2022年03月

お薦め動画

悟りってどんなものなのか・・・

そんな疑問をお持ちの方に ご紹介したいYoutube動画があります。

金森将さんのチャンネル かなもり幼稚園 の『バタ足ノンデュアリティ』です

画像をクリックするとYoutubeにリンクしています。

かなもりチャンネル1

このチャンネルの動画は3~4分の短編動画のシリーズになっていますので、少しづつ見ていくことができます

一番最初から順にみていく方がわかりやすいかもしれません。

ノンデュアリティ つまり 非二元 が どういうことなのか を 

簡単で具体的な言葉で イメージしやすいように解説されています。

できれば1日1話ずつ 何回も繰り返し聞いてイメージしていただくと 何を言わんとしているかが ほんのりわかってきます。

短い時間なので 聞き流すよりも じっくり聞いてみてください。

え?

そんなこと?

そんな普通の事?

え~ 

なんて思うかもしれません。

でもそれなんですよ。なんでもない普通の事なんです。

だから特別さを探していると見つからないんです。

悟りは 誰にでも身近にあります。

だって 本当はそれしかないんですから。happy01heart01

恋愛

先日、

スピリチュアル的には恋愛ってどういうものなのですか?

というご質問をいただきました。

ツインソウルとかいう言葉もありますね。

私はツインソウル的な存在は 感じたことがありません(笑)

すごく仲が良かったり、そうでなかったり、

パートナーは いろんな関係性があると思います

が、概ね 魂の学びの相手であることが多いようです。

どんな学びか と言いますと、

自分が愛になる学び です。

どうすれば愛されるか ではなく

いかに愛するか  です。

この場合の「愛」は 恋愛的な愛ではありません。

恋愛のように惹かれ合うのは 種の保存のための感情です。

これは長続きしません。することして気が済んだらいずれ冷めていきます。

3ヶ月か3年か30年後、その感情は消えているでしょう。

ただ、恋愛感情が 「愛」に変わっていれば 仲良く添い遂げることはできます。

恋愛は求めること 愛は受けとめる(赦す)こと

真我の愛は ありのままでいさせること です。

スルー や 無関心ということではありません。

温かく静かに見守って 相手の選択を尊重する

相手を信頼する ということです。

あんな相手じゃ信頼なんてできないですよ! と言いたくなるのはエゴの視点なんです。

それは相手があなたの理想になってくれる ということではありません。

本人の命が生きて その命を全うする その運命を受け止める いつか愛に気付く という信頼です。

その命の中に愛が存在する という信頼です。

いやいや、あんな性格、愛なんて欠片もない! なんて思う人もいるかもしれません。

それは 愛でないものが現れているだけのことで、愛はどんな命にもあるのです

いえ、むしろ生命体は愛でしかできていない とさえ言えるほど 愛の結晶なのです。

見るべきものは 相手が愛か愛でないか ではなく、

あなたの波動が 愛なのか そうでないのか、 

あなたがあなたの中に愛を見つけられる という学びなのです。

相手に対してイライラしている時、あなたは相手に何を要求しているのでしょうか?

もし、パートナーのそばにいることがあなたを傷つけることになるならば、

そのことが改善されることがないならば あなたは自分自身を大事にするために

その相手からは離れなければなりません。

この時、執着があると苦しみます。

でも、本当の愛は何か?

相手も自分も大事にするためにはどうすればいいか を見ますと

自ずと方向性は見えてきます。

 

ちなみに、この時、執着が強すぎて執着が手放せないでいますと、

結構な割合で地獄?(あるいは修羅)の感情を見ることになるので

お早めに手放して愛でいることを選択することをお薦めしたいです。

でも、自我は納得しないことには なかなか動きません。

とことん思う通りにすると、最後は(思い通りにはできないと)降参することになりますので

ハートが求めるままに行動することで 最終的には愛になっていきます。

いかなる体験も 最終的には愛に行きつくことで平和が訪れます。

 

