2018年12月

般若心経 現代語詳細

前回に引き続き、般若心経!

今度は 原文に近い現代語訳です。

本文を色文字 訳文を黒文字にしています。

お釈迦様の思いも表現してありますね。とても丁寧な訳文です

 

現代語訳『般若心経』


摩訶般若波羅蜜多心経(タイトル)
(まかはんにゃはらみったしんぎょう)

存在が存在することの意味を説いたお経

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
(かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみったじ)

観音菩薩は「自分が存在するとはどういうことなのか」という問いについてとことん向き合った末に、一つの真実にたどり着いた。
その真実について、お伝えしよう。

照見五蘊皆空 度一切苦厄
(しょうけんごおんかいくう どいっさいくやく)

私たち人間という存在は、身と心によって成り立っている。
だから私は、自分とは何かを知るために、この身と心のどこに自分が存在しているのかを確かめようとした。

しかし、物質的な肉体も、視覚・聴覚といった感覚作用も、それを受けとる知覚も、あるいは意思や認識といったあらゆる精神作用すべて、どれを詳細にみても「これこそが自分だ」というようなものを見つけることはできなかった。
確固たる自分は、どこにも存在しなかったのだ。
驚いたことに、「自分」という実体は、じつはこの世界のどこにも存在しなかったのである。
その真実を知って私は驚きを隠せなかったが、同時に苦悩から解き放たれるような安らぎを覚えた。

舎利子
(しゃりし)

(ブッダの弟子の)シャーリプトラよ。
私が知り得た真実とは、「自分が存在しない」という驚くべき事実のことなのだ。
今からその真意について簡潔に話をするから、よく聞いておくれ。

色不異空 空不異色
(しきふいくう くうふいしき)

まず私たちの体を詳細に観察すれば、これは「体」という固有の「もの」が存在するのではなくて、

たとえば原子というような、様々なものがくっついて出来上がっていることがわかるだろう。
つまり「体」が存在するのではなく、いろいろなものが集まってできた「物体」を、私たちは体と「呼んでいる」にすぎないのだ。
これは事実として理解できるね?

体というものは、いや、体だけでなくあらゆる物体は、それ固有の実体が存在しているのではなく、あくまでも何かが集まった「状態」にすぎない。
不変の自分、つまり自性(じしょう)と呼ぶべきものはなく、すべて無自性なのだ。
この、「あらゆる物体に実体はない」という真実に、まず名前を付けてしまおう。
そうだな、「空(くう)」という言葉がいい。
「物体に実体は存在しない」という真実を、「空」と名付けることにするから、これから私が「空」と言ったら、

「物体に実体は存在しない」「自性がない」という意味であると覚えておいておくれ。

色即是空 空即是色
(しきそくぜくう くうそくぜしき)

私たちが感じとるあらゆる物体は、固定的な実体がなく「空」という性質をもっている。
存在を支配する根本の原理は、この「空」という真実なのだ。
そして存在は「空」であり、変化をする性質であるからこそ、あらゆるものは形をもつことができ、また形を変えることができるのである。

もしも固定的な物体が存在したら、その物体は何をどう加工しようとしても変化をしないことになる。
変化をしないから固定的な物体なのだ。
しかしそのようなものは、この世界のどこにも存在しない。
どのようなものであっても変化をし、だからこそこの世界には多種多様な姿や形をしたものが存在している。

受想行識 亦復如是
(じゅそうぎょうしき やくぶにょぜ)

そしてその「空」という性質は、物体だけでなく、精神作用にもあてはまる。
すなわち、感覚・知覚・意思・認識といったあらゆる精神作用も、形こそないが、変化をするという法則のなかにある。
つまり、物体である身も、精神作用である心も、どちらにも固定的な実体は存在しないということだ。
これが何を意味しているかわかるだろうか?
そう、自分とはこの身と心であるにも関わらず、身にも心にも実体としての「自分」が存在しないということなのだ。
固定的な存在としての「自分」は、どこにも存在しないのである。

ただ、私たちは脳という器官があり、「考える」という営みができ、「自分」という概念を想起することができるため、この身と心を具えた一つの物体、つまりが自分という存在を、自分だと認識することができる。
できる、というよりも、認識してしまっている、と言ったほうがより正しいかもしれない。
しかし真実としては、自分というものは存在しないのだ。
これはつまり、「自分」という存在は固定的な存在ではなく、流動的な「状態」の一つにすぎず、結局自分も「空」だということである。

舎利子 是諸法空相
(しゃりし ぜしょほうくうそう)

シャーリプトラよ、驚いただろうか?
それとも、言っている意味がよくわからないだろうか?
もしくは、当たり前のことを言われたような気がしただろうか?

