2019年05月08日

家族という意識 

家族とは? という質問に、あなたはどんなイメージを想像しますか?

 

家族と言うと 例えば、血縁者

生まれ育った家庭 

自分を愛してくれている両親や兄弟、自分が作った新しい家族、結婚して子供を持って 一緒に暮らしている運命共同体

だけど、家族はワンパターンではありません。

夫婦2人 親と子 祖父母と父母と子と孫という大家族 一緒に住んで愛情が通っているのでペットも家族かも。

また、最近は ちょっと変わった形の家族も受け入れられるようになりました。

お母さんが二人の家族、お父さんが二人の家族、血縁はないけど家族

愛情でつながれば家族。

最近、NHKの番組でジェンダーフリーやLGBTなどの言葉もよく聴くようになって

日本も随分意識が開けてきたなぁ と 微笑ましく思います。

 

かつての人々の意識は自我のマインドが基準を握っていましたので、形にこだわる ということがよく起こっていました。

だからちょっとイレギュラーな形を受け入れにくかった。

変だとか、奇妙 見慣れない という違和感を持つと、排除したくなっちゃうんですね。

自我のマインドは 未知のものがちょっと苦手です。

それは 未知=危険かも=怖い という原理に基づいています

 

本当に危険でしょうか?     (。・ω・)?

 

危険かもしれない という恐れから 先制攻撃を仕掛けた場合、

攻撃された側にとっては 攻撃してくる者は 『敵』です。

 

自分と相手を 仲間ではなく、見知らぬもの に分離してしまったところから この悲劇は始まります。

 

相手を見知らぬもの、あるいは 知っているけどよくわからないもの 受け入れられないもの と とらえることから

分離が始まります。

 

知らない=害を為すかもしれないもの

 

そう思って威嚇する本人が一番攻撃的なんですが。

 

住みにくい世の中は 不信感であふれています。

なぜそんなことになっちゃうのでしょうか?

 

もちろん、危険な場所、危険な存在 というものはあります。

それには十分な注意とマインドフルな意識が必要なんです。

 

崖っぷちなのに神に委ねて目をつむって歩く人はいません。

 

問題は、危険じゃないものまで危険とみなして先制攻撃をかけてしまうことです。

この原動力がカルマですね。

過去の恐れの記憶。

これを家族のような身近な人々に向けると なかなか生きづらくなります。

 

さて、家族という定義に戻ってみましょう。

家族

どこからが家族か?

同じ家に住んでる?

DNA型が極めて似ている人?

親?兄弟?子?孫?

でも、会ったことがない血縁者は?

一緒に住んでいない家族は?

どこまでが家族で どこからが親戚かな???

 

よくよくとらわれを手放してしまうと、

全ての生命は一つの樹のようにつながっています。

この地球上の生命が誕生した時から。

そもそもの始まりは誰?

生物系統樹のサムネイル画像

人類系統樹

この図、系統樹っていうんですけど、

親の親の親の親の親の・・・・・・・と果てしなくたどっていくと、

進化の源流にたどりつきます。

なんだ、全部親戚じゃん!

人類は家族のようなものですね。

あなたは どこまでを家族と制限しているでしょうか?

 

それと、 家族という認識にも様々なとらえ方がありますので それは次回にいたしましょう。

つづく confident

生きるシステム

私たちは この大きな自然界の中で 人間という種族に生まれ、自然の生命の摂理に従って生かされています。

意識がどう思おうと、 この世界に生まれ落ち、生命のシステムによってこの体が保持されています。

この体を生かすための様々なアクションを自発的に起こすようにプログラムされた生命体です。

 

自我の意識が どう思っていようが この体は維持されるようにプログラムされています。

あらゆる困難を潜り抜けて生き残るゲームです。

あの世からお迎えが来るその日まで この体は生きようとします。

あなたの意思に関わらず です。

 

