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意識

流れのままに

人の願望って いろいろあると思うんですが

本当の所 みんな 幸せでいたいものですよね (例外はあるかも?)

幸せを味わいたくて

 〇〇だったら幸せだろう とか △△を持っていたら幸せな気持ちになれるに違いない とか

もっと美しければ・・・ とか もっと強ければ・・・ とか 

もっとお金持ちだったら・・・ とか

あの人が居なかったら・・・ とか これでなければ・・・ とか あの人みたいに・・・ とか

私だけの何か誇れるもの・・・ とか, etc. 

幸せになりたくて それぞれにいろんなものを欲しがったり、何かを取り除きたがったり、どうにかなることを望むんだろうと思うんですね。

だけど、ある時 気が付いちゃうんですよ。

「ありゃ? 幸せって条件で得られるものじゃないかも!?」

そう、何かをしたりしなかったりしたら幸せになれる と思っているうちは 行けども行けども

条件が揃わない  もしくは  条件がそろっても次の問題が出てきてしまう  ということになります。

「いやいや、それはもうわかってるんですよ。条件ではないということはわかってる ただ、」

「現実がどうこう じゃなくて ただ悟りたいんですよ。それさえ体験出来れば」 と

悟りを追い求めてしまったりするんですけど、 これがまた 見当違いだったりするんです。

だって、悟り って 得るもの じゃないから。

その全く逆の ただ 自我が取れる 自我が落ちる 自我が無力化する 自我が諦める 手放す  ということが起きた時に、

『真我』 つまり 悟り がそこにある ということに気付きます。

え? 今までの苦悩と葛藤と 努力と 時間の浪費は どうしてくれんのよ!  って自我がこれまでの努力が無駄だったことを認めたがらずに 諦めることを拒んでしまうと 悟りの感覚は起きません

失って惜しいものがあるうちは この世界観に執着してしまいます。

自我は 手放すことを恐れます。怖いから手放せないんです。

この世の終わりみたいに感じてしまったり。。。

怖すぎるうちは 無理に手放さなくてもいいと思います。

流れに任せておけば いずれ要らないものは勝手に無くなって行きます。

流れに対しては 抵抗も時間の問題ですね。

構えるのをやめて 自分の身の上を 流れに委ねて生きられるようになると、

要らないものは去ってしまいますが、その後にもっと必要なものが与えられる 経験もします。

無くなって悲しんでいると、しばらくして あきらめがついたころに もっと良いものが目の前に現れます。

ああ、このためにあの喪失体験があったのね  って 思えるんですよ。

失って終わりじゃない。 次の流れが来るんです。

これは ちゃんと前の物に諦めをつけた時に 次の流れが来ますよね。

次の流れが来ない って不服を言うのは 失ったものへの執着を外していないのと同じことなので

何かが無くなったり増えたりした時に 流れに文句を言わない方がいいんでしょうね。

いつどんな形が現れるか なんて 神様にも答えられないでしょう。

時間かかる時もありますしね。 また、期待したものが来ないこともある

期待したのと違うものが与えられる ってことも。

つまり その望みは あなたに丁度いいものではなかった ということ。

ここで 幸せは (頭で思い描いていた幸せの形)条件ではない と気付き 

流れのままに今を生きる というスタンスになった時

悟りとか本当の幸せはこれか  という実感を持つようになります。

 

手放す時は 今までの価値観や世界観は崩壊するんですよね。しばし混乱するかもです。

大事すぎるものがある人は その執着が薄まらないうちは なかなかわかりづらいですので、

これまでのものは 手放す(執着しない)ようにしていきます。

大きく何かを失った人は それを受け入れた時に悟りを体験されることも多いので

瞑想もしていないのに 大きな喪失体験で悟りが開いてしまう方もいらっしゃいます。

なのでネガティブ体験は あなたが悟って苦を手放すためのきっかけ(プレゼント)だと言えるんですよね。

自我の意識はもがきますが、何が起きていても本当は大丈夫なのです。

 

実際、この命さえ 自分のもの ではなく 

ただこの意識は この世界に起きているだけのことだったりするのですから。

そうそう、プライド なんてものも 限りなく幻想です。

誰のためにもならず、あなたのためにもなってないなら そんなプライドは無い方がずっと自由で快適ですね。

 

