2018年07月

真我

この世の悩みや苦しみは 自我の意識から出てきます。

自我の意識はこの肉体の意識です。

 

真我は 私たちの魂の根源にある意識で、肉体を越えて存在します。

 

生まれてすぐの頃は 真我の意識だけでいますが、次第に自我のプログラムが発動してきます。

そこにはいろんなカルマがくっついていて いろんな感情が出て来たり、いろんなことが起きたり、

それぞれの人生のプログラムは展開して行きます。

 

これは私たちの学びのプログラムなのですが、 なかなかスムーズにはいきません。

自我の意識は抵抗する力を持っているので さらに複雑な過程を作ります。

 

いろんな思い いろんな手段 いろんなコントロール、そして 思い通りにならない摩擦を体験します。

 

自我のパワーが強ければ強いほど 力技で思い通りを実現しますが、

でも この世界は人間の力でコントロールしきれるほど小さなものではありません。

ひとたび自然が動くと 人間の思惑は押し流されてしまいます。

 

この世界には大きなエネルギーの流れがありまして

それは目に見えるものから見えないものまで。

ミクロからマクロまで 人間のあずかり知らぬ全ての要素まで大きな流れの中にあるのです。

 

人生はその流れの中を波乗りするようなものだ ということを以前書いたことがありますが

私たちはそのことを前提に人生を生きますと 今という時間と自分の運命を最大限に生きることができます。

それが いまここを生きる ということです。

 

この世界に生まれる というのは それぞれの肉体という乗り物でこの世界と時間を旅するのです

この世界は未知に満ちています。いろんな所に行っても行かなくても私たちはこの体に乗ってこの世界を旅し続けているのです。いつか魂の故郷に戻るまで。

 

その旅の間、自我のドラマにとらわれたゲーム、いや、苦しいドラマの夢から覚めると

シンプルな真我の意識がこの世界にある数々の輝きに呼応して喜びを放つようになります。

 

もう何物にもとらわれない自由がそこにあります。

誰とも比べず、ただ在ることのよろこび。 存在する限り 美しい波動に共鳴することができます。

そう、魂は不滅なんです。

いってらっしゃい  そして  おかえり

木洩れ日

 

カルマが終わる時

瞑想の師匠 ボブ・フィックス氏の言葉でとても印象に残っているお話があります。

 

一生分のカルマはその人が生まれる時に決まった量を持ってくるんだ。

多い人もあれば 少ない人もある。

カルマは過去のネガティブな感情の記憶 未消化のネガティブ感情なんだ

それを解放し尽すと カルマは身体から出ていき 静寂の真我が現れるんだ。

 

カルマの解放に抵抗して抑え込んでいると 同じ経験が繰り返しやってきてカルマを出そうとする。

また、自分のカルマを人に向けると そのカルマは人を巡ってまた自分の所に戻って来るんだ。

カルマの矢は投げ返さないで地面に落としてしまうんだ。自分のところで終わりにするんだよ。

そうすれば この世界のカルマは減るはかりだよ。

 

自分が受け止めるべきカルマを他人に押し付けたり、

自分のエゴのために罪の無い人を傷つける のは 自分のカルマを終わらせない ということですね。

 

世界の中には 神か仏か? と思うような愛のある人々も存在しますね。

この人たちは すでにカルマを終えた人々です。

きっと、普通の人だと耐えがたいような苦悩をすでに乗り越えちゃった人 でもあるのだろうと思います。

カルマが終わると、エゴという憑き物は落ちます。

 

人が生きている限り委、カルマの感情は0にはならないのですが、

限りなく0に近くなることはできるでしょう。 

 

 

どうにもならない辛い状況に陥ってしまった時は、 その辛い試練が過ぎ去るのを今しばし待ってください。

 

不思議なことに 意識の上では、試練は逃げると追っかけて来たりします。

試練はわざわざ近づくことはありませんが、もし来てしまったら

ただ、静かに 嵐が過ぎ去るのを待ってください。

 

その後は 晴れた青空になるのです。

 

