スタッフブログ

物理法則とスピリチュアル

スピリチュアルって以前は非科学的なものとして扱われていましたよね。
超常現象 って表現されたり。

でも、知れば知るほど、物理法則どおり。
今は物理学的にも意識の波動とか証明されちゃったので
いろんなところでいろんな人が引き寄せの法則とか意識が現実化することを発信していますね。

面白い時代になったものだと つくづく感じます。

ちょっと考えてみると、昔(ちょっと前まで)は
自分たちが知らない物理法則は 超常現象 って言ってたのか・・・ 
非科学的とか迷信 なんて言い方もあるけど。

その昔、地球が平らなお盆のようなものだと思われていた時に
地球は丸い!と言った人を「頭がおかしい」って周りのみんなが言ってたのと同じ。
当たり前 ってのは「正解」とは限らないのですよね。

面白いですよね。

人間ってどれだけ自分を賢いと思いたいのか? って笑っちゃいますよね。

正義を振りかざす っていうのも同じですよね。

主人に滅私奉公したり、君主に忠義を誓うのがカッコイイ生き方だと思っている人、現代はもういませんしね。
いるのかな? いないと思うけど。

あ、いや、いるかも。
社畜と呼ばれるみなさん、滅私奉公しちゃってる。
でもこれは 主人にじゃなくて、給料に滅私奉公してるんですかね。
資本主義社会 というのはそういう社会。

これは人間が幸せになれそうにないシステムみたいですね。
お金の奴隷にはならない方がいいし。

でも、お金を持っていないと生きづらい都会に人間が集まっちゃって
お金が無いと生きにくい生活を続けようと必死に労働して お金を流通させてる。

これ、「六道輪廻から抜けられないよう~」っていうのと
同じ構造じゃないかな?

お金の崇拝をやめないと経済六道輪廻から抜けられない
つまり、天国になったり地獄になったりの綱渡りが続く ってことですね。

お金と文明、お金が無くなることへの不安から
増やそうとして 無くしたり、取られたり、
なかなかに怖い六道輪廻かも。

そういう時、不安をあおる原因の一つに
病気になったらどうしよう とか 死んだらどうしよう 
路頭に迷ったらどうしよう っていうの がありますね

これ、魂は死なない ということがわかると、途端に怖くなくなっちゃうんですよ。

身体が死んだって私はいるんですもの。存在するんです。意識が。

そしてまたどこかに生まれるかもしれないし。生まれないで見てるだけをするかもしれないし。

その意識の状態が かつて戸村寿子だったことを覚えているかどうか なんてことはどうでもいい。

それはほんのひとときの経験でしかないのだから。

人生なんて本当に一時の経験でしかないです。 
というのはもう残りの方が少ない人間だからそう思うんですけど。(笑)

確実にある期限を見てそれが来るのを恐れる というのは なんか面白くないですよね。
それは、死 というのがあまりにも未知だと感じているからでしょうね。

知らないものは怖い。
だから使い勝手が悪くても知っているものの方が安心 なだけで。

資本主義社会は、それを操っている人のためのもので、
お金は単なる手段で神ではない。

道具に命をかけたり、道具のために魂を売ったりするのは
悪魔に魂を売るのと同じに思えるのだけど。

それが正しいことだと信じていたり、嫌だけどそれでしか生きられないと思い込んでしまっていたら、
かなり生きづらいだろうな と 思うのです。

この世界の人間が作ったシステムだけを見るのではなくて、

もう少し元からある自然の流れや意識の持つ力のことを知って
この世界を生きやすい生き方をしてみませんか? と私は大きな声で言いたいのです。

で、それが知れ渡るのが次世代の人間の生き方。

新しい時代の到来なのです。

宗教性と科学は融合するでしょうね。
誤った宗教性も淘汰されるんじゃないかな と 思っています。

でも、人間は間違ってみないとわからないので、
どれもが必要なプロセスなんでしょうね。

妄信は危ういです。「間違った考え」という表現は微妙なんですけど、
妄信って何世代にも渡って引き継がれちゃうものですしね、
気が付いたら幸せになれないものにしがみついてる。

