意識

大事なこと

先日から 心の中のいろんなこじれについて書き進めておりますが、

一番大事なことは リラックス することなんです。

なにはともあれ リラックス。。。

それができれば なんでもなんとかなっていくのですが、

なかなかそれができない という方のために

どうして心の中がこじれちゃってるのか というお話をしています。

 

過去に 不安な時間を長らく過ごしたり、すごくショックなことが起きて

記憶に恐怖や不安が焼き付いてしまうと それが反応して リラックスできないんですよね。

でも、その恐怖や不安は 今起きている事ではありません。

まだ起きていない か もう終わってしまったこと

今 起きてはいないことに怯え続けて 墓穴を掘るのは

残念ですよね。

なので、心の傷は癒して リラックスできるようになりましょうね というお話です。

事は起きてからどうするか考えた方が的確な判断ができます。

まぁ、事前にシュミレーションするのがダメっていうわけじゃなくて、

まだ起きていないことに無駄に怯えても 何もいい事が無いんです。

予想できることの対策を事前に準備するのも悪い事じゃないです

でも、人生はほとんど予想外のことだらけ です。

なので 私はその時に冷静に対処するのが一番と 感じています。

起きる前から怯えて恐怖を募らせる なんて 

本当にマイナスにしかなりません。

怖がるより 落ち着いて 知恵を働かそう

落ち着かなさも瞑想で落ち着けて

身体はリラックスしやすくなっていきます。

起きていることを静かに観察して

自分に何ができるのか?

受け止める勇気と覚悟ですよ

そう、女も度胸! (笑)

可愛げが無い なんてことは ありません。

普段は相当マヌケ なので

たぶん愛されキャラ?かと・・・bleah(笑われキャラとも)

人よりできないカッコ悪~いことも お笑いネタ提供 ってことで

役立っておりますね(笑)(笑)

 

自分の性質を まるごと好きになる って なかなか楽しいものです。

自分を好きになると 楽しそうでいい感じに見えるようですよ。

できることとできないこと

人それぞれなんですから

誰とも比べなくていいんですよ。

そう思ってから生きるのが楽になりました。

人は悩むのが好きな生き物ですが、

悩むのをやめることもできるんですね

 

愛する技術

スピリチュアルで言う愛は 恋愛の愛と違うものです。

元々 日本では 愛という漢字は恋愛の愛、愛着などの執着を含む意味のものでした。

でも、西洋のLOVEという言葉に合うものがなかったので、LOVEは愛という言葉に置き換えられました。

西洋のLOVEは、恋愛の愛と 神の愛 の両方を意味します。

キリスト教で言う神の愛は アガペーとも呼ばれますが、

このアガペーの意味を調べると

 キリスト教における愛。罪深い人間に対する神の愛,人間どうしの兄弟愛など,自己犠牲的・非打算的な愛をいう。

と 書いてあります。

仏教で言う『慈悲』でしょう

見返りを求めない無償の愛 のことです。

恋愛は 本来 種の保存のために異性に近づく衝動としてあるので、

目的を達成する必要があります。

なので思いを遂げられないとガッカリします。

思いが強いほど 失恋した時は心が傷付いちゃう? 

(´;ω;`)ヾ(・ω・`) デスヨネ

好きになってドキドキ キュンキュン ワクワク 切ない

喜んだりショックだったり一喜一憂 感情が上がったり下がったり

そんな時、人は 生きてる実感を味わっているのでしょうね。

何にもないことの退屈さ・・・

また苦しむかもしれないのに恋愛したがりますよね(笑)

いいんです 生きてる証。

若い時は特に 溢れるエネルギーをそうやって燃やしているのです。

人間は生き物ですから 本能のプログラムで衝動が発動するものです。

ただ、他の動物とちょっと違うのは、

脳が発達して 複雑な思考ができるようになったために、

自分の観念(思い込みや価値観)に縛られてしまうようになったんですね。

頭の中にあるルールによって 出来ないことが増えて行ったのです。

このルールというもの、支配者にとってはとても便利なんですよね。

人々をコントロールするツールです。

これは支配者や権力者 のみならず、教師や家長やその他モロモロの優位に立つ人々によって利用されるのが常です。

そんなルールにがんじがらめになっている現代人!