まあ、今はどれでもいい。
あらゆる存在が「空」であるという理解は、当たり前のもの、普遍の事実であるから、今すぐ理解できなくても大丈夫だ。消えてなくなることはない。
これを知ろうと志せば、必ず知ることができる。
ただ、世界の在りようをしっかりと見つめて真実を見抜いていこうとする態度だけは失ってはいけないよ。
このことは人生を生きる上で本当に重要な理解となるから、くれぐれも忘れないでおくれ。

不生不滅 不垢不浄 不増不減
(ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん)

あらゆる存在が「空」だとわかると、面白い事実に気がつくことになる。
私たちは、命は生まれて死ぬものだと考えがちだが、それも違うのだ。
あらゆる存在は、いろいろなものが集まって形を為し、そこに形以上の「はたらき」が生まれて「生きる」という活動をしている。
私たちが、自分を自分だと認識して生きていることも、形以上の不思議な「はたらき」のなせるわざである。
「命」もまた実体として存在するものではなく、それは神秘としか言いようのない、不思議は「はたらき」なのである。
「個」が集まってできた「和」には、単なる個の集合以上の不思議な「はたらき」が具わることがある。
それが、命だ。

だから生き物は、生まれて死ぬのではなく、はじめから実体が存在しない「空」という存在のしかたをするなかで、ただ変化を繰り返している。
この、「存在は変化を繰り返す」という真実には、「無常(むじょう)」という言葉を当てるとしよう。
「存在」「空」「自性がない」「無常」「変化を繰り返す」「常なるものは存在しない」
これらのキーワードはすべて、互いに深く関係しあっているものなのだ。
そして存在には「変化」があるばかりで、生まれもしなければ死にもせず、垢がつくこともなければ浄らかなのでもなく、増えもしなければ減りもしない。
ただ、変化を続けるだけである。

是故空中 無色 無受想行識
(ぜこくうちゅう むしき むじゅうそうぎょうしき)

これまでのことを繰り返すことになってしまうが、もう一度言おう。
身も心も、すべては「空」であり、固定的な実体などというものはどこにも存在しない。
私たちを含むあらゆる存在は、変化するなかで「今はこの状態として存在している」というふうな存在のしかたでしかこの世界に存在することができない。
つまり存在には自性がなく、すべて無自性なのである。

無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
(むげんにびぜっしんに むしきしょうこうみそくほう)
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、心。
そのどこにも不変のものはなく、みな「空」である。
見えたもの、聞こえた音、嗅いだ臭い、食べた味わい、触った感触、抱く思い。
それらもまた「空」であり、不変の実体として存在するものではない。

無眼界乃至無意識界
(むげんかいないしむいしきかい)

私たちは感覚器官で周囲の世界を感じとる。
つまり私たちが理解できる世界とは、自分の感覚器官で感じた世界であって、世界そのものを感じているわけではない。
世界とは、私と世界とが互いに関係し合うところに生まれるものなのだ。
そうした世界もまた、「空」であることに違いはないのだがね。

無無明 亦無無明尽
(むむみょう やくむむみょうじん)

私たちは、真実に眼を向けずに、自分本位の誤った認識で生きることで「苦」という感情を抱く。
真実とは、存在は「空」だということ。
誤った考えとは、自分を含む様々な存在が実体として存在していると思ってしまうこと。
なぜ世界が「空」という真実のもとに存在しているのかは、私にもわからない。
ただ、世界は現にそのように「空」として在るわけだから、これは事実として受け止めるしかない。
あらゆるものは、有るようで無いのである。
それは、ただ無いのとも違う。
やっぱり、有るようで無いのだ。

乃至無老死 亦無老死尽
(ないしむろうし やくむろうしじん)

だから、老いや死ということも、本当は存在しない。
老いや死とは人間の眼から見た、概念としてのみ存在するもので、実際には「空」である存在が変化をして形を変えているだけである。
老いないわけではないが、死なないわけではないが、それはやはり老いでも死でもない。

無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故
(むくしゅうめつどう むちやくむとく いむしょとくこ)

あらゆるものに実体は無いから、苦しみだって本当は無いし、苦しみを無くす方法だってない。
それらはすべて概念でしかなく、その概念を抱く自分という存在もまた、概念でしかない。
じゃあ、あらゆるものは概念なんだと理解すればいいかというと、それも違う。