私たちにできるのは 今を最善に生きる事です。

戦うことよりも その条件下で幸福を作り出すことを工夫してみてください。

とてもじゃないけど、幸福なんてほど遠い という場合は

ただ、この試練は過ぎ去るものだと信じてください。

私たちの意識が静まると、世界はことを解決しだします。

あなたが奔走するよりも早く。

もう少しで あなたの新しい扉が開くところです。

竹林

 

 

世界

私たちが過ごしているこの世界は 実に彩り豊かでバラエティに富んだ世界です。

そして ものすごく広い。。

オランダ チューリップ畑 オランダのチューリップ畑

人間はまるで蟻のように小さい生き物ではありませんか!

蟻 対 人間 よりも 人間 対 地球  の差の方が ず~っと ず~っと 大きいです。

一生に歩ける距離はとてもわずか。 一生に移動できる距離、

昔は それこそ 蟻のテリトリーくらいに狭かったんですね。

 

でも、人類はとても発達した脳を使い 何世代にも重なる時代を紡いで

今の文明を築き上げてきました。

 

自転車、 車、 船、 飛行機、 ロケット!物理的にも距離を拡げてますが

 

もっとすごいのは、、、

 

私たちの意識の中では この地球は 手のひらに収まるほどの 意識の拡大です。

私たちの意識は 変幻自在に大きさを変えることができます。

 

マクロからミクロまで 

 

この脳の中で そのイメージを構築することができるのです。

 

すごい能力だと思いませんか?? Amazing!

おお、神よ! と 小さく叫んでしまいそうです。(笑)

今、感動に心が震えました!

 

感激屋は人生が4倍楽しい(笑)

 

ん? 何で4倍か ですか?

 

なんとなく です(笑)

 

すみません、(笑) 脱線中です。(^_^;)

 

私たちの意識の拡がりを 実感せずに 一生を終わるなんて

もったいなさすぎると 思いませんか!!??

地球

 

瞑想で 頭の中に詰まった 要らないものを 掃除してみませんか?

アトリエ霽月でお待ちしております。

 

人生を輝かせて生きましょうshineclover

 

 

日々徒然

先ごろの豪雨の被害が 中国地方でひどかったですね。被災された方々にはお見舞い申し上げます。

瞑想マスターがこれからは当分激動の時代だから という言葉がリアルに感じます。

何事が起きても動じない心 いつもそう思っていますが もし自分に瞑想がなければ不安な気持ちを持ってしまったかもしれません。

最近は妙に度胸があります。 まだ自分が被災したわけではないのですが 気持ちは静観しております。

災難は誰に起きてもおかしくありません。 助け合って支え合いたいものです。

豪雨の間はしばらく家に閉じこもって制作していましたが、雨がすっかり去ってから、

表装の師匠のいる下関に行って参りました。

災害復旧のための車両で高速道路が混んでいました。

 

少し話題が変わりますが、

私 野津寿子のライフワークといたしまして 仏画と掛軸があります。

仏画は 30代の頃に静かな心になりたくて描き始めたものですが、その後仏師に弟子入りしまして仕事で仏画を描いていました。30代の頃です

福岡に来てからは独りで仏画や日本画を描き続けていましたが、周りの皆さんのご希望もありここ10年ほどは仏画教室を続けています。

 

仏画を掛軸にするのに 関西に居た頃は行きつけの表具店があり、福岡では事情もわからないため その都度大阪の表具店に出していました。

その後仏画の生徒さんが通い出した表具教室に私も行くようになり、

そちらの表具のお師匠さんの技術と人間性のすばらしさに惚れ込みまして 

先生の技術を継ぐ気持ちで表装を続けております

しかしながら、先生の領域に到達するにはまだまだ知識と技術が足りません。

日々精進しております次第で。

 

(;^_^A

 

月に2、3回 表具のご指導を受けに師匠のいる下関に通っているのです。

 