その意識の束縛から自由になろうというのが

アセンションですね。

そう、私たちは自由なのです。

本当にみんなの心が自由になれば 社会は穏やかになり

いじめも減るのですけど・・・

ルールに縛られた人々は ルールが無くなると社会が荒れると思っているんです。

ルールで生じるストレスが抑圧されて

爆発!bombannoy

激しくルールも破る という。。。angry

 

世の中に優しい人が増えれば

みんな優しくなれるのですけどね。

社会を変えるのは あなたの優しさなのですけど。

あなたが優しくなれなかったのは カルマの影響です。

あの人が優しくできないのも カルマの影響です

あなたが幸せでないのはカルマの影響です。

カルマを手放していくと 心が楽になっていくのです。

少し優しい気持ちになれたなら

ぜひ 誰かに 無償の愛を渡してください

見返りを求めない 相手が喜ぶだけのためにする 何か。

なにもしない愛もありますね

そっとしておいてあげる思いやり

 

そんな 愛の選択ができたら、

あなたも 無償の愛を受け取ることになるのです。

してやった などという優越感もそこには存在しません。

ただ 愛がある世界です。

 

戦うことをやめていいんです。

この世界には すごく多様な生き方があります

あなたが見ている世界と全く違った生き方をしている人々がいることを

そろそろ気付き始めてみませんか?

 

瞑想の真髄、 神の意識とは?

本当の平和に目覚める時代が来ています。

世界は 変わりますよ。 winkshine

 

見えない鎖

みなさんは 何かに縛られている と感じたことがありますか?

あれをしちゃダメ これはいけないこと それをしたらアウト  

なんて 制限 いつのまにか沢山持ってたりしませんか?

それはいつから採用した制限でしょうか?

「いやいや、ルールとか、常識ってものがあるでしょうが。」 と言いたくなるかもしれません

私は元々 かなり小生意気な子供時代を過ごしまして

大人の言う制限が不自由でなりませんでした。

もう全くいい子じゃありません。 いや、いい子だったところもあります。(笑)

自分が困らないことに関しては大人の言うルールは遵守しておりました

でも、自分がそれを我慢できないこと が 結構ありまして

全く自制心が効かない ということが多々ありました。

たとえば じっとしていること とか

何らかの衝動を我慢すること

ほぼ 無理で 母はよく私に「あんたは辛抱できない性格だね」と言いました

できないものはできません。

そんなこんな幼少期学童期を経まして、15歳のある日

環境の変化で 急に体重が増加したことがありまして、

自分の見た目が変わったことにショックを受けまして

食べることをやめたんです。自主的に。

炭水化物を全く食べなくなった。

なんか当時レタスしか食べなかった という記憶・・・もうかなり忘れたけど coldsweats01 

で、なんと1ヶ月で10kg体重を落としちゃったんですよ。

若かったですから 相当無茶したようです。

それで体は丈夫だったので 体調を崩すこともなく

ぶっ壊れたのは食欲中枢でした。

過度の飢餓状態で体は飢餓回避のために 貪欲な食欲をもたらしたわけです

どんな制限をも突破する食欲。。。 その後の結果は大変な事になります

いわゆる摂食障害という状態

この状態は 意識でずっと制限する願望を外さなかったので

制限したいエゴを生命維持の本能が長い間戦うこととなりました。

10年以上の黒歴史 となります。

意識の上でのルール 「痩せていなければならない」が

自然の在り方に逆らった結果 過剰な欲求を生み出してしまったわけです。

これは本物の飢餓状態。

かなり地獄です。

不自然なルールを採用すると 自然の流れに摩擦を起こします。

不自然なルールを強行すると それに反する圧が高まります。

一杯一杯まで伸ばしたゴムが元に戻る時、静かにゼロに向かう なんてことはありません。

ビヨ~ン ギュイ~ン バシッ annoy  ガシャーン バキッimpact イタタタタ crying

何が起きたっ!?

