事なんでしょうか?

 

少なくとも 自分にとっては 他人の価値基準は 大した意味がありません。

 

自分が好きと感じるか そうでもないか・・・

そんな感覚が 優先されて生きています。

 

命は 意思とは関係なく 生きています。

とても死にたい時があった時でも 死ぬことはすごく難しいことでした。

自我の意識が、こんな思いをするのはもう嫌だ死にたい なんてことを主張しても

全身全霊が死ぬことを拒否します。いえ、自分を殺すことを拒否します。

とてもできなくて 仕方なしに生きてることがありました。

 

こんなことを書くと どんな目にあったんだ? と思われるかもしれませんが、

死にたいと思うのは 単なる逃げたい気持ちでしかなかったと 今ではわかります。

たぶん ヘタレな性格で 辛いことがあるとすぐに死にたいとか思っちゃう若者だったんだと思います。

今思い返すと笑ってしまいますが (笑) 当時は深刻だったんでしょうね。coldsweats01

思いつめすぎて抑鬱になったりとか

どれだけ逃げ道がなかったんだ?と思います。

相談できる人がいなかったということもあったでしょうね。

 

そういえば、何かのために 自分の命を投げ出す ということに直面したこともありました。

自分の命よりも優先して守りたいものがある と思った時です

その時は 運を天に任せました。

生きたい とか 死にたい とか そんな選り好みを言ってる場合じゃなかったんです

守りたいもののために 必死で対処するのみ でした。

これは意識の変容によいチャンスとなりました。

自分の事だけだとここまで覚悟を持てないだろうことを、覚悟させてもらえたいい経験でした。

度胸がつきました。

 

大変な時は 大変な時なりにベストを尽くします。

大変な時期はいずれ落ち着いていきます。

このことをなぜか私は知っていました。

出来事には波があり、常に変化して過ぎ去っていくものです。

思い通りになるわけではありません。でも、時の流れを四季の移ろいのように見ています。

 

安定はある意味 ちょっと 退屈に感じるかもしれません。

エネルギーのある人間は少々波がある方が心地よいのかもしれません。

ですから 人生にいろいろ起きることを不服には思っていません。

いろんな事が起きて 必死になっている時も生きている実感がありますし、

平和な時は平和な時で 緩やかな流れを感じて 幸福を味わうことも好きです。

 

人生の予想外のことは案外面白いと感じます。

自分の思い込みが事件を起こして驚いたり、

思い込みが取れて真実が見えた時などは とても感動しますし

何よりも この世界に愛が溢れていることを実感する時 心からの幸福を感じます。

 

この世界に 愛が多い という言うよりは、

この世界にある愛に共鳴して

この体いっぱいに愛が拡がる時、私は至福の中にいるのです。

 

この世界は多くの愛を 私たちに与えようとしています。

でも、人間の意識は 違うものを欲しがるようなんですね。

青い鳥を探すのに違うところを探している状態です。

 

青い鳥は 常に一緒にいるんです。 

そう、内側にいるんです。 

仏性、 あるいは 愛 と呼ばれています

私は ただ 内側にある愛を振動させるだけで 世界の愛のハーモニーに加わるような感じがするんですね。

そして

ただ愛でいるだけの存在は どれだけ私に愛を感じさせるか 私は知っています。

 

生きる ということは 面白い現象です。

私は命に生かされています。

芝桜と青空のサムネイル画像

地球上のあらゆる存在が 折に触れ 愛を放っています。

命を生きる事そのものが 愛なのかもしれません。

 

 

サーカスの象

サーカスの象のお話をご存じでしょうか?

 

この絵をみてください。

繋がれた象

サーカスの繋がれた象です。

小さな杭に繋がれています。

 

サーカスの象は小さい時から繋がれて育ちました

最初は身体が小さかったので暴れても杭を引き抜くことができませんでした。

子象にとっては杭は大きいのです。

そのうち 子象は 鎖に繋がれた時は逃げられない と 抵抗することをあきらめてしまいます。

どうせ 逃げられないんだ と思い込んでしまうんです。

 

それから何年も経って 身体が大きくなっても その思い込みだけが残って

杭に繋がれると逃げられない と信じたまま 小さな杭に大人しくつながれています。

 

これは人間も同じです。

 

立派に成人した大人の男性、あるいは女性が 老女になった母親に逆らえないで 言いなりになっていることがあります。

これはとても不思議な光景です。

どう見ても 母親より子供の方が力があって 老いた母は気迫以外は弱弱しい年よりです。

子供の頃から 母の支配につながれたまま 大人になってしまったんですね。

 

成人したあなたは ご両親の存在をどのように感じておられるでしょうか?

もし、年老いたご両親を労わって大事にしたい と 感じておられたら あなたのご両親に対する意識は成熟しています。 愛へと成長した証しです。

 

社会に対して どんな思いを抱いておられるでしょうか?

