命が私を生きている

生きる というのは どういうことでしょうか?

生まれて生きているのは 誰でしょうか?

私が生きているのでしょうか?

それは誰の意思でしょうか?

 

あなたは何者でしょうか?

私は 誰でしょうか?

私は 何者でしょうか?

何処から来て どこに行くのでしょうか?

命って何でしょうか?

 

アイデンティティーは 私 でしょうか? アイデンティティーには実体はありません。

私のストーリーもまた  実体のあるものではありません。

どれも脳の中のイメージなんです。

この肉体は物質的にここにありますが、どの細胞も どのタンパク質も どの水分も

この世界からの借り物にすぎません。

 

命は なぜ生きているのでしょうか?

命にとってストーリーは大事なんでしょうか?

 

価値判断は誰がしているのでしょうか?

それは誰にとって大事なんでしょうか?

 

少なくとも 自分にとっては 他人の価値基準は 大した意味がありません。

 

自分が好きと感じるか そうでもないか・・・

そんな感覚が 優先されて生きています。

 

命は 意思とは関係なく 生きています。

とても死にたい時があった時でも 死ぬことはすごく難しいことでした。

自我の意識が、こんな思いをするのはもう嫌だ死にたい なんてことを主張しても

全身全霊が死ぬことを拒否します。いえ、自分を殺すことを拒否します。

とてもできなくて 仕方なしに生きてることがありました。

 

こんなことを書くと どんな目にあったんだ? と思われるかもしれませんが、

死にたいと思うのは 単なる逃げたい気持ちでしかなかったと 今ではわかります。

たぶん ヘタレな性格で 辛いことがあるとすぐに死にたいとか思っちゃう若者だったんだと思います。

今思い返すと笑ってしまいますが (笑) 当時は深刻だったんでしょうね。coldsweats01

思いつめすぎて抑鬱になったりとか

どれだけ逃げ道がなかったんだ?と思います。

相談できる人がいなかったということもあったでしょうね。

 

そういえば、何かのために 自分の命を投げ出す ということに直面したこともありました。

自分の命よりも優先して守りたいものがある と思った時です

その時は 運を天に任せました。

生きたい とか 死にたい とか そんな選り好みを言ってる場合じゃなかったんです

守りたいもののために 必死で対処するのみ でした。

これは意識の変容によいチャンスとなりました。

自分の事だけだとここまで覚悟を持てないだろうことを、覚悟させてもらえたいい経験でした。

度胸がつきました。

 

大変な時は 大変な時なりにベストを尽くします。

大変な時期はいずれ落ち着いていきます。

このことをなぜか私は知っていました。

出来事には波があり、常に変化して過ぎ去っていくものです。

思い通りになるわけではありません。でも、時の流れを四季の移ろいのように見ています。

 

安定はある意味 ちょっと 退屈に感じるかもしれません。

エネルギーのある人間は少々波がある方が心地よいのかもしれません。

ですから 人生にいろいろ起きることを不服には思っていません。

いろんな事が起きて 必死になっている時も生きている実感がありますし、

平和な時は平和な時で 緩やかな流れを感じて 幸福を味わうことも好きです。

 

人生の予想外のことは案外面白いと感じます。

自分の思い込みが事件を起こして驚いたり、

思い込みが取れて真実が見えた時などは とても感動しますし

何よりも この世界に愛が溢れていることを実感する時 心からの幸福を感じます。

 

この世界に 愛が多い という言うよりは、

この世界にある愛に共鳴して

この体いっぱいに愛が拡がる時、私は至福の中にいるのです。

 

この世界は多くの愛を 私たちに与えようとしています。

でも、人間の意識は 違うものを欲しがるようなんですね。

青い鳥を探すのに違うところを探している状態です。

 

青い鳥は 常に一緒にいるんです。 

そう、内側にいるんです。 

仏性、 あるいは 愛 と呼ばれています

私は ただ 内側にある愛を振動させるだけで 世界の愛のハーモニーに加わるような感じがするんですね。

そして

ただ愛でいるだけの存在は どれだけ私に愛を感じさせるか 私は知っています。

 

生きる ということは 面白い現象です。

私は命に生かされています。

芝桜と青空のサムネイル画像

地球上のあらゆる存在が 折に触れ 愛を放っています。

命を生きる事そのものが 愛なのかもしれません。