見えないエネルギーは 存在しないものではありません。

すごいエネルギーです

伸ばしきったゴムが切れる時、何かが破壊されることも珍しくありません。

自然は 自然体に戻る という作用があります。

あなたは 無理なルールに自分自身を押し込めたりしていないでしょうか?

それは物心ついたころからの当たり前だったとしても

無理な圧は あなたを歪めます。(もう)キツい
 

静かに圧を緩めていきませんか?

エゴはなかなか理想を諦めてくれなかったりしますが

その理想が 極端なほど かかっている負荷は大きいのです

その理想、本当に必要ですか?

瞑想者は そういった理想、圧や負荷 をどんどん手放していきます。

エゴの意識はそれに抵抗するかもしれません。

ルールの方が正しいと思い込んでると 罪悪感や怖れ、嫌悪 といった

感情が湧くかもしれません。

でも、そのルールの方がカルマだったりします。

あなたを自然体に置いてください。

そのままのあなたでいいのです。

植物たちや動物たちは 何の迷いもなく自然体であろうとします。

四角四面だけが 美 ではありません。

自然の豊かさを想像してください。

ありのままで美しいのです。

無秩序ではありません。

愛をもって調和してください。

あなたの波動が 愛 になる時、

あなたの周りにあるトゲが消えていきます。

愛から自分を護らなければならない という必要が生じないからです

愛は あらゆるカルマを癒してしまいます。

あなたは もう苦しい選択をしなくていいのです。

そして あなたの中のルールを手放して 愛になってください。

あなたを縛る鎖は 無い と知った瞬間から

あなたは自由です

仏陀の瞑想

そのままでいい生き方

私たちはいつからか いつも向上しないといけない と思うようになっていました。

日本が戦後復興して 高度成長を遂げた時の名残でしょうか

頑張って 努力して もっと良くなろう

貧困と飢えから脱出したい(したかった 物資が何もなかった時代)

他者から見下されみじめな立場に留まらぬよう

頑張って人を見降ろせるようなところまで・・・

その当時はぐうたらのんびり過ごすことは 悪 と忌み嫌われていました

みんな生き残っていくことに必死だったのです。

日本人は努力の虜になっていました。

もっと もっと もっと・・・

お国のため が 己のため に すり替わって。

こんな風になったのは戦争のカルマです。

戦争で命の危機に晒され続けると 心は殺伐として

生存競争に必死になってしまいます。

背に腹は代えられぬ 非情でも生き残らねば

今、時代が変わり、誰も戦争は良くないことだ と普通に思える時代になって

そして更に新しい『全体調和の時代』へと進化していく アセンションに直面しています。

それは善悪で判断し 悪を排除する方法では成功しません。

悪とは何ぞや?

それはひとえに 自分に都合の悪い事 に他なりません。

自分に都合の悪い事 全体に都合の悪い事

支配者に都合の悪い事 それらは 悪 と呼ばれてきました。

かつての時代では 身分の高い者ものに逆らうと処罰されましたし

法律は権力者が作っていました。不公平なことが当たり前の正しさでした。そういう時代がありました。

今は民主主義社会ですが、完全に平等な世の中でしょうか? 