例えば仕事 

就職しないと生きていけない と 思っておられるでしょうか?

私は 自給自足をして暮らしておられる人を知っています。

私の友人たち 絵描きさんや 占い師さんたち またいろんなジャンルのアーティスト

定職についているのかいないのか 定かではない状態ですが、 生活できています。

お金持ち には なっていない としても 彼らはけっこう楽しく暮らしています。

こんなことが仕事になるのか! とびっくりするようなお仕事の人もいます。

需要にこたえることをサービスとすれば 仕事は成り立つのです。

不思議で面白いことです。

 

例えば、多くのお母さんが嫌いなゲーム

ゲームばかりして勉強しない息子たちを見ると大概のお母さんは腹が立ちます。

遊んでいて勉強しないと いい大人になれないとしんじているからです。

 

ゲームばかりしていた男の子 

ある方は プロのゲーマーになって世界的にも有名になって結構な収入を得ている人もいました

ですが彼は相当な収入があるにも関わらず、そんな仕事をしている自分に罪悪感を持っていました。

高級なマンションにも住んでいましたが まともな職業じゃないことを恥じていました。

親はそのことを認めてくれないだろう と言っていたのが印象的でした。

 

ゲームが好きすぎて ゲームのプログラマーや制作会社に勤めて開発に携わった若者も何人か知っています。

彼らは、自分が好きなことが何か を 知っていました。

この人たちも 専門的な知識を極めて いい収入で家族を養って裕福な生活をしています。

好きなことを極めると 仕事になります。

 

そんなことが仕事になるわけない という 大人の思い、わからないでもないです。

でも、驚くような例外を沢山知っています。

 

ある占い師の友人は 「占い師なんて職業じゃないと思っていたのでなりたくなかったんだ」

と言いました。 だから飲食業で働いて 店を切り盛りする店長になりました。

いろんなことがわかるので、お客さんが相談したがるようになって相談を受けたいお客さんが沢山くるようになりました。

でも、なぜか 店舗の業務以外の問題で お店が存続できなくなる ということに何度も直面してしまいます。

オーナーさんの投資の失敗とか オーナーさんとうまくいかない とか

やりたかった仕事を失って 食べていくことに困って 仕方なしに占い師になったそうです。

今では予約は1ヶ月待ちの人気占い師です。すごくよく見えています。

でも、最初は全然自信が無さそうでした。

占い師なんかで食べて行けるだろうか? って言ってたんです。

そのたびに、私は 「あなたは人気占い師になるよ。そのうち行列モノだよ~」 と言っていたんですが

本当になりました。

 

才能を活かすことを邪魔しているのは 何でしょうか?

 

多くの人が 自分のことになると 自信がありません。

 

ブレーキをかけながらするって すごく効率が悪いと思いませんか?

エネルギーのかけどころはそこじゃありません。

外側の困難に立ち向かって克服していくためには エネルギーが内側を責めないで

前に出ていく方がいいんです。

 

だから 子供はみんなでゲームしましょう ってわけじゃないですよ(笑)

本当にゲームが大好きで ワクワク 心躍る! というなら

その子はゲームの専門家になってみたくなるかもしれません。

 

特に しつこい性格 とか 言うことを聞かない というのは

ある種の才能でもあるんです。

 

お母様たちは、子供の興味はいろんなものに移ろいますから長い目でみてください 

親の尺度ではめようとすると 子供は伸びにくくなります。

親としては気になることではありますが 妙な期待や 決めつけは邪魔になってしまいます。

 

自分が何が大好きなのか また、 何が得意なのか

 

いろんな価値観や尺度にはめ込みすぎないで 自由にそれを伸ばせばいいだけなんです。

興味もわかないお勉強に身が入るわけがありません。

勉強ができる子は勉強することがけっこう好きなんですよ。

本を読んだり、計算ドリルをゲーム感覚でやっています。

無理やりやらせて力が付くわけがありません。

 

もし勉強をする子になって欲しかったら 勉強を楽しむことを教えてください。

親がそれをできたら 子供さんもできようになるでしょう。

 

自分がとことん好きな事は 他の誰かも すごく好きになる可能性があります。

この広い世界の1% いや 0.5% はたまた0.05%でも 同じ感性の人がいるかもしれません。

 

世界の総人口75億人の0.05%は3750万人


この狭い日本、約1億2千万人の0.05%の人間の数は 6万人

 

あなたの周りの1999人が あなたの気持ちをわからないと言っても

日本には6万人も あなたの気持ちがわかる人がいる ってことです。

 

独りじゃないです

 

そもそも独りじゃないです。(笑)

この世界が私そのものだった っていう悟りの意識が まだわからなくても

 

ちょっと意識を拡げてみてください。

 

