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スタッフブログ

成り行き次第

なりゆきに委ねてみよう。

 

私達人間は ついつい物事をコントロールしたくなる

「あらあら、そうじゃないでしょ?こうやってって言ってるでしょ?なぜ言う事を聞いてくれないの?」

「そんなこともできないの?」「そんなこともわからないの?」

 

と、言われたら

「なぜ言う事を聞かなきゃいけないの?」とか「わからねぇに決まってるだろ」的なことを思ってしまう?(笑)

若い時のそれは 生意気で反抗的と思われ、叩かれがちですが、

今の私は そういうことを思っても、ちょっと方向性が違います

「ああ、言う事を聞いて欲しかったのね」「みんな思うことはそれぞれなんで言わないとわからないですね」

「この世界は思い通りにならないものですよ」

でも、逆に自分がそんな風に(そうじゃないでしょと)思ったりすることもありますよね。

「え~、できないんだ」「ちょっとちょっと、そうじゃない」「あー、それヤバいやつ」「あーらら。」

みんなが最初からちゃんとできるなら揉め事なんて起きないでしょうけど、ちょっと待って。

揉め事作っているのは 責めてる方なんですよね。

 

この世界は 思い通りにならないからこそ面白い世界だ とも。

全部思い通りになったら、ドラマは生まれないですからね。

ドラマ、楽しんでください。ドキドキ ハラハラ

それはただのドラマです。

コントロールしようと思わなければ いろんな展開を楽しむことができます。

結果を「これがいい!」って 決めちゃうと そうでない展開が許せないじゃないですか。

どのみち 思い通りの展開にならないのが常ですので

予想外を楽しんでください。 

なんでもあり。

それはかなり面白い世界です。

こだわり? 

そんなものは あってもなくてもどっちでもいいんですよ。

無駄なこだわりは どのみち剥ぎ取られますから。(笑)

無くなっても 困りません。

 

手放してみる

苦しみを手放したいと思って 悟りを求めて

悟りとは何か?が徐々にわかって来ると

これまで自分が悩まされていた問題が問題だったのではなくて

その事柄を問題にしていた自分の方が苦しみを創り出して

苦しみを握りしめていた ということに気付いていきます。

でも、意識は出来事をすぐに問題視したがるし、

何かあれば感情的な反応は自然と湧いて出てくる。

「嫌な事はやっぱりあるじゃん」と 思うのですが、

悟りとそうでない意識の違いは

その嫌な事をどうにかしたいと思っているかそうでないか の 違いだけだったりします。

え?嫌な事を放っておくの?そんなのいいの? って思うかもしれませんが

そんなんでいいんです。

だって、どうにかできると思っているところが苦しみの始まりだから。

抵抗=カルマの感情 なんですね。

「あー、嫌だ。」「あー、苦手だ」「もう、あっち行ってよ。やめてよ!」って

排除したいものができないことが苦悩なんですが、

そのどうにかする という意図を手放した状態なんですね。

「そんな、やられっぱなし とか無理」と思った時点でもう違う所にいるんです。

でも、あれこれ、考える前に手を出してやり返してたとしたら、それは意図ではないので違わないかも。(笑)

事はただ起きてしまうのです。

怒りも悲しみも痛みも悔しさも ただ起きてしまうだけ。

笑いや喜びが勝手に起きるのと同じように。それらは意図して出て来るものではないんです。

「よーし、次やられたら悔しがってやろう」なんて思わないですよね。

人間は頭で考えて自分や世界をコントロールできるものだと思うようになると悟りからは離れてしまいます。

でも、社会の中での教育は コントロールできることが真っ当な社会人、真っ当な大人 ということになっていますから、悟りと社会での役割や意識はどんどんかけ離れてしまいます。

それの何がよろしくないのか?と言いますと、

よろしくない というわけではないのですが、

社会にとってはそれが都合がよいのでそれが良いということになっているだけなんですが、

その思考やマインド優位で生きていますと、素直な感情をそのまま感じていてはならない というようなことが起きたり、

感性よりも仕組みやルールを重視してコントロールの中で生きることになるので、

それにはまらない感情にダメだしすることになっちゃうんですよね。

その結果 こんな自分じゃダメだ とか、

あんな人じゃダメだ とか

こんな私は大嫌い とか 

思考と感情が足並みをそろえてくれないとかいう 葛藤とストレスが

どんどん大きくなってしまうのです。

 