恋愛関係だけでなく、親子関係も同じです。

支配せず あるがままに学ばせてあげてください。

体験して愛を学んでいきます。

叱ってもしかれなくても

親の言う事を聞いても聞かなくても 自然の摂理と愛に目覚めるしかないのです。

愛でいれば 愛を見て

愛でないことをすれば、愛でない結果を見るだけのことです。

あなたは ただ 温かい愛でいてください。

それに気付けることが 魂の学び なのです。

蓮華

カルマの解放を自覚する

カルマの解放は 自覚がある時と無い時があります。

自分から負の感情が湧き上がって来るのを冷静に眺めている意識がある時や

どうしてこんな風に感じているんだろう?と 感情と意識が分かれているような時は

それがカルマの解放だと自覚できる時です。

でも、感情に飲み込まれている時は、相手が悪者に見えたり、自分が被害者のように感じたり

自分の正義を主張したくなったりします。

私はマトモなのに相手がおかしい ように見えるのです。

どっちがおかしい とかは 本当はありません。

それぞれに「思い」や「事情」や「カルマ」があるだけなのです。

悲惨なことや残酷なことや 卑怯なことを見ると

多くの意識はそれを否定したくなります。

でも、この世界は正しい事と間違ったことのどちらかに分けられるものではないのです。

更に、そのどちらかに分ける という行為自体が無意味なのです。

なぜなら、意識がつかんでいる現実 というのは 幻想でしかないのです。

意識が掴んでいるイメージは いとも簡単に自我の都合の良いように解釈されてしまいます。

私たちはそれを裁く必要はありません。

それが起きた時に どう心のバランスを取って平和な心に戻るか が大事なことです。

それは自分の気分を害する誰かを除去することではありません。

あなたがあなたから出てくるカルマの感情を手放すことが大事です。

それは感情を感じない ということではありません。

感情は感じるのが当然です。

感じて感じて感じつくしたら それらの負のエネルギーは全部出て行ってしまい、内側に平和が戻ります。

解放はとても重要です。

ただ、解放がある ということを知らなかったり、受け入れていない時など、
その感情が起きたのは誰かのせいだ と思いたくなったり、
自我は自分を護るために必死で正当化をしはじめます。

そんな反応も 自然に起きてしまうのですが、

自分を護ることに必死になってしまうと 責められることを避けるために

必死で矛先を自分以外のものに向けようとあがいてしまい、

それで事態を悪化させてしまいます。

本当は誰が悪いということでもなく、ただ、感情の摩擦が起きただけなのに

そこにストーリーを作り上げて 正しさを力説してしまう。

自我の意識はそれを真実だと信じこみ記憶まですり替え始めます。

だから それぞれの人にとっての真実は違って受け止められてしまうのです。

よく 喧嘩している人たちの片方から話を聞くだけでは本当のことはわからない と言われますが

それは本当にそうなんです。

両方の話を聞いてもわからないこともあります。

第三者から聞いて初めて真相が見えてきたり。。

それでも聞く人の解釈が入り込むと本当のことは見えなくなってしまうこともしばしばです。

 

お釈迦様が説いたお話を表わす般若心経は こういった人々の意識の中にある記憶や考えは幻想のようなもので本当は何もないのだ という内容です。

それらは記憶の中のイメージで 本当は実体がない。

真実とは今この瞬間の世界なんだけれども、

それは一瞬一瞬 刻々と姿を変え続けるとらえようのないもので

あって無いようなもの。それを捉えようとすること自体が無理なんですね。

でも、人は言葉を並べてそれを説明したい。

でも、その説明は何かを固定したり、歪めたり 脚色したりするので

そのストリーの中では悲劇のヒロインが誕生したり、善や悪が生まれたり

恐怖や不安や葛藤や苦しみが生じるのです。

そのストーリーから離れることが悟りの瞬間なのですが、

この感覚は言葉で表すことは不可能なのです。

私はいない という理解が難しいこのフレーズは

我を手放して世界と一体になった瞬間 腑に落ちます。

脈々と形を変え続ける命 それが我々の正体です。

イメージをいじって自我を落ち着かせるのが無駄とは言いませんが、

歪んだ状態を正当化するのはなかなかのエネルギーが要ります。

でも、自我はそういう作業に余念がないのです。

本当はそんなこと手放しても 世界は愛に満ちているのですが、

自我はなかなか自分を裁くことをやめません。

手放してリラックスしてみませんか?

