2019年10月26日

愛する

愛することができる  というのは
我慢ができる ということとはちょっと違うんです。
真の愛には我がありません。
 
愛することには理由も目的もない。。
愛はただそこに溢れてくるのです。
 
真の愛というのは、見返りを求めることが無い愛のことです。
自分の身体を護るのに理由がないのと同じ 
そう、当然 というか、そうしない選択肢がない
そういうもののように思われます。
 
 
自分自身に愛を向ける時
自分で自分の不満に向き合うと
(自分を愛して、自分の気持ちをあるがままに受け止めることができると)

自我はその思いを解放し始めます。

そして内側の怒りやイライラ(カルマのエネルギー)は解き放たれて無くなってしまいます。
これが癒しになります。
 
愛は 相手を甘やかすこととも違います。
相手のエゴの言う通りにすることが愛なのではないですから。
相手の思いを叶えること ではなく、
ありのままにさせておくこと(泣く時は泣かせ、怒る時は怒らせる)
 
相手の体験を肩代わりしてやることはできないんです。
つまり 自分のカルマは自分にしか終わらせられないんですね。
あるがままを受け止めたくない時は抵抗して苦しみますが、
それを代わってあげることはできないんです。
 
カルマは罰ではありません。
進化するための体験です。
本人にとって大切な体験 ということです。
 
困った人、周りの人をかき乱す人 というのは、
みんなに嫌な思いをさせて問題提起をする人でもあります。
誰がその役目を負うかはなってみないとわからない。
生き方が失敗したからそうなるのではなく、それをやる役目でこの世に降りてきた ということらしいです。
周りの人の魂を成長させるため。
 
家族の中に問題児がいる としたら、
一族の中に潜在的に残っていたカルマを明らかにして終わらせ、
みんなの魂を成長させます。
 
まわりは、自分が愛でなくエゴだったことに気付き、全てに愛になる道筋をつけていくの人です。
この役目を負う魂は 嫌われ役をわざわざ買って出るほど勇気ある魂 とも言われています。(汚れ役 ですかね。(^_^;))
 
私たちはただ純粋な愛になればなるほど、自分自身が幸せになれます。
出来事は自分を傷つけることがなくなり、
世界の全てに向けられる自分の愛が巡って自分自身も満たします。
 
愛は溢れるもので 誰かから奪うものでも 絞り出すものでもないんです。
 
カルマは
終わらせる経過としては ただ 周りを在るがままにさせておいてください。
自分自身にも、感じている在るがままを受け止め、あるがままでいいよ と自分に言います。
カルマが抜けてしまえば、気持ちが勝手に変わります。
 
行動は できることなら愛を選んで下さい
でも、あなたのハートが 「そうではない!」と言うなら
そうでなくていいのです。
 
他人がどうであるか や 理想 は、気にしなくていいです。
あなた自身がほんとうにそうしたいように生きれば良いのです。
私は本当はどうしたいのか? と自分に問うてください。
 
あるがまま というのは あなたの望む今を生きることです。