答は言わずもがな いいえ です。

現代は 資本主義社会で お金のあるなしで権力を得ようとします。

まだ多くの人々が権力の奪い合いを続けています。

あるいは 表面化しない支配。経済による支配がなされていることも聞いたことがあるかと思います。

でも、そんなシステムから もう抜けようと思い始めた人々がいたるところに発生し、

新たなウェーブをおこしています。

温暖化阻止の運動をしているグレタさんは まだその域ではないと私は感じています・

彼女はとても戦っているので その姿勢は旧時代的に感じます。

この世界は あらたな基準が浮上しています。

それは全体調和 ワンネス 非二元 と呼ばれます

全体が 愛で繋がっている世界です。

個々に分かれていた魂は、

意識の中で いつでも全体と繋がります。

赦し 思い遣り 尊重 信頼 連帯感

それが次世代の高度文明の指針になってゆきます。  

誰も否定されない世界

そこでは誰も戦う必要が無く

誰もが奪わなくても与えられるのです。

欲望を発揮する場合は この限りではありませんが、

愛の代償に何かを奪う必要はなくなってしまします

愛に満たされている人は人から奪おうと思わないからです。

怒り

怒りは 人間の自然な感情です

犬や猫やその他の動物たちにもあります

自分に不都合な事や 危機感を感じた時、敵から自身を守るために威嚇します。

動物はその場で怒りは放出され、感情はほどなく終了します。

そのことでずっと怒っている 時間が短いと思います。

ずっとイライラするようなこともあるかもしれません。

体調が悪い時、体調の不快さと感情の荒れを混同していたり

体調が悪いために刺激してほしくなくて

周囲の存在に牙を剥きます。

「そっとしといてよ!」

嫌だと意思表示しているにも関わらず 踏み込んでこられると

噛みつきます。

意思表示していなかったとしても 噛みつくかもしれません。

「そっとしといてよ」 

人間なら言葉で伝えられますが、

大半の 人間は なかなかできていません。

元気なふりをしなければならないからでしょうか?

人間界はなかなか複雑です。

怒りを感じているのに 感じていないフリをしなければならず

感情を押し込めて無理に笑っていたり、

いい人のフリをしていると、

神経はビリビリと逆撫でされて 限界が来たら爆発!

でも爆発できるのはまだいいんです。 そこでガス抜きされてるから。

内圧が高まれば ガス抜き 起きますね。

それは自然です

ちょっと問題なのは 内部で異常発酵してて

外部の刺激が大して無いにもかかわらず

内側でどんどん怒りが発生してしまう時。

これ、カルマの仕業ですね。

この怒りは過去の感情の記憶です。

今起きたことは大したことではないのにカルマが反応して

かなり許せない、相当許せない、もう絶対許せない、鬼畜の仕業~!みたいに思えてくる。

反応に立ち合っちゃった関係者は身震いしてますね。

「うわ~っ、怒らせちゃったよ」

今は 本当は誰も悪くありません。

もしかしたら 前も誰も悪くなかったのかもしれません。

そう、ただタイミングが悪かっただけだったり、

うまくいかない ということが起きただけ。

うまく行かせることだけをコミットしているとうまく行かない事象に激怒してしまったり。

いえいえ、この世界は 思い通りにならないことを受け止める修行の場 みたいなものですから

うまくいかないなりに工夫する楽しさを見つけてください。

気が短い人は 世界が思い通りになる と勘違いしています。

なりません。

いえ、成る場合もあります。

にこやかに世界を信頼すれば あなたの望む世界に住むことになります。

怒りを 上手に浄化させて思い通りにならないことも良い流れに向けましょう。

あなたの余裕と笑顔が 大きな流れに合流します。

あなたが あなたのいる世界を調和させるのです。

摩擦は天に任せましょう。

その感情は自然です 解放されて昇華されます。

「そうかそうか、嫌だったね」と自我の私に言ってあげるのです。

共感力 他人にも自分にも使います。

愛ある目で見てあげてください。

みんな健気に頑張ってます

犬とヤギHAG

 

