カルマの正体 痛む傷

心穏やかにありたいと願っていながら、何気ない日常の一コマで つい イラっと気に障ることがあったりする

そんなご経験があなたにもおありでしょうか?

たぶん99%くらいの方がそんなことを感じたことがあるのではないでしょうか?

もし、イラっとしたご経験がない方がいらっしゃったら、 それは天使のような方ですね。

 

私たち 普通の人間にとって

最初の意識は、 イラっとさせる相手のせいで 自分が苛立つのだと思い、相手にそれをさせないようにしたい、

もしくは その相手を遠ざけたい と思うことでしょう。

本能ですから当然です。

でも、諸事情で そんなに簡単に事は解決しないことも多々。

 

そしてまた 解決しないことに更に苛立ちを募らせていくのです。

苛立ちを越えると キャパと耐性が成長しますが、苛立ったままだとストレスが溜まります。

摩擦のエネルギーです

 

スピリチュアルを学び始めると、

自分の波動が 周囲に反映する 『相手は自分の鏡』 という波動の法則というものを知って、

自分を整えることに取り組みます

自分がすることは 人もする。  自分にあるものを 人の中に見る。 ということを体感していくのですが

それが腑に落ちていない時は どうしても相手が悪いように見えます。

私が嫌だと思うことをする相手を見て、 これは私はちゃんとやってるのにこの人はちゃんとできないのは

この人の質が悪いからだ! やっぱりこの人はダメだ  私じゃない この人だ! と相手を責めることに夢中になってしまいます。

 

相手は自分の鏡  という法則の本質をわかっていません。

 

鏡に映されるもの、それは自分の表面的な行動 ではなく、

自分の深層心理、自分の無意識の思いを映しています。

私が否定するものがある ということの鏡  私が嫌悪するものを反映した鏡なのです。

 

自我はここで 一度 「?」 となるでしょう。「何を言っているの?」

「私は 清く正しく生きています」 と自我は言いたい。 「清く正しくないのはあの人」「ほらみてごらんなさい、あのみっともない言動 恥ずかしくないのかしら?(怒)」「人としてどうかと思う(軽蔑)」「ちゃんとできないのかしら?わたしはできるわよ(慢心)」

正しさ を掲げた エゴです。

自分がする行動や要素は 無意識のうちに 記憶から抹消してしまいます。

→ 私はやってない。(記憶にない)

 

でも、それをやっている人たちの行動は よ~く見えています。

「いい加減に陰口をやめたらいいのに。」なんて思いながら その人の文句を本人の居ないところで話す。

こういう人ほど、人から何と言われているかをとても気にします。

 

目にする人の行動、目につく人の行動は

自分がそれをやっていることに気付くための機会ですので

自分がその要素を持っていれば持っているほど、同じ種類の人を見ます。

 

じゃあ、どうすればいいの?

私がやめればそういう人がいなくなるの? でもこの人はそれを続けるじゃない。こんな人いなくならないわ!

だからわたしはやっぱりこの世が悩ましいのよ。私がやめたって嫌なものから逃れられない。

 

いえいえ、これも根本的なところが違うんです。

 

あなたが嫌がっている出来事は 相変わらずこの世に存在します。

あなたもそういう要素がある同じ人間です。誰もがそういう部分を持っています。

そう、煩悩とか カルマ とか

多かれ少なかれ みんなが持っています。人間として。生き物として。

 

 「にんげんだもの  みつを」  ということ (笑)

 

人間の要素を 嫌っていることが カルマの感情 なんですね。

かつて その要素で傷ついたことがあったのかもしれません。

痛みとか怖れがあるので 嫌だ と思ってしまうのです。

 

 

嫌うこと というのは 自分を嫌う と 同じことなんですね。 自分の世界を嫌う=自分を嫌う

嫌いという感情は 内側にある摩擦を感じているのです。

 

 つまり カルマの感情なのです。

 

瞑想は このカルマの摩擦を解放して内側から無くしていきます。

自然にイライラ しなくなるんですね。

あなたの心の傷が癒えていくのです。

内側にこもる摩擦のエネルギーは 手放し、委ねてください。

それはあなたのものではありません。

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傷は修復されます。

癒された傷はあなたを悩ませません。

ただ清らかに咲く 蓮のように 

穏やかな波動をたたえて存在することは 可能なんです。

足し算ではなく 引き算で 清らかな真我が残ります。