2018年09月18日

非二元 その2

難解に思われる非二元のお話は 溝口あゆかさんが とても巧みに言葉で表現されます。

ご興味をお持ちの方は ぜひご覧ください。

 

溝口あゆかさんのブログ

 

私たち人間が 非二元を実感することは 難しい事ではありませんが

自我が非二元を理解することは少々難しいです。

私はいない という話ですから 「私は誰?」となってしまいます。

私とは 自我の私というイメージなんですが、

じゃ、今のこの現実は何?

私の人生は何?  と。

頭で考えれば考えるほど、出口のない迷路になってしまいます。

自我の思考範囲ではとらえられない、マインドからするとぶっ飛んだ領域の感覚 といえるでしょう。

自我の観念を手放してしまわないことには そこにチャンネルを合わせられないのです。観念の枠がその外に出してくれませんから。

 

自分の枠を手放すと 感じることができますが、 この枠を手放すのに自我がものすごく抵抗するんです。

恐いんですね 枠を外すのは。未知の領域は危険かもしれない と 恐れているし、

自分を守ってきた基準を外すなんて不安な事なかなかできない って思ってしまうのです。

例えば

善いも悪いもありません  と言うと、

犯罪は悪いやろ!許せんことやろ!したらあかんやろ! とマインドは言います。

その枠を外しちゃダメ! と抵抗します。

 

この世界に 犯罪とか 好ましくない事は起きます。この世界に 闇があります。 

それは幸せとは程遠い波動のもので 誰もそんな出来事と仲良しにはなりたくありません。

でも、人間がそれをやってしまうことがあります。

いろんな歪みに圧迫されつつ 人生をカルマの方向に向けてしまうことも起きるのです。

悲しい出来事です。悲惨です。 人間の持つ歪みと狂気は 落とし穴のようなものです。

よくわからずにそちらに行く人がいます。

内側のカルマが爆発的に発動する時 人々は狂気を帯びます。 

苦悩、怒り、憎しみ

その出来事がどういうことかを本当に体験して知っていれば犯罪をしようとは思わないし、戦争も起こそうと思わない。

だけど、実際の体験をしらないまま そこに入って行ってしまう人もいるのです。

悪夢に浮かされているような状態で。

 

私 という認識は、映画 とか 夢 のようなもので ストーリーの中ではそのストーリーにしっかり同化して登場人物になりきっている状態です。

テレビでドラマを見ていて主人公の気持ちになった気分でドキドキハラハラしている時と同じです。

自分の思考の中のドラマに取り込まれています。

ドラマの展開に心を奪われ 来週の展開が気になってしかたありません。

だって、マインドはドラマが大好きなのです。

ドキドキハラハラに気を取られ、夢中になります。

(そうなっていない人はそのままでOKです)

 

あ、夢か と分かってしまえば夢は夢なんですが、 その夢の最中はその時の夢の状況の中で必死です

でも、夢の中でも それが覚めるとわかれば余裕が出てきます。

 

今のこの夢(人生)をもっと楽しもう とも思えます。

 

私たちはイメージを操ることができる生き物ですが、

逆にイメージに縛り付けられやすくもあるのです。

苦悩の思いにはとどまりたくはないですね。

でもとどまっていたい心もあるので それはどちらでもいいのですが。。

 

自我は 無意識に自分を楽にさせようとして認識をいじって真実を歪めてしまうので、すごい面倒くさいことになってしまいます。

つまり、全ての出来事は自己責任 で 終わらせるのが嫌なので 悪者を作って 自分を被害者にしておきたかったりします。 これは自我の機能の一つなんです。

自我の価値観を護る防衛機制です。

その方が自我にとっては楽なんですね。

 

でも、そのことに気付くと、被害者の幻想は終わります。

本当は誰も悪くないんです。 たまたま 歪みや摩擦が生じただけのことですし。

 

対処は 歪みの修正と 傷ついたところを手当てして そして癒すこと。

そして 今のあるがままの自分を愛してください。 そのままで 十分素敵じゃないですか。

五体満足、 いえ、不満足だったとしても この世界を楽しんでください。 生きる事を楽しんで。

息をすることを。体があることを。何かを感じることを 五感を 四感でも 三感でも 味わうことを 堪能してください。

退屈している暇はありません。活動するようにできてます。 感じることも活動です。

好きでそこにいるならそのままでいいじゃありませんか。

マインドの奴隷になることもありません。 いつでも自由に生きられるんです。選択するのはあなたです。

 

いずれは すべて泡のように消えます。うつろいゆく現象 肉体とその思いも消えていきます。

 

残すものがカルマだと 子孫はカルマの処理に苦労するでしょう。それもよし。

(子孫に生まれるのは自分です)

残す記憶が 愛だと 子孫は幸せを享受します

(子孫に生まれるのは自分です)

苦しい夢なら覚めてしまいましょう。

 

心のとらわれは 手放して自由になってください。 恨みや怒り、しばし味わったら 手放してみてください。

難しい方はELM瞑想を伝授いたします。

ELM瞑想は 空と一体になる時間です。

 

初心者の方にはちょっと難しいお話だったでしょうか?