不安から離れる

悟り というものが 何が違うのか をちょっと考えました。

悟りに至ると、不安や恐怖から離れます。

恐怖は、過去に体験した感情 あるいは過去にイメージして感じた感情

不安は 未来にそれが来るのではないか という怖れ

その不安や恐怖というものは

過去や未来に感じているもので

今この瞬間にあるものではありません。

過去の恐怖を引きずっている場合

PTSDなどは本当に身体の方が反応してしまうのでなかなか厄介ですが 

そんな過去の記憶は癒すことで消えて行きます。

未来への不安

それはまだ来ていないことなので

実は対処することができません。

未来に対する備えが 無意味だと言っているわけではありません。

その備えが 恐怖に基づくものである必要が無い ということです。

未来に必要な準備はしておいてもいいのですが、

未来に不安や恐怖を持っていて 良い事など何も無いのです。

予測していてもいなくても

避けたいと願っていてもいなくても

起きることは起きるのです。

実際に起きないと対処できませんし、

準備した通り、予想した通りのことが起きるとも限りませんし

どれだけコントロールしようとしても

コントロールできないこともありますし、

それはやはり 起きてから対処するしかないこともあるのです。

起きる時は起きる。誰が悪いわけでもない。

その時にイライラして誰かを責めたり、

イライラに任せて喧嘩してみたり、八つ当たりしてみたり

それは事態を悪化させるだけなのです。

恐怖に支配されてはなりません。

本当に危機から脱出したいなら 冷静になってください。

冷静に 今起きていることを観察するのです。

不安なイメージを膨らませて、幻想や悪意を被せてとらえてはなりません。

あなたが 冷静で そして更に 愛を持っていれば

関係者は癒され、事態は平和へと向かうのです。

本当に平和を体験したいなら あなたの心の内を平和と愛で満たしてください。

あなたの内側が愛であるほど あなたの体験は愛に癒されて美しいものへと変わって行くでしょう。

どんなにこじれた事態も 愛は流れを変えるのです。

一見非力に見える愛を見くびってはいけません。

世界を救うのは 一人一人が内側に育む愛です。

あなた自身の愛です。

それはあなたを癒し、他者も癒します。

愛は 本当に地球を救います。

これからの地球は 愛なしに生存することはできません。

愛でないもの調和できず破綻へと向かってしまうからです。

愛でないものを憎む必要はありません。

憎しみそのものが 愛ではないものだからです。

あなたは いつでも 愛でいてください。

あなたが 内側の愛に気付けば、

それはもう枯れることがありません。

愛は無限の生命エネルギーなのです。

枯れてしまうものは 愛ではありません。

それはきっと犠牲でしょう。

愛は形あるものではありません。目に見えません。

人に自慢できるようなものでも、人と比較できるようなものでもありません。

ただ内側からほんのりあなたを温め、他者も温めます。

そんな体温のような愛を大事に育めばいいだけです。

他者の与えようと与えまいと

それはあなたの内側から外へ出たがっています。

怖れや不安を手放せた時

愛は 蓋されることなく あふれ出て来るでしょう。

あなたは愛でできているからです。

あなたの身体も魂も 愛でできています。

ピンクの光

GW

ゴールデンウィーク真っ只中ですね

いかがお過ごしでしょうか

私はまだ特に外出はせず瞑想の指導と制作をしながら過ごしています。

温かくなったのにコロナの変異種の感染が拡がっているようで

連休もあまり外出しにくくて
小さなお子さんがいるご家庭は子供が退屈しちゃうので大変でしょうね。

大人も退屈かもですが 大人は時間の過ごし方が色々工夫できるので

皆さんもおうち生活にちょっと慣れてきていらっしゃるかもですね。

私の場合は、元々 仕事場が自宅ですので

普段と全く生活が変わらず、むしろ外の用事が少なくなってて

そういう意味では楽かもです coldsweats01

経済は 儲かって仕方がない なんてことは未だにないのですが(笑)

ある時期から 収支に不安を持たなくなり 本当に心配することがなくなりました。

(この状態で心配する人はするかもしれないのですが)私は心配そのものをしなくなりました

これはけっこう長い間のチャレンジだったのですが 最終的にはコロナで先が見えなくなった時に腹が括れた とも言えます。

心配を手放したら回る というのは本当ですね。

それは 贅沢とか 儲かってウハウハ とは全然違うと思いますが

本当に必要なものが回っていく という感じです。

これまでとは違った流れになる ということにも気づきました。

大丈夫 という確信が確かになるほど それは定着していくのだと思います。

ふと ジタバタしていた昔のことを思い出すと

なんであんなにわざわざ不安を持ち込んでいたのだろう と 苦笑い

でもその時はそういうものだと思い込んでいましたね。

私自身の限界を作ってしまっていたと思います。

もっと 自由な心を持っていれば その時にでももっと自由に動いて なんでもできたよなぁ って思うけど

その時はそれを実行できなかったし まだ 制限のある世界観の中で生きていました。

その状態は かろうじて持っている居心地の悪い不安定な安定にしがみついていたし

とても自分でそこから抜け出せる気がしなかった。

実際は できるとかできないとか計算も何もないままに 根拠のない確信でそこから飛び出して 限界とか自信とか 言ってる場合じゃないくらいぐるぐるの暴風雨みたいな経験もあり(笑)

