生きる

もうすぐ終戦記念日ですね。

第二次世界大戦が終わり、日本が大戦に負けてから73年が経ちます。

戦後の日本の状況を特集した番組を見ました。

戦災孤児としての体験談を取材した番組でした。

 

戦争というカルマは 本当に大きな傷跡を残します。

自然災害も辛いことが沢山ありますが、

 

戦争は 人間が人間を殺す という  殺す方も殺される方も深い深い心の傷と重いカルマとなって後世に傷跡を残します

 

戦争は 恨みの集積であったり、所有欲や物質的欲望のエゴの増大、あるいは一方的な正義の行使 などで引き起こされます。

でも 殺戮を正当化などできませんし、

そこには必ず、大きな痛みを伴います。心に残された傷はカルマとして様々な影響 影を後世に落としてしまうのです。

 

戦後復興期を経て 物質的豊かさを取り戻した後も、渇望感をいうカルマの幻想を払拭することができずに 本当の豊かさ、心が満たされる事より。カルマの幻想である喪失感や渇望感を埋めるために 必要以上のものを欲しがって それでもなお渇望感を埋めることができません。

 

その渇望感は 1代で終わることができず、何世代にも受け継がれてしまいます。

そしてある時、その生き方の歪みに気が付く者が現れるのです。

 

このままの生き方では幸せにはなれない  と  気付き始めます。

 

新しい世代の生き方は 過去の幻影を掴んでいる年長者には 受け入れにくいものもあるかもしれません。

ですが、新しい世代は 新しい道を模索しています

 

自ら選ぶ試練で己を磨くことを許して 温かく見守ってください。

 

人の成長に 唯一不可欠な大切なものは 愛 なのです。

あるがままを見守ってください。

 

そして、大人にとって大切なことは 自分自身を幸せにする方法を 若者と共に見つけて自分の今を愛と喜びと共に生きる ということです。

 

幸せは誰かが与えてくれるものではないのです。

自分自身が幸せを選択する時、 幸せな人生がスタートします。

 

過去のどんな体験も 今のあなたを不幸にすることはできません。

今のあなたは どのような生き方でも選択できるのです。

花 黄色

大いなる存在

人は生まれて そして死んでゆきます。 

人のみならず全ての命がその運命を持っています。

人以外の生き物は その命を 本能というプログラムのまま生きますが

人はその人生を自分で創作することができます。

 

個人の意識 自我は 思考し あらゆる可能性に対してチャレンジしたりしなかったりします。

この選択は 魂が持つ人生設計図 宿命に導かれますが、その中でも人はその中のいくつかの選択肢を選びながら人生という旅を進んでいきます。

 

この人生の設計図には 私たちの試練や摩擦、葛藤など カルマの要素が描かれており

そのカルマの体験によって私たちの魂は磨かれて成長し大きな理解と許容・包容力を得るようになります。

 

障害物は乗り越えるために用意されます。

自らが準備してやって来ているのです。

 

何も問題が見当たらない環境でも この課題は発動します。

青春の悩み

このままでいいのか? こんなのでいいのか? 受け入れられない。 割り切れない。

護られている事への抵抗。

 

そう、素だって自立したくなるのです。

 

親は子供を守りたい という執着を手放す試練と向き合います。

 

こういう体験がある人もあればない人もあります。

 

いろんな形の試練があります。

あなたが対峙している試練は あなたのためにある試練です。

 

その中で あなたは自分の信念を探し、あなたの生き方を自分で見つけていきます。

この姿勢が整うまで試練は続きます。

 

この世界は私たちを 最終的に 愛の理解へと導きます。

全体と調和して より神に近くなるようなものです。

 

私は特定の宗教団体に所属していないので神については自分なりの理解を持っています。

神と仏は少しテーマの違う波動を持って大いなる存在の一部です。

私たちの魂の故郷であり そこから生まれ そこに帰っていくところ

意識の故郷です。

 

そちらの領域には、   死んで身体から抜ければ、成仏して神(と呼ばれているもの)と同化します

自分の行き先を見失っている時は死への恐れを持っていますが、

瞑想などをして我の意識からはなれると、この肉体にいるままでもそちらを感じ取ることができます。

 

この辺りの理解は 人間世界の学歴や知能の高さとは関係がありません。

神や仏を感じることができるかどうか、感じることをやってみたことがあるかどうか で この意識は発生します。

 

その神や仏は 既成宗教のそれらと同じには考えないでください。

あなたを見守る意識の故郷としての神、仏、守護 の意識です。

 

 

あなたは見守られ 愛されています。 この世界に。神々に。神仏に。

 

そしてあなたが それらの大いなる意識の存在を感じ始め 

あなたの願いの届け方を知り始めると

大いなる存在はダイナミックに動き始めるのです。

 

