宇宙の法則

ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』

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神との対話、 瞑想者のみなさんはご存じの方も多い事と思います。

この本は、私が初めて読んだスピリチュアル本でした。17年くらい前のことでしょうか。

友人の勧めで読みました。

高次元の意識、神 との対話が始まってしまった男の体験談です。

読み始めて、引き込まれて一気に読みました。

これまでにない視点が 開いていく不思議な感覚に興味深々で、

続編も次々に読みました。

 

このような体験はニール・ドナルド・ウォルシュ氏だけではなく、

日本人の方も(黒澤一樹さん)同じ体験をされて 文章や講演で発信されています。

 

奇跡のコース も 同じような内容を取り扱っていますし、

ここからの認識はもはや 異端ではありません。

随分と多くの人々が 視点が違う 悟りの意識からの見解を共有するようになりました。

 

今、選挙に立候補して選挙活動をしておられる山本太郎さんもこの本の愛読者で、

3巻目のあとがきを引き受けられています。

そのあとがきの文章がこれです

政治色は抜きにして一人の人として読んでみてください。

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神との対話 3巻目 山本太郎あとがき二〇〇二年五月 
「二十五歳になった時、納得できない大人になってたら、死んでやる」
 十代の僕はそう思っていた。
 芸能界に入ったのは十六。まわりの大人がほとんど信用できなかった。言葉巧みに操られ、自分の意思がひとつも尊重されていないような気がして、重苦しい毎日だった。仕事先でよく、大人たちから「お前、ホントに十六か? 賢すぎるなあ」と言われていた。適当なことを言っている大人が裏で何を考えているかを、いつもじっと見ていたからだ。
 大人だけじゃない。何かに対していつも怒りがあった。むかつくヤツは消せばいい。金がなければ奪えばいい。今さえよければいい。人生は一度きり。俺は俺の生きたいように生きる。——やんちゃな年頃とはいえ、ずいぶん刹那的な十代だった。

「だけど何か違う」、そう感じたのが二十一歳。
 ちょうどその頃、姉がヨーガを習い始めた。僕と同様、悩みが多くやんちゃだった姉なのに、ヨーガを深め、精神世界に興味を持つにつれ、驚いたことに、会うたびにまるで薄紙が剥がれていくように内面の輝きが増していくのが見てとれた。
 姉とは気が合わず、よく衝突していた母が、そんな姉の変容を見て、「私もそうなりたい」とヨーガを習い始めた。母には膠原病という持病があったのだが、ヨーガを始めてからは徐々にその症状も安定し、どちらかというと、物質至上主義だった母が、姉の影響でいつしか精神世界へと??。そして、母の内面もそれまで以上に輝きを増し、大家族の愛と絆が深まった。そして、これは効果がある、と僕もヨーガを習いに芝の増上寺に通うようになった。
 ヨーガを通して身についたのは集中力。
 僕は常にじっとしていられない子どもだった。とにかく机に五分と座っていられない。勉強は大嫌い。字を読むくらいなら、どこかに遊びに行きたかった。

 その、まったく本を読まなかった僕が、海外ロケの荷物に母が入れてくれた本を開く気になったのも、ヨーガで集中力がついたためだろう。
『神との対話』を読みはじめたのは、『世界ウルルン滞在記』の仕事で、パプアニューギニアのイリアンジャヤへ向かう途中だった。七回も飛行機を乗り換え、最後はドラム缶と一緒に貨物用のプロペラ機で運ばれ、たどり着いたのは、「秘境」と呼ばれる地だった。
「文字に慣れていないから最初は読みにくいかも。でも、飛ばし読みはしないで、わからないところは元に戻って繰り返し繰り返し読めば、きっと意味がつかめるよ」と言う母の熱意に負けた。始めからすんなり頭に入るわけではなかったが、集中して読み始めるとだんだん面白くなってきた。
 道理に合っている事だらけだった。科学者も政治家も、偉い誰も説明できなかったことをズバズバ切っていた。
 イリアンジャヤに着き、ある部族と生活を共にした。日本とはまるっきりの別世界だ。食べものも違う。生活もまるで違う。十六くらいの健康な娘が子どもを産み、しつけや教育は酋長がする。日本なら高齢者は、社会的には片隅に追いやられることが多い。だが、ここには経験を積んだ人だからこそ、必要とされるぴったりの任務があり尊敬されている。
「若い者が子どもを産み、五十歳以上の成熟した大人がその子を育てればいいと『神との対話』に書いてあったのは、目の前のこれじゃないのか?」
 本に書いてあったことを、この辺境の地で自分自身の目でしっかりと確かめたのだ。

