2022年02月26日

コントロールしない

スピリチュアルを学び始めた頃、

おっと、もう20年前になるじゃありませんか!? (^▽^;)

不満だらけの毎日から 良し悪しの識別を外すワークを始め 

周囲の人々やこの世界で起きることにダメ出しをすることを止め、

宇宙の法則 『愛になること』 を基本に生活し 自分の思い癖をチェンジして行きました。

愛とは あるがままにさせておくこと  という教えを 実践していくことになります。

最初は 「なんで 放っておくことが愛なの?」と思っていましたが、

考えてみると、自分も干渉されることが大嫌い。

ただ、自分が構ってほしい時には放っておかれたくないんだけど、

それはこちらの希望する構い方以外はNGなわけで、

構ってもらっておきながら、ケチをつける という coldsweats01

「私の思い通り以外にはしなくていい」という 傲慢さが潜んでた。 (-_-;)

それを 当然の権利のように思っている自分がいたんです。

自分が何をしていたかを自覚する時はけっこう衝撃です、、

それから エゴを手放そうと努力をしてみました。

でも、ちょっとしたことで、エゴイスティックな感情が飛び出してくるんですよ。

「そんなこと、お前ごときに言われたくないわ!」という どんだけ上から目線  とか

自分よりさっさと成果を上げて賞賛される人を見ては面白くない気持ちになったり、

自分が仲良くしたい人と私よりも仲良くなっている人を見ると、あいつが居なくなればいいのに と思ったり (;´∀`)

自分の中にどれだけエゴや傲慢さや醜い感情があるんだろうか? sad と、うすら寒くなったりするんです。

 

でも、ある時、ふと思いました。

人間と言うのは 理性を持っているにしても体は動物の一種なのだ。

少なくとも身体を持たない神様 な わけじゃない。

他の動物たちを見てみると、同類相哀れむ だけじゃなくて、同じ種族で縄張り争いとか死闘を繰り広げる例も多々ありますよね。

同じ種族同士でも敵対する関係というのはあるものだし、自分のエサを他の個体が食べてしまったら怒り狂う とか

優位争いなども、本能としてあるから起きるのはしょうがないことなんじゃないのか。

どんなに清い心で居たいと思っても、自分の衝動とか反応とか本能は無い事にはできないのだろう

と、思ったんです。

あるがままの動物も ペアリングの三角関係などに関しては、 テリトリーに他の個体が侵入した場合!

ライバルを排除!!

死闘 ・・・ですな。 エゴだけど それはもう本能だったら仕方ない。

そんなことを気付いてからは、 自分の中に起きる 負の感情も嫌悪することを止めました。

生き物なんだから反応はするさ。 それは自然。

だけど、その後、何を選択してどう行動するかは 理性で選ぶこともできる。

広い視野で見てみると、戦争よりも平和を選択する方が幸福になれるとも思うし

怖れから攻撃したとしても決して良い結果にはならないこともわかる。

 

そんなこんな いろんな体験を通して この世界のことがまた一つ見えるようになるのでした。

 

愛であること

許すこと 手放すこと 信頼する事

善人が愚かに見えるようなことがあったとしても、善人であることを選択したい

その時にそれが損な役回りだったとしても ただ 愛と慈悲であることを選択したい。

誰が何を言おうと 誰に先を越されようと 何かを盗られようと 意地悪をされようと

私は善意でいることをやめません。自らの波動は 愛を選択します

そう決めてから 今まで そのスタンスはブレることはありませんでした。

その位置にいると、心かが安定するからです。

内側から エゴの声がしても

特に否定もせずに「人間だからそういう感情も出て来るよね。普通のことだ」

そう思って意識的に愛でいようとチューニングし直すのです。

そのうち そんな風に愛を選ぶことが癖になりました。

何の問題も残さず 今に至っております。

愛は 強いですね。 足元でしっかりと大地を踏みしめている気分です。

 

愛とは あるがままにさせておくこと。あるがままを受け止めること。あるがままを愛する事。

人は愛に触れると 愛になることを望むようになります。

本当の美しさを見つけたようでした。

こんなところに花

どんなところでも咲く

それは笑顔の事ですね。

今にくつろいでください。あなたの笑顔は癒しです。