何が違うのか というと、
摩擦を起こす行動は生きづらく、摩擦を手放すとスムーズ。
(だけど慣れない生き方は怖いみたい)

そもそも、なぜわざわざ生きづらい生き方を選んで来たか ですが、
人間はスムーズだけだと刺激が足らなくて退屈するみたいで
欲にかられたりして いろんな摩擦に飛び込むんですよね。
たぶん、今生で魂がそれをやりたかった ってことみたいですが、
それが嫌になったら、止めていいんですよね、本当は。
(だけど、慣れない生き方は怖いみたい)

いつだって 本当は選択は自由。

ただ、集団の妄信は沢山犠牲を出すので
早めに大勢が目覚めて欲しいなぁと思うのでした。

戦争なんてのも集団自殺みたいなものです。

まだ寿命でもない生きているものを殺すのは本当に大きなエネルギーが要る。

そんなところにエネルギーを使わないで
分け合って多くの命を育むことに使って欲しいですよね。ほんとに。。

現代人のテーマも同じです。

分け合って多くの命を育む というのは

自分の命も守られる ということです。

私がするから 私もされる。 それしかないのです。 エネルギーだから。

愛の波動はピンク色 だそうです。
ピンク色の中で喧嘩しにくいですよね(笑)

あ、これは桃色かなぁ(笑) 概ねピーチのペールピンク🍑
個人的にはこのピンクが好きだけど
ボブさんはマジェンダのピンクって言ってたので

👇こっちですね

これでも少々 私の好みに寄せてます(笑) 色ね。

視野

世間ではいろんなことが話題に上がりますね。
災害が起きたりスキャンダルが話題になったり。

刺激的な出来事が起きると人々の関心は一気に持って行かれますね。

関心事って意識という画面の大部分を占めちゃいますね。

ロシアのウクライナ侵攻はこの世界、地球上という単位でみると、随分規模が大きな出来事のように見えますが、
個人的なトラブルなんかは個人としてはウクライナ以上の関心事だったりする。

意識 というスクリーンの中での大きさは、実際の大きさとは関係なく捉えられる。

瞑想者、覚者が達観する というのは、
このズームアップされた関心事項から 限りなくズームアウトして
広範囲を捉える ことですね。

問題は一瞬でちっぽけなものになってしまいます。

痛みにフォーカスしている時は 
この世の終わりのように思える痛みも、
過ぎて痛みが消えてしまうと すっかり忘れてしまったりもするのですが、
カルマのエネルギーが抜けきってない場合はまだまだ痛んでいるので、その傷は大きな厄介なものに感じてしまいます。

神視点では一時的な通過点でしかない出来事も
痛みを感じている当事者には酷い許せない出来事にしか見えなかったりします。

ですがそれも、いずれ過ぎて消えてしまうものなのですが。

痛みから離れたい場合はカルマを終わらせるか、

刺激から離れるか、どちらかしかないでしょう。

でも、カルマを終わらせたい魂は 痛みを感じて昇華しているので
いずれにせよ持ち越しているカルマの痛みは避けようがないものもあります。

それでも、もっと早く終わらせたい 場合には、

赦して 責めない

ということを受け入れますと、摩擦は起こらなくなります。

平和な心というのは そういうものです。

摩擦に懲り懲り とおもえたら、摩擦から手を引こう と思えます。

でも、不思議と人間と言う生き物は 摩擦や苦しみを好みますね。
平和は退屈だったり寂しかったりするのでしょうか。
刺激は魅力的なのかもしれません。

 

一方的に酷いことに巻き込まれる魂は、

先祖のカルマを請け負って、終わらせていく使命を持っているのだそう。

とても勇気があり、愛の大きな魂なのでしょうね。
試練を引き受けた魂は大きく愛へと成長し
蝶のように羽ばたきます。

新しいステージ

今、起きている変化や苦境は

これまでの古い生き方や古いシステムの終焉です

これまで積み上げてきた常識やシステムが崩れる時

それに慣れ親しんだ意識は慌てるでしょう。

見知らぬ新しさなどは まだどんなものか分からないわけですから
不安を感じる人も少なくありません。

でも、この世界は刻々と変化しつづけるのです。

積み木も一つ一つ積み上げて、随分と積みあがって来たら
上の方を支えきれなくなって崩壊する時があります。

たとえ接着剤で固めていたとしても、
頭でっかちになれば頭の重さに耐えきれなくなってひっくり返ってしまいますし、
樹木のように生きているものも 巨樹、古木になっていくと共に
古い部分が朽ちて崩れ落ちてしまう時が来るのです。