 帰国後も、まさに同じような出来事に気づかされた。『神との対話』はいつのまにか僕にとってバイブルのような思い入れのある本になっていた。破天荒だったこんな僕が変われたのは、この本との出会いがあったからだ。
 だから、日々自分なりに本に書いてあることを実践している。たとえば仕事を選ぶとき。映画やドラマでも、その時々で、スケジュールや内容、さまざまな状況が複雑にからんだうえで、選択を迫られる場面が多い。そんなとき、損得や目先のことを考えるより、自分が本当に心からやりたいことをやるべきだ、と僕はそう肝に銘じている。
 また、インスピレーションやヨーガで少しは開けた自分のカンを大事にするようになった。
 決して大げさなことじゃない。たとえば朝出かけるとき、ふと替えのTシャツをもう一枚持って出かけようかな、とひらめいたりする。「まあ、大丈夫か」とそのまま出かけてしまったときに限って一日中動き回り、大汗をかいてびしょびしょのシャツで過ごすはめになってしまう。そういうときは、朝のひらめきを逃した自分を疎ましく思う。忙しさにまぎれ、つい「まあ、いいか」と気づかぬ風をよそおうこともある。そんな時は、「ダメダメ、これはきっと自分に必要なことは自分が一番知っているということだ」と立ち止まってチェックすることにしている。

 もともと僕はクリスチャンだった。だが親がそうだったから洗礼を受けただけで、僕にとってみれば単なる儀式だったにすぎない。子どもの頃から事あるごとに自分の勝手で神様に祈ったりしたけれど、その願いは届いているのかいないのか。悪事をしては、あの鋭い母にかかるとすべてお見通しで、ベッドの中で何度「クソ神様!」と呟いたことか。そのうち、大きくなると、「神様がいるのなら、なんでこんなひどい世の中なのか? 本当は神様なんていないのでは?」とむかつくようになっていた。
 でも、今は違う。
 この本に書いてあるように、神が自分と同じようなものとして人間をつくったのなら、自分たちの力で世界は変えられるんじゃないかと思う。今は僕は特定の宗教を信じているわけでもない。キリストやマホメット、ブッタとか、特別に信仰している神や仏もいない。だが、いつもなんとなく、目に見えない大いなる神の存在はあると確かに感じている。どこかに向かって祈るわけじゃない。だが、どんな人も何かに夢中になっている一番ピュアな状態が、神に近いような気がしている。

 また、殺戮や貧困、飢餓という悲惨な状況下の人を行動で見るたびに心が痛むのは、僕の存在意識に「地球人」、「みんなと家族」という考えがインプットされているからだと思う。
 うちは母子家庭だが、物心ついた頃から母は子どもにいっさい隠し事をせず、「ボーイフレンドができた」「今月はもうこれだけしかお金がない」など包み隠さず話してくれた。母が死んだあとでも、何が起きても動じないよう、この世の中で起こり得るすべての事に対処できるようトレーニングを施してくれた。僕が悪事を働いたときは、納得するまで説教され、キッチリとけじめをつけられた。母親としてだけではなく、人間として真正面から向き合ってくれた。母親でありながら、「いい師匠に当たったなあ」と思わせてくれる母も、『神との対話』に書いてあるような「家族」というものの愛と大きさを、教えてくれているのかもしれない。

 自分が自分らしくない時。
 最高の考えも持てない時。
 高いビジョンなどとんでもないという時。

 残念ながらそんな日は多々ある。そういう時、僕は『神との対話』を読み返す。目次を見て、目についたところをぱっと読む。地方ロケに行く時にも、ぽんと鞄に放り込んで行く。
 

もし、僕も神と対話ができたら聞いてみたい。
「地球はこれからどうなるのか?」と。

二〇〇二年五月
山本太郎

https://note.mu/tokotonstudio/n/n84dd15d80ad1

神との対話〈3〉宇宙になる自分になる (サンマーク文庫)
ニール・ドナルド ウォルシュ[著]
吉田利子[訳]
https://amzn.to/2XzQs5q

 

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17年後の今

山本太郎さんは確信を持って行動しています

私も同じ確信を見ていると感じます。

直感がそう言います。

 

本当に大事なものとは何か?

 

私たちは何をすべきか?

 

何のために生きるのか?