瞑想に入る時 あなたは何者でもない命に戻ります。

瞑想から出てきてもそのまま命で居ていいのです。

あなたは何者でもない命のままで充分祝福されているのです。

どんな言い訳も必要ありません。

罪悪感も持たなくていいのです。

あなたが何かを裁くことをやめれば 

平和な世界と愛はそのまま実現します。

裁いているのは世界ではありません。

あなたの中のストーリーやカルマが うずいているだけかもしれません。

我々は 最初から自由なのです。

心は誰にも縛ることはできないのです。マインドコントロールは手放すことができます。

カルマも手放すことができます。

どうぞ あなた自身を自由にさせてください。

天灯

 

 

悟り

悟りは、いろんなレベルがあるんだと思います。

何か 「わかった!」と思う事を 悟った って表現もしますので

それがお釈迦様やスピリチュアルが言う 悟り とは違うこともあります。

お釈迦様も長年いろんなところでいろんな人々にお説法してまわっておられたので

いろんな意識レベルの話をしていて それが必ずしも色即是空の話ではなかったりします。

それは 究極の悟り『色即是空』の体感を理解するには 体験が少なすぎる人々にとっては

その悟りは理解できないので 話を聞いても混乱するだけだったりするので

聴く人がわかるように心が穏やかになる話をされるんです。

スピリチュアルの世界でも同じです。

究極の悟り の話をしている方と、人間の意識、観念の世界において心が穏やかになる話、

あるいは善を説く話 をしている方々がいます。

仏教の僧侶も同じです。

究極の悟りを目指しているのは高僧か禅宗の僧侶 なのですが、(この目指しているという表現は微妙)