今はネットで どんなに遠くにいる人でも 共通の趣味を介してお友達として会話もできる時代です

これは本当にすごいことだと思っています。

あなたが あなたらしくいることに 共感する人が沢山いるでしょう。

この時代 なかなか素敵だと思いませんか? heart01happy01

仲良し象

宇宙人 

私はSF小説は子供の頃から大好きだったので よく宇宙人の出てくるお話を本で読んでいました。

先日、『アミ 小さな宇宙人』という童話本をご紹介したのですが、

しばらく前に気になった宇宙人の話題を書いてみたいと思います。

これは アミの話題とちがって ちょっとひどいお話なんです。

 

YOUTUBEの動画で アメリカでとらえられた宇宙人を人間が尋問している映像をみたことがありました

本物なのかフィクションなのかは定かではありませんが、

 

両腕を縛られた宇宙人が刑事事件の犯人のような尋問を受けていて weep

その動画で、質問する地球人は宇宙の始まりや生命の始まりのことなどを質問していました

 

質問への答えは 当時はまだポピュラーではなかったですが、

最近になって宇宙の真理として認識されはじめているものに近いものでした

ですが、その質問がなされた当時の常識では受け入れがたかったのだろうと思われます。

宇宙人は 「言っても君たちは信じないだろう?」と言っては 口をつぐむのですが

尋問者は 「答えろ!さもないとまたあの薬を打たれたいのか!」

と、宇宙人を脅します。

 

もう 何と言いますか、もしこれが本当にあったことなら 地球人として恥ずかしい 

というか とてもいたたまれない気分になりました。 crying

フィクションであってほしいけど、現実でもありそう。なんて野蛮なことを・・・

現実の大統領がアレですから。。。

前時代の認識の人々がそれをしていても不思議ではないかも・・・

 

SF映画などで出てくる地球人(地球防衛軍とか)は 外部から未知の存在が来ると やたらと敵とみなして

攻撃をしかけようとやっきになっている登場人物が出てきますね。

好戦的なんですね。これは映画というエンタテイメントだからでしょうか?

 しかし 政治の世界や 国家間の問題では かなりリアルにそんなことをしている様子もあります。

これ、人間の 自我のマインドの認識 ですね~。

私たちの中にもいる あれです。 マインド。

「危ない!危険だ!気をつけろ!」と声高に騒ぎます。

知らないものはとりあえず危険と扱い  まだ真実が分かる以前に 対象を敵に仕立ててこちらから攻撃をしかけます。

 

う~ん、 人間の野蛮な部分。 

 

もし、地球外生命体が 高度な文明を持っていて 遠くの星から地球にやって来ることができるほどの技術を持っていたとしたら、

 彼らはエゴにまみれてはいないんじゃないか と思うんです。

 

なぜかと言いますと、

人間レベルのエゴの強い生き物は 自分たちのエゴで自滅していく運命にあります。

 

地球上の生命 他種はおろか

自分たちホモサピエンスの生育環境すらも守れない

100年先、自分たちが死んでからのことも考えられないほど愚かでは 種の存続は難しく、

自分たちが開発した科学文明や発明品を仲間割れの喧嘩の道具にしてしまうのです。

このままでは遅かれ早かれ 自分たちの居場所を失うことになるかもしれません。

 

でも、そんな人間も本来の魂の意識を完全に忘れたわけではありません。

現状の歪みに心地悪さも感じていますし

このままでいいわけではないことも気付き始めています。

 

それに これほどにパワーを持った自我が自然にたいして傲慢になってくると 

これまで安定していた地球上のエネルギーも そのうちアンバランスになってきます。 なってきています。

この世界そのものは 歪みを修正する揺らぎを持つだけで 元に戻してしまったりするのですが

それは 地球のため息 みたいなものなのでしょうね。 

 

ただ憂えても仕方がありません。

私たちが気付くべきことは 誰かの断罪 ではないのです。

自分以外の生き物を敵だとみなす 自我 エゴに気付くことです。

それらは私たちの中にあるものなのです。

他人にはそれを取り除くことができないんです。

 

かつて感じた内側の痛み、 

誰かが悪者だったから あなたが傷付いたのではありません。

単なる偶然、あるいは 思いが通じなかったことで 摩擦が起きて あなたは痛かった。

もし、あなたを傷つけてしまった人がいたとしたら、 その人もあなたと同じくらい心が傷付いています。

過去の傷、心の傷に 影響されているのです。

愛になれない ということは 本当に欲しかった愛を受けることができなかった ということなのです。

 

 

だからと言って 人を攻撃していいわけがありません。

宇宙人も 人も 魂があるものはみな家族です。

 

一番取り扱いが難しいのが 自我です。

自我は怖れのあまり攻撃をしかけてくるからです。

 