 

ここには1ミリの迷いも矛盾もありません。

表現方法はそれぞれですが 

調和する世界、命たちの歓喜のハーモニーを表現しようとしています。

ニールドナルドウォルシュニール・ドナルド・ウォルシュ氏

新しい文明

生命は進化しています。

魂もまた進化しています。

 

いろんな経験を経て より調和に向かうのです。

何か変化が起きる時、古い体制が崩れて、新しい創造が始まります。

 

この世界は、創造・維持・破壊 → 創造・維持・破壊 → 創造・維持・破壊

というサイクルを繰り返して進化していきます。

 

これまでの体制に乗っかってそれを維持しようと一生懸命になっている生き物たちは 変化の時 混乱します。

 

蟻の巣が掘り返された時、アリたちが慌てふためくように

 

生活圏が生活困難になったオオカミを 自然保護地区に移動させるとき

牙を剥いて威嚇するように

 

どんな変化が起きるか知らないものは その変化はこの世の終わりか? と怯えてしまうのです。

 

どんどん高く積み上げた積み木はいずれ崩れるように、

育ちすぎて大きくなりすぎた大木の枝が 自重で折れてしまうように

発達しすぎてバランスを崩した体制は崩壊します。

 

川底が堆積物で上がってキャパを無くした河がいとも簡単に決壊するように、

老朽化したダムが決壊するように、

自然の圧は 邪魔者を壊して行きます。

流れを遮っていたベルリンの壁が崩壊するように

流れは再び 流れ出します。

 

自然のあるがままの流れは 

厳しいだけではありません。

それ以上に 多くの愛を私たちにもたらして

生命全てを養っているのです。

 

人間が 強欲で 何もかも独り占めして支配することなどできないのです。

 

特定の人間が他の命から搾取して 贅沢豪遊するしくみは

崩壊して行きます。

そのような社会のしくみは、高度文明ではないのです。

 

この世界は調和して微笑みます。

 

私たちが微笑んでこの世界が調和します

 

生きとし生けるものすべて どれだけに幸福に満ちて

この地球を慈しむことができるか

 

私たちの今は私たちの未来へと繋がります。

 

増えることも減ることもない地球の物質を

どのように調和させるか

 

私達 文明の担い手 人間たちの課題です。

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永遠に紡ぐ命を 自らの愚かさのために死なせてはなりません。

この世界を見守っているのは 私たち一人一人の意識です。

人類の叡智とは 愛 です。

 

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今の日本で これまでにないムーブメントが起き始めています。

まだ、気づいていない人も多いかもしれませんが 抑圧されていた矛盾が崩壊していく瞬間に立ち会えそうです。

私たちの幻想が剥がれていく経験です

多くの人が同時に体験できるのではないかと ドキドキワクワクしています。

 

そのことに嫌悪している旧体制派もたくさんいます。

カルマは立ち去りたがらないのです。

 

大いなる流れをサポートします。

鍵を握るのは 山本太郎氏とれいわ新選組の面々です。

次の選挙には必ず投票に行ってください。

このままがいいのか

お金に囚われない新しい調和の世界を見たいのか

経済に翻弄される世界は終焉を迎えます。

経済と共に滅びていくのか

新しい日本に変容するのか

このチャンスは逃せません。

逃してしまうと 更にダメージが拡がるからです。

どうぞ山本太郎氏の話に耳を傾けてください。

大西つねき氏の話を聞いて下さい。

あなたの考えは動くことでしょう。

大いなる流れの中に

私たちを取り巻く世界は エネルギーが対流しています。

常に一定の要素が対流しながらその中に無数の生命体が存在しています。

 

その流れの中で 流れを利用しながら 生命を存続させているのです。

大きな世界の中の 微細な生命体です。

人間は知能を発達させたので いろんなものをコントロールする手段を見つけて

随分いろんなことを自分たちの都合のよいように使い分けることができるようになりました。

だけど、見えているのは表面だけ ということも多かったのです。

最初は見えることしかわからず、何度も試行錯誤 実験していくうちに

深部まで知るようになるのです

人間は、いままで分かっていなかったいろんなことがわかるようになると、

まるで全部わかったかのような気分になったりしますが、

違うんです。

見えているのはほんの表面で

その後ろに広大な宇宙のエネルギーが控えてる

 

そのことをまるでなかったかのように扱ったとしても、

その存在が消えるわけでは

ありません。

私たちの目の前には

広大な宇宙を背負った今が 存在しています。

その世界に生かされているこの身体です

 

世界を汚さない 

世界を貪らない

世界の調和と平和を心がける

 

それができるためには 自分自身に余裕が無ければなりません。

無駄に不安や恐れを取り込むと それだけでも余裕はなくなるし、

無知であることでも不安や恐れは増大します。

不安や恐れから 脅しに弱くなり

不安や恐れから 間違ったリーダーについて行ってしまいます。

 