この世界のものは不変のものはありません。

旧体制が終わる時、 それは新しい世界の始まりです。

古いやり方の悪しき部分はいつしか不必要になっていくでしょう。

私は高度な文明というのは、
「宇宙人アミ」の世界だと思います。

自分たちの世界が安定して生きやすい世界を作れることが
文明の進化の目指しているものだと思います。

目先の欲望に飲まれて罪を犯すことが身を亡ぼすことだと
気付ける理解力をもつこと。

自分たちの住む場所を安全でクリーンにしておくという事がどういうことなのか?

幸せと言うのはどうやって作り出すのか?

本当の豊かさに気付けること。

これには知能と広い視野が必要です。

沢山のとらわれがあり、狭い視野でしか物事を見られないうちは、
真理は見えません。

世界はそれらのとらわれを外そうと、我々人間を揺さぶっていきます。

また若い意識は、旧体制の生き方を見て学ぶのです。
反面教師も教師です。

とらわれは外れます。

それが必要ないものだと理解した時

そのとらわれは持ち続ける必要はなくなります。

それに気付くための変化はいずれやってきます。

 

お金の奴隷になることを止め、

プライドにとらわれることを終了し、

戦う虚しさに気付きます。

 

私たちが古い感情を出し切ってカルマが内側から消えた時、

私たちはもう無駄な苦しみを背負う必要がなくなるのです。

カルマがなくなった今は、あった時の感情はもうありません。

それは最初からなかったのと同じレベルです。

カルマは実体の無い幻想のようなものです。

ただ、衣服の上についたホコリのようなもので、払えば落ちてしまうようなものなのです。それはあなたの性格でも何でもありません。
ただのカルマです。

手放しきってしまえばよいだけです。

芽は、大木になれるかなんて気にしていません。

ただ、伸びるだけなのです。

草も、冬に枯れることを嘆きません。

また春に発芽するからです。

私たちもやがて肉体を脱いで、また新しい命に宿ります。

命とはそういうものです。

生きている今を愛にします。

愛になればなるほど、その魂は幸福に生きられます。

罪と罰

本日のタイトル、かの文豪の歴史的文学小説のようですが
すみません、それとは関係ありません。

最近はTVはほとんど見ないのですが、ネットでニュースなどを見ます。このところは長年隠蔽されてきた罪が暴かれて問題になっている事件などがありますね

犯罪の被害者と加害者 という関係、
迷惑をかけられたものとかけたもの という関係性において
怒りや恨みの気持ちをどう取り扱えばいいか ということについて
ちょっと書いてみます。

怒りの感情は 誰にでもあります。
理不尽な怒りならいざ知らず、当然の怒りも起こります
怒りに良い悪いは本当は無いのですが、正当に思える怒りは
復讐してもいい、あるいは賠償してもらっていい という認識があったりします。法律で決められていることもありますしね。

昔の時代と違って、武士はそれ以下の民が気にくわなかったら切り殺していい なんて法律はもうなくなりましたけど、
それを思うと、法律の正しさなんてわからないものだ ということは理解できるでしょう。

魂とか神レベルでのお話をします。

私は神ではありませんので断定はしませんが、
この世界の道理 としての法則 でこういうのもある ということなので理解して損にはならないでしょう。

今 理不尽に迷惑をかけられている関係がある時、

それは前世での関係が起因しているそうです。
それは、

迷惑をかけられている場合は、前世に自分がその人に同じ迷惑をかけていたことの報い だそうで、
今生で迷惑をかけられていることで前世の自分の罪が帳消しになる
そうなのです。

自分のカルマを解消するために、今人に与えたものを受け取って±0に戻している。 ということらしい。

そんな、、前世のことなんて覚えてない~っ!