ここはとてもややこしいところだが、頭で理解するという営みが、すでに虚構なのだ。
これらを知識として理解したところで、それは何も理解していないのとほとんど変わらない。
私たちは知識で何でも得ようとするが、存在の本質に関わる部分では、知識としてこれを得ることなどできはしない。
真実を受け取るとは、知識で理解することではない。
だから、得ることなどできないのだ。

菩提薩? 依般若波羅蜜多故
(ぼだいさった えはんにゃはらみったこ

無い無いばかりで申し訳ないが、やはり無いと言うほかに方法がない。
誤った認識の発端は、「有る」と思うことだから、やはりどうしても否定の形をとらざるをえないのだ。

心無?礙 無?礙故 無有恐怖
(しんむけいげ むけいげこ むうくふ)

ただ、存在の本質が「空」であり、私という概念が取り払われ、世界と自分とを隔てる虚構が崩された認識というのは、すがすがしいものである。
わだかまりを抱くことが何もない。
わだかまりを抱く私が存在せず、わだかまりという心もまた、本当には存在しないから当然といえば当然か。
心に何の恐れも生じないのだ。

遠離一切?倒夢想 究竟涅槃
(おんりいっさいてんどうむそう くぎょうねはん)

人は普通、自分のことは自分でしていると思っていることだろう。
だが、本当にそうだろうか。
たとえば、心臓が絶えず拍動を続けているのは、自分の意思か?
この体を作ったのは、自分か?
熱い物を触ったとき手を引っ込めるのは、はたして考えた上でのことか?
自分の体でありながら、それらは自分の意思とは関係のないところで自ずとはたらき続けてくれているのではないか?

それなのに、多くの人は自分の体は自分のものであり、自分の意思で自分は生きていると思っている。
存在しないはずの自分を「有る」と疑うことなく所有し続けているからだ。
このような誤った考えから離れるだけで、心はずっと安らかになるというのに。

三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提
(さんぜしょぶつ えはんにゃはらみったこ とくあのくたらさんみゃくさんぼだい)

いつの時代であっても、どの国であっても、いかなる宗教を信じていても、この「空」という存在の真理を知っている者は心が安らかでいられる。
よく、「仏」という言葉が使われるが、その仏とはこの「空」を知る者を指す言葉でもあるのだよ。
仏とは「真実に目覚めた者」という意味の言葉だからね。
真実を感得するのに仏教徒でなければならない理由などないのだ。
誰の眼の前にも真実は姿をあらわしているのだから。

故知 般若波羅蜜多 是大神咒 是大明咒 是無上咒 是無等等咒
(こち はんにゃはらみった ぜだいじんしゅ ぜだいみょうしゅ ぜむじょうしゅ ぜむとうどうしゅ)

だからいいかい、存在が存在することの真実を見抜く「般若波羅蜜多」という智慧は、あらゆる人に平等にもたらされるこれ以上ない尊いものなのだ。
人は、「生きる」ということの意味を真剣に考えたとき、必ずこの真実に向き合うことになる。
存在が存在することの意味を知らずして、存在が生きることの意味なんてわかるわけがないからね。

能除一切苦 真実不虚
(のうじょいっさいく しんじつふこ)

あらゆるものは「空」である。
この真実を本当に知る者は、どんな苦しみも、それが概念でしかない自分が築き上げた、さらなる概念であることに気がつくだろう。
だから苦しみから逃れようとして苦しむことなど、あるはずもない。
病などによる痛みや疼きが消えるわけではないが、それらを「苦」と認識して「苦」から逃げようとすることはないという意味だ。

故説般若波羅蜜多咒 即説咒曰
(こせつはんにゃはらみったしゅ そくせつしゅわく)

最後に、この真実を見抜く般若の智慧を、短い咒文で讃えたい。
これだけは意味を訳さないで、古代の言葉のまま読んでほしい。
昔のままの言葉で読むことに意味があるのだ。
だから言葉の細かな意味は知らなくてもいい。
「尊ぶ」という心でもって唱えるだけでいい。
頭で理解することが、理解の全てではないのである。
では、その咒文(真言・マントラ)をここに記しておく。

羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
(ぎゃていぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼじそわか)

ギャーテーギャーテー
ハーラーギャーテー
ハラソーギャーテー
ボウジーソワカー

般若心経
(はんにゃしんぎょう)

これで、存在が存在することの意味を説く、般若心経の教えを終わる。

 

 

     以上 曹洞宗僧侶でエッセイストの佐藤隆定氏の訳文でした。

釈迦三尊像

 

