2018年11月12日

トラウマが消える瞑想

瞑想歴3年ほどになる瞑想者さんが来られていました。

その方は瞑想を始めるまで とても辛いトラウマを抱えておられて長い間苦しんでこられたのですが、

ここ最近 長年悩まされてきた辛い感情が すっかり消えてしまったことに気付いて驚いている と話してくださいました。

 

これは私も共通の体験があるのですが、

強いトラウマがあると 人生はとても生きにくく、それを手放すためにいろんなセラピーやヒーリングやカウンセリングなど行ってみるのですが なかなか改善せずに悩みが何年、何十年と続くことがあります。

それが瞑想をするようになって 本当に楽になっていることに気付き、

ついには 自分の中のどこを探しても そのトラウマの感情がみつからない というほどなくなってしまうのです。

これは実体験するまでわからない感覚です。楽になれると聞いて瞑想を始めるわけですが、

これほどまでに 予想以上に取れてしまうと、

今まで苦しんできたあれは何だったのだろう? と不思議にすら感じます。

それがカルマなのか・・・ 二人で感慨深く共感しておりました。

 

お悩み事がある方に、瞑想をすると苦しみがなくなるんだよ という話をして、体験談などを語りますと

「あなたはそうだったんだね(私にはきっと当てはまらない)」なんてお返事を頂いたりすることもよくありました。

いえ、あなたも悩みは消えますよ と言いたいのですが、

信じたくない方にはあまり強引に言っても 戦うような雰囲気になってしまうので

あまり声高には言わないんです。

実際、効果がはっきり現れるまでに少し日にちがかかりますし、1回2回で効く即効性を求めている方や

毎日の瞑想習慣を面倒がる方は カルマが消えてしまう前に瞑想に飽きてしまいます。

 

たぶん、そういう方は 割と日常が幸福で カルマに悩まされることもあまりないのかもしれません。

ただ心地よさを求めているだけだったのに カルマの解放で騒々しい感じがする とか。

 

でも、たぶんそういう場合は 本当にカルマが消えてしまった快適さに想像が及ばない ということも多いんです。

カルマが多すぎて 解放が片付くまで辛抱するのを嫌がって逃げてしまう という例もあります。

心地悪いけれども、慣れ親しんだ状況の方が安心 と感じる方もおられるようです。

心地悪いものを手放すか、慣れた場所にいたいか それはご本人の選択次第です。

 

私や カルマが消えたとご報告してくださった方は どうしてもカルマから解放されたかった という思いもあったと思います。

ここにいるくらいならチャレンジなんてどうってことない。ダメで元々だ

私はそう思っていました。

どうしても幸福を実感したかった (それほど、生きる事に違和感を持っていたのかもしれません。)

普通の状況なのに 幸せでいられない って どれだけ損な人生だと思いませんか?(笑)

なぜそんな風なのかが 謎中の謎でした。

 

また、ジタバタしながら 「どうにかしたい」 を手放してはじめて 解放が完了する というプロセスを経ることも興味深いです。

つまり、カルマが消えてしまうまで 瞑想をやめなかった ということがやりとげられた理由だったんじゃないかと思います。

 

また逆に 意外と「どうしても何とかしたい」 なんて強く思っていなくて、

ただ 日常の習慣的に毎朝夕瞑想を続けている人が 

どんどん穏やかな悟りの境地へと自然に移行していることが多いというのも面白いです。

習慣的にELM瞑想を実践している瞑想者さんたちは 実に穏やかです。

摩擦が起きないので 自我が前に出てくることがありません。

 

もし、尖った自我がそこにあっても、トゲトゲが溶けて柔らかくなってしまう

そんな空気になっています。

 

ここが 誰もが安心して癒される場所なのは 瞑想の波動が強く残っている場所だからです。

瞑想の波動は あなたをやさしく包みます。

ゴールドライト

実際に効果を実感する方とお話ししていると あらためてELM瞑想のすごさにを認識します。

こういう体験談は お一人ではありません。

瞑想を習っておられる多くの方が 意識と流れの変容を実感されています。

 

精神的な問題、心身症など ストレスが原因で起きる ほとんどの症状が緩和します。

カルマの掃除は、意図的にはなかなか難しいのですが、

ELM瞑想の効果はとても不思議で圧倒的です。

 