と思うのは当然なんですが、覚えてなければそれが無くなるということにはならないので、どうとらえたとしても起きることは起きるのです。
ほんと、そういうのは科学的に確かめようがないですしね。
前世自体もほんとうにあるかどうかわからない と言ってしまえばおしまいですが、この世界はそういうものらしい。

そういうと、魂自体、個別にずっと存続するわけじゃないので

私と言う個人は、神に戻り、また神の一部としてこの世に戻って来る仕組みから考えると、

人類が為した罪を人類である子孫は負う ということになりますね。

この世に罪がある限り、子孫たちはそれを癒すしかない。

なので仕返しをするのは 罪や遺恨を終わらせない方法でしかないので、

私たちに戻って来る罰は終わらないわけです。

でも、個々が担当するカルマの解放は、
今生持ってきて担当する分だけの苦しみを体験して解放してしまえば、とりあえず自分のカルマは終わる そうですし、

他者の解放や癒しを手伝うと、光貯金が増えてカルマはどんどん昇華されますし、親族や先祖の分まで問題やしこりを解決していくと、

自分個人だけでなく所属するコミュニティの範囲までの私たちをどんどん浄化していくことになります。

あなたがいる環境を浄化していく ということはそういうことなんですね。

物質的にお掃除するのと同じように
エネルギー的に浄化していく これをする人としない人の人生が違うのは当然です。

自分の環境がよろしくない というのは
これまでの先祖が行いを怠ってきた とか 罪を重ねてきた
ということで、この因果応報は子孫に請け負わされるのですが、
魂はその学びの系列に再び生まれ変わる という性質があって
自分が自分の子孫の系列に再生する なら、それはやはり自分の罪を今生で浄化していくことに他なりません。

なので、嫌なことがあったら、これまでの身に覚えのある罪もない罪もがここで終わりにしてもらえるということなので

それ以上に人に痛みを与えたり罰をあたえたりする必要が無い。

罪を犯した人や他者に痛みを与えた人はその人の人生においていずれその応報を受け取ることになるので放っておけば流れに任せておけばいい ということなのです。

もちろん、出たがるものは出して構いません。それも流れです。
嫌なものは嫌と言います。降りかかる火の粉は払います。
怒ってもいいし言いたいことを言ってもいい。

そうして過ぎていく時の中で

いつまでも恨みを持続する必要は無いし
あなた自身はあなた自身を癒して心安らかに生きるだけですべてが健やかに巡っていくのです。

あなたが好きな気持のよい風景と空を眺めましょう。

手放せないこだわり(とらわれ)がある場合

とらわれを外す  って スピリチュアルや悟りの教えの中では大きな課題の一つです。

簡単なようで難しい。

なぜなら、何にとらわれているのかを自覚するのがまず難しくて

とらわれは あまりにも当然のように必要な事として認識しているために
それが必要ないものだとは思えないし、
あまりにも当たり前すぎて、それ抜きで物事を考える なんて 想像がつかなかったりするくらい
自分と同化してしまっているからだ。

指摘されてとらわれに気付いたとしても

元々自分はそういう性格なんだ とか

こんな風にしか生きれない なんて思ってしまう。

でも、違う。

そんなとらわれヌキで生きることができるのだ。

カルマの感情が抜けきった時、憑き物が落ちるように「あ、要らない」って理解が来る。

だからそれまでのカルマの解放は必要だ。

1回の瞑想で抜けるカルマは割とライトな軽いカルマ、日々のストレスや他人から被ったもの、

そういうものから取れて行って、深いところに埋まっていた大きなカルマが現れる。

火山が爆発するみたいな大きな解放がドッカーンと出て行って、そして憑き物が落ちる。

あ、元々カルマが薄い人はそういうのは無いかも。

とらわれていない人。 そういう人は何が起きても「あーね」って流せるから ドッカーンもない。摩擦が無いのだ。

でも大抵の日本人は結構な量のカルマを抱え込んでいるので (抑圧されているからね)