まるで微笑むように あなたの信頼に応える。

 

そなたの思い受け取ったぞ と。

 

これらのやり取りに物質的な実態はありません。

ただ、あなたの内部にその実感が芽生え始めるのです。

 

温かい愛と共に

 

天の梯子

思い込みからニュートラルに

私たちが生まれてきて 私たちを取り巻く世界という環境の中で どう生きればいいか

その正解 というものは 実はありません。

神は

どう生きてもいいので やってごらん と、言っています。

 

もしかしたら

そんなに、苦しい道をいかなくてもいいのに  と思ってるかもしれません。

たぶん観音様などは そう思っておられるでしょう。

 

でも、苦しい道を行きたいなら 行ってもいいよ  と。

あるがままにさせておく愛です。

 

私たち人間は 神様ほど多くのことを知らないので 

上手くいくはずだと思い込んで 歩きづらい道や、先がない道を行ってしまったりします。

 

おや? これは違うぞ と気づくまではその道を進もうとするんです。

今更引き返せるか!ととことん行ってしまって なんとかなる なんてことはありません。

法則通りの結果を受け取ります。

ある人は ひどい挫折だったり、喪失感だったり。

 

でも、それまでその道にしがみついていたのは自分でした。

こんなはずじゃなかった と 人は言います。

神様は本人が自発的に諦められるまで待ってくれます。

 

私たちは法則通りのいろんな摩擦の体験をしながら この世界の法則を知っていくんですね。

体験的に。

 

気が付いたとて、もう取り返しがつかないじゃないか!今生の時間はもうやり直しほど遺されていない!  

なんて嘆かなくてもいいんです。

自我の思うとり返しがつく というのは 取り返してもまた終わりの来るものです。

結局同じ場所に戻って、 この方向性は違う と気付き始めます。

ほんものの幸福な人生 というものは 意識が目覚めさえすれば 明日からでも新しい生き方ができるのです。

なぜなら、物質の状況には左右されませんから。

 

もし あなたが 困難と闘っているなら 戦うのをやめてみてください。

戦いの中には答えはないんです。

ただ、戦うことが無駄だった という気付きはあります。 外部と自我が戦っても 永遠の幸福は手に入りません。 エゴを満たすために失う代償が多すぎるのです。

 

取り合い

あっちに引っ張られるか こっちに引っ張るか 取り合いをしていたら それは永遠に取り合いが続いてしまうので

私たちは取り合うのを止めます。

 

自然は エネルギーを均衡させようと働きます。

無理なエネルギーの歪みは元に戻ろうとします。

もし、あなたが無理な搾取 とか 奪う ということをしますと 環境はあなたから取り戻しにかかります。

奪わないでいいのです。

 

面白いことに この世界は 全体が増える ということが起こります。

あなたが世界に喜びを与えると 世界は活性化して エネルギーが増えたようになるのです。

集まって来るんですね。喜びは磁石のような吸引力を持っています。

喜びを引き寄せるのは喜びの波動です。

 

喜んで与えると 喜びは増えて返ってきます。

エネルギーはお金だけじゃないです。

お金は単なるツールですから、それほど重要ではない。

 

あなたの喜びのエネルギーは あなたから タダで出てきます。

そのエネルギーを全体に回すだけで世界は豊かさに共振して増えてこちらにリターンするんですね。

取り合うエネルギーはもう卒業時期がきました。あなたは、あなたの愛と豊かな思いを手にします。

あなた自身の豊かさを育てましょう。♪

白のビーチ

 

優しさは強さ

出会いは偶然なんです。

あるTV番組を見ました。 北欧ノルウェー北部の島、ロングイェールビーンという極寒の町のドキュメンタリーでした。

 

その町は半年間は夜で、半年間は白夜です。そして とてもとても寒い北極に限りなく近いところ。

日本の俳優さんがそこを訪れて、町の人々がどんな暮らしをしているか 密着取材していました。

 

その街には 世界各地から人が集まって来て働いています。炭鉱があるからです。

ここ福岡県にもかつて筑豊炭田があり、多くの炭鉱労働者が全国から集まって来た歴史があります。

 

そのフィンランドのロングイェールビーンという町は炭鉱があったために ノルウェーの法律からは治外法権になっているのだそうです。

外国人は 就労ビザが無くても働くことができるので様々な国の労働者が集まるそうです。タイやフィリピンなどアジアの国の人もいました。現在は日本人もいるそうです。

その町の人々は国籍を越えて、人種を越えて、寄り添って家族的な関係を築いていました。

そのように様々な人々を繋ぐ人 大きな愛を持った人がいるんですね。

新しく来た人をとても温かい笑顔で受け入れ、家族、隣人として愛を持って接していました。

密着取材でリポーターの俳優さんに町を紹介していた人はクロアチアから戦火を逃れたセルビア人の炭鉱労働者でした。

一家のご主人はとってもフレンドリーで 見知らぬ東洋人を 「やあマイフレンド!」と呼び、会う度に思いっきりハグしていました。(寒いからハグしたくなるのでしょうか)