幸せになりたくて 不幸にまっしぐら なのは残念なことですよ。

あなたは 簡単に幸せになってください。

つまらないものも 一見そうでないものも そっと手放してしまえばよいのです。

あがいてもあがかなくてもどっちでもいいんです。

あとは 自然の流れが淘汰していきます。

金襴流水に桜

画像は京都西陣織の金襴緞子の流水に桜模様

日本の伝統紋様は 自然の流れゆく様を美しくとらえるんですね。

成り行き次第

なりゆきに委ねてみよう。

 

私達人間は ついつい物事をコントロールしたくなる

「あらあら、そうじゃないでしょ?こうやってって言ってるでしょ?なぜ言う事を聞いてくれないの?」

「そんなこともできないの?」「そんなこともわからないの?」

 

と、言われたら

「なぜ言う事を聞かなきゃいけないの?」とか「わからねぇに決まってるだろ」的なことを思ってしまう?(笑)

若い時のそれは 生意気で反抗的と思われ、叩かれがちですが、

今の私は そういうことを思っても、ちょっと方向性が違います

「ああ、言う事を聞いて欲しかったのね」「みんな思うことはそれぞれなんで言わないとわからないですね」

「この世界は思い通りにならないものですよ」

でも、逆に自分がそんな風に(そうじゃないでしょと)思ったりすることもありますよね。

「え~、できないんだ」「ちょっとちょっと、そうじゃない」「あー、それヤバいやつ」「あーらら。」

みんなが最初からちゃんとできるなら揉め事なんて起きないでしょうけど、ちょっと待って。

揉め事作っているのは 責めてる方なんですよね。

 

この世界は 思い通りにならないからこそ面白い世界だ とも。

全部思い通りになったら、ドラマは生まれないですからね。

ドラマ、楽しんでください。ドキドキ ハラハラ

それはただのドラマです。

コントロールしようと思わなければ いろんな展開を楽しむことができます。

結果を「これがいい!」って 決めちゃうと そうでない展開が許せないじゃないですか。

どのみち 思い通りの展開にならないのが常ですので

予想外を楽しんでください。 

なんでもあり。

それはかなり面白い世界です。

こだわり? 

そんなものは あってもなくてもどっちでもいいんですよ。

無駄なこだわりは どのみち剥ぎ取られますから。(笑)

無くなっても 困りません。

 

手放してみる

苦しみを手放したいと思って 悟りを求めて

悟りとは何か?が徐々にわかって来ると

これまで自分が悩まされていた問題が問題だったのではなくて

その事柄を問題にしていた自分の方が苦しみを創り出して

苦しみを握りしめていた ということに気付いていきます。

でも、意識は出来事をすぐに問題視したがるし、

何かあれば感情的な反応は自然と湧いて出てくる。

「嫌な事はやっぱりあるじゃん」と 思うのですが、

悟りとそうでない意識の違いは

その嫌な事をどうにかしたいと思っているかそうでないか の 違いだけだったりします。

え?嫌な事を放っておくの?そんなのいいの? って思うかもしれませんが

そんなんでいいんです。

だって、どうにかできると思っているところが苦しみの始まりだから。

抵抗=カルマの感情 なんですね。

「あー、嫌だ。」「あー、苦手だ」「もう、あっち行ってよ。やめてよ!」って

排除したいものができないことが苦悩なんですが、

そのどうにかする という意図を手放した状態なんですね。

「そんな、やられっぱなし とか無理」と思った時点でもう違う所にいるんです。

でも、あれこれ、考える前に手を出してやり返してたとしたら、それは意図ではないので違わないかも。(笑)

事はただ起きてしまうのです。

怒りも悲しみも痛みも悔しさも ただ起きてしまうだけ。

笑いや喜びが勝手に起きるのと同じように。それらは意図して出て来るものではないんです。

「よーし、次やられたら悔しがってやろう」なんて思わないですよね。

人間は頭で考えて自分や世界をコントロールできるものだと思うようになると悟りからは離れてしまいます。

でも、社会の中での教育は コントロールできることが真っ当な社会人、真っ当な大人 ということになっていますから、悟りと社会での役割や意識はどんどんかけ離れてしまいます。

それの何がよろしくないのか?と言いますと、

よろしくない というわけではないのですが、

社会にとってはそれが都合がよいのでそれが良いということになっているだけなんですが、

その思考やマインド優位で生きていますと、素直な感情をそのまま感じていてはならない というようなことが起きたり、

感性よりも仕組みやルールを重視してコントロールの中で生きることになるので、

それにはまらない感情にダメだしすることになっちゃうんですよね。

その結果 こんな自分じゃダメだ とか、

あんな人じゃダメだ とか

こんな私は大嫌い とか 

思考と感情が足並みをそろえてくれないとかいう 葛藤とストレスが

どんどん大きくなってしまうのです。

 