もともと手先は小器用にできておりまして 細工物とか絵画とか工芸とか手芸とかが好きなんですね。

細かいことを得意としています。

絵を描くのに刷毛を使ったり、絵の下地を塗る作業などにも慣れておりまして

周りの人より早く糊刷毛を使えるようになり

1年目くらいから掛軸を作れるようになりました。

それでも 掛軸というのは実に手間がかかるもので 布地に和紙を裏打ちするところから何枚もの裏打ち用紙を時間をかけて張ったり干したりしないといけないんです。

小さいものだとそれほど難しくないのですが、

サイズが大きくなってまいりますと、それはもう扱いが大変で

長い棒に大きな濡れた紙の1辺を張り付けてぶら下げたものをシワが入らないように布の上に伸ばしていったり、膨張率の違う布と紙を貼り合わせたものの裏に仕上げの和紙に乗りをつけて張り込んだり、かなりアクロバティックな作業をします。

最初の内は失敗しないかと冷や汗タラタラで 今はもう慣れたか?と言いますと

やはり今も冷や汗モノで作業に入る前には相当な気合で取り掛からねば最後まで根性が持ちません(笑)

やってる間は気が抜けないまま最後までいきます。

気合が折れると終了(失敗)してしまいます。(^_^;)

 

 で 作業途中は 別の事が頭に入ってこれない別次元のイキモノになっています(笑)

声をかけても顔を上げないどころか どうかすると聞こえてないですもんね。

 

そんなこんなで先週から8本の掛軸の仕上げに。。

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掛軸
掛け軸

 

 現在三十三観音シリーズを制作していて 全部の観音さまが掛軸になったら 展覧会を開きたいと思っています。

 

観音様の波動で皆さんの心が穏やかになりますように。

 

 

瞑想のお客様も日々おまちしておりますよ。メールでのご質問はいつでもお答えいたします

15日の日曜日は1日瞑想会です。ご無沙汰の方もぜひご参加ください。皆さんとお会いするのを楽しみにしております。

 

 

 

思い

今日のお話は 変わりたいと願っている人に伝えたいお話です

 

スピリチュアルの法則で 私たちの思いが現象を作っている というものがあります。

私たちそれぞれが信じている状態を この世界が体現してくれている というものです。

 

なので、自分たちが信じているものを変えると、世界の現象は変わってしまいます。

 

そんなことは信じられない と 最初は誰もが思います。

すでにこうなっている世界をどう変えるのか?  

 

現実が先か思いが先か  ニワトリと玉子 のような議論になってしまいますが、

 

この法則を利用して現象を変えたいと思ったとしても 一朝一夕には変わらないですね。

それは 思いを変えても現象は変わらない のではなく、

一朝一夕に 信じてしまっているものを変えることが難しいからです。

 

常識を変える どころではない この世の原理を変えることですから 脳は混乱してしまいます。

 

信じているもの というのは、

この世はこういうものである  とか

私たちはこういうものである  とか

こうすればこうなる  とか

そういう認識のことです。

 

もしこれらの思いが一晩で変わってしまったら、あなたの身に起こる現象もその瞬間から本当に変わります。

 

これは半信半疑でやっても、口先の言葉に出すだけでも ダメなんです。

それが本当なんだ という確信を持っていなければなりません。

 

ちょっと違ったことが起こったくらいで 考えが揺らぐようではいけません。

確信は揺らがないのです。

 

その思いが現象化しだして、それが確信になったとき、

あなたはそのことが本当の事だと知るでしょう。

 

あなたは あなたの当たり前 を 生きるのです。

自分の中の当たり前を書き換えることは 実はそれほど難しい事ではありません。

自分のルールや、自分の思い込みを手放して自由になることです

いままで育ってきた価値観がそうそう変わることはない と 思っている人はそういう自分やそういう他人を見るでしょう。

 

でも、私は違います。 かつて私自身を追い詰めていた思い込みは素晴らしく取れてしまいましたし、私の周りではすっかり大人になってしまってから 次々に考え方を変えていく方々が何人もいらしゃいます。

こういう性質は一生治るものじゃないよ なんて評価された人も 私の前では変わりました。私はその人が変われると確信していたからです。

最初は本人の方がそれを信じられずにいましたが、私はその人に毎日 変われないわけがない と言い続けました。

そして 本当に変わりました。周りの人々はそれを奇跡と思ったかもしれません。

でも、それは私にとっては確信でした。

 