あなたの内側にあるセンサーは

あなたが冷静にならないと正常に作動しません

あなたが 感じることをもっと大事にするようになると

あなたのセンサーは 正常さを取り戻し始めます

 

感じるってなんだ? と思う方

瞑想をしてください。

あなたの中の雑音が瞑想中に排出され

あなたのセンサーは正常さをとりもどし始めます。

 

これはどれだけ顕在意識で思考してもできない調整なのです

 

あなたに必要なことは 特別になることではありません。

あなたはあなたにとってすでに特別な自分自身であることが明白なのです。

変わったことができることが特別なのではありません。

それは単なる個性です。

様々なDNAが存在しますので 変わっていていいんです。

一律である必要もありません。

様々な人が様々なことをできて、全体がバランスを取っているのです。

そういう世界で何千年も何億年も命を紡いできた種族です。

 

仲間で殺し合う必要はありません。

仲間で蹴落とし合う必要もありません。

智慧があるのですから

共食いをせずとも 共存する方法を見つけられるはずです。

 

この世界を

地獄にするのも天国にするのも

人間次第なのです

 

敵はいません。

対処する問題があるだけです。

協力して多くの命が喜びに輝く世界を作ることができる 

特殊な能力を持っている人間であることを思い出してください。

 

対流するエネルギーを 調和されると 永遠の流れは可能です。

食い尽くすような愚かなことはやめたいものです。

エネルギーは 押しやれば 押し返してきます。

時間差で戻って来ることもあります。

 

あなたの心を穏やかに保つには

瞑想が有効です。

愚かな事をしたくなくなってきます。

 

あなたが あなたらしくいることも

それは愚かな事ではありません。

あなたが あなたのまま 世界と共存してください

ゴリ押しするのではなく バランスを保ちます。

ちょっと工夫も必要です。

怒り

怒りが出てくる時、私たちは何に対して腹が立つのか

自覚がありますか?

イラっとする時、

自我の意識はその対象が私を怒らせた という大前提に思考しますが、

本当にそうなんでしょうか?

 

なんて嫌なことをしてくるのか、

それはルール違反でしょ    とか

人が困ることをするのは悪い事でしょ。

人を苛立たせるのは心遣いがないからでしょ、失礼でしょ、

みんな我慢してるのにお前も我慢しろよ

社会人としての意識はないの?     など、

え?私の気持ちや立場は無視?ひどい!

私を大事に扱えよ。私を尊重しろよ。

ガッカリさせないで!

な-んて 

ここまで書くと、それがエゴだってことはかなりわかってくるんですが(笑)

 

多くの場合は、その途中で 正義の論理を引っ張り出して 

自分の正しさと相手の間違いを証明しようとしてしまいます。

 

これはエゴのマインド特徴的な性質です。

自分のエゴ というのは自覚することが簡単ではないので、

ついつい その考えが当たり前のことのように思えてきてしまいます。

 

これの分かりやすい形は、他人様の思考の様子を見ると よくわかります。

 

自分を正当化して 相手を悪者に言う人  なかなか面倒な人だな って思いますよね。

これは 自分がしていることがなかなか客観的に見えないので本人はなかなか自覚がありません。

感情に飲まれてしまっていることが多く とにかく鬱憤の捌け口を作ろうとしてしまいます。

「私は怒っていい!」 という理由が欲しいんです。

 

でも、これは 怒っちゃいけない って意識が基本に張り付いているからかもしれません。

大人な態度、平和な態度であろうとするあまり、自分に怒ることを禁じてしまうと そのエネルギーは出口を探して、

怒ってもいい正当な理由を探し出そうとするのです。

 

自己中な人や、正当化する人を見たら、ちょっと視線を自分に向けてみてください。

本当は悪い誰かがいるのではない

 

私も 自分だけが正しいと思ったことはないか?  と。

 

人を批難したり、裁いている時、

人は自分の正しさを握りしめています。

 

問題はそこじゃないよ。 これまで抑圧された我慢が出口をさがしてもがいている様子。

表面だけをとらえると、表面的な問題に翻弄されたり、頭を悩ましたりしてしまいますが、

本当の問題はそこではないんです。

 

鬱憤  何がそんなに抑圧されたんだろうか・・・

 

誰かが悪いという視点では 何も良くならないんです。

だって、本当の原因がずれているから。

 

何が起きているか 真の問題は何なのか?