適材適所 ではなくて

個性を殺したコマとして生きることを強いられたり、

感情を無視して 理想の形だけを生きようとする。

この型にはめる という歪みがストレスと生きづらさです。

型に合わす という行為はデメリットだけしかない というわけではありません。

メリットもあるからこそ 人間はそれをしたがる。

でも、限度を越えたらデメリットの方が大きくなるのですが

ややこしいのは、人によって 持っている個性が違うので 何が合ってて何が合わないかはそれぞれ違う ということですね。

つまり、一つの正しさや 一つの正義 なんてものは無いんですよ。

この世界の中では いろんな要素を持ち合わせた人間や グループ、国家たちが

それぞれの正しさと利権を争って喧嘩したり奪い合ったりしてますが、

自分が生きている世界にネガティブなものをまき散らかすと、自分自身も生きにくくなる ということには気が付いてないんですよね。

そういう状態を仏教なんかでは無明 (暗闇の中で光が見えず狼狽えさまよっている状態)と呼ぶようです。

自らを闇に落とす生き方。

それは得策ではないように思えるのですが、

その真っただ中にいる方々にそう伝えても なかなか響いてくれなかったりします。

それは 彼らの中で 彼らの世界観の正しさの方が大事に見えてしまうから。

皆、自分の世界観しか見えていないので なかなか他の世界観は見えないですよね。

 

世界は今、人間たちに大きな揺さぶりをかけて、

『本当に大事なものはなんだろうね?』という問いかけをしているところ なようで

そのなかなかはっきりしない問いかけ、テーマと向き合うのが

私達人間の大きな学びなのでしょうね。

 

そうそう、答えはすぐに出ないし、1個ではない。

 

ただ、瞑想をして、無の境地にいると、答えはただ一つだということが見えてくるのです。

私たちは 存在

私たちは生きている命。

その命に、本当は、境目も始まりも終わりも無かった ということにだんだん気付いてゆくのです。

私たちはただ生きているのだ 

生きる ということをするために生きているのです。

同じ肉体はタイムリミットが設けられているので、

いろんな形に変容しながら命を紡いでいるそういう存在なのですね。

世界観は自由。(幼少期やDNAにも組み込まれた反応は変えられるものもあれば変わらないものもある)

肉体を脱げは、肉体の癖は消える。

今生では、この(性質や能力の)制限内でどう生きてみるか 可能性を楽しんでみてくださいね。

私の好みは、若い時は「チャレンジ」や「創造」 でしたが、

今は「愛」「楽しい事を選ぶ」「自由」でしょうか。

皆さんも好きなテーマを生きてみてくださいね。

 

今日は とりとめもなく言葉を綴ってみました

蓮

世界観

すっかり春の温かさですね。皆さまお元気にお過ごしでしょうか?

しばらくご無沙汰してしまいました。 久々のブログです。

 

このところしばらく多忙にしておりました。忙しさはもうしばらく続きます。

ブログが更新されない理由は忙しさ だけではなかったですね。

私は元々 左脳型で思考優位なんですが、最近頭の中のお話がすぐ終わってしまうみたいです。

何か課題があると、それについてしばらくあれこれ分析とか、解析?のような思考が始まりますが、

しばらくすると、「そんなこんなの思考も幻想なんですが」とツッコミがはいりますと

必死で考え続ける というモチベーションが無くなってきます coldsweats01

(解説したい欲求?でブログなどは書きあげるものの、思考だけだと持続しない)

そう、頭の中で正しいとか間違ってるとか量る必要がないんですよね。

昔(若い頃)は よくしていたけど、今は ほとんどしないこと ・・・それは

自己弁護

自分をわかってもらいたい などという願望が 本当に必要なくなってしまいました。

共感してもらう とか 理解してもらう、承認してもらう、肯定してもらう という必要性が

無いんですね。

そもそも、なぜそれが必要だったのか・・・。。

自分で自分のことを承認したり愛せていなかったからかな。

 