大体の人は幾ばくかのドッカーン を経験する。

晴天の霹靂だ。

そのために必要な事が起きる。

それぞれの人にその人にあったドッカーンを体験してもらうために

ユニバースは必要なものを用意周到に準備してくるのだ。 そう、無慈悲にね。

でも、そこを突破したら憑き物が落ちる。

しがみついていたとらわれが要らないことに気付くのだ。

これを経験しちゃった人、おめでとうございます。

すごい複雑な暗いサングラス?を外したかのような新鮮な世界。

「あ、要らね」ってなったら合格。

自我は抵抗しますけどね。

だって、後生大事に握りしめて来たそのとらわれを手放したら
これまでの気の遠くなるような努力が無駄だったって認めることになるんだから。

そんな恐ろしい事見たくないじゃないですか。

いや、でも、実際無駄だったんで 
それに気づいた時はもう笑っちゃうしかない。

すごい壮大な自分劇場を演じていたのよね 私は。

というなんとも痛ましい自虐ネタの悲喜劇

笑い飛ばせれば 自由。晴れて無罪放免となるのです。

 

それにしても、この世界。巧妙に仕掛けて来るよね、

気付きのテーマ。これでもか! とばかりに。

でも、よく考えてみると、自分がそういったカルマのエネルギーをもっていることで起きているのだから

起こしていたのは私だったのね ってことにもまた笑えます。

無意識が現実化して、
コントロールしたい自我の願いは崩壊します。

手放して委ねた方が 豊かになれますよ。

あなたがワクワクすれば豊かさは集まってきます。

 

ちなみにとらわれは「絶対譲れないもの」

害のないこだわりは 好みの範疇で、それは別に「あっても無くても差しさわりはないもの」
この場合あなたの好みが優先されます。(100%ではない。世界側の都合もあるからね)

「大好き・嬉しい」は強力です。

この世界のどこを見るかであなたの人生は変わる

Take it easy

今を生きる

お彼岸が過ぎましたがまだ暑いですね。
今年は夏日の最多記録更新 だとか。
夏の終わりが苦手という方もおられるようですが、
私は涼しい秋を待ち焦がれております 😊🍁

昨秋2022年の10月に大阪から福岡に父を引っ越しさせ、
半分介護生活がそろそろ1年近くなります。
父は身体の方は足が少し弱って杖を使わないとよろけるのですが、杖でゆっくり歩くことはできます。コロナにもかかりましたが、免疫力はあるようでちゃんと治りました。

ただ、認知症はじわじわ進んでおりまして
洗濯機に続き、ついに電子レンジの使い方がわからなくなったようです。大阪で使っていたものなのですが、どのボタンを押せばいいのかわからず、触らなくなりました。

新たに覚えることはもう無理で、説明や指示は水で書いた文字のようにすぐに乾いて消えて行きます。
「どうしたのかなぁ、最近、なんだか頭がおかしいんだ」なんて言いますが、それにどう説明したところで私の言ったことはすぐに忘れられてしまいます。歳をとるというのはこういうことか というのは、父ではなく私の方に入ってきます。

認知症の父は子供の頃の思い出と 若い頃の思い出だけに戻って行くようで、毎日何度も同じ思い出を語っておりますが、
私はだんだん返事の仕方がわからなくなっています。
どうしたものか・・・。
こういう場合 身内より他人の方がやりやすい のかも。
ボケる前に自分の活動を仕舞えて置いた方がいいだろうな。
そうだ、私も自分のしていることが自分しかわからないことが多すぎる。

なので 最近、終活のことを考えるようになりました。😅
エンディングノートとか作っておかないとなぁ とか。
口頭では少しづつ伝えてるんですけどね 聞いた人が忘れなければ ですが。😅

でも、以前知り合いの霊能者に 「80代までは生きるわね」と言われたことがあるので
あと20年くらいは猶予があるようですので それならなんとかなるかも?
しかし、あと20年しかない とも言える。

いや、いつまで生きるかなんて年齢に関係なくだれにもわからないものですけどね。本当になってみないと未来なんてわからないですけど。

(今の延長でしかない とも言う) そう思うと 20年程度の短い年月で何ができるかなんて今してないなら無いのも一緒だし、頭でどれだけ考えても思い通りになどいかないかもしれないです。
(確かなのは動いてみること)