瞑想マスターのボブ・フィックス氏が ただ流れに委ねなさい と言う意味が

後からよくわかってきます。

それは決して理屈では説明できないものです。

 

もし 人生を 今を 軽やかに生きていたい という気持ちをお持ちでしたら

ぜひELM瞑想を始められてください。

勝ち負けゲームを卒業する

今日は法則ネタをちょっとお休みして ふと思ったことを綴ってみます。

 

少し前に流行った言葉で 好きじゃない言葉がありました。

勝ち組 負け組

 

「は?、誰が決めてるの?」

何かに嫌悪感を持つことは少ないのですが、 この言葉にはとても抵抗がありました。

何をもってそんな判断?(苦笑

 

でも、勝手に言っているだけなので 放っておくことにしていました。

彼らはゲームをやっているのです。

なんらかの基準で勝ちと負けに二分して どちらに入るか 分類したり競ったりしていたのでしょう。

誰かがどちらかに入ったとして それがなんなんでしょう。

勝手に言っておけばいいです。

それに、そのインパクトの強い言葉の響きをマスメディアが みこしに担いだのかな。

踊らされたら奴らの思うツボだ。(笑

 

しかしながら、自我は否定されるのが大嫌いなので反応してきます。

「なんやと~? 誰が負け組やねん」。

あ、私の自我は 憤りモードは関西弁w

 

ホントは自我は勝ち負けが大好きなんですね。

 

勝ち組の基準は何でしょう?よく読んでみると

結婚してるかしてないか

年収がいくら以上か?

そのほかにもあるんでしょうか?

 

う~ん、、、なんだかな~ think です

結婚式のカップルはもちろん幸せそうですし 希望の大企業に就職できた若者たちは喜んでいます

それは間違いなく幸せな時でしょう

でも、結婚している人や お給料が平均以上もらえるところに勤めている人が幸せとは限らないんですよね。

ものすごく稼いでいる社長さんがみんな幸せ というわけでもない。

でも、自我はそれがうらやましかったりする。

そこに幸せがあるような気がしているから でしょうか。

経験していない人は 表面的に見えていない苦労とか苦悩は見てないんです。

大きなエネルギー量を扱うには それ相当のパワーが必要です。

 

条件は達成したときは幸福感がありますが、ただの通過点でしかありません。

 

そのこと(条件)で本人が幸福だと感じることができるなら それはそれでいいことでもあります。

逆にどんな条件でもそれでよし と思えるならば なんだっていいんです。

 

ただ、そういう外面的なこととか 何かの条件を基準に幸福かどうかを判断する人の多くが 

そうでない条件の人を見下したり、自分がそうでないことを悲観して自己否定しているのを見る時

私はかなり残念な気持ちになります。

人を見下すなんて 人としての品性が貧しい気がしますし、自己否定するのはそれこそ不幸なことだからです

これは両方とも自分自身の本質の価値を見失っているから そういうことになるのでしょうが。

 

今はこう思う私も 自分に自信が持てない時期はありましたね。

何か他人に誇れるものがないと自分に価値を見出せない

自我(エゴ)はそういう価値基準を持ちたがります。

 

そしてその基準で人を嫌がったり 嫌ったりするのです。

価値基準が感情として反応します。

自我の反応は 普通のことです

嫌う というのは 自分の中にもそういう要素が多少なりとある と無意識で感じているのです。

否定したい、追い出したいから嫌うのでしょうね。

当たっていることほど強く否定したくなります。

 

私は 

そういう自我から解放されることを望んでいました。 そして 

自分に対しても 人に対しても 心が豊かな人がいいな と思うのです。

愛情豊かな人。動じない人 キャパシティの広い人はとても素敵です

 

そういう人のいるところには 安心感が沢山あるように感じます。

あるがままでいられる安心です。

お釈迦様の手の上では孫悟空が暴れても世界は揺るがないんです(笑)

孫悟空

しかしながら、

孫悟空の意識も 広がってしまえば 孫悟空からお釈迦様の手に変容するのかもです(笑)

孫悟空もお釈迦様も須弥山そのものも  全ては一つですから 

そう、あなたは 世界なんです。

私も 世界です。