適材適所 ではなくて

個性を殺したコマとして生きることを強いられたり、

感情を無視して 理想の形だけを生きようとする。

この型にはめる という歪みがストレスと生きづらさです。

型に合わす という行為はデメリットだけしかない というわけではありません。

メリットもあるからこそ 人間はそれをしたがる。

でも、限度を越えたらデメリットの方が大きくなるのですが

ややこしいのは、人によって 持っている個性が違うので 何が合ってて何が合わないかはそれぞれ違う ということですね。

つまり、一つの正しさや 一つの正義 なんてものは無いんですよ。

この世界の中では いろんな要素を持ち合わせた人間や グループ、国家たちが

それぞれの正しさと利権を争って喧嘩したり奪い合ったりしてますが、

自分が生きている世界にネガティブなものをまき散らかすと、自分自身も生きにくくなる ということには気が付いてないんですよね。

そういう状態を仏教なんかでは無明 (暗闇の中で光が見えず狼狽えさまよっている状態)と呼ぶようです。

自らを闇に落とす生き方。

それは得策ではないように思えるのですが、

その真っただ中にいる方々にそう伝えても なかなか響いてくれなかったりします。

それは 彼らの中で 彼らの世界観の正しさの方が大事に見えてしまうから。

皆、自分の世界観しか見えていないので なかなか他の世界観は見えないですよね。

 

世界は今、人間たちに大きな揺さぶりをかけて、

『本当に大事なものはなんだろうね?』という問いかけをしているところ なようで

そのなかなかはっきりしない問いかけ、テーマと向き合うのが

私達人間の大きな学びなのでしょうね。

 

そうそう、答えはすぐに出ないし、1個ではない。

 

ただ、瞑想をして、無の境地にいると、答えはただ一つだということが見えてくるのです。

私たちは 存在

私たちは生きている命。

その命に、本当は、境目も始まりも終わりも無かった ということにだんだん気付いてゆくのです。

私たちはただ生きているのだ 

生きる ということをするために生きているのです。

同じ肉体はタイムリミットが設けられているので、

いろんな形に変容しながら命を紡いでいるそういう存在なのですね。

世界観は自由。(幼少期やDNAにも組み込まれた反応は変えられるものもあれば変わらないものもある)

肉体を脱げは、肉体の癖は消える。

今生では、この(性質や能力の)制限内でどう生きてみるか 可能性を楽しんでみてくださいね。

私の好みは、若い時は「チャレンジ」や「創造」 でしたが、

今は「愛」「楽しい事を選ぶ」「自由」でしょうか。

皆さんも好きなテーマを生きてみてくださいね。

 

今日は とりとめもなく言葉を綴ってみました

蓮

世界観

すっかり春の温かさですね。皆さまお元気にお過ごしでしょうか?

しばらくご無沙汰してしまいました。 久々のブログです。

 

このところしばらく多忙にしておりました。忙しさはもうしばらく続きます。

ブログが更新されない理由は忙しさ だけではなかったですね。

私は元々 左脳型で思考優位なんですが、最近頭の中のお話がすぐ終わってしまうみたいです。

何か課題があると、それについてしばらくあれこれ分析とか、解析?のような思考が始まりますが、

しばらくすると、「そんなこんなの思考も幻想なんですが」とツッコミがはいりますと

必死で考え続ける というモチベーションが無くなってきます coldsweats01

(解説したい欲求?でブログなどは書きあげるものの、思考だけだと持続しない)

そう、頭の中で正しいとか間違ってるとか量る必要がないんですよね。

昔(若い頃)は よくしていたけど、今は ほとんどしないこと ・・・それは

自己弁護

自分をわかってもらいたい などという願望が 本当に必要なくなってしまいました。

共感してもらう とか 理解してもらう、承認してもらう、肯定してもらう という必要性が

無いんですね。

そもそも、なぜそれが必要だったのか・・・。。

自分で自分のことを承認したり愛せていなかったからかな。

 