今は たとえ誰かに批判されたとしても、「ああ、そうかもね」とか「そうなんだ~。そんな風に見えるのか」と思って

だからどうこうしないといけない というのもまた別の問題で、

自分がしようと思えばするし、しようと思わなければしない。

それは前からもそうだったのかもだけど、更に人の意見に左右されなくなってきました。

「だって必要ならするでしょ」 

批判とか非難 というのは 価値観の問題だし、

自己弁護はほんとに必要がない。

で、更に  

過ぎたことをほとんど思い返さない。(健忘か!?)(笑)

まわりで起きていることをコントロールしようという願望が皆無。

それは私がすることじゃないと思っているから。

すべてのことは ただ起きるように起きる。

私が起こしているのでも誰かが起こしているのでもない。

ただ起きて 過ぎ去っていく。

そんな日常。

嫌な事を思い返さない。 必要がないから。

どんなことも起きる時は起きる。

 

ああ、今日もいい一日だ。

日が差していい気候。

暑くても寒くても大した問題じゃない。

何かが起きたら起きたで なんとかするだけ。

地球の裏側も平和になりますように。

本当は争う必要なんてない。

みんな 自分の内側の幻想に駆り立てられて 恐怖を生きてカルマを解放しながら

新たなカルマを作って行くのですが。。。(他者に苦しみを与えること)

わざわざ不幸に生きなくていいんだよ。

何も持っていないことに不安を抱く必要は無い。

なるようになる。なるようにしかならない。

己の内の愛に気付けば なんとでも。

豊かな始まりに立ちましょう。

新しい生き方のスタートです。(ニューライフ)

今日はもう春。

阿蘇五岳

手放して爽やかに

今日は春らしい気候の福岡地方でした。
早 4月です。

少しの間にもいろんなことが起きてきますね。

世界の流れは大きいなぁ と思う今日この頃です。

それぞれの人間の思惑とは別に いろんなことが起きます。

自然の変化だけでもなかなか大きいのですが、

人間のカルマの解放も噴出し続けるようです。

鬱積されたエネルギーは 圧が大きくなりすぎると爆発的に放出されます。

まるで火山です。

それは止めることができません。

その場で止めたとしても、もっと圧が強くなれば更に大きな破壊力で解放が起きますので

解放は早めに出し切るのが望ましいんです。

封じるよりも出す方が解決に向かいます。

カルマの解放、感情の爆発は 出てくる時には 多くの物を巻き込みます。

沢山のホコリを巻き上げて世界が大騒ぎになります。

この時に 巻き込まれる側は 烏合の衆のごとく狼狽えるのは得策ではありません。

危機は危機が大きいほど 冷静さが大事なのです。

怒りの感情が先立つ場合は、第一に敵意を感じる相手を見るのではなく

敵意を感じている自分の感情に向き合ってそれを受け止めること

つまり

 怒っている自分を否定せず、怒りを感じることが大事なんです。

怒っているから報復したり相手を罰していいということではありません。

ただ、怒りを感じてそういう自分を受け止める ことが大切です。

「こんな風に腹が立つ」

「どれだけ腹が立っているか」

「ただただ腹が立つ」

それを感じきってしまいます。

腹立ちが消えるまで腹を立てます。

理由とか正当化とかは不要です。

言いたいことを書き出してみましょう。

人に見せる必要はありません。

自分で向き合うためだけに表現するのです。

気が済むまで紙に書き出してください。

書き出されたものは 自己弁護に使うためではありません。

出されるのはカルマの感情 というゴミです。

ネガティブエネルギー というゴミです。

気が済むまで書き出して それは読み返さなくていいです。

一番いいのは 書き出した紙を燃やしてしまう事です。

怒りがちょっとでも飛び出したらすぐにこれをすると あまり引きずらずに済みます。

他者に見せることを目的にすると 正当化の思考が介入してくるので

他人には見せない方がいいでしょう。

たとえ見せたところで、読んだ人はネガティブエネルギーの毒気に気分が悪くなるだけです。

(大概は全部読んでもらえません。それはただのゴミにしか見えませんので)