※ 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 を

   「行こう行こう 彼岸へ行こう みんなで苦の無い菩提の道へ 彼岸へ行きましょう」と訳した方もありましたが 

   これはマントラですから本来は何語にも訳せないのでしょうね。

    言語サンスクリット語をカタカナ表記すると

     ガテガテ パラガテ パラサムガテ ボーディスワハ  です

 

   前回の若者言葉般若心経 の ラスト「心配すんな 大丈夫だ」は

  人々の心を緩める 同じ効果を持つ言葉 ということでしょう。

  

サンスクリット語 般若心経音読(ヴェーダ)動画はこちら

何気に貼ってみました。 

超訳般若心経 現代若者語

 

ネットではもうかなり出回っている ラップ調 若者語の般若心経の訳をご紹介したいと思います。

かなり意訳してあるので 本当の現代語訳を読んでおられる方は ちょっと戸惑われるかもしれません。

明日は本式 現代語訳をアップしますので

今日は この般若心経を味わってみてください。

なかなかいいと思いませんか?

 

現代若者語訳「般若心経」music

超スゲェ楽になれる方法を知りたいか?
誰でも幸せに生きる方法のヒントだ
もっと力を抜いて楽になるんだ。
苦しみも辛さも全てはいい加減な幻さ、安心しろよ。

この世は空しいモンだ、
痛みも悲しみも最初から空っぽなのさ。
この世は変わり行くモンだ。
苦を楽に変える事だって出来る。
汚れることもありゃ背負い込む事だってある
だから抱え込んだモンを捨てちまう事も出来るはずだ。

この世がどれだけいい加減か分ったか?
苦しみとか病とか、そんなモンにこだわるなよ。
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見えてるものにこだわるな。
聞こえるものにしがみつくな。

味や香りなんて人それぞれだろ?
何のアテにもなりゃしない。

揺らぐ心にこだわっちゃダメさ。
それが『無』ってやつさ。
生きてりゃ色々あるさ。
辛いモノを見ないようにするのは難しい。
でも、そんなもんその場に置いていけよ。

先の事は誰にも見えねぇ。
無理して照らそうとしなくていいのさ。
見えない事を愉しめばいいだろ。
それが生きてる実感ってヤツなんだよ。
正しく生きるのは確かに難しいかもな。
でも、明るく生きるのは誰にだって出来るんだよ。

菩薩として生きるコツがあるんだ、苦しんで生きる必要なんてねえよ。
愉しんで生きる菩薩になれよ。
全く恐れを知らなくなったらロクな事にならねえけどな
適度な恐怖だって生きていくのに役立つモンさ。

勘違いするなよ。
非情になれって言ってるんじゃねえ。
夢や空想や慈悲の心を忘れるな、
それができりゃ涅槃はどこにだってある。

生き方は何も変わらねえ、ただ受け止め方が変わるのさ。
心の余裕を持てば誰でもブッダになれるんだぜ。

この般若を覚えとけ。短い言葉だ。

意味なんて知らなくていい、細けぇことはいいんだよ。
苦しみが小さくなったらそれで上等だろ。

嘘もデタラメも全て認めちまえば苦しみは無くなる、そういうモンなのさ。
今までの前置きは全部忘れても良いぜ。
でも、これだけは覚えとけ。

気が向いたら呟いてみろ。
心の中で唱えるだけでもいいんだぜ。

いいか、耳かっぽじってよく聞けよ?

『唱えよ、心は消え、魂は静まり、全ては此処にあり、全てを越えたものなり。』
『悟りはその時叶うだろう。全てはこの真言に成就する。』


心配すんな。大丈夫だ。

釈迦如来坐像

意識の世界2*海のような意識のつながり

私たちの意識を 海に例えますと

今、この世界を見ている私たちの意識は海面の波のようなものです 

海の表面から外の世界を見ています。

小舟

自我の意識は小舟に乗る人 のようなものです。

小さな自分が広い世界を見ています。

身の回りの環境が自分の世界の全てです。

 

コミュニティは大きな船です。

大勢の人が乗っていて、丈夫ですが他者と一緒に載っています

 

海面が静かに凪いでいる時、

それは平和で 美しく穏やかな世界

そして、ずっと変化が無いと ちょっと退屈かもしれません。

感情の波は 風や波紋に刺激され起こります。

波もよう

波は伝わって全体に拡がります。

意識は周囲のバイブレーションを受けています

 