あなたの中の自我、傷の痛み、摩擦 を 癒して穏やかにするためには あなたの潜在意識につまるわだかまり

カルマを解放して心の苦を荷下ろしする必要があります。

 

人はいろんな体験をして生を学びます。 

もうそろそろ苦悩の体験は卒業したいところです。

 

気付き始めた人から 苦悩を卒業していきます。

愛を持って生きていくことがどれほどに豊かな体験でしょうか。

地球全体が調和して穏やかな悠久の営みを続けるのに エゴはなくてもいいんです。

 

成長とは 特別になることではありません。

成長とは 受け止める器を大きく育てる ということです。

そして自分の中の不毛な幻想を手放していきます。

 

成長した魂は 地球を愛し、護りたいと願わずにはいられないでしょう。

そして

地球外の魂も 魂には変わりありません。

 

子供が呼んでも楽しい宇宙人の物語  あらためてご紹介です。

エンリケ・バリオス 『アミ 小さな宇宙人』 とても心が癒されますよ

挿絵を描いた さくらももこさん も 宇宙船に乗って行っちゃいましたね。

たくさんの楽しみ たくさんの幸せをありがとうございました。

アミ小さな宇宙人

心の平安

人生にいろんな悩みや苦しみがあって それがどうにもならない時

悟ると苦しみから解放される と聞いて 悟りというものに興味を持ち始めます。

慈悲深いあの方のように、

仏さまのように 眉一つ動かさず 静かな微笑みを湛えているような

そんな穏やかな境地に至ってみたい という憧れ。

 

それで仏教に入門しますと そこでいろんな作法や心の在りようを学びます。

罪をつくらないこと(カルマをつくらないこと)

徳を積むこと(善行をおこなうこと)

心を戒めること(欲に溺れないこと)

 で、 自分を律しようとしますが、

 

これがなかなか 思い通りにはいかないのでございます。

 

信心することがまた苦悩。 なんて自分なんだ! と悩んだのは

浄土真宗の開祖親鸞上人

 

ええ、人間の欲望というのは 本来 種の存続のためにあるものですから 

完全に人間から欲望が消えてしまったらもう肉体を持つ必要がなくなっちゃうんですね

 

で、何が問題かと言いますと 欲望の暴走 や 野放しの欲望や感情 です。

それらの感情に意識が振り回されてしまうことが苦しみ となります。

 

この物質界に肉体を持って生きている以上、いろんな制限を生きることは必須なわけですが、

面白い人生とは その制限の中でどれだけの表現の可能性にチャレンジできるか というところや

この世界の あらゆる現象のハーモニーを楽しむところにあるのです。

 

ですから 思い通りにならなかったり 制限がある という大前提のもとに

この障害物人生ゲームを楽しむか です。

悟りは 人生ゲームの駒である個人の意識(自我)から解脱して ゲーム全体を傍観するギャラリーの位置にあります。

私はただ観察する意識だった。 この肉体はかりそめの姿にしかすぎない。 という気づきが悟りです。

 

大海で嵐に遭って 木の葉のように翻弄される船の上の遭難者  と思っていたら

私は海そのものだった。  

でも、肉体は嵐の中にいるんですが、 とりあえず沈没しないように対策は立てますが

沈没したらしたで仕方ない。

本当に海に帰っちゃうだけのこと。

 

タイやブータンの人々は 一般人でも このような死生観を持っています。

今生はかりそめの姿。 人生は旅のようなもの。 終わればあちら(彼岸)に帰る

できるかぎりいい旅にしよう。 

人を慈しみ、温かいかかわりを持って いい人生だったね と言えるように

みんなと仲良く 腹立ちを撒き散らかさず 人を許して 穏やかに生きよう  と。

いつも 顔に笑みを湛えて。 今ある幸せを大事に。。

 

全ての移ろいゆくものに執着せず あるがままを受け止めて 不満を握りしめず、

親切にあろうとしよう  と。

 

許し難きを許し  愛の眼差しを持って どれだけの人を愛せたか。。。

 

その時 その心はもう救われているのですね。

平和に生きたい方へ

手放し難い感情に苦しくなったら 瞑想者の仲間入りをお薦めします。

こころより皆様の幸せを願っています。

チェンマイの蓮  チェンマイの通りがかりの家の前に咲いていた蓮です

一輪の花のように咲く人生 もうすでに咲いているんですよ。 ありのままを受け止めてくださいね

 

 

摩擦からの解放

解放解放って言うけれど、、好きにしたらひどいことになるのでは?  