彼はクロアチアの紛争で兄も両親も亡くしていました。自分の家族は子供が幼かったため、戦火を逃れこの極寒の地にたどり着いたとのことでした。

働いて家族を養い一緒に生活をするために。

その幼かった子供が今は高校生。

炭鉱で働くその男性は、1週間炭鉱で働いて1週間休み というシフトで働いているのだそうですが、

町にいる時は 沢山の国籍の違う友人たちと楽しく時間を過ごします。

住んでいる人々は 「ここにあるのは、愛する家族と家庭、生活と経済、幸福。全てがある」と言います。

様々な事情で生まれた国を出て そこにたどり着き、その地で幸福を育むのです。

 

そして自分の辛かった経験を慈悲の心にかえて、隣人を慈しむ。

その愛は暖炉よりも温かいのでしょう。

 

欲しいものがすべて揃うことはどんなに豊かで幸福なことかわかりませんが、ありすぎると目が慣れてしまいます。

今、当たり前にあるものは 永遠ではないんですね。

その価値は失ってみないとなかなか実感できないのかもしれません。

空気やお水のように?家族も?

お腹いっぱいの時はどんなご馳走も魅力ではありませんから。

 

私たちを取り囲む試練は 私たちが持つ愛の能力を育てます。

私たち自身が自発的にあふれさせる愛です。

 

もしその愛があなたから溢れてきたら、 その愛はあなたの心の痛手を癒し、

他者を癒し、 世界を癒すでしょう。

 

天国はどのような場所にも あなた自身が作り出すことができるものなのです。

 

心の扉を開いて世界を見ると あなたは世界をそのままに見ることができ、

そして愛の使い方を知ることができます。

 

カルマで覆われた曇った窓からは カルマの汚れや模様ばかり目につくでしょう。

でもその窓を拭いたり、 その窓を開けてしまえば

世界はそのままに見えるのです。

 

小鳥がさえずるように あなたも 愛を歌い、愛の中に生きることができます。

あなた自身が愛の歌を歌えばよいのです。

共感はそこから始まります。

 

どうしたらいいかわからない方は アトリエ霽月に一度おこしください。

まずは安心を実感していただきたいのです。

 

現在瞑想を実践している方も 時々 お顔をお見せくださいね。

心から歓迎いたします。

愛ある対話はあなたを癒します。

蓮葉

更に愛が育ちますように。。

幸福に生きる

人は皆 幸せに生きたいと願っています。

何が幸せなのか? それを探す旅が人生 なのでしょうね。

 

あなたにとっての幸せは何でしょうか?

 

仏教は 幸せは 苦しみがないこと と教えを説いています

苦しみを手放す平安の幸せ。

 

若い頃、その意味がよくわかりませんでした。

苦しみを手放すには欲を手放す  それのどこが幸せなのか?

若者にはわかりませんでした。

その頃の苦しみ と言ったら、欲しいものが手に入らないこと だったからです。

 

欲しいものは、 物質にかぎったことではなく、

人から認めてもらうこと だったり、人に自慢できるものだったり

気分が高揚できる体験や時間、 また、愛される事

 

あらゆる欲しいものを手に入れようと懸命だったろうと思います。

私自身は 物質にたいする欲はほとんどありませんでした。

大人になってから、きれいな洋服とか 高価な宝石とか カッコいいバッグとか

車とか家とか そういったものには興味がありませんでした。

なぜだろうか? と考えてみると 経済的には裕福な環境に育ったので 幼少期には物質的に得られない という体験がほとんどなかった ことと、

母が贅沢を嫌悪するような価値観があったので

物質に対する欲は 分別がついてからは執着を持たなかったのでした。

倹約を善としてとらえていたのかもしれません。

最初から満たされるもの というものには執着は生じないもののようです。

 

気が付いた時に自分に欠乏していたのは 自分自身に対する肯定感 と 愛 でした。

たぶん、その二つがどこにあるか、ずっと探していたのかもしれません。

 

そのためにいろんなことをしたり、いろんなところに探しに行くわけですが、

あったと思ったものは すぐに色あせたり 自分の手の中から消えていってしまうのです。

 

自己肯定感と愛 それらを外に探して 見つかるわけがないのですよね。

 

何十年迷ったことでしょう??