ネガティブ思考は一種の考え方の癖です。

その癖を手放せば 考え方もとらえ方も変わります。

もし変わりたければ変わるようにすればいいのですが、

変わるのに必要なことをしないまま できない という人がいます。

 

今までの観念や思い、行動パターンにしがみついたまま 変われないのは 当然です。

 

自我は観念を手放すことを恐れます。

怖れを手放すことができないでしがみついているのです。

それを手放すと深い闇に落っこちてしまうかのように・・・

 

でも、実際はどんな観念を手放したところで 酷いことが起きるわけではないのです。

ただ、思いを変える ということはあなたの意識の中だけで起きます。

外側を触ることはどうでもよいのです。

そして手放した観念と共に それにまつわる苦しみが消えていきます。

 

まだ 恐ろしいと思っているうちは この話は信じられないでしょう。

でも、実際に実行してみると 

「あれ?」 っと。

溺れることができない浅瀬で死ぬかもしれないと悶絶していた自分を発見します。

 

自我が絶望することが自我の死です。

自我=エゴ

エゴの死は

真我の再生の時です。 それを 悟り体験 と言います。

 

流れに運ばれる先を見てみませんか?

 

瞑想が あなたの抵抗するカルマをどんどん消して あなたを静かで研ぎ澄まされた意識に変化させます。

 

これらの大きな変化が一夜で起こることを望まないでください。

カルマを一度に終わらす ということは 相当な山を越えないといけないということです。

最初は じっくり時間をかけて 一歩一歩確実に進みましょう

要らないものは過ぎ去り、そぎ落とされてシンプルなあなたが残ります。

それがあなたの真我です。

 

日々の瞑想があなたをクリアリングして 緩やかに変化させます。

ただ、手放して 委ねてみませんか?

まだ見ぬ世界に羽ばたいてください。意識の世界は無限大です。

ロータステンプル

 

ネガティブな体験について

怒りは 幸福を生みません

 

愛が癒し、幸福を作ります。

 

理不尽なことに怒りは生じます。

 

でも、その怒りで 幸福は生み出せないのです。

 

私たちの自我の意識では、今生、今が幸せでなければ意味がない と思いがちです。

 

でも、この意識は今生かぎりのものではありません。

 

何度も転生を重ねて成長し続けます。

 

学びが進むまで同じステージを繰り返し学びます。

怒りの感情は 味わいつくしてやがて昇華してゆきます。

 

人生はヒントのない宝探しの場です。

 

その宝が何なのか 最初はわからないのです。

幸福 が その宝なのですが、

その幸福には決まった形が見えません。

しかも それが宝だと最初から気付くことが難しくもあるのです。

 

これが真の幸福 というものを 見つけるまで

試行錯誤の人生ゲームが続きます。

 

最初は それがそうだと聞いても 実感がわかず、あちこちを探し回るのです。

 

それを見つけるには いろんな経験が必要になります。

それはいい経験ばかりではありません。

陰陽の陰の部分 ネガティブな体験も知って 初めて この世の両面が見えてくるのです。

 

ネガティブな体験を疎まないでください。

それはあなたの心を育てます。 心の根を張って 揺るがない意識を育てるのです。

深く知る ということ。

 

その体験は通過していくものです。

そして やがて 大きな感動の体験を置いていきます。

天候

本日は 天候不良のため、体験瞑想会が中止になりました。

西日本を豪雨が縦断して各地で被害が出ていますね。九州北部もすごい雨でしたが、中国地方の被害を見て胸が痛みます。

天候という自然のエネルギーはすごいパワーで 私たち個々の人間は実に無力です。

 

自然は時として 一気に全てをゼロにしてしまいます。

仏教では諸行無常という言葉がありますが、小さな私たちは その無常を受け止めるのが難しく感じることも少なくありません。

 

すでに起きてしまったことは 受け止める他ないのですね。

そうでなければ いつまでも苦しむことになります。

受け止めきるまでに沢山の涙が必要なこともあります。

 