 

自我と自我の関わりに摩擦はつきものです。

世界とのかかわりの中ではどうすれば摩擦が少なくなるかが大事なんですね。

我慢は摩擦ですから 我慢しても解決にはなりません。

逆に、怒りで摩擦のエネルギーを一方的に相手にぶつけると、

強い相手は反撃し、弱い相手にはカルマを背負わせてしまいます。

カルマのエネルギーは誰かが終わらすまで、あなたの世界に存在して

やがてあなたのところに戻ります。

これが因果応報の法則です。

 

それぞれがすでに抱えているカルマのエネルギーも、

飛び交う感情たちも この世に存在するエネルギーをお掃除するには

まず、自分の所に来ているカルマから終わらすしか方法がないんです。

 

怒りをすぐに手放せる人、器が大きくてあまり腹立てない人 というのは

この自分の所でカルマを終わらせるのが上手な人なんです。

 

嫌なことが起きて ちょっと悲しかったり、ちょっと腹立たしかったり、

ちょっと凹んだり、ちょっと苦しかったり、ちょっと痛かった  等の時

 

ああ、これで自分の担当のカルマがだいぶ減ったよね  と言ってすぐに手放します。

これはカルマが少なくなればなるほど 普通の事になっていきます。

引っ掛かりがどんどんなくなって、感情も制御可能なレベルに。

内側からカルマが減る なんていうのは なってみないとどんな感じがするかわからない  と思われることでしょうが、

 

これがどうして ホントに違うんですよ。

イライラすることが 本当になくなって来るんです。

 

人間だからイライラだってするだろうさ、

 

悟っても確かに、腹の立つこともあるにはありますが、

本当にカルマが減ってしまうと

それを全く引きずらなくなってしまいます。

 

だったら、カルマのお掃除が先決だね と、

意図的にカルマを一気に減らしたくもなりますが

 

人生のカルマを一気に消すことは、とてつもないネガティブを一度に体験する ということなので、

大男が6人がかりで押さえつけてもはねのけるくらいの苦しみ方をしてしまう 

のだそうで・・・

そう急がないでください。

一日にちょっとすつがいいですよ。

 

チェンマイに長期瞑想に行って  なんて方法もありますが、(笑)

簡単にチェンマイに行けない人は

おうちで一人でできるELM瞑想の実践が一番安全で効力があります。

 

アンガーマネージメントは 瞑想でできます。

 

悲しみや 罪悪感についても 同じ効果があります。

まずは瞑想をして落ち着いてくださいね。

 

必要なことが起きて、世界は調和に向かいます。

全体の都合は個にとっては不都合に感じられることもありましょうか、

流れはまた あなたを無視することもできないのです。

 

カルマというもの

カルマは 過去のネガティブな感情の記憶のエネルギーで 普段は身体や意識の隅っこにこびりついて潜んでいます。

発動するまでは種のように静かであることすらわからないもの なのですが、

それは 一旦刺激に触れると 発動して外に出ようとするのです。

 

心を穏やかにしようと思っている時、

カルマがあることを隠してしまうと、 内側のカルマは折に触れ暴れて、内側の感情がぐちゃぐちゃになってしまいます。

苦悩、悩み、病気、怒り、悲しみ、罪悪感  です。

これは封印してしまうと厄介なものです。

 

外に出すためにはただ 自分の素直な気持ちを認めるだけでいいんです。

本当は〇〇したかった

だけどならなかった

悲しい。(泣く)

 

それだけのことです。

ネガティブな思いのシンプルな形は、悲しい  泣く  です。

そのエネルギーを外に向ける時、怒りになります。

そのエネルギーを内側に向ける時 罪悪感 になります

 

本当は 「愛されたかった」

本当は 「認めてもらいたかった」

本当は 「受け止めてもらいたかった」

 

心の奥深くで 望んでいるのは これらの思いです

だけど、自分自身も 他人のこのような思いに ぜんぶ応えてはいません。

突っぱねたり、蹴散らしたり、批難したり、嫌ったり、軽蔑したり  します。

自分がするのですから 他人もするでしょう。

 

宇宙の法則は あなたがすることと同じことをあなたの周りに再現します。

あなたがすることを他人がしてくるのです。

そんな世界を見て 己を知ります。

 

もし世界を変えたかったら 自分自身を変えてください。

あなたが 愛の人になれば 世界には愛が反映します。

 

あなたが分け隔てしなければ、あなたの周りには分け隔てしない人が現れるでしょう。

 

この鏡の法則は 本当に実現します。

 

私たちの持つ波動には磁石のような作用があるようです。

 

周りを見て 自分の生き様を学びます。

 

あなたがいろんなことに感謝するなら 世界はキラキラした喜びを表現してきます。

世界にどんな匂い(波動)を放っていくか それはあなた自身のこれからの課題と選択です。

 

