解放して爽やかに

ある可愛い方が、 なぜかとっても自己評価が低くて

とても素晴らしい才能とインテリジェンスを持っているにも関わらず

「私なんか」という言葉をしばしば口にされるのが とっても不思議だったんですね。

本来なら 天狗になってもおかしくないような恵まれた状況なのに

なぜかいつも悲しんで寂しがっていました。

 

原因は親から愛された という記憶がほとんど無い ということ。

 

大事にされたという記憶が とても少なかったこと。

 

本当にそうなのかな?

 

表面的にはそうだったのかもしれない。 

お母さんに こっちを向いて笑って欲しかったのに

お母さんはいつも笑わなかった。体がしんどかったのか もしかしたら鬱だったのかも。

愛せる余裕が少なすぎる大人もいる いろんな境遇でそんな風になってる人

 

だけど、 外から見ると すごく恵まれてる

とっても勉強ができて 簡単に入れない学校に行くことができて 裕福な家庭で 立派な職業につき

キュートで可愛らしくて みんなから愛されても全然不思議じゃない

だけど 本人はそう思えない。

 

ふと 思い出したことがあります

私も若い頃は自己否定ひどかったな。

兄弟4人の中で一番可愛くなかったし。(若い頃可愛かった母は父親似の私を絶対可愛いって言わなかった)

顔が大嫌い、体形が大嫌い、性格が大嫌い、情緒不安定、嘘つき、根暗、生きてるのがイヤ、もう内側が真っ黒けだよ~ なんて

そんな時代もありました(笑)

今はまるで反対。

自分のことは大好き。自分が大好きになれることしかしない。

できないことは許す。誰にも得意でないことはある。 最初からうまくやれることばかりじゃない。

私にはできることと出来ないことがある。

そんな私でも好きでいたいと思うようになったんです。

 

完璧な人なんてないない。

完璧に見える人は隠してるだけかもしれないし、

そのことだけはすごいだけかもだし

私みたいに失敗しても騒がないで黙ってるだけかもしれないし、

失敗しても面白がって笑ってるのかもしれないし。

失敗したら気恥ずかしくてカッコわるいけど、 隠すのはもっとダサい

笑い飛ばそうぜ!

 

ここまで反対になれたのは瞑想のおかげ。

元々あった カオスな私の内面は、鬱積したエネルギーの塊だったんでしょうね。

自分のやることなすこと全てに ? をつけて、どんどん自分を嫌いになっていったけど、

それって基準を外に作っちゃったから。

何か外のものと自分を比べて、いつもいつも比べて、一喜一憂してたんだな。

比べられないものを比べて?つけ。

相当つまらない作業を一生懸命やっちゃってたわけですね。

これは内側に渦巻くエネルギーが出口を失うと中でグルグルしちゃいます。

そんな逃げ場のないエネルギーを解放してくれるのが瞑想。

だから、時々瞑想は心地悪い時もあるんです。

ネガティブが去る時 それらは表面を通って外に出て行きます。。。

道を横切る牛の群れ・・・

通り過ぎるまで気長に待つことにしましょう。

 

今は 自分の感性に注意深く

何が心地よいのか 何が丁度良いのか 何が好きなのか 何がハッピーなのか

感じて選んでる。

 

そして出た結論は 愛 っていいなぁ  です。

 

純粋に 自分の命が 愛で出来ていると実感する時、

私はいつもハッピーなのです。

 

私は 愛 を選びます。