また、寿命が尽きて 次に生まれ変わる準備に入る時は、

あなたの意思に関わらず、肉体は終末を迎え、魂は旅立ち・・・いえ、正確に言うと 故郷に戻ります。

 

もし、自我の意識が もうこの命を長らえることが嫌だ! と拒否して、

この肉体の生命を殺そうとすると、

身体は抵抗します。「死ぬのはいやだ!やめて!」「怖い!」

逃げ惑う命を死に向かわせることは、 ものすごいエゴのエネルギーが必要です。

殺人をするのですから。

 

これとは別に、エゴが肉体をこき使って生きようとしますと、

肉体は疲弊して生きる活力を枯渇させてしまいます。

寝ないで働く とか 肉体の声を無視して何かを強要し続けると、

生きるシステムは崩壊してしまい、飲みすぎたり、食べすぎたり、何かが機能しなくなったり。

 

エゴは 自分がしていることが思い通りになればなるほど、もっともっと思い通りにしたくなる

そういう傲慢さを含んでいます。

エゴとはそういう性質のものです。

 

私たちがこの大きな世界に対して、思い通りにできる という幻想を持ってしまうと、

この世界に無茶な働きかけをしてしまうこともあります。

 

かつて、自分の理想に従って 自分とは別の種族を始末してしまおうと思った人間がいた時、

その人物は多くの生命を奪うシステムを作り出してしまいました。

アウシュビッツという施設

 

でもこの計画は過ちであったことを人々は気付きます。

間違いは起きてはいけないもの というより、

形になって更にそれがどんなことかを 具体的に体験することになります。

 

人類の学び として 凄惨な過去の体験は後世の人間の在り方を変えます。

 

私たちの体験は、全てが学びに役立ちます。

同じものを学びとして役立てない人もいるかもしれませんが、

要は あなた自身が愛を学ぶために歴史はあります。

体験があります。

 

私達 生命は この地球上で調和して 花開きます。

個々の花がどれだけ大きいか は 大した問題ではありません。

 

満開の桜の樹は それぞれの花は懸命に咲き誇りますが、自分だけ大きく咲こうと争ったりしません。

沢山の花が一斉に咲くからこそあれほどに美しいのです。

太刀洗

そう、桜だけじゃありません。 コスモスも

ラベンダー畑  ラベンダーも

20195520525.jpg  こちらは茨城県のひたち海浜公園のネモフィラ

歓喜の大合唱ですね!

 

人間の自我は ついつい、隣と自分を見比べて 差を確認したがりますが、

それは本当に必要でしょうか?

少しづつ違った要素や条件を持つ他の人を同じ基準で比べても 意味がないです。

比較や差異は給料に反映するんだ! と仰る方はおられるかもしれませんが、

本当に自然に出世していく人間は 目先の競争や他人より先に目立つことなど気にしていません。

もっと全体の事に目を配れる人が仕事ができる人 なのです。 

自我の基準は広い視野を狭めてしまいます。

 

あなたは あなたの咲き方がある

これは人間と桜の花のちょっと違うところです。

もっとそれぞれの個性がはっきり分かれている。

 

でも、うんと長いスパンで見ると 大なり小なり同じパターンなのかもしれませんけど。(笑)

生まれて食べて眠って排泄して、恋して生きてやがて死ぬ

 

あなたは あならしく幸せに生きる  それが咲くことなんですね。

あなたらしく というのは 

あなたの自我らしく ではなく

あなたの本来の命らしく  ということも思い出さねばなりません。

あなたに重石のように乗っかっているカルマのエネルギー(負の感情)を解放して 手放してください。

あなたの命は軽やかに羽ばたきます。

今の瞬間 あなたが 自我の抑圧から解放されて自由になる ということです。

 

自我が強力な時は このお話はよくわからないかもしれませんが、

自我が摩擦を感じていたり、生きる事に行き詰るようになると ここからのアプローチがスタートいたします。

 

これからのプロセスが人生の醍醐味でもあります。

どうぞお楽しみに! winkshine