でも、私たちの意識は 海面だけじゃないということを

瞑想をしている方々はもうお気づきでしょう。
 
瞑想の時は水面下に入り海を体験します。
そう、私たちは海面の波ではなく、海そのものなのです。
 
海中
 
全ての命は(まだ生まれていないものも含めて) 海そのものです。
 
一人一人の個性や人生が、海面の1つ1つの波にすぎません。
 
自分の意識の内側は 全体= 神(高次元の意識)と繋がっています。
 
この意識の領域には終わり というものがありません。
死はただの通過点でしかありません。
魂は死ぬことはないですし、恐れる対象もありません。
この世界全てが自分自身でもあります。
宇宙意識です。
 
そうそう、
お釈迦様は そういうことを話してたんですね。
苦から離れるためには 色から離れてください
この世界では景色は変化し続け、そこに色付けして見ているのは私たちの意識です
色を掴むことを手放せば、ただ空(宇宙全体)があるのみ 

色 この世の変化する状況やその景色

空 全てを包括する広大な宇宙

 

物事を捉えて一喜一憂していた意識は 空に入ると 即座に宇宙そのものになってしまう。

ミクロの視点の小さな憂いにスポットを当てて悩むことを止めて

宇宙を感じなさい 

 

行こう行こう みんなで 宇宙意識になろう というのが般若心経です。

明日は般若心経の現代語訳をご紹介しましょう

 

 

 

 

 

意識の世界

前回のご質問の続きがあります
 
clover ご質問
 輪廻転生を外れてしまった魂というのは永遠に現世を彷徨うことになるのでしょうか?
 
 
fullmoon 回答
 
彷徨うという表現はちょっと違うと思います。拡がって全体にいる とイメージしてください
 
私はお墓なんかにいません。風となって吹きわたっています~♪ なのです
 
神 や仏、 高次元の意識、ユニバース 等と様々な呼び名がついていますが、
魂の故郷の海に戻るので個人の意識はなくなります。
すべてが1つで他はない状態で 大きさが無いくらい大きいのでどこにでも存在している状態になります。
 
人間界とはチャンネルの違う ここにいます。 狭いここ ではなく広大な ここ です
 
生きている人間でも、思考を外して感覚だけになると 感じることができるので  それを人は神と呼んだのでしょうね。
 
私たちの命の意識です。
輪廻から外れたら、仏になります。
 
瞑想では宇宙意識と呼ぶ状態です。
 
私たちの魂は、命の海の一滴 で、身体にいる間は身体の中に留められていますが、
肉体が死ぬと、意識は解放されて命の海に戻って混ざります。
ただ どれだけ愛を体験したか が現世の旅のお土産なのです。
これは あなたの発振した愛の体験です
 
 
どうです? あなたはお土産が沢山溜まりましたか?
 
そうは言ってもなかなかそれができないんだよね って思いますよね?
私も以前はそう思っている一人でした。
怒りや抵抗の感情はある限りなかなか抑えられません。あるうちはないものにできないのです。
 
当然です。
 
良い事を素直にできるようになる
仏の心と同調するためには 必要な事があります。
それは意識の中の カルマのエネルギーを解放して 内側を浄化する必要があるんです
その昔は 修験道とか 滝行とか いろいろあったんでしょうね。
 
現代の浄化の一番の方法は瞑想です。
 
もし、瞑想を使わなければ 感情を吐き出してしまう、感じきってしまう
感情のエネルギーを出してしまう ということをしなければ終了しないのですね。
瞑想以外の方法では 感情の解放を意図的に起こすセラピーなどは効果的です。
封じていた感情をお掃除してしまえば 内側はスッキリです。
 
感情の解放という点では ものすごく辛いことを体験した人の中に
既に悟っている方が多くいるのも興味深いです。
現実の体験でカルマのエネルギーを昇華してしまったんですね。
 
魂はこのカルマの解放を終わらせてしまいたいようです。
瞑想でスムーズに浄化できれば 
現世の揉め事を沢山体験する必要がありません。
他の瞑想ではこれほどまでには進まないようなのです。
ELM瞑想は 本当にすごいツールだと思います。

 

 

霊の話題

先日、ある方からご質問があり、普段はあまり取り扱っていない話題なので ここでシェアさせていただきたいと思います。
 
 
clover ご質問
「憑依」という現象がありますが、これも宇宙(自然)の法則に含まれるのでしょうか?
もっと言えば、何故「不浄霊」というものが存在してしまうのでしょうか?
 
fullmoon 回答
霊は、肉体のない意識です。
人生を終えた後、魂は身体から抜けると通常は魂の故郷に吸収されてしまいます。これを成仏と呼んでいます
成仏したくない魂は、この世に強い執着を残していて、元々いたあちら(彼岸)に戻ることを拒否して人間の世界に留まっています。
自然な成り立ちに逆らうのですから かなり強力なエネルギーがあります。思いが強い ということです。