 

これはもうヒントのない宝探し でした。

無い場所を探す限り それが見つかることがありません。

そして どこにあるか わからないのです。

どういうことをしたら手に入るのか 

 

もうすでにある人にとっては 変なことを言っていると思われるかもしれません。

そんなものは探すまでもなく ある

 

でも、見失っている者にとっては もう迷宮なんですね。

 

こうすれば見つかるよ という先人の言葉を頼りに

チルチルとミチルは森に青い鳥を探し行くわけですが、、

私の場合は一緒にさがしてくれる連れも居なかったわけで

チルチルさん代わりの彼氏 とか 夫 を相手に 幸せゴッコをするわけです。

 

でもなぜか 見事に壊れていくわけですよ。見つけたと思ったものは 変容していく

どういうことなのか 意味がわかりませんでした。

 

捕まえたはずの青い鳥は ある朝 ただの茶色い山鳩に変身しているわけです。

しまった! 間違えた! と思うわけですが 

それは根本的な間違いをしてしまっているんです。

 

外にはいないんです。捕まえてくるものじゃないんですね。

すでに内側に飼っているんですよ。自分の中に

え?どこどこ? 見えない!  ってなりますね。(^_^;)

途方に暮れて また外側を探したくなるわけです。 (´・ω・';)三(;´・ω・)

 

いやいや 同じ失敗をしちゃだめです。 外にはいません。

 

内側の奥のほうにいる 愛 という名前の青い鳥は 

不安や恐れの感情(カルマ)に覆われて姿が見えないんですね。

 

スピリチュアルの法則を学び始めて 自分自身の観念がすべてのストーリーを作り出していることに気付き始めて、

それでもなお 消えない恐れや不安や怒りを どうやって取り除いたか と申しますと

それがELM瞑想なんです。 そして 徹底的に手放す。 執着を手放すんですね。

これは少々時間がかかりました。エゴが掴んでいる執着というのは 簡単には手放せないものもあります。

 でも、結局手放すのは その執着を持っている限り苦しんでしまうからなんです。

ELM瞑想は恐怖の感覚を随分と薄れさせてくれました。

何十年も引きずっていたひどいトラウマが消えたのは2,3年目でしょうか。

それから、奥の方に潜んでいた不安感がすっかりなくなったのは5年目ですね。

スタート地点が鬱ですからこれはもうすごい変化なんです。

かつての自分とは別人のように ものごとのとらえ方が変わりましたね。

気分は小さい頃の無邪気でチャレンジャーな自分に戻りました。

恐れを持つ前の本来の自分の性質です。

幸福を探す というより、生きていることそのものが楽しく幸福なのです。

 

今はそもそも 物事を思い通りにする という意識を持っていないのですが(笑)

 

必要なものは与えられ、世界から護られる  という確信的な感覚があるのです。

世界に感謝しかありません。

 

かつて恐れていた孤独は 実は私には無縁だった ということに気付きました。

かつてのままの価値観だと 孤独になる可能性は少しはあったかもしれませんが、

内側が掃除された私に その可能性はありません。 

自分自身が幸福であることを見つける事  恐れや不安 という幻想を手放すこと

失うも何も 最初から何も持っていないんですね。

全ての物、この体さえも、この世界に与えられたものです。世界からの借り物。

 

与えられたものに文句を言うのはやめましょう。 

それを使ってどんな人生を作るかは自分次第なのです。

与えられた材料を どう生きるか  それだけです。

愛は 与えられるものではなく 自分が発するものでした。

それに周りが共鳴して愛が拡がるのです。

 

自分自身を愛してください。 そのままでいいのです。

本当に自分に素直に生きた時、 傷は癒されます。

そのことに気付くまで 閉ざして待ち続けたのかもしれません。

 

あなた自身の魂の輝きを隠さないでください。

何も恐れたり隠したりしなくても 最初からもう見えちゃってることに

気付かないのは自分だけだったのです。

 

素直な 自分自身でいることで 素直な自分自身にふさわしいものが ここに集まって来るのです。それは素敵な愛です。

誰がなんと言おうと、あなたの思考がなんと言おうと

素直に幸せを選んでください。

あなた自身を生きて 表現してください。 誰がなんと言おうといいのです。

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幸せはフィーリングです。 マインドではなく、ハートだけがそれを感じることができます。

感じてみてください。 あなたの中にあるのです。

 

覆い隠すカルマは ELM瞑想が取り除きます。

魂の成長

私たちは生まれてくる前に 生まれる場所を選んで生まれてくるそうです。

魂そのものは 神の領域にいる時は全体が調和していて平和なのですが、安定した調和は刺激が少なすぎて退屈なようです。

老成した魂は のんびりゆた~っと ふむふむ、平和じゃ。良きかな 

とくつろいでいますが、

若い魂はムズムズ。何か精力を傾けられるチャレンジがしたくてたまらない。

早く地上のアドベンチャーに生まれたいのです。順番まだかな?

