2020年01月04日

無我の視点

今日は瞑想体験会の日でした。

瞑想が初めてという方も瞑想して頂いて、

「気持ちよかった、スッキリしました」

という感想を頂きました。

 

瞑想で分かるようになるものについてちょっとお話させてください。

 

私達人間は 思考を持ち歩く生き物です。

記憶は必ずしも思考とは限りませんが、

それを思い出しながら繰り返し反芻していくうちに

いろんなイメージを付け加えて 独自のストーリーが出来上がっていきます。

これが人生ドラマです。

 

このドラマには「私」という主人公がいて、

その私が いろんな脇役の皆さんに 愛されたり愛されなかったり、

親切にされたりされなかったり、

意地悪されたりされなかったり。

 

いろんなものを手に入れたり手に入らなかったり

いろんなものを所有したり 失ったり

 

それにいろんな感情の浮き沈みを交えて ドラマは更に壮大になっていきます。

 

このドラマ、  本当はありません。

 

実在しているのは ただ 「今」 というこの瞬間だけです。

 

そこには意味は存在せず、

「今この瞬間」の状態だけが 在ります。

無数の原子・分子が構成する 世界 という状態です。 

 

私達の意識は それを観察する神の一部(分身)です。

 

この世界観を体験するのが 悟り体験です。

 

「私」と思い込んでいたもの

「人生」という幻想から覚める瞬間です。

 

その瞬間から その意識は 神と繋がるようになります。

 

恐れていた「神」なるものは 私たちの母体

故郷に他なりません。

それは 内側の奥深くで いつも繋がっています。

 

あなたの意識が 肉体から解き放たれる瞬間、

と言っても死んだときのことじゃありません。

身体の中に閉じ込められていた意識が 身体を越えて広い世界に拡大する時、

空(くう)という母体と同化することができます。

 

難しそうですが、じつはそうでもなく

人はしばしばこの空と同化する瞬間を日常でも体験しています。

 

そのことに気付くことが 悟り体験でもあります。

 

これはELM瞑想を実践していると ほぼ 日常の体験となっていきます。

瞑想を始めるとじきに空の状態に入り込むからです。

 

慣れ親しむと、顕在意識化でもこの空の感覚を使い分けられうようになります。

そう、ただ、思考を止めて、意識を拡大するだけなのですから。

 

なんだ、こんなに身近にあったのか

笑うくらい自然なものだと気付きます。

 

ただ、まだどれが「それ」なのかを気付いておらず、

止めることができない思考がなだれ込んできて

なかなか認識しながら無我を体験できないだけなのです。

 

内側に雑音(雑念)が多すぎる間は、意識的に無我をつくるのが難しいだけです。

ELM瞑想は 波動の力で 意識を無我のエリアに引き込みます。

 

無我は 無意識ではありません。

「私」という幻想から解き放たれた 観察者になる 

意識のモードがシンプルになるだけのことです。
 

なんでもないこの意識の切り替えができるようになるまでは

なかなかそれがどんな感じなのかわかりませんが、

 

自転車に乗れるようになるのと同じような感じで、

身体で体感してチャンネルを合わせます。

ただ、我 を消すだけのことです。

我が必死で主張し続けるうちは難しいかもしれません。

瞑想をしていくうちに 我は主張しなくても安全だと体感して

お喋りをやめるようになっていきます。

我が静かになった時、真我がはっきりと現れます。

 

なんだ これか という感じです。

 

我は 自分のテリトリーを護りたがりますので

黙ることを恐れているうちは、ああだこうだと抵抗しようとします。

実際は何も恐れる要素はありません。

お喋りを止めるだけのことですから。

むしろ、周りがよく見えるようになってきます。