人々の意識には波動とエネルギーがあります。
物質として存在しなくても 波動は存在します。

他人の感情がそれとなく分かる 怒っている人の近くに行きにくい 、
なんとなく行きたくない場所があるなど、私たちはそれを感じとる能力があります。

空中を電波が飛んでいるように 波動も世界の中に沢山存在しています。
これは物質ではなく バイブレーション(振動波)です

人々が強い念を持つ時、感じる時に
その強い波動が周りを共振させて波動だけ残してしまうんですね。
そこに来た人は、波動を被って同調してしまうことがあります。
波動が強ければ強いほど多くのものを巻き込みますが
通常は波動は、元々持ってる波動と似た波動にしか同調しませんので、全ての人が影響を受けるわけではありません。

霊でなくても、
実在する人間が出す波動にも私たちは影響を受けています。
視覚や聴覚も加わるので生きてる人間を直接会う方がより強く影響を受けますね。
波動は特に肌や第六感に響いて来ます。フィーリングです

見えない波動のみの場合は、
受ける側のセンサーが感度が良いか、
チャンネル(周波数、波動)が 元々あるものに近い時に特にキャッチしてしまいます。
ラジオのチャンネルを回すと周波数の合うところで声が聴こえてくるのと同じです

自分と近いもの、好きなものを集めてしまいます。

成仏できない霊(思いの記憶)に憑依される人は、ある意味その波動の中に居ることを選んでいます

被害者 という立場
怨み という思い
自分を憐れんでいる、
誰かに助けてもらいたい、
または誰かのせいにしたい
鬱憤を晴らしたい(感情の解放)

 などの思いがあります。

霊というのは、成仏していない全体と分離した魂  です。
霊はこの世に思いを残して何かをしたいというエゴを持っているので、同調してくれて乗っ取れる身体は都合が良いのでしょう。
霊自身は身体を持たないので誰かに憑依して動きたい。
そこまで強力な霊はごく僅かなのだと思います。生きてる時はすごい念を持ったエゴイストだったのでしょうね。
そういう意味では死んだ者より生きている者の念の方が強いと思います。

でもこれは、波動の周波数が合わない人間にとっては チャンネルの違う別世界の出来事です。

仏教でいう天国や地獄などの六道はチャンネルの違いで、それぞれがこの世界の中に重なって存在しています。
ラジオやテレビの中にいろんな局があるのと同じことです
同じ場で、違う景色を見ているんです。
私たちの脳は受信機です

憑依は、気持ちの波動を落としてしまった人が、悪い友達にそそのかされてしまうようなものです。
肉体を持たない意識(霊)と友達になってしまい、相手に執着されてしまうことを許してしまったのかもしれません。
本人が毅然と断らなければ立ち退いてくれません。
まずは、本人が抜けると決意することと、
幸福であることを選択する意思が必要です。

病気であることは、ある意味、現実と向き合わなくてよいので 病気を心地よいと無意識に感じている人も少なくありません。
その人たちは口で治りたいと言い、症状が無くなることは望みますが、現実と向き合う覚悟は出来ていませんので、治ることを選びません。
無意識に病気を必要なものとしているんですね。
でも そのことは表面の意識には上がりません。

どんな状態も  学びの1つなんです。
この状態を作り出しているのは自分だった。もうこんな状態はこりごりだ。抜けられるなら何でも手放す
そう覚悟すると 身体は 自分が握りしめていた思いを手放して 回復を始めます。

この手放すことに抵抗する思いが強い念や執着となり カルマ として残ろうとします。

どれも 波動の世界 思いの世界のことです。

悟りは これらの思いを手放してしまいますので 波動が変わり、カルマの縁がなくなってしまいます。
思いを手放す というのは 消し去ることではなく、どうにかすることを
ダルマを信頼してお任せすることです。神や仏にお任せする というのも同じことです。
 

 

 

 

師走ですね

こんにちは。随分寒くなりました。
今年は気候が安定しませんね。(^_^;)
私も先日急に冷え込んだ時に うっかり風邪を引いてしまいました。
幸い翌日にお客様のご予約の無い日でしたので 休養日を取りまして大事に至らずでした。
スケジュールがガチガチだと身体の都合を無視してしまいますが、
その時々の流れ次第 という生き方が 本当は一番無駄がないように思います。
自由さは とても大事です。
義務や責務に追われてはいませんか?
 
