前回の路子さんの体験談

真実を解き明かしておられます。

 

路子さんはかの熊本の震災で被災された時、

自分が握りしめていた幻想が剥がれ落ちた経験をされています。

命以外の大事なものなどなかった という感動を体験した と

震災後にお話しておられたことをつい先日のように覚えています。

 

喪失体験は ただ辛いだけの経験ではありません。

古い観念が崩れ去り 新しい意識が誕生します。

覆いを剥がされた真我の目覚めです。

 

私が目覚めを感じたのは 災害がきっかけ ではありませんでした。

私の場合は 依存していた人間関係が切れたことがきっかけでした。

支え合っていたと思っていた友人にとって

自分は必要のない存在だった と分かった時、

いえ、分かりかけた時、自分はそれを必死で否定しようとしていました。

そんなはずはない と思おうとしてひどくジタバタしたんですね。

なぜ 自分がそんなに取り乱すのか 訳が分かりませんでした。

でも、その時の私は あきらかにおかしな人になっていたと思います。

内側でもがくエゴは狂気に見えます

あきらめがつくまでそれが続くんですね。

 

何もない冷静な時には 想像もつかないエゴです。

そんなものは映画やドラマの中だけかと思っていたかもしれません。

でも自分の中にありました。

これは私が特に変な人だから ではなくて、

全ての人の中にある煩悩と呼ばれるものです。

 

自分がそうしておきたかった理想像を作り上げるために

どれだけのエネルギーをそこに注ぎ込んだことでしょうか?

他人事なら ずいぶん愚かなことだ と思ったでしょう。

でも、渦中では自分の姿など見えません。

自分のイメージの渦の中で 溺れまいと必死にもがき続けます。

これを失ったら 生きていけない ・・・そんな感じだったんだろうと思います。

 

そういうものを無理やり引き裂いていく現実は

非情 としか思えないのですが、エゴにとって現実は残酷なものです。

起きる変化は止められません。

エゴが圧力をかけて阻止すればするほど、流れのエネルギーは溜まりに溜まって

激しい崩壊に至ります。

 

そしてエネルギーの決壊、 挫折・絶望 がやって来ます。

エゴの死 です。

理想のイメージは 粉々に砕かれ たただの残骸となります

何もかも失った焼け野原のようなところで絶望に打ちひしがれながら

見つけるものは 何だと思いますか?

 

終わっていない生命活動です。

 

何も終わっていない。

 

命 という愛は 最初から変わらずに ずっと生きています

 

なんだこれは? と 泣き伏せていた顔を上げます。

何も終わっていない。

 

 

むしろ活性化したくらいです。

無くても生きてる。

ただ生きる命そのものを見るのです。

 

失うことへの恐れがぶっ飛びます。

 

そして知るのです

最初から何も所有していなかったし

そもそも 所有という幻想にとらわれていただけだった ということを。

 

私達現代人は 財産やお金というものにとらわれて社会を形成しています。

まるでそれらがなければ生きていけないかのように。

それは間違いです。

それらがない状態で生きたことがない人が そう思っているだけのことです。

 

社会やコミュニティーも様々な在り方があり、

私たちの意識が変われば それはいとも簡単に実現します。

だって、実際にそうして形成されている国が存在するのですから。

 

私たちが天国に住むか地獄に住むか

豊かさに住むか孤独に住むか は、

私たちのイメージ次第でどのようにも場面が変わります。

 

同じ今を どう生きるかは 私達のイメージ次第なのです。

そしてまた、そのイメージすらも 本当はあって無いようなもの

ただの空(くう)でしかありません。

 

私たちはいつでも 空(くう)に帰ることができます。

瞑想に親しむと、空はどこにでもあり

いつでも感じられることができるようになります。