出来ないからと悲観することもありません。

カルマの解放の時期は自分の中から厄介な感情が沢山出てきます。

これまで詰まっていたそれらの感情は 「いままでお疲れ様」と言って 手放していきましょう。

どうせ自我の思い通りにはいかないんですから 面倒な問題は とっとと諦めて手放していきます。

 

今の、これからの あなたが次の一瞬をつくるのです。

過去はもう終わり。 今の意識を掃除する。

今 喜べることをしてください。 今 笑顔でいることを選択してください。

 

全ての苦難よ 私のカルマを落としてくれて、、 そして 私を磨いてくれて ありがとうshine

内側の静けさ

リトリート中

リトリートの様子です

 

無事5日間のコースが終了しました。

今回は観音マントラ瞑想、サイレンス、シェアと解説、タラビジャマントラ、シェアと解説  という流れでした。

 

何をするか (集中的なカルマの解放)ということはもとより、こういうコースに参加すると

気付きが満載で、忘れていたことを再確認したり、

マスターの波動の影響を受けて意識が広がる  ということが起きるんですね。

不思議です。 詰まっていたものが抜ける という感じです。

 

帰るとまたいろいろ変化することもあるので かなり楽しみです。

 

国見が丘

昨日行った 国見が丘

神々がここから高千穂を見渡した という場所

世界を見渡す というのはこういう気分でしょうか

さわやかな風が吹きぬけて この上なく気持ちよかったです

 

ボブさんのお話で すべてのことが役に立つ というお話がありました。

怒りの感情も役に立つことがある。

何かを変えるときに 必要な時に 出てくるものです。

怒りを完全に消すなんてことはできないし、

啓発したマスターも怒ることがある

相手にそれが必要な時、怒りは突発的に出てきたりします。

その時、なぜか内側は静かなんですが。

 

こういう経験、私もありましたね。

なぜ自分が怒っているんだろう? って思うんです。

でも、それが出てきまして、事を動かします。

膠着した事態を動かすために。

 

壁を破って押し留められていた流れは勢いよく流れ出します。

 

自然や神は いろんなエネルギーを使います。

 

流れとともに、カルマも流されて洗われるのでしょう。

 

いつも シンプルに存在します

 

 

考えすぎることをやめてください と 何度もおっしゃっていました。

混乱が摩擦を生み出すのです。

煮詰まったらます 手放してください。 

思考よりも ハートで感じてみるのです。

手放して 感じます

流れが道を作ります。

カルマの消え方

幸せな世界を作るために

エゴイスティックで欲望にまみれた事業を行う人々や

戦争に加担する人を糾弾し、これまでの権力や国家と戦って 

平和な世界を勝ち取りたいと思って

奪われたものを奪い返す

 

そのやり方は 直接的なように思えるかもしれませんが、

その方法では平和な世界は手に入りません。

 

戦争や戦いで 平和な世界は作れない

 

古い権力はそこで滅びるかもしれませんが、

新しい権力が取って変わるだけなのです。

 

気に入らない何かを力で押しのけても

押しやられたものは戻って来てしまいます。

 

これは政治とか社会だけじゃなく

個人的な関係、家族関係、自分自身の内面、健康でも同じ作用が起きます。

 

押しやってもなくならない。

殺したり、排除しても  かわらないのです。

 

何が世界を変えるのか?

 

それは心

 

物質主義の人は せせら笑うかもしれませんが、

愛というものがだれだけおおきなものを溶かして癒すか

 

多くの人々はまだ気づいていません。

スピリチュアルに目覚め始めた人も

まだ自分自身の中にある 大きな愛に気付いていない人もいて

 

本当はどの人にもある大きな愛

それを隠してしまっているのが カルマの感情なんですね。

 

それが取れてなくなると みんな 子供みたいに無邪気で素直になっていくんです。

 

瞑想者の集まりは ハッピーで平和です。

まだカルマが取れていないうちは喧嘩も起こりますけど、

実際はその喧嘩でカルマが終わってもいくんですね。

そして 本当に大事なものを見つける。

 

困難から逃げていても立ちはだかる壁はなくなりません。

そこに向き合った時、幻想の壁が消えていきます。

解決するのではなく

ただ目を背けるのをやめて見据えるだけ。

 

そこには ただ あるものがあるだけ。

封じられたエネルギーは 抜けて消えていきます。

 

これが浄化です。

カルマの解放

カルマは細胞が記憶しているネガティブ感情です。

そのエネルギーが小さな種のように潜んでいて それは発動するまではあることがわかりません。

 