他宗の場合はそうでないことが多いです。

天国や地獄の話をして 良い事を行い、悪い事をしない という

自分自身が幸せになりやすい生き方を 説いています。

究極の悟りは あまりにも掴みどころが無くて・・・

というのも当然で、何も掴まないのが究極の悟り境地 ですので

それを体感するには「あれは?これは?」という質問そのものを全部手放して

瞑想状態に入るしか方法が無いように思います。

あまりにもひどい事が起きすぎて、世界観が壊れてしまった人も 何も掴めなくなって

いきなり悟ってしまったりすることがあるようですが、

それはなかなかの荒療治といいますか そこで手放せなかったら 
自殺か発狂?なんてことになりかねないので (^_^;)
瞑想して悟りたいところですね。

私自身は瞑想してましたが、荒療治的な出来事は起きていたので
私のようなエゴの強い人間は それが必要だったのだろうな と 思っています。

でも、それは必要で私にとっては良い体験でした。

ものすごく分かりやすかった。

強烈に恐れていたこと、強烈に手放せないものが無くなった 後、

それが全くの幻想の怖れだ ということを目の当たりにしたからです。

そう、皆さんの怖れも 幻想です。

この世界は必要な事しか起きません。

そこに抵抗してもあまり好い事は無いのです。

むしろ、コントロールをやめて 自然体にしていた方が

ずっと丁度良い具合に調和して愛が流れ込むようになっているのです。

諸行無常は 残念なことではありません。

無理な執着は維持できないので 自然な流れに任せて

自然を享受することがどれだけ幸福か。

それを体験するのが「さとり」の生き方です。

怖れ ではなく 愛を見つける日々です。

舞鶴公園桜

自然は 愛を歌っています。
 

怒りと怖れを手放す

新しいシステムや技術や習慣に馴染むにはかなりのエネルギーが要りますね。

それが面倒で旧体制に留まりたがるものなのでしょうが、

最初の慣れるまでの苦労を越えると 快適な日々が待っています。

社会生活もマインドも原理は同じなんじゃないかと思います。

マインドは混乱が嫌いです。変化も未知のものが多いので不安になったりするのです。

マインドは未知を恐れます。

それがすごく良いものかもしれないのに、「悪いものだったらどうしよう?」と、

ネガティブな想像を優先してしまいます。

保護された猫が檻に入れられて、自分を捕えた人間が

自分を保護しようとしているのか、殺そうとしてるのかわからなくて

近づく人間全部に威嚇して来るのと同じです。

彼らは 人間を傷つけたいと思っているのではなく、

「怖い」のです。

攻撃は最大の防御 なのです。「寄らば噛みつくぞ!フーッ」

威嚇する猫

そんな時に 「せっかく助けようと思ったのに、なんだその態度は!」なんて怒っちゃいけません。

あ、、何叩いちゃってるんですか。 それは殺そうと捕まえた人と同じになっちゃってる・・・。

怖れて凶暴になっているものを力で抑えようとしてはいけません。

落ち着くのを待つ必要があります。

これは人間も同じです。

恐れが大きくなるほど 反発力が大きくなるのです。

互いに恐れ合っているからこそ 喧嘩や戦争になるんでしょうね。

解決の糸口は 冷静さと愛です。

愛のエネルギーの前では 恐怖やトラウマは溶かされてしまいます。

膨れ上がった恐怖は一筋縄ではいかないかもしれません。

以前、子育ての話を聞いた時に

「1のマイナス感情はプラスを10与えないと消せない」と聞いたことがあります。

愛が沢山必要なのでしょうね。

この世界に対して 愛になろうと思えば 全てを愛にすることは実は可能です。

怒りや怖れを手放すことが上手になれば 常に愛に戻ることができるようになります。

たとえ、愛でない思いが湧き上がることがあったとしても、

私やあなたの本質は 愛 なのです。

そこに戻ればいいだけなので、実は難しくはないんですよ。

あなたが愛でいれば あなたの周りに多くの愛の花が咲くでしょう

ほら もう春はすぐそこに。

春

怒る

おつかれさまです。

毎年2月3月に確定申告で悶絶していた国税局e-taxの登録!!!

今年、夫の手助けあって(半ば喧嘩しかけつつ)3年越しの登録がコンプリートできました。

マジで どんだけややこしい shocksweat01

ほんとに、毎年、 
やり方がわからない、 annoy
いくつもの登録関連ページをループし続ける、
カードが読み取れない などなど、
数限りないハードルに阻まれながら 

最終日に会場に駆け込んでいたのですが!!shock

今年も登録ページに入れない地獄に陥って 
諦めて最終日に会場パターンと思っていたところ、

最終日前日にe-taxサーバーがダウンしたそうで
最終日の会場に駆け込む人が殺到するぞ!

  と、ネットで調べてきた旦那さんが 

そばでキレかけている私をなだめながら登録を手伝ってくれたのでした。

しかし、キレれかけたのは 私だけじゃなかった。。。

 

あー、大変だった。。

マジで3年越し。

1人でやったらたぶん一生かかっても出来そうな気がしなかった。

遠吠えの衝動を感じたのでした。「オオーン」

昨年から闘病中の妹の家のお世話も(行き来が)なかなか煩雑で大変ですが、

何と言っても 確定申告が一番大変だった。

国税局さん、もうちょっと手続きの手順 分かりやすくした方がいいよ 

と、真剣に思うのでした。

 

もうこれで 来年は楽にできるよ と言われるんですが、

本当にちゃんとできるのか 全くもって信頼感がない (爆)

ま、喉元すぎれば、全部忘れてるんですけどね。

ついでにやり方も・・・すでに忘却の彼方・・・・

yuzu

瞑想しよう  というか失神。

悩むということ

人はなぜ悩むのでしょうか?

あれとこれ、どちらを選ぶべきか

選ぶに選べない時、悩みます。

ソフトクリームかプリンか!?どっちも食べたい!ああ、悩ましい。

こっちをとれば、もう一つは誰かが食べちゃう!どちらも自分が食べたい!

 

欲張ってますね (笑)

人にも食べさせてあげましょう。 2つ共 半分こはどう?

え?食べ物はいいけど、彼氏は半分こできない?

同時には選べないものはどちらかに決めなければなりません。

どちらも嫌でも同じかも。

 

選ばないで流れに任せる という方法もありますけどね、

流れが選んでくれる。私はその方法をよく使います。

流れが選んでくれる。

そのまま何もしないで放置していると、状況が どちらがいいのかはっきりさせてくれます。

状況が何にも変わらなくても、自分の気持ちがはっきりしてくることもある。

 

別れたいけど、一人になるのは嫌だ?

あーね、

人は皆 独り来て独り逝くのですよ。

奇跡的なご縁で 一心同体と思っていた連れ合い様も

いずれどちらかが先に旅立ってしまう。

行かないで というよりも、

そのうち私もそっちに行くからね。

今世でのご縁、ありがとうshineheart04

でも、生まれてから死ぬまで世界と共存してる とも言えます。
独りに なりようがない。

いや、魂は死なないので、始まりも終わりもない。

ずっと一緒。ただ肉体を使ってのコミュニケーションが終わっただけ。

 

関係のみが終わった時は?

