摩擦を愛に変える

この世界を生きている私たち 

気が付くと自我の意識が芽生え、身に付けたいろんな判断基準で世界を測っています。

価値 という評価を設けて 物事を測るんですが、それは 普遍的なものではなく、

価値基準の下に評価がなされます。

価値基準がなければ それも無意味なものになりますが、

好ましい好ましくない という基準の根本は 心地よさ なのではないでしょうか。

 

私たちが心地よいと感じるのは、愛のエネルギー。そして エネルギーの調和した状態です。

それらは 温かく、癒しに満ちていますし、 安定感のある状態です。

そう、ゆりかごのような。。

エゴではなく真我や魂が求めているのは そこです。

  愛

ここで表現される愛は 真我の愛 神の愛 包み込み受容する愛のことを言います。

男女の情愛はこの限りではありません。

男女の情愛は 本能や欲に起因して生じ、その体験で魂が成長して受容できるキャパが拡がった時に真我の愛 へと進化するのです。

 

神 や 波動が高い と言われるマスターは 大きな波動を持っています。

波動が高いことそのものが 浄化なんですね。

会うだけで癒される という話は 波動の影響力が大きい ということですね。

マスターの中に 完全なる愛の存在 と言える方々がいらっしゃいます。

これらの方々には 愛 しかありません。

意識が大きなキャパを持っていると エゴは小さすぎて見えなくなってしまいます。

 

お釈迦様や、 イエス・キリスト 

ダライ・ラマ

ティク・ナット・ハン禅師 

エック・ハルト・トール氏 

サイババ

カルキ・バガヴァン

ELM瞑想のボブ・フィックスさんも そういうマスターの一人です。

ボブはとてもフレンドリーで 無邪気な人なんです。heart01

 

高波動のマスターほど 存在だけで 人を癒す力を持っています。

波動が人を癒すのです。 心が柔らかくなるんですね。

 

でも、高波動のマスターは決して自分が特別な存在とは言いません。

それぞれの存在が特別であり、 また、特別なものはいない ということを知っているからです。

 

個々の存在は全体の一部で それぞれに世界の一部を担っている大切な存在です

私たちの身体を世界だと見立てて 一人一人が一つ一つの細胞だとしたら、

その細胞は要らないものとして排除されることは身体と言う世界にとっては痛みです。

必要があってそこにいます。世界と繋がっているのです。

 

我々人間の多くは、マスターたちの教えに触れて、啓発していきますが、

啓発を体験するまでは まだエゴやカルマが反応しています。

マインドがまだカルマにとらわれているので、実は知能の高い人ほど 悟りに突破するのが難しかったりします。

自我やマインド が強ければ強いほど 悟りの前に立ちはだかる壁も硬くなってしまいます。

 

弟子たちはまだその段階です。生きているうちは完全にエゴが消えているわけではありません。

人間は肉体を持っている限り、無意識に エゴに呑まれてしまうこともままあるのです。

困ったことにマインドはそのことになかなか気づかないのです。

自分が正しいことをしていると思ってしまいます。

 

正しさにとらわれたり、権威に傾倒するのはエゴの癖なのです。

 

マインドの判断は知らず知らずのうちに介入してしまいます。

あれはダメこれはいけない と 判断したり、裁きたくなるのです。

 

啓発していないマインドにはカルマの感情がついつい乗っかってしまいます。

カルマはいろんなものに化けますね。神のふりもしますし 聖者のふりもします。

規律にこだわり、戒律を増やしたくなり、合わないものを排除したくなります。

考えやルールに合わないものと摩擦を起こすからです。

 

真実の愛は 摩擦を癒して溶かしてしまいます。

誰もそれに抵抗できないのです。

愛には摩擦が起きないからです。

 

あなた以外の聖者になる必要はありません。

あなたはあなた自身の真我がを見つけるだけです。

もし、あなたの中に摩擦が起きているなら、それを取り除いていくうちに真我は現れます。

 

摩擦であるカルマを愛に昇華してみませんか?

真の瞑想は それを可能にしていきます。

あなたが望むならば、 あなたは 大きな愛になることも可能です。

あなたにどんなカルマがあろうとも

あなたが愛になることを望み続ける限り、

あなたは愛になれるのです。

なぜなら、私たちの本質に愛があるからです。

 

愛は支配やコントロールをしません。

ただ、限りない慈愛の目で見守っています。

永遠に。 

愛 ピンク