仏画

今週はアートな週で仏画教室や制作、ギャラリー巡りなど盛りだくさんに過ごしております。

 

よく「なぜ仏画を描こうと思われたんですか?」というご質問をいただきます。

 

私のところは両親に信仰心がなかったので 私も当初は神仏を意識することがありませんでした。

母は自分の辛い体験から、この世に神も仏もあるものか と思っていたようです。

そんなものを頼っても何も向上しない 自分の努力だけが信じられるものでした。

 

でも、いくつかの辛い体験体験や 身体やメンタル面での不調を自分でどうにもできないで苦しんでいました。

そして、自分の不調の原因が心の問題にあると分かってきた時、心を安らかにする手段を探したのでした。

 

心が波立たない 悟りの境地とは どんなものだろう?

信仰というものをすれば それがわかるのだろうか?

救われる という言葉に惹かれました。

できるかどうかわからないことは やってみるしかないのです。

 

体験して判断する 生き方でした。

 

悟りを扱う 仏教系の教えに興味も持ちました。

救い というものを求めて いくつかの宗教を実践してみたこともありました。

ですが、それらの機会では これぞ!という実感を持つことはできませんでした。

 

 

そして 信仰とは別の場面ですが、美しい仏画 に出会うのです。 

心が洗われるような仏画 ならば 描いてみたい 

単純な願望でした。

 

丁度、それまでと違った仕事の形態にしたいと思っていた時期に 仏画に出会ったので

私は仏画を仕事にできる方法を探したのでした。

仏画の絵師を訪ねて 弟子入りしたいとお願いしました。

最初に訪問した工房では、住み込みに近い状態でなければならず、幼い子を抱えている身では無理なので子育てが済んでから来なさいと帰されました。

それでとりあえず、仏画を教えてくれる一般人向けの仏画教室へ行って勉強することにしたのです。

幸い、通いやすい場所に教室が見つかり、月に2回教えて頂けるようになりました。

そして2年ほど通った頃、先生に 仏画の仕事がしたいので もしお手伝いできるようならば使ってください とお願いしました。

ほどなく、工房に来てみないか と言っていただき、工房に通うことになるのです。

念願の仏画の仕事に充実した毎日でした。専門の勉強をするということは 本当に楽しいのです。

知る 学ぶ ということは 喜びと充実感に満たされていました。

あちこちのお寺さんの仏像の修復 

私は彩色担当でしたので 彫刻の方が傷を治したところを補彩したり

新しく制作された仏像に彩色したり、仏画の制作を任されたり

高野山の平成の大修理のプロジェクトチームのリーダーを任せて頂ける事にもなりました。

それが金剛峰寺根本大塔の柱巻き、十六大菩薩像 です。

難しい課題ほど ワクワクする という貴重な体験でした。

それから、家族の事情で九州に引っ越すまで、充実した幸福な日々を送らせていただきました。

それ以外の悩みが吹き飛んでいました。

生涯この仕事ができたらどんなに幸せだろうか?と思いながらも 辞めざるをえなかった理由は、仕事を取るか家族を取るか 選択せねばならなかったからです。

どちらも大事でしたが、その時は家族を優先して九州行きを決めたのでした。

 

人生にはいろんな出来事があり、いろんな選択を迫られる場面があります。

何を選ぶにしても、そこに必要なご縁と体験があり、魂の学びが展開します。ですから選択の失敗というのはないと思っています。

ただ、このまま続けても方向が違う とわかれば 引き返したり打ち切る決断もします。

これらは自分で選んでいるようですが、実際はその時の状況で導かれているようにも感じます。

私たちを生かしているのは私たちの意思 ではなく 与えられた命に私たちが生かされています。

出会いは偶然で必然、チャンスを掴むのも見送るのもある意味運命なのです。

価値がない、しょうもない人生 なんてありません。

もしそのように思っているとしたら、あなたの観念がそういう評価を与えているだけのことです。

私自身の人生の学びは容易くシンプルなものではありませんでしたが、私自身にとってはどれもとても貴重で欠かせない体験だったのだろうと 今はとてもよくわかります。

 

いろんな出会いや体験を通して また、瞑想を通して、心を塞いでいる負の感情のエネルギーを抜きます

そうすると、その下に隠れていた真我の光が輝きだします。

命のエネルギー 

仏のエネルギーとは 真我の愛(慈悲)のエネルギーなのです。

それを知るためにすべての体験が与えられていたと思います。

自分自身の愚かさを知ることも認めることもまた 本当に大切な体験なのです。

 

根本大塔内部