もう、前回のような生ぬるい平和は さほどの成長もなくて面白くないので、今回は

もっとハードなコースをやりたい!と 思っています。

うんと過酷な環境を選んでみる 数々の困難や苦難を乗り越えて何段階も魂をグレードアップさせたい 

そんな志で 過酷な環境を選んでやってきます。

 

でも、生まれる前の意識を覚えていては出来事に新鮮さはないので

生まれる前の記憶は消去して 真っ白な意識で生まれてきます。

人生はヒントのないゲームで、本当の宝がどこにあるか 探すゲームなのです。

本当の宝というのは 愛 や 悟り、我々が神の一部であったことを思い出し

幸福に生きる ということです。

それがリアル人生ゲーム

 

でも、肉体に装備された感覚は 幸福に向かうものばかりではなく、

ペナルティや負荷をかけてわざとゲームが難しくなる装備のところに生まれてくる場合もあります。

ちょっと 人より欲が強い とか エゴが強いとか コンプレックスが強いとか 

感受性が強いとか 頭が良すぎる とか

そういう要素は 使い方によっては強みになりますが、使い方に気付かない場合は 人生に摩擦が起きやすい。

欲が強ければ無理やりに他者から多く奪い取ったり、そうでなくても 得られない苦しみが生じます。

エゴが強いと、周囲が思い通りにならないと 自分の中に摩擦が起きてくるしみますし、周囲を思い通りにするために多大な労力を浪費します。

コンプレックスが強いと、このままではいけないと思い込み、自分の存在を否定して苦しみ 自分自身と戦ってしまいます。

感受性が強い人は あらゆる刺激に振り回されます。 それらを取捨選択、何を受け取るかコントロールできるようになるまで、苦悩があります。

頭の良すぎる人は考えすぎたり 過去の感情や記憶を手放せず迷路に入りやすくなります。論理に絡まって動けなくなることもある。

 

ですが、これらの要素は 方向性が見つかった時には 強みになるので これを邪魔だとは思わないでください。

強いエネルギー、強い推進力、痛みを知っていること、波動を読み分けられること、現実に対応した具体的な対策を立てられること

どんな性格を持っていたとしても その長所を活かせばいいだけのことなのです。

ただ、目指す方向性が最初はわからないだけ。

 

流れに身を任せられないのは 怖れが原因です。

仏教ではこれを 無明 といいます。

この世界の原理、真理をしらないので、大きな力や流れに抵抗して自分を守っているつもりでいることです。

 

例えば、怪我をして怯えている動物は 助けようとする人間の手を 攻撃の手だと勘違いして死に物狂いで抵抗して暴れます。

怪我を治療するには大人しくしてもらいたいのですが、パニックになった動物には恐れの世界しか見えません。

私たち人間も何も知らないうちは同じようなものです。

私たち人間はエゴの意識のままでいますと、意識が傲慢になってしまう傾向にあります。

思い通りにすればするほど、更に思い通りにしたくなるのです。 

人間と科学が最高のものだと思い込んで なんでも思い通りにすることが良いように思え、それで自然さえもなめてかかります。

自然が静かな時は やりたい放題自然を加工しして、自然が動くと腹を立てたり、ひどいと言ってしまいます。

この世界は自分たちのコントロール下に置けると多くのエゴは信じていますが、自然はそんなに小さなエネルギーではありません。

私たちがこの世界で、この世界に生かされていること、 私たちをとりまく自然に敬意を払って、調和して共存するならば これほど豊かな世界はない というのに、

個々が自分のエゴを満たすために奪い合う  それは愚かな生き方だ と

仏教もキリスト教も説いていますね。

(しかしながら、人間は宗教にもエゴを侵入させてしまうのですが)

私たち人間が 怖れや不信感やエゴを手放した時、本当の調和の幸福を得ることができます。

これらが腑に落ちるのは 悟り体験を経てのことですが、

それは自分自身が世界と調和している体感です

言葉で説明することは難しいかもしれません。

 

もし それを体感したいなら瞑想するのが一番の近道です。

これはいくら考えてもわからないんです。

そのために瞑想をして 意識の世界をお掃除して 真実が見えるようにしているんですね。

人間の目は曇りやすいので 毎日お掃除して綺麗な目で世界を見ます。

真実だけがそこにあります。 真実の美しさと優しさに目を向けてくださいませ。

勿忘草

新しいもの

みなさま、毎日を楽しくお過ごしでしょうか?