一見 あなたを追い立てているのは 仕事や用事 のように見えますが
実はあなたを追い立てているのは 自分自身なのです。
自分の決め事、状況のコントロール、欲、未来への不安、他者を信頼しないこと、などに起因します。
 
今は動き始めた流れの中で 急に止められない感じがしているかもしれません。
自分だけの思いにとどまらず、他者の思いも背負ってしまうことがあります。
何かを支えている手を引っこ抜くと 混乱が生じることでしょう。
混乱を見たくない と思うとついつい支えてしまうこともあります。
 
でも、悪いエネルギーバランスの中では その安定には とても苦しさが伴います。
 
もしあなたが 本当に 安らぎの心で生きていたい と思うなら
世界をコントロールしたり 無理を支えることをやめてください。
無理しなければ維持できないものに手を貸すのを辞めます。
 
そそうすれば 世界は そこにあるもので可能な調和を図ります。
なるようになる のです。
 
あなたは 自分がしたいことにしか努力する必要はないのです。
 
もっと 世界を信頼してみましょう。
世界は 常に調和しようと動き続けます。
 
皆が自然体であること
皆がしたい事をすること  の中で調和させることが
平和につながるのではないでしょうか。
維持も進化も発展も 自然に起きる流れの中にあります。
 
人間は自然の流れに いろんな思いを絡めて
マインドが作りたがるルールに縛られていきます。
ルールは最小限でいいんです。
生きる事には困りません。
あなたが多くのルールを作って それをクリアしなくても
あなたの価値が下がることなどないのです。
生きていることが価値なのですから。
 
掃除が行き届かなくてもイライラせずに まず落ち着いてみて
そうしたら 少しは元気になって あるいは、少し休養を取ったらまた元気が出て
出来ることも増えます。
100%を目指さなくてもいいじゃないですか
生きる、 更に 悟る というのは完璧を手放すことですから
 
あなたの命を大切に生きてください。
もっと自由に
もっと ゆったりと。
美とは 人工的なものではありません。
存在そのものが 美 なんです。
 
 命の輝きは 美しいものです。
 
冬景

生きる

谷川俊太郎さんという詩人がいらっしゃいます。 

ご存じの方も多い事と思います。知らない人の方が少ないくらいかも。

50年以上前、鉄腕アトムの主題歌の歌詞を書かれたことも有名です。

 

谷川俊太郎さんの詩は どれもとても愛に満ちていますが

今日は 代表作の一つをご紹介したいと思います。

 

 

 

『生きる』     谷川俊太郎



生きているということ

いま生きているということ

それはのどがかわくということ

木漏れ日がまぶしいということ

ふっと或るメロディを思い出すということ

くしゃみをすること


あなたと手をつなぐこと



生きているということ

いま生きているということ

それはミニスカート
それはプラネタリウム

それはヨハン・シュトラウス

それはピカソ

それはアルプス

すべての美しいものに出会うということ

そして
かくされた悪を注意深くこばむこと



生きているということ

いま生きているということ

泣けるということ

笑えるということ

怒れるということ

自由ということ



生きているということ

いま生きているということ


いま遠くで犬が吠えるということ

いま地球が廻っているということ

いまどこかで産声があがるということ

いまどこかで兵士が傷つくということ

いまぶらんこがゆれているということ


いまいまがすぎてゆくこと



生きているということ

いま生きてるということ

鳥ははばたくということ

海はとどろくということ

かたつむりははうということ



人は愛するということ


あなたの手のぬくみ

いのちということ

 

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いまここと さとりがありますね shine
 

仏画

楊柳観音

12月3日4日と仏画教室が続いております。

私は今日5日の表具お師匠様に指導受けるために持っていく仏画を完成させることにすっかり気を取られ

相変わらず教室写真を撮ることをすっかり忘れてしまいます。 coldsweats01

 

表具の研修は 朝から出かけるのですが

前日はほとんど徹夜になってしまいます。

1日前に終わらせることはできないのか? とよく思うのですが

本当のことを言うと、いつも済ませておきたいことの70%くらいで当日になってしまうので coldsweats01

前日の就寝時間までに終わる ということが ないのです。

 

いつだったか、TVで瀬戸内寂聴さんが いつも締め切り前に徹夜して原稿を仕上げるので

秘書の方が 徹夜しないようにもっと前に頑張って欲しい と言っても

いつも徹夜で仕上げる というのを聞いて

大先生でもそうなのか  と ( ̄▽ ̄)flair

 

怠け者でできないのか?というのとは ちょっと違うような気がしているのですが (笑)

瞑想と仏画と表具と 多分、40代くらいまでは、三つの草鞋も!