と思ってしまう方も少なくないと思います。

私も最初はそうでした。 私が嫌々でも引き受けていることを手放したら

困る人が出るじゃないですか。だから辞めたくてもやめられない  と。

 

依存関係で構築された構造は 解消するときに摩擦が起きます。

「行かないで!」

でも、その関係を維持するには摩擦が起き続けます。

「しんどい、キツい、窮屈、イライラ」 

いずれにしろ摩擦を含んだ関係なのです。

流れは一時の摩擦で済ましてしまおうとします。

魂は 依存を卒業したい

 

摩擦のある関係は崩れやすいものです。不安定で居心地が悪い。

最初は望んだことかもしれません。最初はそれが心地よかったのかも

でも、依存という関係は摩擦を起こし始めます。 縛り合う関係です。

 

摩擦が大きければ大きいほど 崩れやすくなりますし

摩擦の圧が溜まるほど、居心地は悪いものになっていきます。

地面の圧が高まって 起きる地震のようなものです。

 

摩擦はあなたが悪いわけではありません。 

相手が悪いわけでもありません。

誰も悪いわけではありません。

問題は ルールから外れること ではないんです。

頭の中のルール、社会のルール、コミュニティの規則は、

知ってるだけでいいんです。 

社会のルールは知らないと外側に摩擦をおこしてしまいますが、

そのルールにとらわれてしまう必要まではないのです。

もちろん支配される必要もない。

 

それに合わせたり合わせなかったりするのは選べます。

 

ちょっとまって、、摩擦を起こしたらダメじゃん? と思うかもしれません

摩擦は ルールに合わせていても起こります。

人間がいるかぎり何らかの摩擦が起きています。

人間がいなくても起きています。

それはエネルギーの流れのぶつかり合い。

 

周囲の基準を知っていて、あるいは知らずに  あえて自分の進みたい方向、選びたいものを

自由に選びます。 摩擦はそこここで常に起きています。

バランスを取りながら摩擦をすり抜ける、

バランスを取りながら 摩擦を鎮めることができます。

 

自分の選択への反響も含めて受け止めて、そして自分で立っているんです。

周りは意外と適応力を持っています。

私の選択は私のもの。 私の未来は私のもの(この言い方は非二元にはそぐいませんがあえて言います。)

 

この生き方は まわりに依存していると選べません。

依存は 基準を周りにせざるを得ない原因の一つです。

 

周りと摩擦を起こさないよう やりたい放題はしない  という場合

この時にあるのが依存なら、とても息苦しいですが、

依存ではなく、やさしさから摩擦を起こさずにいるなら、

そこに摩擦は起きません。

自らの意思でそれを選択している時、その運命を受け入れることができるからです。

自分の選択に責任を取る覚悟を持つからです。

 

依存を切る時、癒着していた部分は切り離されると痛みがあります。

目に見えない癒着にも痛みはあります。

 

でも、それは自由を手にする一歩です。

 

依存がなくなると、身が軽くなります。相手の運命まで背負わなくていいからです。

自由な選択をすることができます。

依存を切る時、相手も痛みを感じるかもしれません。

その時は

優しさを持って 周りがショックを受けないように 説明することもできます。

「これまで支え合う関係でいてくれてありがとう。でも、もう自立しようと思うんです。」

 

優しさと感謝、敬意 が 痛みに癒しを与えます。

 

この世界でのバランスを取るには 周囲を無視することはできません。

旅をするには風を読むことも必要だからです。

でも恐れないで あなたを見守る世界を信頼してください。

 

どんな体験もOKなのです。

成功だけが良い事 ではないんです。

全ての出来事が あなたの魂を成長させます。

あなたに 受け止める力と 真実を知る能力を育ててくれるからです。

 

この世は 自我の思い通りにはならない世界ですが 

愛に満ちた世界です。 あなたの発するメッセージ(波動)そのものを映し出す世界です。

あなたの真我 そのものなんです。

 

反映させる波動を選んでみましょう。

白い花畑

出てくるものが ネガティブばかりな方は まずは内面のお掃除からです

ELM瞑想はあなたの内面をパワフルにお掃除します。

ぜひご利用ください。

とらわれない心は あなたにも実現できます。

案ずるよりも産むがやすし です。

ハッピーの共有

先日 遠方の瞑想者の方とお話する機会があり 今朝 嬉しいメッセージをいただきました。

みなさんの喜びは 私の一番の栄養です。

幸福の波動は共鳴するので 同じように私も最高にハッピーになるのです。

 

私たちの生命エネルギー、波動は伝わり共鳴いたします。 

波動は伝わり感じます。 ハッピーな波動を楽しんでいます 。

素敵!大好き!サイコー! happy01heart04

 

それとは逆の波動の時はどうするのか? と言いますと

 

その昔、私がまだ迷いの中にいた頃は、ネガティブ側の波動に引っ張られていました。

というか、むしろ、自分がネガティブでしたから、人からエネルギー取ってたかもです (^_^;)

ネガティブはネガティブを引き寄せ 私が感じていた世界はとても居心地の悪いものでした。

 

でも、今は違います。変わりました。

 

今は自分の方からハッピー波動出まくってますから こっちの影響力の方が強いんですね。

ネガティブな人もこちら側に傾いてくれます。 

 