愛じゃないものにすがっても・・・

でも、どれも選べなくても自然に結果は出ると思いますよ。

また、選んでもその先の結果は 誰もわからないですからね。

ものすごくラブラブで 一緒になれなかったら死んじゃう~!と大騒ぎして結婚した姉さんが、

もう夫と同じ空気を吸うのも嫌だ って 言ってました。(^_^;)

結婚30年目くらいかなぁ。 

人の心も 時と共に変わりますよね。

ずっと仲良しであるためには ずっと 許し続けなければなりません。

しかもそれは一方的にするだけでは無理 だったりする。

かといって、双方が自分を殺して我慢 なんてことは もう破滅に向かうのと同じ だし。我慢は何も許してない。

未来は、来て 今 にならないとわからないものです。

なるようにしかならないのです。

そもそも、今しかないのだ。

今、自分に本当に必要なものが与えられる そうな。

肉体のためにというよりは魂のために

意味がわからないことは多々。

理屈ではないから。流れは理不尽でもある。

 

随分前のこと、私は、「人生は思い通りにならないものなんだ」と 思ったことがありました。

そう、何が何でも絶対にそうしたい と強く思えば思うほど そうはならない。

ただ、うまい具合にそうなればいいなぁ と、ほんのり思っていることが実現したりします。

それは 思い方の違いなんですよね。

皆、自分と違うものにはなれません。

あなたは あなたにしかならないのです。

自分を生きよう と 思い始めた時、あなたはあなたの毎日を選ぶことが出来て、

自分にちょうどいいものを見つけるのが上手になります。

あなたに丁度いいものというのは あなたがやってて苦にならないことです。

無理しても合わないそれを置いておくメリットがあるなら それはそれで構わないんですが

合わない靴をずっと履き続けると 靴擦れしたり、骨が曲がったり
そもそも痛いし、心地よくないですよね。

それでもいいなら止めません。

あなたが好きなものを選んでください。

選ぶものがリスクがない とは言いません。

何を選ぶにしても長短あります。

あなたに一番フィットする長短ひっくるめたソレを選んでくださいね。

その長短は選んだあなたが引き受けるのですから。

 

ここでちょっと 思い出しました。

その長短を引き受けるのが嫌で 何も選ばない人がいました。

その人は リスクはありませんが 経験もできません。

それもまた一つの選択なので それは好きにしたらいいと思うのです。

私は生きたいように生きる 他者は他者の生きたいように生きる

皆が互いを尊重しあえば、うまく調和できるのではないでしょうか。

否定しあったり、どちらが正しい と戦うことが違うと思う。

違うのは当然なんです。同じじゃないんだから。

合わない人と無理に一緒にいることはないですね。支配するのも無理があります。

え? それよりもメリットが大きいから?

それは 何が大事なのか?は人それぞれですからね。

抑え込んだら反発を食らいますよ。

 

選んだものが全部うまくいかない?

そんなことはないんです。うまくいってることもある。

ただ、すべてがうまくいくわけじゃない。

こんな私はうまくいくわけない なんて思ってませんか?

出逢うものはすべて あなたに必要な経験です。

それに幸せにしてもらおうなんて思わないように

それは あなたが幸せになるヒントを教えてくれているだけですから。

あなたの幸せは あなたにしか作り出せないのです。

一つ言えることがあるとしたら、

幸せになるのが上手な人を見るといいお手本になるでしょう。

同じになるのではありません。生きる姿勢です。

 

本当はね、この世に生を受けたことがあなたの輝きなんです。

あなたは最初から輝き続けているんですよ。

それが生きている ということなんですから。

さて、この体を使って どんな体験をしましょうか?

夫婦岩

青い空を見て超ハッピーshine

そもそも、 私 なんていないですからね(笑)