今は たとえ誰かに批判されたとしても、「ああ、そうかもね」とか「そうなんだ~。そんな風に見えるのか」と思って

だからどうこうしないといけない というのもまた別の問題で、

自分がしようと思えばするし、しようと思わなければしない。

それは前からもそうだったのかもだけど、更に人の意見に左右されなくなってきました。

「だって必要ならするでしょ」 

批判とか非難 というのは 価値観の問題だし、

自己弁護はほんとに必要がない。

で、更に  

過ぎたことをほとんど思い返さない。(健忘か!?)(笑)

まわりで起きていることをコントロールしようという願望が皆無。

それは私がすることじゃないと思っているから。

すべてのことは ただ起きるように起きる。

私が起こしているのでも誰かが起こしているのでもない。

ただ起きて 過ぎ去っていく。

そんな日常。

嫌な事を思い返さない。 必要がないから。

どんなことも起きる時は起きる。

 

ああ、今日もいい一日だ。

日が差していい気候。

暑くても寒くても大した問題じゃない。

何かが起きたら起きたで なんとかするだけ。

地球の裏側も平和になりますように。

本当は争う必要なんてない。

みんな 自分の内側の幻想に駆り立てられて 恐怖を生きてカルマを解放しながら

新たなカルマを作って行くのですが。。。(他者に苦しみを与えること)

わざわざ不幸に生きなくていいんだよ。

何も持っていないことに不安を抱く必要は無い。

なるようになる。なるようにしかならない。

己の内の愛に気付けば なんとでも。

豊かな始まりに立ちましょう。

新しい生き方のスタートです。(ニューライフ)

今日はもう春。

阿蘇五岳

手放して爽やかに

今日は春らしい気候の福岡地方でした。
早 4月です。

少しの間にもいろんなことが起きてきますね。

世界の流れは大きいなぁ と思う今日この頃です。

それぞれの人間の思惑とは別に いろんなことが起きます。

自然の変化だけでもなかなか大きいのですが、

人間のカルマの解放も噴出し続けるようです。

鬱積されたエネルギーは 圧が大きくなりすぎると爆発的に放出されます。

まるで火山です。

それは止めることができません。

その場で止めたとしても、もっと圧が強くなれば更に大きな破壊力で解放が起きますので

解放は早めに出し切るのが望ましいんです。

封じるよりも出す方が解決に向かいます。

カルマの解放、感情の爆発は 出てくる時には 多くの物を巻き込みます。

沢山のホコリを巻き上げて世界が大騒ぎになります。

この時に 巻き込まれる側は 烏合の衆のごとく狼狽えるのは得策ではありません。

危機は危機が大きいほど 冷静さが大事なのです。

怒りの感情が先立つ場合は、第一に敵意を感じる相手を見るのではなく

敵意を感じている自分の感情に向き合ってそれを受け止めること

つまり

 怒っている自分を否定せず、怒りを感じることが大事なんです。

怒っているから報復したり相手を罰していいということではありません。

ただ、怒りを感じてそういう自分を受け止める ことが大切です。

「こんな風に腹が立つ」

「どれだけ腹が立っているか」

「ただただ腹が立つ」

それを感じきってしまいます。

腹立ちが消えるまで腹を立てます。

理由とか正当化とかは不要です。

言いたいことを書き出してみましょう。

人に見せる必要はありません。

自分で向き合うためだけに表現するのです。

気が済むまで紙に書き出してください。

書き出されたものは 自己弁護に使うためではありません。

出されるのはカルマの感情 というゴミです。

ネガティブエネルギー というゴミです。

気が済むまで書き出して それは読み返さなくていいです。

一番いいのは 書き出した紙を燃やしてしまう事です。

怒りがちょっとでも飛び出したらすぐにこれをすると あまり引きずらずに済みます。

他者に見せることを目的にすると 正当化の思考が介入してくるので

他人には見せない方がいいでしょう。

たとえ見せたところで、読んだ人はネガティブエネルギーの毒気に気分が悪くなるだけです。

(大概は全部読んでもらえません。それはただのゴミにしか見えませんので)

あなたはあなたの正義を証明する必要は無いのです。

でも、マインドは言葉で正当化が成り立つと信じていたりするので、言い訳や論争が止まりません。

言葉で勝とうとするのです。

この戦いは 同じカルマを持った人にしか通用しません。

カルマの無い人はこのエネルギーには関与しません。 

解放が終わって、ネガティブが抜けてしまうと、しぼんだ風船のように動くカルマがありません。

圧が強い時は、それが終わると思えないかもしれませんが、

それが抜けてしまうと あったことがウソのように 静まった意識が残ります。

他者のカルマに振り回される時は、自分の中に同種の負のエネルギーがある ということです。

ただ影響されるだけだと思う場合は とことんスルーしましょう。

 