でも、外側の刺激に誘発されて 出てくるのです。

 

イライラ、ムカムカ、 怒りの感情は他者に矛先を向けます。

あいつがイライラさせる

 

イライラしたくないのでその相手を遠ざけようとしたりおさえつけようとしたり、変えようとしたり

その相手はそうされたことに反発すると やり返してきたり、または苛立ちの感情をどこかで別の人に発散したりもします。

そう、カルマの感情は人から人に回って、1周まわって

やがて自分のところに戻ってきます。

 

カルマを人に回さない人 というのは、2種類ありまして

他者からのカルマをスルーしちゃうひとには ぶつけても回りません

また、カルマのエネルギーをもらって、自分でずっと持ってる人

外に出さずに自分のことろでジッとガマンして持っている。

そういう人はいい人に見えますが

怒りが外に出ないで内側にこもってしまうと、

内側がパンパンに溜まって、ある時突然大爆発~!!

「も~う!いい加減にして!!!どいつもこいつも!!!」なーんて

自分でもびっくりするような怒りが・・・なんて経験ないですか?(笑)

もっとすごい場合は、

悪い人になるなってありえない という強力な理性で

良い人であろうと 怒りをしっかりと封印してしまうと、その怒りは内側で体を攻撃します

出口のないエネルギー、どこか出口はないかな??? ツンツン チクチク

これ、ストレス って言います。

 

我慢は内側が圧力釜みたいになっているかも。

内側はクタクタ。

 

これね、外側では何も起きていない時間も

ストレスのエネルギーだけを持ち歩いてる状態

 

そうそう、一番困ったストレスは 自分が嫌い という思い。

 

イライラを緩めたい身体は 食べることを癒しと勘違いして 過食になったり、

ゲームに逃げたり、何か癒しのようなことをとにかくしたくなってしまったりします。

そうでなければ、脳の過剰反応を抑えようと脳を麻痺させる物質を取りたくなる。

アルコール とか ニコチン とか  その他もろもろの意識を麻痺させるもの

 

真実は 理想とは違いますからね

理想を好きでいると いつか夢破れます。

 

そのままでいいんですよ。

この世界も これが今のこの世界

 

いいことも残念なことも いろいろありますよ。

喜怒哀楽、すべてを受け止めて 幸せという思いを選びたいな

幸せになれる私 ではなく

生きる私そのものが幸せ 

泣いても笑っても それも いいんです。

いろんな景色があります どれもキラキラしていますよ。

生命力を感じて見てください。

あなたの身体も懸命に生きようとしています。

 

幻想

私たちが掴んでしまっている幻想ってなんでしょうか?

ネガティブな幻想はもちろんですが、ネガティブでないものもあるんです。

たとえば、理想化 

こんなことがあります。

誰かに理想のイメージを当てはめて、その人が理想の人であるかのように思い込んでしまうこと。

これは真実を見ていません。

理想という幻想を相手というスクリーンに映し出してみているだけです

 

これは恋愛の時によく起こりますが、恋愛でなくても 憧れの人やスター(芸能人)や教祖、リーダーにたいしてよく起こります。

 

理想化されてみているうちは 強力な魅力を感じていますが、

真実や現実を見てしまうと、その理想という幻想は一気に色あせてしまいます。

 

悟りの人は自分を飾ることはないので そのままを見ていてもあまり幻滅はおこりにくくはあるのですが、

見ている人の理想のイメージに1つでも外れることが出てくると、

一気に情熱が覚めて、幻滅や 怒りなどがおきることもあります。

騙された などと感じているかもしれません。

 

違います。 真実が見えていなかっただけです。

 

真実は 美しいばかりではありません。

純粋な人は 邪念はありませんが、それでも人間ですので

排泄もすれば 自我もある 体長の良し悪しもある ただの人間です。

みている人と大して変わることのない 人間です。

 

ただ、もののとらえ方が随分違う というだけのことでしょう。

 

この世界も同じです 陰と陽 光と影 両方があっての世界です。

光だけにはなりませんし、闇だけにもなりません。

どちらかがより集まっている状態はあるかもしれませんが、

この世界からどちらかを排除することができないのです。

排除はできませんが、変容させることは可能かもしれません。

 

どういうことかというと、

どの一面を表面に見せてくれるか なのですが、

それはあなたの波動次第なのです。

あなたの要素と共鳴した波動が表現されます。

 

この世界の汚いものを見て 気分が良くなる人はいませんが、

排除を願って嫌悪を発信するか 慈悲の心を発信するか で 世界が見せてくれるものは変わります。

 

あなたのそばに存在するものに 愛や慈悲を向けてみませんか。

何か特定のものに執着するということではありません

この世界に愛を向けます。

大きな包容力が育つでしょう。それはあなた自身を救います。

気になること

私たちの苦悩の原因は 何だと思いますか?