生きているこの命shine 

手放すとは

色んな意味で 世界中が揺れ動いています。

一体どうなっちゃうのか?と心配になる方もいらっしゃることでしょう。

でも、未来には進化した世界、進化した社会、進化した人間たちがいます。

その進化とは 今の私たちが想像するような形ではないかもしれません。

でもこの世界は調和しようと流動していきます。

調和の法則がある世界で なんでこんな混乱が起きるのか?と思うかもしれません。

それは調和をくずしているのが人間だからです。

自然は いろんな要素が淘汰されて調和していきます。

人間がいなければ 自然は自然のままですが、人間もある意味自然の産物の一つなので

この事態は起きるべくして起きている とも言えます。

他の動物たちも群れが大きくなりすぎると 全員を養う食べ物が足りなくなって 数が減ります。

何かが増えると何かが減って それで増えすぎた種族は数を維持できなくなり減って、食べられていた種族はまた増えだします。

自然のサイクルです。

人間は 知能が高く いろんな知恵を働かせて数を増やし続けました。

自然と調和する方法を考え出すことができるのです。

今は、天然資源を取り合う状態で国と国が喧嘩しているのですが、

それは独り占めして 一人で豊かになろうとするから そういう争いが起きます。

富が一か所に集中するのは 全体のバランスが悪いのです。

貧困層は不満と言うカルマを持ち、負のエネルギーを貯め込みます。

怒りです。

欲望も飢餓感から生まれます。

もし、私たちが本当にいろんなものを分け合えば、

怒りや欲望や飢餓感はさほど起きません。

これは金持ちとか貧乏とかいう問題だけじゃなくて

人々が思いやり(愛)を分け合うことができるかどうか が大きな問題です。

お金持ちが持っているお金を一人じめしようとするのは、

心が貧しいからです。

愛を受けずに育った人がその傾向に傾きます。

飢餓感から来る欲望は、どれだけ所有しても 充分だ という気持ちになることがありません。

それが所有が充分でないからだと勘違いしているうちは 更に独り占めをしつづけようと

この世界のアンバランスを助長します。

そういう人は、愛を見失った人なのです。

愛の欠乏 というカルマを持っています。

その人は持っているものを手放さないために死にもの狂いで威嚇し暴力を振るい、戦い続けます。

たぶん、失うことは死ぬことのように感じているのでしょう。

そういう人から暴力で奪い変えす ということをすると、カルマがスパークして

多大な犠牲を作り出します。

そういった怒りや悲しみやカルマを消すことができるのは

愛と癒し なのです。

それは あなたが持っている愛を発動させることによって

この世界は変わり始めます。

私ごときが一人で変わっても??どうもならんでしょ  なんて思っている人、

いやいやいや、それがどうして。そうでもないんです。

リンクするんですよ。 あなたが変わろうと思った時、100人が変わろうとします。

あなたが変わった時、100人が変わります。

その100人が変わった時、100×100人が変わります。

ネズミ算式以上に変わります。じわじわとね。

ほら 世界は着々と変わり始めていますよ。

暴力的な権力はいずれ淘汰されていきます。

そんなものが 調和するはずもなく

暴力で奪ったものは 痛みをもって、取り上げられる。

執着は怖れです。

本当は執着しなくとも あなたの愛が目覚めていれば

充分すぎるほどの愛に恵まれるのが この世界の法則なのです。

どんな時も愛を忘れないことが あなたに豊かさをもたらします。

あなたの本当の豊かさは あなたの中に輝き続けています。

あなたを覆っている悲しみと怖れを天に預けてください。

そのカルマはあなたではありません。手放して天に預けます。

その時はじめて、ユニバースがあなたのために動き始めます。

大いなる流れと共に 愛の中に生きる

そこには愛でないものは存在できません。

大丈夫です。あなたは愛で出来ているのですから。

誕生仏
 

 

先日聞いて 心に響いた動画

斎藤一人さんの動画 よかったら見てみてください。

 

愛と平和

昨日、投稿しようとしていた文章を すぐにアップせずに何度も見直しているうちに

消えてしまいました。(つど保存してない人が悪い)

相変わらずやらかしています sweat01

いろんな用事を一つずつこなすのがいいだろうなぁ と何度も思うのですが、

無計画にあれこれ同時並行してやろうとする癖があるので

ちょっと混乱気味。

落ち着け、落ち着け。

昔出来ていた同時並行処理も、年齢と共にキャパが減少してるのでは?と思う今日この頃です。

自我の意識は欲張りで なんでも沢山やりたがるものですが、

物だけでなくいろんなものを断捨離していくのは必要だなぁ と思います。

時々、何が絶対必要なのか? と 自分に問いかけてみる時、

絶対 というものはほとんど無いな という返答。

たぶん 執着しているものが ほとんどなくなっているんでしょうね。

こういう意識は以前は違いました。もっと何か手放せないものがあって、怖れもあった。

でも、今は無いんです。なぜか。

瞑想のおかげか、解放がほとんど終わっちゃったからか。

エゴとカルマの無限ループは無限ではない。

自分の所で終わり というものがある。

 