もう自分でコントロールすることを手放して 完全流れに任せた時

世界がおのずと変容して ほんとに不思議な出会いと不思議な展開が拡がっていきましたね。

これは相当面白かったです (コントロールの効かない不安と悲壮感は完全に手放しきっていました)

そう、自分ではもう制御不能なんですよ。流れは。

なので それ以来 流れをコントロールすることなく 現在に至っています。

何しろ、コントロールしようと必死になっていた頃は ほんとうに疲弊していましたから。

あの無駄な努力はなんだったのか と思いますけど

今ではそういう自分にもウケています(笑)

現実は奇なり ですね。

奇 だと思っているのは 自分の観念なんですけど。

本当は 常にただ起きることが起きているだけなのです。
世界のエネルギーバランスの加減です。

コントロールすべき人生なんてものは 本当は無いのです

あるのは今 存在しているここそのもの それが世界です。

それをいいもんだ と感じるかどうか それが全てです。

楽しまない という選択はもうありません。

自由に軽やかに。

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認識

目の前の出来事をどうとらえるかは 人によって様々です。

起きたことがひどいことなのかよかったことなのか

あなたはその出来事・その相手をどうとらえているでしょうか?

 

こんなにひどいのよ 

私はこんなにひどい目にあったのよ

というアピール

その昔、自分にも身に覚えがあるので

その行為を批判しようとは思いません。

人はそれをしてしまうこともあるのです。

 

出来事に自分がとても傷ついたり、辛いと思ったことに対して、

心の痛みを他者に分かって欲しいのですが

分かって やさしくしてもらいたい という意図が無意識にあるのでしょうが

私はこんなに辛い目に遭った 嫌だった という主張をけっこう必死にしていたりします。

無意識です。その主張は衝動から来ているので、あまり意図的ではないのです。

でも、聞く側は、そのアピールは 無意識の意図の方が見えるので

「この人、自分が被害者だと主張している」と感じてしまいます。

アピール にしか見えません。

言う側は (ほぼ無意識に)相手に納得して同情してもらいたかったりするので

裏を見透かしてる相手の冷ややかな反応に焦りを感じて

さらにアピールが過熱します。

延々と自分の不幸を語ってしまうのです。

伝わったという満足感が無いので終わりがありません。

それがいかに不可避でひどく、私は悪くなかった ということを話し始めます。

こういう時 聞いている側はとても居心地悪く感じています。

でも話している側は、自分がしている波動の低い行動に気付いていません。

無意識の意図に没頭してしまうからです。

「理解してほしい」・・・「どうしてわかってくれないの?」「どうして受け止めてくれないの?」

それは自我の視点

そこから見ている限りは 真実は見ることができません。

被害者というフィルターごしに見た世界を伝えようとしているので

そのフィルターを持っていない人には 違和感が伝わっています。

そういう人同士は繋がりや接点が薄れていきます。

波動が合わない という現象です。

疎遠になってしまいます。

 

この場合、話をする側に自覚がないことが多かったりします。

気が付いていれば自分で修正するので、

言い続けている間は自覚がないだけなのです。

ただ、起きたことを話しているだけです。

愚痴とも思っていない。

「だって、そうだったんだ」 と思っています

その記憶は カルマというフィルター越しに見た世界なので

その痛みは 誰かの悪意によって起きたものではありません。

ただ偶然に起きてしまった 摩擦 なのです

出会い頭に誰かとぶつかって

痛てててて (>_<)

面食らって (;´Д`)

すぐに「ごめんなさい、大丈夫?」とは 言えなかった

そのかわりに

「なんだこの野郎、痛てぇな!」と言ってしまった

そこからの展開なのです

「ごめんなさい」と言うか「なんだこの野郎」と言うかの違いは

とても大きいのです。

他者から大事に扱われているか と気にしているベースと

他者を大事に出来ているかを気がけているベースの

波動の違い

もちろん、誰かを傷つけることを恐れている波動と、大事に扱いたいと思う愛の波動も随分違います。

自分を責めすぎる人

そこには違うカルマがあります。

同じ行動で波動が違う これは大きな差が生じます。

どう違うのか?