これまで 自然が静かだった時代は こよのうな災害は 自分の身の上に起こる確率も極めて小さかったのですが、 今からは いつ誰に起きても 不思議ではないのでしょう。

地震や水害 観測史上最大のものはこれ以上来ない保証はないですし、

もうずいぶん前に放映された日本沈没 なんてお話が現実になれば 家、とか 生活どころの話ではなくなります。

 

それでも、私たちはこの肉体の命がある限りは肉体の生命を全うせねばなりません。

 

私たちの未来が 保障されなくなると、生きる価値がなくなるのか? と言いますと

それはそうではありません。

私たちは命ある限り生きようとするようにできた生き物ですから。

 

ただ、現代は文明が発達したために 物質的には生きやすくなりすぎて 困難を体験したことがない子孫 になっているんですね。既に。

物質的に だけでなく、精神的摩擦にも弱いかもです。

 

今の物質文明はどこまで維持できるかわからない時代に これまでの生活スタイルをキープすることは大変なことでしょう。

災害のために理不尽に生活を失う人々も増えています。

これからは、維持よりも 変化への柔軟性が大事になってきます。

古い観念やこだわりも手放さねばならないこともあるでしょう。

見知らぬ価値観には抵抗を感じるかもしれませんが、

若い命は 適応が柔軟ですから 守ることよりも 鍛えることを優先してあげてください。

そう、自由に羽ばたく試練です。

これは我々親世代の者が手放すことが多くなるでしょう。

これまでの価値観は役に立たなくなってゆくのです。

大人は器を大きく育てる試練です。

 

若者にはチャレンジをさせてください。

ブレーキよりもジャンプ力を。

規律よりも愛を。

失敗など恐れない。カッコよさよりも逞しさが大事な時代です。

彼らの命が育ちます。 彼らの魂が成長します。 

私たちも一緒に成長しましょう。

まだ遅くはないのです。

 

何事もなく過ごせる方は その幸せを感謝して日々を大切に生きてください。

皆が助け合えば、悲しみは転じて 共に幸福になります。

幸福に生きる

人は皆 幸せに生きたいと願っています。

何が幸せなのか? それを探す旅が人生 なのでしょうね。

 

あなたにとっての幸せは何でしょうか?

 

仏教は 幸せは 苦しみがないこと と教えを説いています

苦しみを手放す平安の幸せ。

 

若い頃、その意味がよくわかりませんでした。

苦しみを手放すには欲を手放す  それのどこが幸せなのか?

若者にはわかりませんでした。

その頃の苦しみ と言ったら、欲しいものが手に入らないこと だったからです。

 

欲しいものは、 物質にかぎったことではなく、

人から認めてもらうこと だったり、人に自慢できるものだったり

気分が高揚できる体験や時間、 また、愛される事

 

あらゆる欲しいものを手に入れようと懸命だったろうと思います。

私自身は 物質にたいする欲はほとんどありませんでした。

大人になってから、きれいな洋服とか 高価な宝石とか カッコいいバッグとか

車とか家とか そういったものには興味がありませんでした。

なぜだろうか? と考えてみると 経済的には裕福な環境に育ったので 幼少期には物質的に得られない という体験がほとんどなかった ことと、

母が贅沢を嫌悪するような価値観があったので

物質に対する欲は 分別がついてからは執着を持たなかったのでした。

倹約を善としてとらえていたのかもしれません。

最初から満たされるもの というものには執着は生じないもののようです。

 

気が付いた時に自分に欠乏していたのは 自分自身に対する肯定感 と 愛 でした。

たぶん、その二つがどこにあるか、ずっと探していたのかもしれません。

 

そのためにいろんなことをしたり、いろんなところに探しに行くわけですが、

あったと思ったものは すぐに色あせたり 自分の手の中から消えていってしまうのです。

 

自己肯定感と愛 それらを外に探して 見つかるわけがないのですよね。

 

何十年迷ったことでしょう??