目の前のことは、

ただ、あるものがあって、無いものは無い。

来るもの去るもの 選びようのないものもある大きな流れの中にある という認識です。

ただ、目の前のことに関して 衝動というか 動かなきゃ と思うのは

傷ついた人がいれば、助けなきゃ とか 護らなきゃ という感情が湧いてきます。

自分が指を切ったら、傷を手当するのと同じ。怪我があったら病院に連れて行ったり手当する。

世界では 災害があると 他国のことであってもみんなが被災者を支援ようとするのに

ヨーロッパでひどい兄弟喧嘩が始まってしまった。

歴史の中では日本でも権力を争って親子兄弟親戚同士で殺し合った時代もあり、

人間はベースに肥大するエゴがあるのだな ということはわかるのですが、

このエゴはどこまでいっても 満足する ということはせず、

エゴは肥大するばかりなのでこのような愚かな侵攻をしてしまう・・・

と 私たち人間は自覚せねばなりません。

利己的なエゴ というのはとても愚かです。

周りとの調和を無視して利を貪ります。

人間の自我は悟りを知ると大いなる流れと調和することを望みますが、

孤立した自我は 怖れから 世界に牙をむきます。

そうした興奮して凶暴化したエゴを力で抑え込もうとすると 追いつめられて自暴自棄になったりするので

世界は慎重に冷静になる必要があります。

怖れからの行動は良い結果を招きません。

かといって、まるでそのトラブルが無い事のように思うのも違う気がします。

私たちは 何かできることがあればすればいいのだと思います。

何ができるのか わからないうちは、まだ様子をみているだけでいいと思います。

もし、できることがあれば動きましょう。

心臓や頭から離れた足の小指の怪我でも 手当はするものだと思います。

為す術がない時は ただ 愛を持って祈りましょう。

人々が平和に生きられる世界になりますように。

そのために私は自分の人間関係を平和にします。

この前、ちょっと友人に愚痴っちゃった過去のトラブル、過ぎ去ったことに愚痴とか誰かを悪者みたいに言うのはもうするまい 

って思うのでした。 罪は ただの愚かさです。

人間は愚かさを併せ持つ生き物。支え合って生きましょう。

パワーではなく 愛で。

あなたとあなたの周りに愛を満たしてください。

愛は見返りを求めません。ただ流していくだけです。

心配することはありません。

流れは巡りますよ。

Bless you

Youtube動画をみることはありますか?

神様が見える子供たち というチャンネルがあって 以前よく見ていたのですが、

印象に残ったメッセージがありました。

(その)動画を探そうとしたのですが、数が増えていてどの動画で言っていたのか わからずじまい・・・

それは意地悪をしてきた人に対して何を言えばいいのか?という問いかけに対する 神様の答えでした。

神様の言う事がわかるという男の子が言います。

「意地悪をしてきた子にはこう言えばいいんだよ」

『幸せになれ!』

大人は一瞬あっけにとられます。「え?」

「『幸せになれ!』って言ってやるんだ。」

幸せじゃないから意地悪をするんだよ。

そんな人には「幸せになれ!」って言うんだ。

 

あーね、なるほど。「Bless you だ」

あなたに祝福を。

あなたに幸せが舞い降りますように

 

敵は恐れから自分を護る最善の方法が攻撃だと思い込んでいる。

いやいやいや、あなたの幸せを願う人が 敵なわけないじゃないですか。

「何をしてるんですか?」「やめなさい」

「怖がらなくてもいいんだよ」

威嚇する人は怯えがあるんです。

余裕のある人は威嚇しません。

どうぞ そんな魂に安心と幸福が下りてきますように。

牙をむき出さなくても 本当は愛されると

全ての人が信じることができますように。

そんなに偉くならなくても 人から重宝されるような技術や才能をもっていなくても

何か特に役に立つことを持っていなくても

生きているだけで愛される命を持っているのです。

そんな神の愛を為すのは 他ならぬあなたです。

あなたの隣人に愛ある視線を送ってください。

あなたが欲しい愛ある視線は あなたが世界に向けるものなのです。

あなたが出す波動があなたに戻ってきます。

世界を平和にするのはあなたです

Bless youshine

日輪

この日輪はチェンマイで起きた 天からの祝福