ネガティブな状態というのは エネルギーが足らない状態で

そこにエネルギーが入ると安定してネガティブが消えます。

癒される という現象です。

 

それでネガティブな人は無意識に求めます。漠然としない何かを 

安心とか 愛 ですね。

 

求められた方も愛が足りてないと 奪われた気分になります。エネルギーを取られる心地悪さがある。

だから愛のエネルギーが不足している人は ネガティブな人と離れたい と 思ってしまう。

 

でも、愛が溢れる人 っていうのは次から次に愛のエネルギー出てますから減らないんですね。

で、中にはあげたくってしょうがない人もいたりして、

やりすぎると おせっかい になっちゃう。 逃げられるんですね。(笑)

押し付けになっちゃうんです。 そうなると 愛は 愛でなくてエゴになってしまいます。

相手が欲しがっているか 必要としているか よく 今の状態を観察してください。

 

家族に対しても 誰に対しても 今をちゃんと見ないと、思い込みだけで現状に気が付かない ということが起こります。

 

自然 とか 神様 は  私たちが求めるまで押し付けてきません。

だから純粋な愛 なのです。

 

人同士の場合、また 命ある者は

よーく観察してみると、黙っていても 本当は欲しい という心の声まで聴こえてくるようになります。 

あなたの内側に摩擦がないと、外側の世界 周りの状況を正確に感じ取ることができるようになります。

 

すぐにわからないこともたくさんありますが、だんだんわかるようになっていきます。

 

大切なことは、自分の気分を幸せに保って

幸せの波動を拡げて みんなでハッピーを共有しましょう♪

それぞれが 自由に 楽に心を開くのです。

決して人を支配しようとしないでください。

それぞれが自由であることを許し合い それぞれの人生を尊重してください。

あなたは あなたの選びたい人生を選びます

だからこそ ハッピーでいられるのです。

 

 

アトリエ霽月では

ハッピーに生きる方法もご指導しています。

笑うカヤネズミ

 

 

気にするな

あなたは我が道を行きます。 それが基本です。

もし周囲との摩擦を感じたら、少し立ち止まって 波動を愛に替えましょう。

 

あなたは我が道を行きます。 それがベストです。

もし邪魔が入ったら 少し待って 時期を選びましょう。

 

あなたは我が道を行きます。 ハートはそれを望んでいます。

あなたを引き留める声は あなた自身の自我の声でもあります。

ハートの気持ちを大事にしてください。

選択は 他の誰でもないあなた自身がします。

 

あなたは我が道を行きます。 

どうしてもどうしてもそれでないとダメなんだ

そう感じる時 それをやってみてください。

その後に結論が出ます。

 

もし、自分の気持ちがどこにあるかわからなくなったら、ちょっと止まって、考えることをやめます。

自我の声と ハートの声が違う方向を言っていたら、心が葛藤します。

自我の声(マインド) とは、常識や ルールや 損得勘定や 罪悪感です

ハートの求めるものは そこに喜びやワクワクする感覚があります。

あなたはどちらを選んでも構いませんが、 魂はハートの意向に進んで欲しいと思っています。

そこに とても大事な体験が待っているからです。

自分の結果に自分で責任を取る時、 大人のあなたは何をしてもいいのです。

人の期待のために生まれてきたのではないのです。

あなたは あなたの人生を生きるために生まれてきたのです。

 

もし、迷ったら あなたのハートが何を求めているかを 感じて見てください。

あなたの人生はあなたのものです。

いつも全ての人は自分自身で生き方を選んでいます。

 

自分で選ぶ意思を あなた以外の誰も阻止できません。。

枠の中にいることも 飛び出すことも 選べます。

そして 自分の選択に自分で責任を持ちます。

選んだものを楽しんでください。

今を楽しんでください。

 

才能のありか

「私には特筆する特技がなにもない」 と思っている人もいるかもしれません。

それは その人がこれまで 一番得意なことに時間を使う機会を持てなかっただけのことで、いったん、得意なこと

を自覚すると、その才能を開くのにはさほどの時間を必要としないでしょう。

 

でも、あくまでも最初は誰もが初心者なので どんなに才能の芽があったとしても いきなりプロの技ができるわけではないんです。(笑)

練習してこその能力の開発です。 練習が嫌いだと伸びません。

好きなことは飽きない、嫌なことは続かない。いくらやってもさほど疲れない  というのも才能を見分ける要素でしょうか。 

 

ですが マインドはまだできていないそれを なかなか認めないんです。

 

なぜ才能が簡単に見つけられないか? というもう一つの理由は、

人間のマインドは 足らないものを見つけることの方が得意で、足らないものに注目してしまうんですね

そのため、当たり前にできてしまうことをできているならいいや とスルーしてしまいがちです。

これが得意? それよりも足らないところを何とかしなさいよ。 とか言われてしまったりして 

意識は苦手な事や自信を無くす方に流れてしまいます。

 