あなたはあなたの正義を証明する必要は無いのです。

でも、マインドは言葉で正当化が成り立つと信じていたりするので、言い訳や論争が止まりません。

言葉で勝とうとするのです。

この戦いは 同じカルマを持った人にしか通用しません。

カルマの無い人はこのエネルギーには関与しません。 

解放が終わって、ネガティブが抜けてしまうと、しぼんだ風船のように動くカルマがありません。

圧が強い時は、それが終わると思えないかもしれませんが、

それが抜けてしまうと あったことがウソのように 静まった意識が残ります。

他者のカルマに振り回される時は、自分の中に同種の負のエネルギーがある ということです。

ただ影響されるだけだと思う場合は とことんスルーしましょう。

 

カルマが動く時は解放させて手放す

カルマが無ければ 嵐は避難してスルーしましょう。

注意することは 決してカルマを他者に配らない、人に巻き散らかさない ということです。

撒いたカルマは天に唾するのと同じで また自分に降りかかってしまいます。

カルマは感じて手放すだけで消えて行きます。

瞑想はそれを浄化してくれます。

負のエネルギーが消えると 身体も健康になります。

平和ですっきりした世界は あなた自身が実現するのです。

もし、近くに解放を起こしている人がいたら、「頑張って出し切ってすっきりしてね」と

静かに 遠目に見守りましょう。近づいたらとばっちりが来ますからね。

距離を取ることは大事です。

持て余している方はいつでもご相談ください。

 

スッキリ爽やかな4月をお楽しみください。

 

マーガレット

 

お薦め動画

悟りってどんなものなのか・・・

そんな疑問をお持ちの方に ご紹介したいYoutube動画があります。

金森将さんのチャンネル かなもり幼稚園 の『バタ足ノンデュアリティ』です

画像をクリックするとYoutubeにリンクしています。

かなもりチャンネル1

このチャンネルの動画は3~4分の短編動画のシリーズになっていますので、少しづつ見ていくことができます

一番最初から順にみていく方がわかりやすいかもしれません。

ノンデュアリティ つまり 非二元 が どういうことなのか を 

簡単で具体的な言葉で イメージしやすいように解説されています。

できれば1日1話ずつ 何回も繰り返し聞いてイメージしていただくと 何を言わんとしているかが ほんのりわかってきます。

短い時間なので 聞き流すよりも じっくり聞いてみてください。

え?

そんなこと?

そんな普通の事?

え~ 

なんて思うかもしれません。

でもそれなんですよ。なんでもない普通の事なんです。

だから特別さを探していると見つからないんです。

悟りは 誰にでも身近にあります。

だって 本当はそれしかないんですから。happy01heart01

恋愛

先日、

スピリチュアル的には恋愛ってどういうものなのですか?

というご質問をいただきました。

ツインソウルとかいう言葉もありますね。

私はツインソウル的な存在は 感じたことがありません(笑)

すごく仲が良かったり、そうでなかったり、

パートナーは いろんな関係性があると思います

が、概ね 魂の学びの相手であることが多いようです。

どんな学びか と言いますと、

自分が愛になる学び です。

どうすれば愛されるか ではなく

いかに愛するか  です。

この場合の「愛」は 恋愛的な愛ではありません。

恋愛のように惹かれ合うのは 種の保存のための感情です。

これは長続きしません。することして気が済んだらいずれ冷めていきます。

3ヶ月か3年か30年後、その感情は消えているでしょう。

ただ、恋愛感情が 「愛」に変わっていれば 仲良く添い遂げることはできます。

恋愛は求めること 愛は受けとめる(赦す)こと

真我の愛は ありのままでいさせること です。

スルー や 無関心ということではありません。

温かく静かに見守って 相手の選択を尊重する

相手を信頼する ということです。

あんな相手じゃ信頼なんてできないですよ! と言いたくなるのはエゴの視点なんです。

それは相手があなたの理想になってくれる ということではありません。

本人の命が生きて その命を全うする その運命を受け止める いつか愛に気付く という信頼です。

その命の中に愛が存在する という信頼です。

いやいや、あんな性格、愛なんて欠片もない! なんて思う人もいるかもしれません。

それは 愛でないものが現れているだけのことで、愛はどんな命にもあるのです

いえ、むしろ生命体は愛でしかできていない とさえ言えるほど 愛の結晶なのです。

見るべきものは 相手が愛か愛でないか ではなく、

あなたの波動が 愛なのか そうでないのか、 

あなたがあなたの中に愛を見つけられる という学びなのです。

相手に対してイライラしている時、あなたは相手に何を要求しているのでしょうか?

