父に思うこと

しばらく大阪でした。 

先月退院して仕事復帰している父の健診に家族が付き添いで病院に行かなければならなかったため、3日ほど大阪に行ってきました

仕事ができるくらい元気  とはいえ なにしろ80代ですから

本当に大丈夫なのか 倒れた時から職場や生活環境を確かめたり

補助できるものを入れられないかいろいろ調べたり各所に相談していました。coldsweats01

 

何もご存じない方のために父のプロフィールをご紹介いたしますと

父は現在、大阪の北新地で最高齢82歳の現役バーテンダーです。

21歳の時バーテンダーのアルバイトに入り、それが本職になってしまい、以来通算61年バーテンダーをしています。

サントリー愚羅馬亭 というお店を経営しています。かつては8店舗ありましたが、今は北新地店を残すのみです。

バーテンダー協会の関西支部長になったこともありました。

現在はバーテンダー協会の名誉顧問なのだそうな。

愚羅馬亭にて

仕事が好きすぎて 引退しません。(笑)

生涯現役と言い張りますが 今年9月に肺炎で倒れ、3週間入院していました。

記憶が曖昧だったので復帰できないのでは と心配しましたが、

無事復帰しまして、職場の様子も確認できました。

家では物忘れだらけでも 職場ではしっかりしております(笑)

不思議ですねぇ~ delicious

今回、丸2日密着して 様子を見てきましたので

色々と話ができました。

 

考えてみれば これまでの人生の中で

父が何を思って生きてきたか ちゃんとわかっていなかったかもしれません。

 

父はおしゃべり好きなので しつこく話しかけられることはよくありましたが、coldsweats01

聞いてもわかってこなかったのかもしれません。

今回は特に 私の知らなかったいろいろな昔話をしてくれました。

父20代

長崎工業高校を卒業後

最初は集団就職で積水化学という会社に就職しました。

兄弟が多かったので進学できなかったものの、

働きながら夜学に通おうと思って大阪に出てきたそうなんですが、

他の会社に勤めた先輩たちは働きながら学校を出る人もいたのに

自分の会社は 夜勤と日勤の入り混じったシフトを日勤のみにしてもらうことができず悩んだそうです。

当時は職場の周囲の人たちの協力がなければ働きながら学校へ行くことはできなかったようです。

就職難の時代、代わりはいくらでもいるから、嫌なら辞めるしかない。

そうして無駄に時間が過ぎていく中、

夜働いて昼間の学校に行くことを知人に勧められ 会社を辞めて夜働くようになったのだそうです。

それまで勤めていた会社は8千円の給料で6千円の寮費を取られていたため、ほとんど貯金ができずにいたそうですが、

雇ってもらった夜のお店では住み込みで寮費は要らず、賄い付きだったので6千円給料の大部分を貯金にできたのだそうです

(この話は初耳です。)

でも住み込みといっても、狭い部屋を数人で共有していたので

部屋で寝るのは先輩だけ

新入りたちはお店の椅子を並べて寝たり、カウンターの上に身体を縛り付けて寝ていた人もいた そうで(笑) 

すごい野営?みたいなことになっていたようです。coldsweats01

20代前半の男子ならではのエピソード?

私たちの頃、芸大生が制作室の床に寝袋で寝るのと似たようなものかな?と

思いつつ聞いていました。(笑)

 

夜の職場の世界は、他店からの引き抜きで従業員の入れ替わりが激しいそうで

先輩がほとんど引き抜かれて出て行って

2,3年もすると自分が古参になってしまうそうですが

たまたま出勤できなくなった店長の代理をさせられたことがきっかけで

その後、正式に店長に任命されてしまったそうです。

そんなこんな時に私が生まれることになって

看護師だった母が働けなくなり、

父は進学を断念して家族を養うことになるのです。

(私のせい?)(苦笑) ですね。

当時、女性は結婚すると働きたくても仕事を辞めなければならなかった と 

よく母が言っていました。

昭和36年・父娘 

トイレと流しが共同のアパートで赤ちゃんのいる夫婦が暮らす

本当に昭和の貧しい若い二人の様子が目に浮かびます。

結婚式もしないで 何の財産も無い二人。

 

クーラーもない暑い夏の日、夫の睡眠時間を確保するために

あせもでぐずる赤ちゃんを泣かせないようにして

抱いて外に出ていた という話を

子供の頃、母からよく聞かされていました。

私はお腹の中にいる頃から落ち着きのない子供で とても手がかかる子だったと

母はよく言っていました。

昭和36年母娘

子供心に聞いていて 大人になってから事情がわかることも色々あります。

赤ちゃんだった私が母の実家に一人で預けられた時の記憶は

父がお店のことでやくざに絡まれて「お前の家族にことはわかっているぞ」と脅されたから とか。coldsweats02

私と弟の兄弟喧嘩の時、母が怒って出て行くふりをして私たちを脅かして喧嘩をやめさせていたのですが

当時、母は色々悩んでいて本気で家を出て行きたいと思っていた とか。coldsweats01

 

月29日勤務で出勤していていた父ですが

たぶん 忍耐力と人望とおおらかな人柄で?

沢山のお客さんや仲間に囲まれ支えられてきたんだと思います。

人の知らない家族関係と 家族の知らない父の人間関係

古い写真を見ると、笑顔の後ろにある かつて断片的に聞いてきた話の数々

当時の生活の様子と 彼らの気持ちが

今になって蘇るような気がします。

私がまだ若い頃にはわからなかった親たちの思いや人生。

こんなに何十年も経って

当時の一人の青年の人生ドラマを

今、私の頭の中のイメージが再現していることに

感慨深いものを感じます。

 

感情というバイブレーションは 時代を越えているのでしょうね。

 

どの時代にも それぞれの人の人生ドラマのバイブレーション(思い)があり

それらは時代を越えて私たち人間の共通の体感をもたらします。

人として生まれて体験するもの

傷付くこと、誤解すること、後悔すること 切なさ 苦悩

そして 愛、涙 感動 です

言葉にはならない バイブレーションを

すべてのみなさんが 内側に秘めています。

 

今も昔も それは何も変わらない。

 

そして それは全て 愛に溶けていくのだな と

実感しています。