 

またいろんな視点で書いてゆきます。

駄文にお付き合い下さり ありがとうございます。

自由な魂への入り口となりますように。。

非二元(ノンデュアリティ)

スピリチュアル分野に詳しい方はもうこの言葉はご存じかもしれません。

 

非二元 ノンデュアリティ 

 

分離していない一つのものである  という意味です。

 

何が一つか というと、全てが一つ。 この世界は全て切っても切れない分離することのできない一つのものだった

ということなんですが もう私たちの本来の認識を全部ひっくり返すほど、認識を変えないとこのことが理解できません。

 

これまでの世界観は私たちの頭の中で展開しています。

個の自分を核にした自分を取り巻く世界と自分という自我のストーリー。

 

私 というのは この脳みそが作り出しているイメージに過ぎません。 

この肉体と魂は ただこの世界の一部の現われに過ぎない。 

延々と続く生まれては死ぬ繰り返しの生命活動の一部 一瞬の現われ。

ですのでどう生きたって大差ないわけで そこに意味はないんですが

 

自我の意識は意味を欲しがるんです。

自我は 意味とか価値とか所有 というイメージが欲しいんです

本当は 私 というものはこの脳の中だけにあるのですが、それを全てだと思い込んで苦しんだり各党したり一喜一憂しちゃってるんです。

自分(例えば 野津寿子)というストーリー  このストーリーやイメージに 実体はありません。

でも人間はイメージで世界観を作り上げて見えない境界や制限を沢山作っています。

実体はないんです。

 

ここで自我の意識は 自分の存在を否定されたように感じて 抵抗する

今まで必死で取り組んできた過去が無意味になることを受け入れられずに 「そんなわけはない!!」と叫びます。

自我は消滅したくないので 必死で抗います。 「私がいないわけはない」と。

 

ただのイメージなんです。

 

私たちは 宇宙の営みの一部の現われ

 

肉体に乗っかっている意識という生命活動。

神という意識のほんの一瞬の小さな一粒でしょう。

死んだら 自我が消えて なーんだ。死んだのは肉体だけか と 思うかもです。

そして自分自身が神そのもの(の一部)だったと気づく

思い通りにするも何も、全てが自分で取る取られるが無い。自分しかいないのですから。

 

ここですごいのは この世界が作り出す現象の中に 本当に崇高に美しいものが沢山あるのです。

それは一瞬の輝きかもですが、その美しさに触れた感動を神(神の一部である我々)が経験するのではないかと思います。

大気圏

 

肉体にいる今、何にとらわれて 苦しんでいるんでしょうね。

どっちでも どれでも いいんですよ。好きにすれば。

所有のイメージをどれだけ持っていようが、肉体で扱えるものは限られてますから 一番したいこと一番その時にしたいことを選べばいいんです。 目の前にない 遠いものにはすぐ手は届かないですが 歩いていけば触れるかもです。

物質の制限のある世界を楽しんでください。

自我にとって以外は 自分というイメージなんて 割とどうでもいいことです。

だから単に幸せでいればいいんですよ。今すぐ苦しみのイメージを手放してしまってください。

苦しみが大事でないなら手放しましょう。(手放し方がわからない方はまた特集します)

 

現象としては 古い肉体は何かと不具合もありますが、それもただの現象なので できるだけ上手に付き合うと言いますか、その場その場で一番いいようにすればいいんですね。

ただそれを受け止めて 今 一番いいようにできることをすればいいんです。

頭の中のイメージに振り回されないで ただ静かな観察者の意識で世界を見ています。

 

今 この現象を見ている私。  肯定も否定もない ただ それがある。

 

何も悩む必要はないんです。どれでも それなりです。

今ここを 楽しみましょう。

痛いところがあったら、手当して 癒しましょう。

 

非二元からほど遠く、自我に圧倒され、抱えたイメージや心の痛みに悩まされている人は 瞑想してみませんか?

EFT療法も傷ついた心を癒します。