もし、パートナーのそばにいることがあなたを傷つけることになるならば、

そのことが改善されることがないならば あなたは自分自身を大事にするために

その相手からは離れなければなりません。

この時、執着があると苦しみます。

でも、本当の愛は何か?

相手も自分も大事にするためにはどうすればいいか を見ますと

自ずと方向性は見えてきます。

 

ちなみに、この時、執着が強すぎて執着が手放せないでいますと、

結構な割合で地獄?(あるいは修羅)の感情を見ることになるので

お早めに手放して愛でいることを選択することをお薦めしたいです。

でも、自我は納得しないことには なかなか動きません。

とことん思う通りにすると、最後は(思い通りにはできないと)降参することになりますので

ハートが求めるままに行動することで 最終的には愛になっていきます。

いかなる体験も 最終的には愛に行きつくことで平和が訪れます。

 

恋愛関係だけでなく、親子関係も同じです。

支配せず あるがままに学ばせてあげてください。

体験して愛を学んでいきます。

叱ってもしかれなくても

親の言う事を聞いても聞かなくても 自然の摂理と愛に目覚めるしかないのです。

愛でいれば 愛を見て

愛でないことをすれば、愛でない結果を見るだけのことです。

あなたは ただ 温かい愛でいてください。

それに気付けることが 魂の学び なのです。

蓮華

カルマの解放を自覚する

カルマの解放は 自覚がある時と無い時があります。

自分から負の感情が湧き上がって来るのを冷静に眺めている意識がある時や

どうしてこんな風に感じているんだろう?と 感情と意識が分かれているような時は

それがカルマの解放だと自覚できる時です。

でも、感情に飲み込まれている時は、相手が悪者に見えたり、自分が被害者のように感じたり

自分の正義を主張したくなったりします。

私はマトモなのに相手がおかしい ように見えるのです。

どっちがおかしい とかは 本当はありません。

それぞれに「思い」や「事情」や「カルマ」があるだけなのです。

悲惨なことや残酷なことや 卑怯なことを見ると

多くの意識はそれを否定したくなります。

でも、この世界は正しい事と間違ったことのどちらかに分けられるものではないのです。

更に、そのどちらかに分ける という行為自体が無意味なのです。

なぜなら、意識がつかんでいる現実 というのは 幻想でしかないのです。

意識が掴んでいるイメージは いとも簡単に自我の都合の良いように解釈されてしまいます。

私たちはそれを裁く必要はありません。

それが起きた時に どう心のバランスを取って平和な心に戻るか が大事なことです。

それは自分の気分を害する誰かを除去することではありません。

あなたがあなたから出てくるカルマの感情を手放すことが大事です。

それは感情を感じない ということではありません。

感情は感じるのが当然です。

感じて感じて感じつくしたら それらの負のエネルギーは全部出て行ってしまい、内側に平和が戻ります。

解放はとても重要です。

ただ、解放がある ということを知らなかったり、受け入れていない時など、
その感情が起きたのは誰かのせいだ と思いたくなったり、
自我は自分を護るために必死で正当化をしはじめます。

そんな反応も 自然に起きてしまうのですが、

自分を護ることに必死になってしまうと 責められることを避けるために

必死で矛先を自分以外のものに向けようとあがいてしまい、

それで事態を悪化させてしまいます。

本当は誰が悪いということでもなく、ただ、感情の摩擦が起きただけなのに

そこにストーリーを作り上げて 正しさを力説してしまう。

自我の意識はそれを真実だと信じこみ記憶まですり替え始めます。

だから それぞれの人にとっての真実は違って受け止められてしまうのです。

よく 喧嘩している人たちの片方から話を聞くだけでは本当のことはわからない と言われますが

それは本当にそうなんです。

両方の話を聞いてもわからないこともあります。

第三者から聞いて初めて真相が見えてきたり。。

それでも聞く人の解釈が入り込むと本当のことは見えなくなってしまうこともしばしばです。

 