でも、どうしてもやっておかないといけないこと など なかったりもするので、(こだわっていないので)
まぁ 周りが困らないように対策は早めに立てておこう ということくらいが 自分のミッションだと思っているわけです。

それも、出来なければ出来ないで それはそれでなんとかなるようになるんでしょうし、何をどうしてほしい なんてことは本当は特にございませんのです。何か残したとしても いずれは消えてなくなるものなんでしょうしね。

そういえば、いつ頃からか 生きることや旅立つことに
何の執着も未練も恐れもなくなり、生きていたくないなんてことも全く考えなくなり、日々ノンキなのでございます。

所詮 今しかないし、何者でもない自分でしかないし。

それは情熱が無いのか? というと、そういう訳でもなく

楽しい事は楽しいし、今日1日のすることを子供みたいに楽しんでいたりもするのです。(子供ほど活動してませんが)

ああ、そうだ、先日思ったことには

子供の頃1度だけ行ったことがある上高地にもう一度行ってみたい。

九州も自然が豊かで、出かける場所には事欠きませんが
1度見た上高地の風景が長らく私の人生の中で原風景みたくなっているので、やはりもう一度その風景を生で見てみたいのです。

たぶん、2~3年内には行けるでしょう。

それ以外の見たい風景は九州内に沢山あるので
私は見たい風景は見放題 という恵まれた環境にもおります。
九州は先祖のルーツでもあるので ここに住んでいて良かったなぁ と またまたハッピーになるのでした。

脳内お花畑は 意外といいかもしれない。(笑)

こだわらなければならないことなど 本当は無いからですね。😇
こだわってみたければこだわっても構わないだけなんですから。

 

距離感

みなさん、毎日ご機嫌よく過ごされていますか?

「はい!」と言える方、素晴らしいです。もうそのスタンスでずっと行ってください。(≧∇≦)b

そう簡単に「はい」とは言えない方、あなたは標準的な日本人です。人付き合い って、楽しいこともあれば、疲れることもありますよね。

気が付くと、自分はとても気を使っているのになんだか悩ましい事ばかり なんてこともあるでしょう。

それはすごく普通な感覚です。でも いくら普通でも心地よくないことは終わらせていきたいものです。

この世界は 私たちの理想通りではありません。
他人の求めるものは、自分の求めるものとは同じでもありません。

単に好みの違いでも意見は相違しますし、
利害が対立することだってある。
自分の動きが他人に影響を及ぼすこともあれば、他人の行動の余波が自分に被って来ることもある。

そんな事象にイライラしていますと、

キリがありません。

私たちは外側の余波を受けながらそれを上手にかわしながら生きるように出来ているのです。

波に揉まれるより波乗りになって波を楽しみましょう。

正面から波を受けて 戦っては負けます。すごい圧ですからね

それはミリの差でかわすだけで受けずに済みます。

スルー。

それだけでも随分と摩擦は減ります。

お仕事関係は波というよりは雨みたいなものでしょうか。

あるいは洪水の水。溜まって来た水は外に出さないと溺れちゃう

もうダメ~処理できない!となると、自分の力の問題ではなくなってくるし、洪水対策してもらえない時は 引っ越しするしかない。

そうだ、丘へ逃げましょう。

生きられるように生きる というのは 自分の知っている範囲だけでしか生きていけないわけじゃない。

もしかして、あまりにも狭い世界で生きていたんじゃないか ということに気付いてもいいかもしれないんです。

自分がいる世界を狭く囲い込んでいるのは他ならぬ自分自身ですから、どんな生き方ができるのか いろんな経験談を聴いたり読んだりしてみてくださいね。

私は九州に住んでからは、自然と近い生き方に憧れています。

今の所まだ都市部に住んでおりますが、自然が近いのでその恩恵を沢山受けることができています。

これからの時代、若い意識はもっともっと自然と共存できる社会に移行していくのではないか と感じます。

都市部の反映は最盛期を過ぎ、空洞化していきます

この社会という生き物の生命を思うと、生まれ変わりの時期は遠くないという事がわかります。旧体制の意識の終わりです。
価値観が変わります。

なので、あなたの無意識の価値観も 時代遅れになっていくかもしれないのです。

ルールにとらわれず、今この瞬間に 愛があるのかないのかを見極めてください。愛ある決断は癒しが起き、世界を調和させます

時の流れ

今年は残暑が続きますが 皆様いかがお過ごしでしょうか?

