記憶

時々、思うのですが、

記憶というものは実に曖昧で幻のようなもの。

体験した全てを覚えている訳でもなく、

自分の目線から見えた物事の一部分だけを取り込んでいて、

しかもそれをストーリーとして取り込むのに、

何度も思い返しては意味付けを繰り返します。

「そうだ、私はあの時、こんなこんな事情もあったんだった、だから悪くない」

意識的にではなく、いつのまにかそういう作業をしていて、一番おさまりの良い説明で腑に落としていきます。

もちろんこれはポジティブシンキングでもやるんですけど、

心理学的に言いますと、防衛機制 という心のシステムがあって
転換とか投影とか合理化とか逃避とか抑圧、その他などなど、いろんな形があるんですけど、
要は、不安な事をどうとらえて収めるかで自分の心を護るんです。
そういう心のシステムがある。

それによって、起きたことを自分が楽なように記憶に収めるわけです。

これは解決が問題ではなく、とらえ方なので
自分の都合が良いように納まっていくんですね。

これって、普通の人がごく普通に当たり前に起きるので良いとか悪いとかいうことではありません。
ただ、これらの防衛機制の絡んだ記憶は 事実とはちょっと違う。
色々と色付けされちゃうわけです。

ただでさえ、そういうものが絡んでない記憶にしても、目線が自我なら 目に見えた一面しか見ていないですし、(背景とか原因とか見えてない)
それにカルマの感情や防衛機制が絡むと、解釈が生じて、ニュアンスが変わってきたり、ストーリーが付け加えられたりします。

そして、自我はこれを大いに利用します。

対立している2者からそれぞれの事情を聴くと、全く違った内容が出てきて 何が起きたのか余計に分からなくなることすらありますね。

記憶は無意識に自分に都合が良いように 記憶を書き換えてしまう性質もあります。
その出来事が自分の価値を揺るがしたり、脅かしたりするような怖れがあると
ついつい 嘘をついちゃうんです。自分までだましてしまう。

それは 悪意があるからではありません。防衛機制です。

人間がそういうことをしてしまう生き物である以上、そういうものは無くなりません。

ですから してはいけないこと なのではなくて、そういうものと上手に賢く付き合っていかなければならないのです。

特に自分自身に自信が無い自我は理論武装します。

自分自身を愛していない意識は沢山の怖れを持っています。
自分が自分を愛していないぶん、他者から愛されなければならないからです。

本当は自分で自分を愛せば、他者の力を借りなくてもグランディングできるのですが
わざわざその能力を放棄しています。

これは愛されないかもしれない という過去の怖れ、
愛されなかった という過去の痛み つまりカルマが起こす幻想です
「私は価値がないかもしれない?」

そんなことはありません。

この世に生れ落ちるすべての命は愛で出来ています。
たとえそれがどんな生涯を送ろうとも
どんな負の体験を担当しようとも、

この命は 愛であることを思い出すためにこの世に降りてきています。

ですから、あなた自身の命を幸せに導いてください。

本当はストーリーなど 何とでも書き換えられるのです。

癒しが足らないだけかもしれません。

もしどうしたらよいかわからない時は
誰かを癒してみませんか?

人を癒すと、あなたも癒されます。

(あなたから奪う人は愛では満たされませんのでご注意を)