2018年01月29日

核心のありか

今回はスピリチュアルに関心を持ち始めた方向けに書かせていただきます。

熟知されていらっしゃる皆様は周知の内容です。

 

自我というものは外側の現象界でどう対処するかを選んだり判断したりする機能ですので 多くは外側に注意を向けています。

障害を乗り越えたり、回避したり、対処したりする能力です。それはついつい問題を外側にに意識が向かいます。

自分から外を見ていると、つい自分の内側に目が向きません。

そこから離れるのが内観法 という手段で、これは自分自身をただ見つめ続ける作業を長時間(何日間か)続けます。深く深く自己を見つめる作業です

瞑想を続けていらっしゃる方は、神意識という 物事を自分も含めて客観的に俯瞰できる視点が身について参りますので、神意識の視点からの観察だと、問題が内側にもある時、すぐに見つけることができます。

 

これまでの自我からの見方はついつい原因を外に探そうとするので 一番根本である自分自身が発する波動に意識がいきません。

そもそも、そこに何らかの原因がある ということにすら気が付かないでいたのです。

でも、それは しかたがないことでもありました。

なぜなら 私たちの周りにそのことを教えてくれる先輩がほとんどいなかったのです。

もし、このことに気付いていて 良く知っている魂の成熟した人物がいたとしたら、

皆の見本となって 幸福な人生の作り方を示してくれたことでしょう。

今でも自然と調和して生きる人々にその精神は受け継がれていたりします。

ネイティブアメリカンのシルバーバーチの教え とか ハワイのホオポノポノ とか インドのヴェーダ

そして釈迦が教える仏教です。

(仏教は広い世界を渡るうちに伝言ゲームのように変質している部分もあります)

 

人類は自我のパワーに押され切って 自ら世界に歪みを作り、その歪みに苦しむことになるのです。それがカルマです。

自我は思い通りにすることへ走りすぎ、世界に限界がある ということを忘れてしまいます。

本当に目先の表面の事しか見えていない状態です。それに気づき危惧し、警鐘を鳴らす人々もいますが、ひどいことになるまで自我は高を括っているのです。

これを 無知、無明 と言います。

身を持って懲りる というのも大切な人生の学び ではあるものの、 早めに懲りておきたいものです。

 

なかなかあきらめが悪かった私自身が言うのもなんではございますが、(少なからずの申し訳なさを感じつつ)

だけど、この世界に ただ一つの特例もなく、ただ一律に自然の法則が働いております。

 

自我は証明されないことは信じないなどと言いますが、地球上の稚拙な文明水準で宇宙のいかなる現象を証明しきったと思っているのか と思います。自我は未知のものを嫌い、自我が納得できることにしがみつきます。

この宇宙が広大であることを思えば この小さな自我が知りうることが塵ほどに小さいということに気付きます。

瞑想で空に入る ということは 意識が肉体を越えて全体と一致してくる という意識の拡大を体験します。

ここにきて始めて 意識と宇宙が同調するのです。

その体験を知っている意識と知らない意識では理解の領域が天と地ほどの差が出るのです。

自我の壁を越えて 理解を拡げることは難しいことではありません。

ただ、自我の抵抗を緩め、穏やかに安らかに自我を癒すことが必要なのです。

怖れた自我に愛を。

静かに瞑想しませんか?

夢 蓮華