お釈迦様が説いたお話を表わす般若心経は こういった人々の意識の中にある記憶や考えは幻想のようなもので本当は何もないのだ という内容です。

それらは記憶の中のイメージで 本当は実体がない。

真実とは今この瞬間の世界なんだけれども、

それは一瞬一瞬 刻々と姿を変え続けるとらえようのないもので

あって無いようなもの。それを捉えようとすること自体が無理なんですね。

でも、人は言葉を並べてそれを説明したい。

でも、その説明は何かを固定したり、歪めたり 脚色したりするので

そのストリーの中では悲劇のヒロインが誕生したり、善や悪が生まれたり

恐怖や不安や葛藤や苦しみが生じるのです。

そのストーリーから離れることが悟りの瞬間なのですが、

この感覚は言葉で表すことは不可能なのです。

私はいない という理解が難しいこのフレーズは

我を手放して世界と一体になった瞬間 腑に落ちます。

脈々と形を変え続ける命 それが我々の正体です。

イメージをいじって自我を落ち着かせるのが無駄とは言いませんが、

歪んだ状態を正当化するのはなかなかのエネルギーが要ります。

でも、自我はそういう作業に余念がないのです。

本当はそんなこと手放しても 世界は愛に満ちているのですが、

自我はなかなか自分を裁くことをやめません。

手放してリラックスしてみませんか?

瞑想に入る時 あなたは何者でもない命に戻ります。

瞑想から出てきてもそのまま命で居ていいのです。

あなたは何者でもない命のままで充分祝福されているのです。

どんな言い訳も必要ありません。

罪悪感も持たなくていいのです。

あなたが何かを裁くことをやめれば 

平和な世界と愛はそのまま実現します。

裁いているのは世界ではありません。

あなたの中のストーリーやカルマが うずいているだけかもしれません。

我々は 最初から自由なのです。

心は誰にも縛ることはできないのです。マインドコントロールは手放すことができます。

カルマも手放すことができます。

どうぞ あなた自身を自由にさせてください。

天灯

 

 

悟り

悟りは、いろんなレベルがあるんだと思います。

何か 「わかった!」と思う事を 悟った って表現もしますので

それがお釈迦様やスピリチュアルが言う 悟り とは違うこともあります。

お釈迦様も長年いろんなところでいろんな人々にお説法してまわっておられたので

いろんな意識レベルの話をしていて それが必ずしも色即是空の話ではなかったりします。

それは 究極の悟り『色即是空』の体感を理解するには 体験が少なすぎる人々にとっては

その悟りは理解できないので 話を聞いても混乱するだけだったりするので

聴く人がわかるように心が穏やかになる話をされるんです。

スピリチュアルの世界でも同じです。

究極の悟り の話をしている方と、人間の意識、観念の世界において心が穏やかになる話、

あるいは善を説く話 をしている方々がいます。

仏教の僧侶も同じです。

究極の悟りを目指しているのは高僧か禅宗の僧侶 なのですが、(この目指しているという表現は微妙)