まだ成長する前の才能を軽んじて あなたのそんな才能なんてどうでもいいから  

などという扱いをしてしまうのです。 これは外部のカルマの感情の問題です。

何かを責めている人は自分の苦手のことは忘れています。

いや、むしろ隠したいので 他人の欠点を掘り起こしたくなるのでしょう。

 

カルマに意識をひっぱられるのも煩悩ですね。

カルマによってあなたの才能が雲隠れしてしまうんです。

 

 

何が得意か は 一人一人違いますので 憧れることなんでも できるようになるわけではないんです。

やってみて初めて得意か苦手かわかってきますし、すぐには判断できないかもしれません。

でも、得意な事は 他の人より苦になりません。

とっかかりは、石の上にも3年。(笑) とりあえず しばらくは続けて見なければ芽は育たないですから。

 

本人が持ち味を自覚しているかどうかは別問題です。

自分では自分の特徴をコンプレックスとしてとらえている人も多いです。

自分らしさ とは 自分の特徴を活かせた時 それがあなたの自信となり 心の安定になっていきます。

あなたらしさを嫌わないでくださいね。

あなたはそのままで あなたらしい。

あなたを活かせる場所、あなたが活かせる仕事、あなたが喜べること、

あなたを受け止めてくれる仲間  を見つけてください。

もちろん、あなたも仲間を  否定しないで 受け止めてくださいね。

スキャーリー

摩擦を愛に変える

この世界を生きている私たち 

気が付くと自我の意識が芽生え、身に付けたいろんな判断基準で世界を測っています。

価値 という評価を設けて 物事を測るんですが、それは 普遍的なものではなく、

価値基準の下に評価がなされます。

価値基準がなければ それも無意味なものになりますが、

好ましい好ましくない という基準の根本は 心地よさ なのではないでしょうか。

 

私たちが心地よいと感じるのは、愛のエネルギー。そして エネルギーの調和した状態です。

それらは 温かく、癒しに満ちていますし、 安定感のある状態です。

そう、ゆりかごのような。。

エゴではなく真我や魂が求めているのは そこです。

  愛

ここで表現される愛は 真我の愛 神の愛 包み込み受容する愛のことを言います。

男女の情愛はこの限りではありません。

男女の情愛は 本能や欲に起因して生じ、その体験で魂が成長して受容できるキャパが拡がった時に真我の愛 へと進化するのです。

 

神 や 波動が高い と言われるマスターは 大きな波動を持っています。

波動が高いことそのものが 浄化なんですね。

会うだけで癒される という話は 波動の影響力が大きい ということですね。

マスターの中に 完全なる愛の存在 と言える方々がいらっしゃいます。

これらの方々には 愛 しかありません。

意識が大きなキャパを持っていると エゴは小さすぎて見えなくなってしまいます。

 

お釈迦様や、 イエス・キリスト 

ダライ・ラマ

ティク・ナット・ハン禅師 

エック・ハルト・トール氏 

サイババ

カルキ・バガヴァン

ELM瞑想のボブ・フィックスさんも そういうマスターの一人です。

ボブはとてもフレンドリーで 無邪気な人なんです。heart01

 

高波動のマスターほど 存在だけで 人を癒す力を持っています。

波動が人を癒すのです。 心が柔らかくなるんですね。

 

でも、高波動のマスターは決して自分が特別な存在とは言いません。

それぞれの存在が特別であり、 また、特別なものはいない ということを知っているからです。

 

個々の存在は全体の一部で それぞれに世界の一部を担っている大切な存在です

私たちの身体を世界だと見立てて 一人一人が一つ一つの細胞だとしたら、

その細胞は要らないものとして排除されることは身体と言う世界にとっては痛みです。

必要があってそこにいます。世界と繋がっているのです。

 

我々人間の多くは、マスターたちの教えに触れて、啓発していきますが、

啓発を体験するまでは まだエゴやカルマが反応しています。

マインドがまだカルマにとらわれているので、実は知能の高い人ほど 悟りに突破するのが難しかったりします。

自我やマインド が強ければ強いほど 悟りの前に立ちはだかる壁も硬くなってしまいます。

 

弟子たちはまだその段階です。生きているうちは完全にエゴが消えているわけではありません。

人間は肉体を持っている限り、無意識に エゴに呑まれてしまうこともままあるのです。

困ったことにマインドはそのことになかなか気づかないのです。

自分が正しいことをしていると思ってしまいます。

 

正しさにとらわれたり、権威に傾倒するのはエゴの癖なのです。

 

マインドの判断は知らず知らずのうちに介入してしまいます。

あれはダメこれはいけない と 判断したり、裁きたくなるのです。

 

