心の平安

人生にいろんな悩みや苦しみがあって それがどうにもならない時

悟ると苦しみから解放される と聞いて 悟りというものに興味を持ち始めます。

慈悲深いあの方のように、

仏さまのように 眉一つ動かさず 静かな微笑みを湛えているような

そんな穏やかな境地に至ってみたい という憧れ。

 

それで仏教に入門しますと そこでいろんな作法や心の在りようを学びます。

罪をつくらないこと(カルマをつくらないこと)

徳を積むこと(善行をおこなうこと)

心を戒めること(欲に溺れないこと)

 で、 自分を律しようとしますが、

 

これがなかなか 思い通りにはいかないのでございます。

 

信心することがまた苦悩。 なんて自分なんだ! と悩んだのは

浄土真宗の開祖親鸞上人

 

ええ、人間の欲望というのは 本来 種の存続のためにあるものですから 

完全に人間から欲望が消えてしまったらもう肉体を持つ必要がなくなっちゃうんですね

 

で、何が問題かと言いますと 欲望の暴走 や 野放しの欲望や感情 です。

それらの感情に意識が振り回されてしまうことが苦しみ となります。

 

この物質界に肉体を持って生きている以上、いろんな制限を生きることは必須なわけですが、

面白い人生とは その制限の中でどれだけの表現の可能性にチャレンジできるか というところや

この世界の あらゆる現象のハーモニーを楽しむところにあるのです。

 

ですから 思い通りにならなかったり 制限がある という大前提のもとに

この障害物人生ゲームを楽しむか です。

悟りは 人生ゲームの駒である個人の意識(自我)から解脱して ゲーム全体を傍観するギャラリーの位置にあります。

私はただ観察する意識だった。 この肉体はかりそめの姿にしかすぎない。 という気づきが悟りです。

 

大海で嵐に遭って 木の葉のように翻弄される船の上の遭難者  と思っていたら

私は海そのものだった。  

でも、肉体は嵐の中にいるんですが、 とりあえず沈没しないように対策は立てますが

沈没したらしたで仕方ない。

本当に海に帰っちゃうだけのこと。

 

タイやブータンの人々は 一般人でも このような死生観を持っています。

今生はかりそめの姿。 人生は旅のようなもの。 終わればあちら(彼岸)に帰る

できるかぎりいい旅にしよう。 

人を慈しみ、温かいかかわりを持って いい人生だったね と言えるように

みんなと仲良く 腹立ちを撒き散らかさず 人を許して 穏やかに生きよう  と。

いつも 顔に笑みを湛えて。 今ある幸せを大事に。。

 

全ての移ろいゆくものに執着せず あるがままを受け止めて 不満を握りしめず、

親切にあろうとしよう  と。

 

許し難きを許し  愛の眼差しを持って どれだけの人を愛せたか。。。

 

その時 その心はもう救われているのですね。

平和に生きたい方へ

手放し難い感情に苦しくなったら 瞑想者の仲間入りをお薦めします。

こころより皆様の幸せを願っています。

チェンマイの蓮  チェンマイの通りがかりの家の前に咲いていた蓮です

一輪の花のように咲く人生 もうすでに咲いているんですよ。 ありのままを受け止めてくださいね