他宗の場合はそうでないことが多いです。

天国や地獄の話をして 良い事を行い、悪い事をしない という

自分自身が幸せになりやすい生き方を 説いています。

究極の悟りは あまりにも掴みどころが無くて・・・

というのも当然で、何も掴まないのが究極の悟り境地 ですので

それを体感するには「あれは?これは?」という質問そのものを全部手放して

瞑想状態に入るしか方法が無いように思います。

あまりにもひどい事が起きすぎて、世界観が壊れてしまった人も 何も掴めなくなって

いきなり悟ってしまったりすることがあるようですが、

それはなかなかの荒療治といいますか そこで手放せなかったら 
自殺か発狂?なんてことになりかねないので (^_^;)
瞑想して悟りたいところですね。

私自身は瞑想してましたが、荒療治的な出来事は起きていたので
私のようなエゴの強い人間は それが必要だったのだろうな と 思っています。

でも、それは必要で私にとっては良い体験でした。

ものすごく分かりやすかった。

強烈に恐れていたこと、強烈に手放せないものが無くなった 後、

それが全くの幻想の怖れだ ということを目の当たりにしたからです。

そう、皆さんの怖れも 幻想です。

この世界は必要な事しか起きません。

そこに抵抗してもあまり好い事は無いのです。

むしろ、コントロールをやめて 自然体にしていた方が

ずっと丁度良い具合に調和して愛が流れ込むようになっているのです。

諸行無常は 残念なことではありません。

無理な執着は維持できないので 自然な流れに任せて

自然を享受することがどれだけ幸福か。

それを体験するのが「さとり」の生き方です。

怖れ ではなく 愛を見つける日々です。

舞鶴公園桜

自然は 愛を歌っています。
 

怒りと怖れを手放す

新しいシステムや技術や習慣に馴染むにはかなりのエネルギーが要りますね。

それが面倒で旧体制に留まりたがるものなのでしょうが、

最初の慣れるまでの苦労を越えると 快適な日々が待っています。

社会生活もマインドも原理は同じなんじゃないかと思います。

マインドは混乱が嫌いです。変化も未知のものが多いので不安になったりするのです。

マインドは未知を恐れます。

それがすごく良いものかもしれないのに、「悪いものだったらどうしよう⁉」と、

ネガティブな想像を優先してしまいます。

保護された猫が檻に入れられて、自分を捕えた人間が

自分を保護しようとしているのか、殺そうとしてるのかわからなくて

近づく人間全部に威嚇して来るのと同じです。

彼らは 人間を傷つけたいと思っているのではなく、

「怖い」のです。

攻撃は最大の防御 なのです。「寄らば噛みつくぞ!フーッ」

威嚇する猫

そんな時に 「せっかく助けようと思ったのに、なんだその態度は!」なんて怒っちゃいけません。

あ、、何叩いちゃってるんですか。 それは殺そうと捕まえた人と同じになっちゃってる・・・。

怖れて凶暴になっているものを力で抑えようとしてはいけません。

落ち着くのを待つ必要があります。

これは人間も同じです。

恐れが大きくなるほど 反発力が大きくなるのです。

互いに恐れ合っているからこそ 喧嘩や戦争になるんでしょうね。

解決の糸口は 冷静さと愛です。

愛のエネルギーの前では 恐怖やトラウマは溶かされてしまいます。

膨れ上がった恐怖は一筋縄ではいかないかもしれません。

以前、子育ての話を聞いた時に

「1のマイナス感情はプラスを10与えないと消せない」と聞いたことがあります。

愛が沢山必要なのでしょうね。

この世界に対して 愛になろうと思えば 全てを愛にすることは実は可能です。

怒りや怖れを手放すことが上手になれば 常に愛に戻ることができるようになります。

たとえ、愛でない思いが湧き上がることがあったとしても、

私やあなたの本質は 愛 なのです。

そこに戻ればいいだけなので、実は難しくはないんですよ。

あなたが愛でいれば あなたの周りに多くの愛の花が咲くでしょう

ほら もう春はすぐそこに。

春

怒る

おつかれさまです。

毎年2月3月に確定申告で悶絶していた国税局e-taxの登録!!!

今年、夫の手助けあって(半ば喧嘩しかけつつ)3年越しの登録がコンプリートできました。

マジで どんだけややこしい shocksweat01

ほんとに、毎年、 
やり方がわからない、 annoy
いくつもの登録関連ページをループし続ける、
カードが読み取れない などなど、
数限りないハードルに阻まれながら 

最終日に会場に駆け込んでいたのですが!!shock

今年も登録ページに入れない地獄に陥って 
諦めて最終日に会場パターンと思っていたところ、

最終日前日にe-taxサーバーがダウンしたそうで
最終日の会場に駆け込む人が殺到するぞ!

  と、ネットで調べてきた旦那さんが 

そばでキレかけている私をなだめながら登録を手伝ってくれたのでした。

しかし、キレれかけたのは 私だけじゃなかった。。。

 

あー、大変だった。。

マジで3年越し。

1人でやったらたぶん一生かかっても出来そうな気がしなかった。

遠吠えの衝動を感じたのでした。「オオーン」

昨年から闘病中の妹の家のお世話も(行き来が)なかなか煩雑で大変ですが、

何と言っても 確定申告が一番大変だった。

国税局さん、もうちょっと手続きの手順 分かりやすくした方がいいよ 

と、真剣に思うのでした。

 

もうこれで 来年は楽にできるよ と言われるんですが、

本当にちゃんとできるのか 全くもって信頼感がない (爆)

ま、喉元すぎれば、全部忘れてるんですけどね。

ついでにやり方も・・・すでに忘却の彼方・・・・

yuzu

瞑想しよう  というか失神。

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