私は 人と関わるのが好きなので この瞑想のお仕事は楽しくて仕方がありません。

かつて 対人恐怖症になったことがある人間とは思えない 今日この頃です。

対人恐怖症になったのは10代~20代の頃でした。

なぜ 対人恐怖症になったか  う~ん と 古い記憶を思い出してみますと、

最初は 10歳の時に蕁麻疹が出るようになりました。

蚊に噛まれた後みたいなふくらみがどんどん広がってまだらな地図のようになっていくタイプのじんましん です。

顔に出ると 目も口も腫れあがってお化けみたいになりました。

学校で 授業中などに出てきてしまうと もう拷問のようでした。 

かゆくてたまらないのはもちろん、腫れた醜い顔を見せたくない。

自分の姿を恐れるようになりました。

それから 13歳中学一年の時、男子のからかいのターゲットになり

1日中 「ブス、死ね!」などと言われ続けて2ヶ月ほど経ちまして、死にたくなってしまいました。

それから 男性が怖くなります。

人に見られるということを極度に恐れるようになりまして、それから暗黒の時代が続きます。(苦笑 coldsweats01

いじめの環境はほどなく改善しましたが、恐怖心が抜けませんでした。crying

 

20代半ばまで人が怖かったですね。野犬みたいに尖った目つきをしていたかもしれません。

 

でも 今は そんな遥か昔の話は 取るに足りません。(笑) 自分の話だというのがウソのように私は人が大好きです。

 

自分は自分のままで生きても大丈夫 (どの人も自分らしく生きていい)ということがわかるようになって

私は自然体でも友達ができるようになりました。

いえ、むしろ 飾らない欠点だらけの自分でもいいのです。

飾ることよりも飾らないことの方が 愛すべき友達ができるということがわかりました。

飾らない 自分も他人もコントロールしない・支配しない それだけでいいのです。

 

もちろん、それじゃOKをくれない人も世間にはいます。

でも、それでも そんなあなたがいいよ と言ってくれる人もいるのです。

そのままでOKだよ と言って友達になってくれる人と友達になれば 私は本当に飾る必要はなくなりました。

その場所のルールや習慣を知れば そのことは尊重します。

出来ないこともありますが、できることはします。無理なく喜んでできるようにします。

そして 私も人にそのままでいいよ と思うのです。

足らないところを責めないのです。

いろいろ 癖はそれぞれですが 人生において 人は不完全なものです。

責め合うのではなく 労わり、支え合うことが愛。

個を尊重する 全体の調和です。

 

スピリチュアルの法則や 瞑想を知るようになって

完璧であることよりも 愛であることが大事だとわかってきました。

自分の中に取り込んでしまっているジャッジやこだわりを外していけばいくほど

純粋な愛になっていくことができます。

世界が未熟な私たち人間に多くを与えてくれている愛を感じながら 生きます。

 

エゴは頑固です。

でも、執着するものは奪われる結果になる 

そこにエネルギーの歪みを作ってしまうからです。

 

本当に必要な体験がやってきて、エゴは手放し、 私が愛になればなるほど 

私を取り巻く世界は調和していくのです。

 

エゴの願いは叶いません。

愛が拡がっていくだけです。

愛の中で生かされていきます。

愛という新しい人生を生きてください。

 

shineheart01shine

 

そうそう、新しいものがやってきました。

瞑想サロンに 全世界を繋ぐ道具がきました!

ディスプレイ

40インチのディスプレイ!!

これで世界中継の瞑想会が可能になりました!!

さっそくですが、7月1日日曜日 10時から マインドフルネス瞑想会 全国&世界同時開催の瞑想会です。

福岡会場はアトリエ霽月です。

初めての方でもご参加いただけます。

ワシントンDCにいらっしゃる ティク・ナット・ハン禅師の姪のアン・フーン女史が

講話をしてくださいます。質問も可能です。

参加費は1000円、それとアン・フーン女史への寄付(ドネーション)をお願いしています。

お昼ご飯をお持ちください。 できれば菜食のお弁当が理想的です。

食べる瞑想をご指導します。

その後、アトリエ霽月近くの南公園へ プチハイキングなお散歩。歩く瞑想です。

大体15~16時くらいで解散です。途中までのご参加でも構いません。

お誘いあわせの上おこしください。

参加申し込みは お問合せフォームからおねがいいたします。 

生きる意味

なぜ 生まれてきたのか? なぜ生きなきゃいけないのか?

という疑問を持ったことがありますか?

 

早熟なお子さんだと小学生のうちからそのようなことを考える子もいるようです。

また、人生に辛いことが続くと なぜ こんな思いをして生きているのだろうと思ってしまうこともあります。

何かを成し遂げたり、世の中の役に立たなければ生きている意味がない と考えたりすることもあるかもしれません。

 

神や仏はどう思っていると思いますか?