啓発していないマインドにはカルマの感情がついつい乗っかってしまいます。

カルマはいろんなものに化けますね。神のふりもしますし 聖者のふりもします。

規律にこだわり、戒律を増やしたくなり、合わないものを排除したくなります。

考えやルールに合わないものと摩擦を起こすからです。

 

真実の愛は 摩擦を癒して溶かしてしまいます。

誰もそれに抵抗できないのです。

愛には摩擦が起きないからです。

 

あなた以外の聖者になる必要はありません。

あなたはあなた自身の真我がを見つけるだけです。

もし、あなたの中に摩擦が起きているなら、それを取り除いていくうちに真我は現れます。

 

摩擦であるカルマを愛に昇華してみませんか?

真の瞑想は それを可能にしていきます。

あなたが望むならば、 あなたは 大きな愛になることも可能です。

あなたにどんなカルマがあろうとも

あなたが愛になることを望み続ける限り、

あなたは愛になれるのです。

なぜなら、私たちの本質に愛があるからです。

 

愛は支配やコントロールをしません。

ただ、限りない慈愛の目で見守っています。

永遠に。 

愛 ピンク

本当の答えは内側にある

占い 好きですか?

 

好き、よく行く と言う人もあれば、  全然行かない という人もあるでしょう。

 

私は、以前はかなり興味のある方でしたが、最近はそれほどでもありません。

占いは 自分の中の答えを見失ってしまった時に行きたくなるもの のようです。

以前は 自分がどうしたらいいのか すっかりわからなくなっていたのでしょうね(笑)

 

自分がどうしたらいいのかわからなくなる というのは、

自分がすることを決めるのはハート なのですが、そのハートの意思を見失ってしまう 

ということです。

 

どういう時に見失ってしまう  と思いますか?

 

実は頭(マインド)で考えたことや計算した答え、あるいは損得勘定 など ハートの意向を無視した頭の考えばかりに従っていると、ハートが求める体験をできなくなるので

ハートがとても居心地が悪くなってきます。

これでいいはずなのに 満足しない  ということが起きます。

 

自分の進む方向を信じられなくなってくるのです。 

なんか違う! と言う感じです。 そう、違和感。

 

マインドは安全第一で チャレンジや変化を嫌います。

チャレンジをしないことで 魂の成長の機会を逃してしまうのです。

 

でも、マインドの意見はけっこう力を持っていますので、マインドに権力を与えてしまうと、ハートの意思はことごとく無視され、ハートが縮こまってしまいますね。

 

これはマインドを無視、軽視しろ ということではありません。

 

進路や行動を決定する時、何かを選択する時は まずハートにどちらがいいか?を訊ねます。

心地よいフィーリング。ハッピーな気持ち、ワクワクする躍動感を感じるのが ハートの選ぶ道です。

 

この答えは 外側の誰にも分りません。

だから他人の意見はただの参考にしかなりません。

あなたは他人の答えで自分の道を見つけることはできないのです。

 

ハートの声に従ってください。

その選択に進むにはどうしたらうまくいくか? ということをマインドに考えてもらいます。マインドは 困難を乗り越えるための参謀なのです。

不安要素ばかり出てくるとしたら、それはカルマの感情ですから 不安は 速やかに手放して、

楽観 というより、真実を見てください。

悲観も楽観もしません。 真実を見ようとしてください。

そしてあなた自身の力も信頼してください。 

 

いいアイデアが浮かばない時は、瞑想などして 心をクリアにして閃きを得ます。

瞑想すると、妙案を思いつくようになるんですね。脳が柔らかくなり、活性化するのです。

アンテナも発達しますから 外側から良い情報が次々に入って来るようになります。

いろんなことにチャレンジしてみてください。

あなたは 自分の力でこの世を生きる力を育てています。

 

最終的に 自分自身に丁度いい生き方が残ります。

無理をするでなく、実力が無駄になるのでもない、あなたの命が生き生きと輝く生き方をあなたは見つけることができるでしょう。

 

エゴは等身大以上を望むかもしれませんが、 それはあなたのエゴにとって気持ちいいポジションかもしれませんが、あなたのハートにとっては 居心地のいい場所ではないのです。

 

ハートのフィーリングを感じ取って 何を求めているのか 感じて見てくださいね。

体験しながら模索して、見つけていくのが人生かと思います。

あるがままに生きることは エゴを黙らせることでもあるのだと思います。

自然と調和して与え合う関係となります。

あるがままの命を大切に。

タンポポ

あなたが  世界を信頼すればするほど、 世界の意識はあなたをサポートしてきます。

おもしろいほどに。。(笑)

 

もし あなたが チャレンジをしたことがない と思うなら、

瞑想をしながら、新たな生き方にチャレンジしてみてください。

この世は 不思議と奇跡に満ちています。