 

これはもうヒントのない宝探し でした。

無い場所を探す限り それが見つかることがありません。

そして どこにあるか わからないのです。

どういうことをしたら手に入るのか 

 

もうすでにある人にとっては 変なことを言っていると思われるかもしれません。

そんなものは探すまでもなく ある

 

でも、見失っている者にとっては もう迷宮なんですね。

 

こうすれば見つかるよ という先人の言葉を頼りに

チルチルとミチルは森に青い鳥を探し行くわけですが、、

私の場合は一緒にさがしてくれる連れも居なかったわけで

チルチルさん代わりの彼氏 とか 夫 を相手に 幸せゴッコをするわけです。

 

でもなぜか 見事に壊れていくわけですよ。見つけたと思ったものは 変容していく

どういうことなのか 意味がわかりませんでした。

 

捕まえたはずの青い鳥は ある朝 ただの茶色い山鳩に変身しているわけです。

しまった! 間違えた! と思うわけですが 

それは根本的な間違いをしてしまっているんです。

 

外にはいないんです。捕まえてくるものじゃないんですね。

すでに内側に飼っているんですよ。自分の中に

え?どこどこ? 見えない!  ってなりますね。(^_^;)

途方に暮れて また外側を探したくなるわけです。 (´・ω・';)三(;´・ω・)

 

いやいや 同じ失敗をしちゃだめです。 外にはいません。

 

内側の奥のほうにいる 愛 という名前の青い鳥は 

不安や恐れの感情(カルマ)に覆われて姿が見えないんですね。

 

スピリチュアルの法則を学び始めて 自分自身の観念がすべてのストーリーを作り出していることに気付き始めて、

それでもなお 消えない恐れや不安や怒りを どうやって取り除いたか と申しますと

それがELM瞑想なんです。 そして 徹底的に手放す。 執着を手放すんですね。

これは少々時間がかかりました。エゴが掴んでいる執着というのは 簡単には手放せないものもあります。

 でも、結局手放すのは その執着を持っている限り苦しんでしまうからなんです。

ELM瞑想は恐怖の感覚を随分と薄れさせてくれました。

何十年も引きずっていたひどいトラウマが消えたのは2,3年目でしょうか。

それから、奥の方に潜んでいた不安感がすっかりなくなったのは5年目ですね。

スタート地点が鬱ですからこれはもうすごい変化なんです。

かつての自分とは別人のように ものごとのとらえ方が変わりましたね。

気分は小さい頃の無邪気でチャレンジャーな自分に戻りました。

恐れを持つ前の本来の自分の性質です。

幸福を探す というより、生きていることそのものが楽しく幸福なのです。

 

今はそもそも 物事を思い通りにする という意識を持っていないのですが(笑)

 

必要なものは与えられ、世界から護られる  という確信的な感覚があるのです。

世界に感謝しかありません。

 

かつて恐れていた孤独は 実は私には無縁だった ということに気付きました。

かつてのままの価値観だと 孤独になる可能性は少しはあったかもしれませんが、

内側が掃除された私に その可能性はありません。 

自分自身が幸福であることを見つける事  恐れや不安 という幻想を手放すこと

失うも何も 最初から何も持っていないんですね。

全ての物、この体さえも、この世界に与えられたものです。世界からの借り物。

 

与えられたものに文句を言うのはやめましょう。 

それを使ってどんな人生を作るかは自分次第なのです。

与えられた材料を どう生きるか  それだけです。

愛は 与えられるものではなく 自分が発するものでした。

それに周りが共鳴して愛が拡がるのです。

 

自分自身を愛してください。 そのままでいいのです。

本当に自分に素直に生きた時、 傷は癒されます。

そのことに気付くまで 閉ざして待ち続けたのかもしれません。

 

あなた自身の魂の輝きを隠さないでください。

何も恐れたり隠したりしなくても 最初からもう見えちゃってることに

気付かないのは自分だけだったのです。

 

素直な 自分自身でいることで 素直な自分自身にふさわしいものが ここに集まって来るのです。それは素敵な愛です。

誰がなんと言おうと、あなたの思考がなんと言おうと

素直に幸せを選んでください。

あなた自身を生きて 表現してください。 誰がなんと言おうといいのです。

樹 20187625331.jpg

幸せはフィーリングです。 マインドではなく、ハートだけがそれを感じることができます。

感じてみてください。 あなたの中にあるのです。

 