どうってことはなかったような気がするのですが

最近は 記憶力とかスケジュール管理がだんだん苦手になってきていて

予定がずっと押しながら 100%ではない理想を手放した状態で生きております smile

 

たぶん、理想どおりの制作進行だと もうほとんど寝る時間がありません。

それはちょっと無理なので coldsweats01

身体と相談しながら マイペースで進めています。

出来るようにするしかないのです。

 

きっかけ とか 追い立てるものがないと

なかなか 頑張れないものなのかもしれません。

表具の指導をうけさせてもらえるのは

とてもありがたいことだと 思っています。

 

頑張らせてもらって ありがとうございます。

 

今日は寝る時間があってよかった~ 幸せ~heart04

自我の消える時

以前から お伝えしたいと何度か文章にすることを試みていたのですが

なかなか伝わるような文章にならずに苦心していた内容があります。

 

先日、Facebookで信頼している友人の一人

熊本市内でヒーリングカフェさゆらを長年運営されていたレイキヒーラーの浅川路子さんが

体験談を通してとても分かりやすく表現されていたので

記事を掲載させていただきます。

 

浅川路子さんは実に聡明で多くのみなさんを温かい愛で包み導いて来られたヒーラーさんで

現在はヒーリングカフェは閉じられたものの そのスペースを多くのヒーラーさんに解放したり

レイキの指導で、熊本ではなくてはならない方です。

とても心に響きましたので みなさまにもシェアしたいと思います。

 

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今の仕事は年末までの短期契約なので、来年からの職探しをしています。
その中で自分の変化に気づいたのでシェアさせていただきますね。

一言でいうと、今回はこれまでと違って観察者の視点で仕事を探しているということです。
これまでは「当事者」として仕事をどうするか考えていました。「自分はどうするか」という視点です。
でも、今回仕事を探していて「神の意図したこと以外起こらない」という信頼が自分の中で根付いていることに気づきました。
もちろん人間らしく(笑)求人情報に目を通したり、来週はハローワークに行こうかなとも考えているのですけど、自分が探して自分で決めるという感じがありません。
かと言って「聖霊にお任せする」みたいなこととも違うようです。

神の意図したこと以外起こらない。この信頼だけがある感じです。

わたしは10年以上、のべ百人以上の人にレイキ伝授をしてきて、その中で力説していたことがあります。
それは「順調なこと以外起こらない」ということです。
でも今の自分の中にある確信は、そのことともちょっと違います。
以前お客様に伝えてきた「順調なこと以外起こらない」には、出来事を、良きこととそうでないこととジャッジする視点が入っていました。
一見望ましくない出来事も、すべて必要があって良きことへの導きとして起こる。と、そういう観点で伝えていました。
でも今はそのジャッジ自体を放棄してしまった感じです。
なぜならそれは決して分かりっこないということが「分かった」からです。
何が良きことなのか、わたしには一切の判断ができないのです。

聖霊に委ねていればいろんなことが順調に行く、という引き寄せ的なことを全く期待していない自分がいます。
来年から縁あって始めることになる仕事が自分(エゴ)にとって良い仕事なのか、そうでないのかはどうでもよくて、ただ起こったことが神の意図したことだというそれだけだと思っています。
「超楽観的まな板の上の鯉」みたいな感じです(笑)

未来に対する期待や予測、良し悪しの判断が無くなると、ただ観察する人になるみたいです。
何が起こってもいい。それに対する意味付け、価値判断は決してわたしにできるものでは無い、という気持ちでこれから起きることを目撃するのは、不思議とわくわくするような面白さがあります。

 

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私もちょうど路子さんと同じように その途中の段階のお話をしていました。

こういったお話は スピリチュアルの初歩の方に向けてお話する時によく出てまいります。

苦しみを伴ったこだわりを手放すために必要なモチベーションが求められる場合があるからです。

 

それらの 信じれば良い事がある という類のお話は嘘ではありません。

実際にご本人の波動が緩めば 起きる出来事は変わってきます。

周りにいる人の反応は本当に変わります。

 

ただ、私たちが成長する 『摩擦を感じる出来事』は相変わらず起きるのです

これだけ多くの人間と自我がある限り、この世界にカルマは存在し続けますし、

自然そのものが 創造・維持・破壊 のサイクルの繰り返しで輪廻のように回っているからです。

 

その中を生きる ということが わくわくしたものに変わります。

 

出来事は ただ 起きているのです。

 

それを観察している意識は ブラフマン意識・宇宙意識といわれる コアの意識

観察者 なのです。