善良でなければ生きている価値がない と思っているとしたら  それは間違いです。

 

私たちはあらゆる体験をするために いろんな形で いろんなパターンで この世に降りてきた 神の一部です。

 

生まれる前は 神の一部で一体化してましたし、

そこから分かれてこの体に入ってからも 神の一部であることにはかわりありません。

 

そして、肉体が滅びたら、そちらに帰るのですから。

 

なので どんな体験をしても構わない のですが、 

 

できれば 嬉しい体験の方がいいですよね!

 

嬉しい体験、ハッピーな体験 というのは意識が高揚して意識の周波数が上がります。

波動が高くなるのです。

神も私たちの意識に呼応して共鳴するので 神は我々が喜ぶと 神も喜びます。

 

ですから、私たちは喜ぶことを目標にすればいいのですが、

 

エゴの意識で 自分だけの喜びを目指すと、

他人をいじめてスッキリしたりとか、

他人から何かを奪って自分が幸福になったりしますと

 

神としては 喜べないのです。 

全体で見ると 苦しみのエネルギーの量が喜びの量より多くなるわけですから。

 

誰かから奪う というのは、物質だけに限らず、エネルギーも関係があります。

満足するために 他人を思い通りにする というのは 相手からエネルギーを奪います。奪われた方のテンションが下がります。

奪ったエネルギーをチャラにするためには、相手に与える ということをしないと プラマイがゼロになりません。

 

人が喜ぶことをするために、自分のテンションを落とす というのもいけません。

それは神様が喜ばないのです。

自分もしてあげて嬉しくて 喜んでもらうことが嬉しくて してください。

嫌々やっては そこにマイナスが生じてしまうのです。

 

ですから、人にも嫌々させないでください。

マイナスが生じるというのが 幸せでない ということです。

 

私たちはたくさんの幸せを体験したいですから、

自分が幸福でいられるようにして、 他人も幸福でいられるようにしてください。

折り合いがつかない時は、自分の幸せに自分で責任を持ちます。

 

何をどう受け止めるか どう解釈するかで自分の気持ちが変わります。

こんなのじゃ嫌だ と思うのか

ありがたく受け取るのか

無い事の悲しみを知っていたとしたら あることの幸せを実感できるとしたら、

無い体験は大事ですし、うまくいかないことも 体験としてとても大事だったりします。

ああ、この感情を知ることができてよかった

人の気持ちがわかる気がした。

ネガティブな体験にも無駄はありません。

 

私たちは 成功したり 失敗したり あらゆる体験を通して この世界を理解します。

 

そして その中で自分の幸せな在り方を見つけていくのです。

 

得る喜びは 一過性のもので、永続しません。

あるものを大事に育てたり、温めたり 愛を育てたり 愛を配ったりするのは

自分自身にしかできないのです。

 

愛の育て方を学ぶと 幸せになっていきます。

 

なぜ生きるのか  幸せをより多く作り出す体験をしにこの世にチャレンジしているのでしょうね。

 

ヒントのないクイズのように 何もない所から 究極の答えを探しに

この世に降りてきているのでしょう。

 

あなたは見つけましたか?

 

私は見つけました。

 

だから 何があっても幸せなんです。

みなさまにもそれはできることと思います。

きっかけがあれば意識は変わります。

意識のお掃除 瞑想は あなたの人生に 閃きをもたらします。

 

羅針盤

 

もし、あなたの人生が良く見えなくなってしまっているなら、

アトリエ霽月にお越しください。

沢山のヒントがあります。

瞑想教師と対話するだけでもいろんな発見があると思います。

お問合せフォームより ご相談ください。

幸せであるために

幸せであるために必要なものは 何だと思いますか?

 

人はいろんなものを手に入れたいと思いますが それは何のためでしょうか?

 

あなたは自由でしょうか? もしそうでないとしたら、

あなたを自由にさせないものは何でしょうか?

 

 

私たちは 本当は自由です。

何を思っても良いし、何を信じても構わない。 

でも、自ら制限を作ってしまい、とらわれを持ってしまいます。

できないという条件付けを採用してしまうのです。

 

物質的な制限というものはあります。

自分の目の前にあるものは この世界の一部で、それは全ての物が揃っているわけではなく、ごく一部が与えられているにすぎません。

しかも この意識が切望するものを与えられるとは限りません。

 

問題は 無いものを欲しがると苦しみなります

私たちができることは あるものを使って幸せを作る ということです。

 

人間の意識は ついつい無いものを欲しがりますので、

すでにあるものには それほど関心を寄せません。

無いものが手に入った時に 『得た!』 という喜びを持ちます。

そちらにばっかり意識が向いてしまいます。

その『得た!』という体験は 得た瞬間に爆発的に湧き上がり、そして 慣れるにしたがって薄れていきます。

 

人の意識は強い感情を求めてしまうんですね。

 

でも、いざ手に入れてしまうと

すでにあるものを維持する努力や 失うことへの恐怖に 悩むこともあります。

物質的なものへの執着、移ろうものへの執着はそのような苦しみや不安を生み出すこともあります。

 

自我の意識は 目の前にあるものへ関心を寄せます。

移ろう物に対して一喜一憂するものなのです。

 

この自我の意識が求める物質的な幸せは なかなか安定しません。

 

では 失わない幸せとは何でしょうか?