 

病気や体調不良?

お金が足りないこと?

恋愛や結婚生活がうまくいかないこと?

職場がブラックなこと?

私に嫌な思いをさせるあの人のせい?

などなど、

自分自身を取り囲む状況の中には 様々な苦労が痛みの体験があります。

 

まず、、これまでの物事の見方を ちょっと視点を変えます

言葉から考えてみましょう

悩む という言葉

これは出来事があるから必然的に悩みが起きるわけではありません。

 

同じ出来事でも 悩む人と悩まない人がいます。

何が違うのでしょうか?

 

その出来事を受け止められているかいないか の違いです。

悩む人は 出来事を受け止められずに抵抗している状態です。

 

抵抗していない人は その出来事に対して 良い悪いの裁きを持っていません。

それはただ 在る だけなのです。 「あるけど、何か?」

いえ、開き直り?というわけではない(笑)

最初は開き直りから始まることもありますが(笑)

その出来事に心が絡まらなくなればOK。

もしくは、知っているだけで十分だったりします。

ただ見ている。ただ知っている。

 

摩擦は 拒否感です。感情です。

在るものを嫌うか 嫌っていないか 

否定しているか 否定していないか  です。

この場合の 否定しない は 肯定することではありません。

肯定も否定もしていません。

 

ただ在るもの を眺めて あるな。 と認識するだけ。

それ以上に絡んでいない 心を奪われていない のです。

つまり ほとんど気にしていない。

 

気になっている人は そのことが気になって気になって

ずっとそのことを考えたりしていますね。

そんなのダメだ

あれはいかんやろう。

許せない!

のさばらせておいていいものか???

頭の中が その出来事のイメージでいっぱいです!

 

頭の中のイメージって 現実化しやすくなります。

そう、念ってやつですね。

イメージの引き寄せが起こります。

 

このイメージングによる引き寄せは、ご存じの方も多いと思いますが

肯定的か否定的か ということに関わりなく

イメージしたビジョン(画像) が 現実化します。

 

あなたは 嫌いなものばかり 頭にイメージしていませんか??

 

脳内お花畑を 馬鹿にしてはいけません。(笑)

あなたが持っているイメージは重要です。 tulip tulip lovely tulip tulip

表面的な思考より 深層心理のイメージが影響力が強いですね。

 

深刻な人は幸せな人が苦手です

幸せな人の周りには 幸せな人が集まり、気が合いますけども、

それ以外の波動でも

同じ波動が集まりますよね、

他人に厳しい人の集まりは居心地が悪そうです。

 

幸せなふりをしている人の周りには 幸せなふりをしている人が集まり、

善良さにこだわった人の前には善良さにこだわった人が立ちはだかります。

お互いに影響し合って強化しているかも!!

 

自分の事を棚にあげている奴 が 気になる人は ちょっと振り返ってみましょう。smile

 

自分が見えていないと 他人を批判したくなります。

裁きが自分に向かってしまうと 

自信の無さ や 自己嫌悪になります。

 

しかも

もし、自分が何かを嫌っていたら、それはことさら現れて あなたを悩ませてしまいます。

 

好きになる必要はありません。

嫌わないで ただ在るんだな という認識だけで十分です。

できればない方がいいけど、あるんだな。

(あるにはあることの原因があります)

世界にはいろんなものがあります。

理解できることもできないことも。

理解できないものを 嫌う必要はありません。

それは ただ よくわからないだけのことです。

 

未知のものを嫌わないでください。真実を知らないで嫌わないでください。

あなたを知らない人が、あなたを嫌う理由を作ってしまうのです。

これ、偏見と言います

偏見の情報が独り歩きしていることも多いです。

よく知らないことやよく知らない人を 嫌う必要はありません。

それはただ よく知らない というだけのことです。

偏見を採用していると 自分も偏見に晒されます。

 

自分がそれを手放しても、周りにあるのはどうするんですか!  と言いたくなるかもしれません。

 

いえいえ、自分が手放すと、不思議なことにその出来事は遠ざかります。

自分がいる世界は 自分の波動が引き寄せたもので出来ている 

というのはスピリチュアルの法則の基本ですが、実践してみると本当にそうだということを実感します。

 

他の人がどんな世界を見ているのか 興味深いですね!

黄色い花畑