虫の声に秋を感じますが、日中はまだ夏日がありますね。

今日も晴れて暑い福岡でしたが、狭いエリアに雨を降らす雨雲が頭上に在り慌てて自宅に戻りましたが雨が降ったのは隣町だったようです。

こういう狭い範囲の雨をワタクシ(私)雨と言うそうな。

福岡の暑い時期の雨は割と南国的で、スコールのような通り雨が多いです。

関西から引っ越してきた当時は関西との気候の差に驚いたものでした。

春の嵐もなかなかワイルドで九州は自然がダイナミックだな と思ったものです。

もうしばらくはまだ台風があるかもしれませんので、みなさまお気をつけてお過ごしください。

今日は 夫の実家から手作りの梅干しが届き、喜んでおります。

お舅さんが漬けるのだそうで、減塩梅干し また瞑想会ランチでも活躍しそうです。

このところランチ写真をことごとく撮り損ねておりまして、来月こそは頑張りたいところです。

瞑想者さんたちのご希望で玄米に野菜メインのお惣菜が中心です。

美味しければなんでも良いのですが、身体が喜ぶものを食べると やはり調子は良いようです。

食物繊維をたっぷり採って、お腹快調。

これから食欲の秋になり またランチも楽しみが増えそうです。

そろそろカレーかなぁ と思いつつ 野菜の彩り美しいスープカレーなどいいなぁ と思っている今日この頃です。

食が楽しいと人生が豊かになる気がしますね。
素材がおいいしい手作りの食事を楽しみたいと思っています。

そうそう、この夏は手作りジンジャエールも初挑戦でした。
メチャウマです。もうペットボトルのジュース飲まないかもです。

瞑想会ランチの他、仏画教室では毎回お茶タイムのカフェメニュー(おやつ)も楽しみの一つです。

仏画を描いて ホッと一息お茶タイムは格別です。
癒しのサロン!と言って頂けるのも嬉しい今日この頃です。

飛び込みで癒されたいお客様も歓迎ですよ。

お茶とお菓子付の写仏体験は1回3500円です。
癒されにいらしてくださいね。
教室スケジュールは、スケジュールカレンダーでご確認頂き、お問合せフォームからご連絡下さいませ。

もし翌日までに返事が無い場合は、お電話くださいませ。

生きる

遅めの夏休みを過ごしていました。

楽しい時間はあっという間に過ぎていきますね。

と言っても、最近は何をしても時間は早いです(笑)

台風12号の後、空気が秋っぽくなっています。

高齢の父の世話をするようになって10ヶ月ほどになります。

父は25歳年上なのですが、親を見ると25年後の自分を想像してしまいます。

父は自分の親の介護は全くしなかったし、遠くに暮らしていたので、
自分が歳をとることを想像していなかったみたいです。

認知症なのですが、なぜ 自分が今こうなっているかよくわからないみたいで、
まるでずっと働けるつもりだったかのように話すので、
これは本当に考えて来なかったのか、ボケたせいなのかよくわかりません。