 

 

それは あなたがすでに持っているものです。

それを使えば 幸せになっていくのです。

 

あなたの命を使って 自由に生きる事

カルマの恐怖を手放し とらわれのない人生を生きる事

あなたが持つ愛、 無償の愛を発揮すること

この世界にあなたが見つける豊かさ

あなたの持つ豊かな感情を生きる事です。

生きるということを楽しんでみませんか?

瞑想をして 好きではない感情を手放して下さい。

瞑想はあなたが好きじゃない感情のお掃除をするのです。

 

毎日瞑想すると 人生が爽やかになっていきます。

 

毎日瞑想すると 感情が緩まって 人との関わりが 穏やかなものとなっていきます。

あなたの幸せは あなたの在り方次第で どれだけでも増えていくのです。

あなたの笑顔が あなたに幸せをもたらします。

どんな時も 存在する喜びで 笑顔になることができます。

 

私はここに生きている

私はここに咲いている

 

笑顔という愛の花を 咲かせてみましょう。

人々は 奪われることは嫌いですが、与えられることは大好きで

愛をもらって笑顔の花が沢山咲きます。

 

ひまわり

それぞれの笑顔に共鳴して喜びは大きく膨らむのです。

本当に大切な事

あなたの人生を豊かにするために 本当に大切な事は何でしょうか?

と聞かれたら あなたは何と答えますか?

 

それぞれの人にとってはいろんな大切なものがあると思います。

家族であったり 趣味や仕事などの生き甲斐であったり 健康であったり

 

もし あなたの一番大事なものが 失う可能性のあるものだとしたら

あなたは 不安や恐れを持つことになるかもしれません。

それらは永久ではないからです。

 

では何が失わないものでしょうか。

それは 

体験 と 愛

 

愛は失うかもしれないじゃないですか! と思われるかもしれません。

でもそれは愛ではありません。愛される事への執着です。

愛というのはこちら側から与えるものです

もちろんもらうと嬉しいもので、だからこそ与えるのですが、

見返りを期待したものは取引であって 愛ではないんです。

無償の愛 というものが 純粋な愛です。

これは 無償の愛を持ったことがない人にとっては難しい理解かもしれません。

エゴは愛より波動が強烈なので 覆い隠してしまうのです。

 

純粋に子供の幸せを願う親の愛は 無償の愛です。

でも親でも無償の愛ではない場合があります

これだけ世話して育ててあげたんだから老後の面倒はみなさいよ とか

いい子にしないとうちの子じゃない とか

育てないと世間からひどい親だと思われる 可愛がっていないと批難されるのが嫌だ とか

そういうのは愛じゃないです。

躾と思ってしていることも もし指摘されてイラっとしたら それは愛ではない可能性があります。

人間はエゴがあるので 愛があっても混ざっちゃうのですね。

 

 

親になれば自然に愛になる というわけではなく 育てて苦労しながら

親が愛を育てていくんですね。

人を愛することは いろんな辛さとか体験があって 深さが出てくるのです。

子供に対してだけではありません。

恋人でも 部下でも ご近所の人でも

他人への思いは 自分の体験が浅いと なかなかその心を理解することはむずかしかったりします。

人生そのものが愛を学ぶ場所なんです。人との関わりの中でエゴを落として

愛を育てていきます。体験とはそういうものです。

なかなか受け止められないことも多々ありますが。。

最期は受け止めるほかないのです。 心の平和のためには。

 

 

感じ取る ということに長けている人は言葉にならない人の思いを感じとることができます。

それをどう取り扱うか も、本人の人格が育っていないと ただ困ってしまうだけなので 悩んで閉ざしてしまう人もいます。

 

愛とは 自分を愛するように人を愛し

人を愛するように自分を愛する ことです。

そして 人だけでなく 自然も愛します。

 

愛は 人を癒し 自然を癒し 世界を癒します。

あなたの愛が あなたを癒します。

愛のない世界に豊かさはありません。

この自然が愛そのものであるように

私たちの意識も 愛で包んでください。

 

あなたの意識の エゴを手放して 愛を選ぶと

あなたのいる世界は 愛にに共鳴して 愛が反映していくのです。

許し と 敬愛 です。

素敵な人生をお送りください。

仲間