勝ち負けゲームを卒業する

今日は法則ネタをちょっとお休みして ふと思ったことを綴ってみます。

 

少し前に流行った言葉で 好きじゃない言葉がありました。

勝ち組 負け組

 

「は?、誰が決めてるの?」

何かに嫌悪感を持つことは少ないのですが、 この言葉にはとても抵抗がありました。

何をもってそんな判断?(苦笑

 

でも、勝手に言っているだけなので 放っておくことにしていました。

彼らはゲームをやっているのです。

なんらかの基準で勝ちと負けに二分して どちらに入るか 分類したり競ったりしていたのでしょう。

誰かがどちらかに入ったとして それがなんなんでしょう。

勝手に言っておけばいいです。

それに、そのインパクトの強い言葉の響きをマスメディアが みこしに担いだのかな。

踊らされたら奴らの思うツボだ。(笑

 

しかしながら、自我は否定されるのが大嫌いなので反応してきます。

「なんやと~? 誰が負け組やねん」。

あ、私の自我は 憤りモードは関西弁w

 

ホントは自我は勝ち負けが大好きなんですね。

 

勝ち組の基準は何でしょう?よく読んでみると

結婚してるかしてないか

年収がいくら以上か?

そのほかにもあるんでしょうか?

 

う~ん、、、なんだかな~ think です

結婚式のカップルはもちろん幸せそうですし 希望の大企業に就職できた若者たちは喜んでいます

それは間違いなく幸せな時でしょう

でも、結婚している人や お給料が平均以上もらえるところに勤めている人が幸せとは限らないんですよね。

ものすごく稼いでいる社長さんがみんな幸せ というわけでもない。

でも、自我はそれがうらやましかったりする。

そこに幸せがあるような気がしているから でしょうか。

経験していない人は 表面的に見えていない苦労とか苦悩は見てないんです。

大きなエネルギー量を扱うには それ相当のパワーが必要です。

 

条件は達成したときは幸福感がありますが、ただの通過点でしかありません。

 

そのこと(条件)で本人が幸福だと感じることができるなら それはそれでいいことでもあります。

逆にどんな条件でもそれでよし と思えるならば なんだっていいんです。

 

ただ、そういう外面的なこととか 何かの条件を基準に幸福かどうかを判断する人の多くが 

そうでない条件の人を見下したり、自分がそうでないことを悲観して自己否定しているのを見る時

私はかなり残念な気持ちになります。

人を見下すなんて 人としての品性が貧しい気がしますし、自己否定するのはそれこそ不幸なことだからです

これは両方とも自分自身の本質の価値を見失っているから そういうことになるのでしょうが。

 

今はこう思う私も 自分に自信が持てない時期はありましたね。

何か他人に誇れるものがないと自分に価値を見出せない

自我(エゴ)はそういう価値基準を持ちたがります。

 

そしてその基準で人を嫌がったり 嫌ったりするのです。

価値基準が感情として反応します。

自我の反応は 普通のことです

嫌う というのは 自分の中にもそういう要素が多少なりとある と無意識で感じているのです。

否定したい、追い出したいから嫌うのでしょうね。

当たっていることほど強く否定したくなります。

 

私は 

そういう自我から解放されることを望んでいました。 そして 

自分に対しても 人に対しても 心が豊かな人がいいな と思うのです。

愛情豊かな人。動じない人 キャパシティの広い人はとても素敵です

 

そういう人のいるところには 安心感が沢山あるように感じます。

あるがままでいられる安心です。

お釈迦様の手の上では孫悟空が暴れても世界は揺るがないんです(笑)

孫悟空

しかしながら、

孫悟空の意識も 広がってしまえば 孫悟空からお釈迦様の手に変容するのかもです(笑)

孫悟空もお釈迦様も須弥山そのものも  全ては一つですから 

そう、あなたは 世界なんです。

私も 世界です。