外側から見た時の印象を想像してみれば

その違いはよくわかるんじゃないかな と 思います。

人間は 自分のことが一番わからない生き物だったりします。

他人のことはよくわかるのに。

 

己を知ることから始まります。

 

本当は良いも悪いもありません。

ただ出来事があるだけなのです。
それぞれの都合で 好ましい好ましくない が 発生します。

エゴの視点からの脱却

悟りのポイントです

ただ、事が起きているだけ

良いも悪いもない。

約束

約束というものは どれだけの拘束力があるんでしょう

人は約束したことを相手が破った時に怒ったりしますが

それは本来絶対のものではないと思うんですよね。

だから私自身は約束ほど不確かなものはない という気がしています。

ただ、社会生活においては そういうわけにもいかないので

法的に義務を作ったり拘束力を作ったりして 人は安心したいんでしょうね。

人間の作った法律 というものは 混乱や摩擦を嫌い秩序と安定を求める人間の思惑で作られるのですが、文章による拘束力というものはとても表面的になりがちです。

本来は その根底に愛がなければ、どれだけ法的に整備しても

本当の安定や調和は生まれない気がします。

最初は思いに沿ったものでも やがて形骸化したり、時代にずれが生じてしまうからです。

約束の拘束力が強ければ強いほど、それが守れなくなった時の破綻の程度も大きくなるような気がします。

約束は完全ではありません。

それを完全にしてはならないと思います。

人間は失敗する生き物だからです。

本当は 人がちゃんと愛や信頼で繋がることができれば

法的な拘束力など必要はないんですけどね。

これからの新しい世界が 愛で繋がることが基本になればいいな と思う今日この頃です。

自分の中にも 愛とエゴがいるので そのどちらを使うか

常に選択していますが

今の気持ちは愛を選択したいと願うばかりです。

エゴは常々 好き勝手に頭の中で発言しますが

それと同時に 自分の中にある愛や慈悲も いつも一緒に世界を見ているのです。

起きることが起きて 出来ていたこともできなくなることがあるでしょう

それも仕方のない流れなのだと思います。

何が起きたとしても

心を安らかにいたしましょう。

人は今できることしかできないのでございます

言い訳する必要もありません。

起きることはすべて必要があって起きているのですから。

愛と執着

前回のブログに関連する話です。

愛する人、大好きな人と別れるのは大変辛いものです

こんな思いは耐えられない と思うでしょう。

身が引き裂かれるような心の痛み を体験するかもしれません。

そんな辛い別れ。

好きで好きでたまらない というのは、

本当は愛というより、執着なんですね。

恋愛の愛情がそれで、実は『愛』という漢字はこの愛情の執着のことを意味するものでした。

でも、Eternal love、神の愛、無償の愛 というような真我の愛は ちょっとこれとは別のものです。

 

この人がいないと生きていけない気がする というのは

愛ではなくて 依存なんですね。

本当の愛ってなんでしょう?

それは無償の愛。。。

相手の幸福を願う事?

いえ、あるがままをあるがままで受け止めること

何も望まず そのままで尊いんだよ と知ること。

否定のない 純粋な愛。

 

愛は いろんな面を持っているともいえます。

愛は形ではないので、

同じ行動でも愛なものとそうでないものがあります。

そこにあるのは 波動で それは出す人の無意識の心の波動。

エゴの雑味が消えれば消えるほど 純粋な愛になるように感じます。

良い悪いという問題じゃないんです。

純粋なものを嫌う人も中にはいますしね。

そこにはただ存在があるだけ。

そう、いろんな形で、いろんな状態で。

それを全部ひっくるめて 存在そのものを愛する。

 

この世界にはいろんなエネルギーが渦を巻いて対流しています

私たちはその中で生かされているに過ぎません

私は 純粋なエネルギーは好きですね。ぶっきらぼうでも です。(笑)

裏表がない感じが好きなんだと思います。

内側の黒いもの あったっていいじゃないですか

みんなそれなりにあるんです。

でもね、
手放せば無くなるんですよ(笑)

ありのまま って健気なんです。

キラキラした命です。

ピンクの光