2018年08月29日

カルマの正体 痛む傷

心穏やかにありたいと願っていながら、何気ない日常の一コマで つい イラっと気に障ることがあったりする

そんなご経験があなたにもおありでしょうか?

たぶん99%くらいの方がそんなことを感じたことがあるのではないでしょうか?

もし、イラっとしたご経験がない方がいらっしゃったら、 それは天使のような方ですね。

 

私たち 普通の人間にとって

最初の意識は、 イラっとさせる相手のせいで 自分が苛立つのだと思い、相手にそれをさせないようにしたい、

もしくは その相手を遠ざけたい と思うことでしょう。

本能ですから当然です。

でも、諸事情で そんなに簡単に事は解決しないことも多々。

 

そしてまた 解決しないことに更に苛立ちを募らせていくのです。

苛立ちを越えると キャパと耐性が成長しますが、苛立ったままだとストレスが溜まります。

摩擦のエネルギーです

 

スピリチュアルを学び始めると、

自分の波動が 周囲に反映する 『相手は自分の鏡』 という波動の法則というものを知って、

自分を整えることに取り組みます

自分がすることは 人もする。  自分にあるものを 人の中に見る。 ということを体感していくのですが

それが腑に落ちていない時は どうしても相手が悪いように見えます。

私が嫌だと思うことをする相手を見て、 これは私はちゃんとやってるのにこの人はちゃんとできないのは

この人の質が悪いからだ! やっぱりこの人はダメだ  私じゃない この人だ! と相手を責めることに夢中になってしまいます。

 

相手は自分の鏡  という法則の本質をわかっていません。

 

鏡に映されるもの、それは自分の表面的な行動 ではなく、

自分の深層心理、自分の無意識の思いを映しています。

私が否定するものがある ということの鏡  私が嫌悪するものを反映した鏡なのです。

 

自我はここで 一度 「?」 となるでしょう。「何を言っているの?」

「私は 清く正しく生きています」 と自我は言いたい。 「清く正しくないのはあの人」「ほらみてごらんなさい、あのみっともない言動 恥ずかしくないのかしら?(怒)」「人としてどうかと思う(軽蔑)」「ちゃんとできないのかしら?わたしはできるわよ(慢心)」

正しさ を掲げた エゴです。

自分がする行動や要素は 無意識のうちに 記憶から抹消してしまいます。

→ 私はやってない。(記憶にない)

 

でも、それをやっている人たちの行動は よ~く見えています。

「いい加減に陰口をやめたらいいのに。」なんて思いながら その人の文句を本人の居ないところで話す。

こういう人ほど、人から何と言われているかをとても気にします。

 

目にする人の行動、目につく人の行動は

自分がそれをやっていることに気付くための機会ですので

自分がその要素を持っていれば持っているほど、同じ種類の人を見ます。

 

じゃあ、どうすればいいの?

私がやめればそういう人がいなくなるの? でもこの人はそれを続けるじゃない。こんな人いなくならないわ!

だからわたしはやっぱりこの世が悩ましいのよ。私がやめたって嫌なものから逃れられない。

 

いえいえ、これも根本的なところが違うんです。

 

あなたが嫌がっている出来事は 相変わらずこの世に存在します。

あなたもそういう要素がある同じ人間です。誰もがそういう部分を持っています。

そう、煩悩とか カルマ とか

多かれ少なかれ みんなが持っています。人間として。生き物として。

 

 「にんげんだもの  みつを」  ということ (笑)

 

人間の要素を 嫌っていることが カルマの感情 なんですね。

かつて その要素で傷ついたことがあったのかもしれません。

痛みとか怖れがあるので 嫌だ と思ってしまうのです。

 

 

嫌うこと というのは 自分を嫌う と 同じことなんですね。 自分の世界を嫌う=自分を嫌う

嫌いという感情は 内側にある摩擦を感じているのです。

 

 つまり カルマの感情なのです。

 

瞑想は このカルマの摩擦を解放して内側から無くしていきます。

自然にイライラ しなくなるんですね。

あなたの心の傷が癒えていくのです。

内側にこもる摩擦のエネルギーは 手放し、委ねてください。

それはあなたのものではありません。

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傷は修復されます。

癒された傷はあなたを悩ませません。

ただ清らかに咲く 蓮のように 

穏やかな波動をたたえて存在することは 可能なんです。

足し算ではなく 引き算で 清らかな真我が残ります。

 

 

魂と肉体

人間を生物として見ている と少し前のブログに書きました。

 

この肉体もその生物の身体です。 人間という生き物。

この体が作られる仕組み というのはすごいと思いませんか?

これは自然が創造したものなんですよ。 自然の力というのは計り知れないですよね!

 

なぜこの形なんだろう? なぜこの仕組みなんだろう?

どんな必要があったのか?

全部 根拠がありますよね。 必要のない現れなんてないんです。

時に何かが抜け落ちたとしても 不便なだけで 存在価値には変わりありません。

ちょっと足らないところがあるので生きる事を辞退する魂などいないのです。

そこで懸命に生きる魂は感動的です。

スミレ

 

私たちは 自分の身体の全ての現象と成り立ちを 知っているわけではありません。

むしろ 知らないことだらけで、謎だらけで、とってもとっても不思議です。

自分 という生き物を観察してみますと、

すばらしく精密で精巧であると同時に

効率的ではないこともままあります。

人間という生き物、

時に怠慢です。coldsweats01

エゴは視野が狭く、無駄なこともします。

 

自分を通して 人間と言う生き物を見つめています。

心の中、深い心の奥は目では見えませんが 心の目=感受性 で感じ取ることができます。

 

他人 という自分と同じ生き物に目を向けてみますと、

自分に体験のある感情は 共感することも可能です。

自分自身が 体験が多いほど多くの人と多くのシチュエーションで共感できるようになります。

そう、わかる という感覚。

 

ペットを飼ってみると、人間以外の言語や理論を持たない動物にも 

感情 や 思い や 意向 や 愛 などがある ということがわかります。

彼らは智慧も習得していきますね。

そういう発見もなかなか感動的なのです。

この猫たちは 私たち飼い主人間の波動を読んでる!!

言葉や態度に出さないものまで 感じ取っているのです。

そう、人間の子供がそれをできないわけがありません。

 

大人は前頭葉の思考を使うようになってから 感じ取る能力を忘れてしまっています。

ねばならない に自分を押し込めて感じることを封じてしまった大人

頭脳と引き換えに感性を捨ててしまった とも言えます。

いつからそれを忘れてしまったことでしょうか。

 

人は 自分が知っている経験は今生に限らず、この魂がかつて体験したことはその感情に共鳴共感することができます。

かつて いろんな時代に いろんな思いを体験して いろんな感情を味わってきたことでしょう。

そんな人はとても人の心によく共感することができます。

思い出してください。

あなたは共感することができるのです。

感じて見てください。

私たち魂は とてもとても やわらかく優しい生き物だったのです。

外敵から守るために来てしまった見えない鎧は 脱いでも大丈夫ですよ。

 

だって、 愛より強いものはないのですから。

日輪