以前の父がどうだったかを思い出してみても、
元々 かなりいい加減だったので 年齢のせいだけじゃない気がしますが、
いまとなっては どっちでも一緒です。

ただ、自分もいずれそんな感じになるかもしれない という可能性だけはあるんだということが分かります。

これは恐れているわけではなくて、
生き物としては避けて通れない宿命みたいなもののように思います。

そう、歳をとる ということ。

みんなが平等に歳をとりますが、肉体年齢に関しては個人差があるので
ちゃんとメンテナンスはしておいた方がいいな と思うのです。

瞑想は 身体の機能を整えますので 健康を保つのにはとても良い習慣なんです。

それだと瞑想をしていない父と 瞑想をしている私とでは 差がつくかもしれませんね。

それでも、少しづつは歳を取っていきます。

機能は使っていると活性化するので 身体も頭も働かせるのがいいなと思います。

感情は極端すぎず、適度な抑揚があるのがいいと思います。

刺激が大きいと感じる方は 心が若いのかもしれません。

どんな体験もダイナミックなものです。

反応するということは生きているということですから。

人生はどのように生きても構わないのです。

あなたが望んで あなたが幸せなように生きてください。

それにはいいも悪いも 本当は無いのです。

いいじゃありませんか、

いずれにせよ 生きたいように生きてきたのです

今からはもっと生きたいように生きていいのです。

手持ちのコマとかカードとか駆使して生きたいように生きましょう。

出来るように生きればいいのです。あなた以外の誰も
それを責めることなどできません。

今の身体で生きている時間は意外と短いものです。

だけど、この体が老朽化して終わっても 私たちの魂は消滅するわけではありません。

命はずっと続いて私たちは命として続いていくのです。

また生まれる地球を住みやすい所にしておきたいものですよね。

美しい地球に生まれてよかったと。

神様の手足

善い生き方ができると良いですよねぇ

人に優しくできると良いですよねぇ

清く正しく生きられたらいいですよね

でも、でもでも なかなかそれが出来ないのが人間。

愚痴なんて言うもんじゃないって常日頃思っているし人にもそう言うくせに
気が付くと 愚痴っちゃったり、

人に迷惑かけたくないのにかけてしまったり、

自分が許せない~ なんて思ってしまうくらいの人はまだいい方で
自分のしたことはなかったかのように振舞ってる人だっているし、
あっ と気付けば 自分だって忘れてた。 なーんてね

うん、人間ってそういう生き物なんですよ。

全然完璧じゃない、

むしろ未熟すぎる生き物。

自分の事を棚に上げて人を非難したり
誰かより自分が偉いなんて思ってみたり

いつのまにかやっちゃってる

でも、いいんじゃないですか?

生きるのに一生懸命 ジタバタしながら生きてます。

滑稽だけど健気(けなげ)

ケージの中のハムスターを見てる時に、

もしかしたら神様は人間のことを こんな風に見てるんじゃないか?なんて思ったりしません?

あ、そっちは違うよ!こっちだよ! あー、あー、ちがうのに。バカだなぁ~。
美味しいオヤツ食べ損ねてやんの。www

なーんてね。

目の前に美味しいオヤツあるのに全然気づかないまま別の場所必死で掘り堀りしちゃって
透明アクリル板越しにキーキー言ってるとか。そんな感じ。

ルートが違うんだよ、行き方があるんだよ

って人間の言葉で言っても通じないしさ。

いくらでもあるのに、目の前のおやつを奪い合ったりなんかして。
分け合うってことを知らねぇのか~! なんて言いたくなったりしてさ。

人間も同じなんだろうなぁ~ って思うよね。

本当は透明のケースの外に神様がいて ちゃんとエサも用意されてるかもしれない ってのに

独占して意地悪なあいつは このケージの中を住みにくい場所にしちゃったりして、

いつも噛んだりキーキーいって周りから嫌われたりなんかして

結局個室に入れるしかなくなるんだよね。

ほらほら、神様の手も嚙んじゃったりして もうおやつとか手渡しでなんかやれないよね~
おやつ上げるの楽しくないよね~ ってなるよね。

いつもおどおどして攻撃的なのはカルマ(トラウマ)のせいなんだけど、
それを受け止めてくれるキャパの大きな神様にしか手に負えないよね。

普通の神様は キーキー攻撃的なハムちゃんはもうそっとしとこう って 構わなくなるよね。

愛され上手は 穏やかでゴキゲンな子。

いつも ありがとう!ありがとう!神様大好き!って短いしっぽでもフリフリなハムちゃん

この世界の構造は 概ね同じなんだよね。

ゴキゲンでいると 神様も喜ぶ!のですよ。

可愛いなぁ!もっと喜ばせちゃう! ってなります。

あなたが 神様側になるとしたら、どれだけハムちゃんになついてもらえるか?
っていう楽しみ方もできるんですよ。

だって、私達一人一人は神様の天使のようなものだから。

神様の代わりに人に親切になれる。

そして笑顔を一緒に楽しめます 😊😇😊😇

未熟でも神様のお手伝い できます。

ここでいう神様は 「大いなる意識」魂の源 のことです。