覆い隠すカルマは ELM瞑想が取り除きます。

悩みの根源

瞑想をしたいと思われる方の多くは なにがしかの悩みや居心地の悪さを抱えておられる場合が多いのですが

ELM瞑想を毎日実践していくと 私たちの内側の苦しい感情の種が減って、

自然と悩みが少なくなる という効果があります。

これは瞑想法の中でもELM瞑想の特徴です。

 

これを更に効果的に出現させるためには、 自我が握りしめているこだわりを手放した方が早く進みます。

 

自我が掴んでいるこだわりは 小さなものから大きなものまで いろいろあり

日常の習慣や 好み、価値観や ルールなど いろんな分野に渡ります。

それらが なぜあるのか どれほどに重要だと思っているか で こだわりの深さが変わります。

 

こだわりの少ない人というのは これまで幾多の苦労を経験したことのある人で

この世は思い通りにならないものだ ということをすでに知っている人です。

 

周りの人々から大事にされ、護られ、常に自分の意向が通ってきた人は

自分の意向を手放すことが苦手です。

意向が通るのは 人を動かす才能がある場合でも、護られてワガママでいられた場合でも同様に

エゴを譲れるかどうか で、人間の器の大きさが変わってゆきます。

あなたの器はどのくらいでしょうか。

同じ苦労でも器を拡げられる人とそうでない人とありますので、

起きた出来事だけで成長の度合いが決まるのではなく、ただ

受け止め方と 対処の仕方で変わってゆきます。

また、周囲にいいアドバイスをくれる人や お手本となる大人がいるかどうか も大きな要素となります。

 

それらの 環境も資質も全部 持って生まれた宿命 です。

 

あなたは あなたの宿命の中でどれだけの魂の成長を起こせるでしょうか。

行き詰って瞑想にたどり着いた人は幸いです。

そこに開ける道を見つけたからです。

でもそちらに進まなければ同じですし、実践をやめても同じなのです。

 

自我は変わりたくはありませんし、自分が譲らないで 他人に譲ってもらいたいですから

かなりの抵抗をします。

 

でも、私にはできない と思わないでください。

どのみち 魂は成長を求めたがるのです。

山は早いうちに越えることが得策です。

残りの人生が軽やかになるからです。

 

また、譲りすぎる人は逆に 断る というチャレンジが必要です。

それは自分自身をないがしろにすることは、

他人を敬わないのとおなじくらいの罪だからです。

 

成長を面倒がらないでください。

とても面白く感動的なのです。

 

苦難は 新しい人生への分岐点です。

あなたの行動パターンが変化するチャンスです。

 

瞑想習慣が あなたの人生を変えます。

心理学よりも効果的です。 併用すればなおさらですが。(笑)

どちらも理解する瞑想教師に 逢いに来てくださいませ。

 

あなたの中にある仏性という花を咲かせましょう。

お釈迦様のように瞑想してみませんか?

リラックスするELM瞑想はとても心地よいものです。

人生に瞑想というゆとりを作ってください。

スイレン

魂の成長

私たちは生まれてくる前に 生まれる場所を選んで生まれてくるそうです。

魂そのものは 神の領域にいる時は全体が調和していて平和なのですが、安定した調和は刺激が少なすぎて退屈なようです。

老成した魂は のんびりゆた~っと ふむふむ、平和じゃ。良きかな 

とくつろいでいますが、

若い魂はムズムズ。何か精力を傾けられるチャレンジがしたくてたまらない。

早く地上のアドベンチャーに生まれたいのです。順番まだかな?

もう、前回のような生ぬるい平和は さほどの成長もなくて面白くないので、今回は

もっとハードなコースをやりたい!と 思っています。

うんと過酷な環境を選んでみる 数々の困難や苦難を乗り越えて何段階も魂をグレードアップさせたい 

そんな志で 過酷な環境を選んでやってきます。

 

でも、生まれる前の意識を覚えていては出来事に新鮮さはないので

生まれる前の記憶は消去して 真っ白な意識で生まれてきます。

人生はヒントのないゲームで、本当の宝がどこにあるか 探すゲームなのです。

本当の宝というのは 愛 や 悟り、我々が神の一部であったことを思い出し

幸福に生きる ということです。

それがリアル人生ゲーム

 

でも、肉体に装備された感覚は 幸福に向かうものばかりではなく、

ペナルティや負荷をかけてわざとゲームが難しくなる装備のところに生まれてくる場合もあります。

ちょっと 人より欲が強い とか エゴが強いとか コンプレックスが強いとか 

感受性が強いとか 頭が良すぎる とか

そういう要素は 使い方によっては強みになりますが、使い方に気付かない場合は 人生に摩擦が起きやすい。

欲が強ければ無理やりに他者から多く奪い取ったり、そうでなくても 得られない苦しみが生じます。

エゴが強いと、周囲が思い通りにならないと 自分の中に摩擦が起きてくるしみますし、周囲を思い通りにするために多大な労力を浪費します。

コンプレックスが強いと、このままではいけないと思い込み、自分の存在を否定して苦しみ 自分自身と戦ってしまいます。

感受性が強い人は あらゆる刺激に振り回されます。 それらを取捨選択、何を受け取るかコントロールできるようになるまで、苦悩があります。

頭の良すぎる人は考えすぎたり 過去の感情や記憶を手放せず迷路に入りやすくなります。論理に絡まって動けなくなることもある。

 

ですが、これらの要素は 方向性が見つかった時には 強みになるので これを邪魔だとは思わないでください。

強いエネルギー、強い推進力、痛みを知っていること、波動を読み分けられること、現実に対応した具体的な対策を立てられること

どんな性格を持っていたとしても その長所を活かせばいいだけのことなのです。

ただ、目指す方向性が最初はわからないだけ。

 

流れに身を任せられないのは 怖れが原因です。

仏教ではこれを 無明 といいます。

この世界の原理、真理をしらないので、大きな力や流れに抵抗して自分を守っているつもりでいることです。

 

例えば、怪我をして怯えている動物は 助けようとする人間の手を 攻撃の手だと勘違いして死に物狂いで抵抗して暴れます。

怪我を治療するには大人しくしてもらいたいのですが、パニックになった動物には恐れの世界しか見えません。

私たち人間も何も知らないうちは同じようなものです。

私たち人間はエゴの意識のままでいますと、意識が傲慢になってしまう傾向にあります。

思い通りにすればするほど、更に思い通りにしたくなるのです。 

人間と科学が最高のものだと思い込んで なんでも思い通りにすることが良いように思え、それで自然さえもなめてかかります。

自然が静かな時は やりたい放題自然を加工しして、自然が動くと腹を立てたり、ひどいと言ってしまいます。

この世界は自分たちのコントロール下に置けると多くのエゴは信じていますが、自然はそんなに小さなエネルギーではありません。

私たちがこの世界で、この世界に生かされていること、 私たちをとりまく自然に敬意を払って、調和して共存するならば これほど豊かな世界はない というのに、

個々が自分のエゴを満たすために奪い合う  それは愚かな生き方だ と

仏教もキリスト教も説いていますね。

(しかしながら、人間は宗教にもエゴを侵入させてしまうのですが)

私たち人間が 怖れや不信感やエゴを手放した時、本当の調和の幸福を得ることができます。

これらが腑に落ちるのは 悟り体験を経てのことですが、

それは自分自身が世界と調和している体感です

言葉で説明することは難しいかもしれません。

 

もし それを体感したいなら瞑想するのが一番の近道です。

これはいくら考えてもわからないんです。

そのために瞑想をして 意識の世界をお掃除して 真実が見えるようにしているんですね。

人間の目は曇りやすいので 毎日お掃除して綺麗な目で世界を見ます。

真実だけがそこにあります。 真実の美しさと優しさに目を向けてくださいませ。

勿忘草