カルマが動く時は解放させて手放す

カルマが無ければ 嵐は避難してスルーしましょう。

注意することは 決してカルマを他者に配らない、人に巻き散らかさない ということです。

撒いたカルマは天に唾するのと同じで また自分に降りかかってしまいます。

カルマは感じて手放すだけで消えて行きます。

瞑想はそれを浄化してくれます。

負のエネルギーが消えると 身体も健康になります。

平和ですっきりした世界は あなた自身が実現するのです。

もし、近くに解放を起こしている人がいたら、「頑張って出し切ってすっきりしてね」と

静かに 遠目に見守りましょう。近づいたらとばっちりが来ますからね。

距離を取ることは大事です。

持て余している方はいつでもご相談ください。

 

スッキリ爽やかな4月をお楽しみください。

 

マーガレット

 

カルマの解放を自覚する

カルマの解放は 自覚がある時と無い時があります。

自分から負の感情が湧き上がって来るのを冷静に眺めている意識がある時や

どうしてこんな風に感じているんだろう?と 感情と意識が分かれているような時は

それがカルマの解放だと自覚できる時です。

でも、感情に飲み込まれている時は、相手が悪者に見えたり、自分が被害者のように感じたり

自分の正義を主張したくなったりします。

私はマトモなのに相手がおかしい ように見えるのです。

どっちがおかしい とかは 本当はありません。

それぞれに「思い」や「事情」や「カルマ」があるだけなのです。

悲惨なことや残酷なことや 卑怯なことを見ると

多くの意識はそれを否定したくなります。

でも、この世界は正しい事と間違ったことのどちらかに分けられるものではないのです。

更に、そのどちらかに分ける という行為自体が無意味なのです。

なぜなら、意識がつかんでいる現実 というのは 幻想でしかないのです。

意識が掴んでいるイメージは いとも簡単に自我の都合の良いように解釈されてしまいます。

私たちはそれを裁く必要はありません。

それが起きた時に どう心のバランスを取って平和な心に戻るか が大事なことです。

それは自分の気分を害する誰かを除去することではありません。

あなたがあなたから出てくるカルマの感情を手放すことが大事です。

それは感情を感じない ということではありません。

感情は感じるのが当然です。

感じて感じて感じつくしたら それらの負のエネルギーは全部出て行ってしまい、内側に平和が戻ります。

解放はとても重要です。

ただ、解放がある ということを知らなかったり、受け入れていない時など、
その感情が起きたのは誰かのせいだ と思いたくなったり、
自我は自分を護るために必死で正当化をしはじめます。

そんな反応も 自然に起きてしまうのですが、

自分を護ることに必死になってしまうと 責められることを避けるために

必死で矛先を自分以外のものに向けようとあがいてしまい、

それで事態を悪化させてしまいます。

本当は誰が悪いということでもなく、ただ、感情の摩擦が起きただけなのに

そこにストーリーを作り上げて 正しさを力説してしまう。

自我の意識はそれを真実だと信じこみ記憶まですり替え始めます。

だから それぞれの人にとっての真実は違って受け止められてしまうのです。

よく 喧嘩している人たちの片方から話を聞くだけでは本当のことはわからない と言われますが

それは本当にそうなんです。

両方の話を聞いてもわからないこともあります。

第三者から聞いて初めて真相が見えてきたり。。

それでも聞く人の解釈が入り込むと本当のことは見えなくなってしまうこともしばしばです。

 

お釈迦様が説いたお話を表わす般若心経は こういった人々の意識の中にある記憶や考えは幻想のようなもので本当は何もないのだ という内容です。

それらは記憶の中のイメージで 本当は実体がない。

真実とは今この瞬間の世界なんだけれども、

それは一瞬一瞬 刻々と姿を変え続けるとらえようのないもので

あって無いようなもの。それを捉えようとすること自体が無理なんですね。

でも、人は言葉を並べてそれを説明したい。

でも、その説明は何かを固定したり、歪めたり 脚色したりするので

そのストリーの中では悲劇のヒロインが誕生したり、善や悪が生まれたり

恐怖や不安や葛藤や苦しみが生じるのです。

そのストーリーから離れることが悟りの瞬間なのですが、

この感覚は言葉で表すことは不可能なのです。

私はいない という理解が難しいこのフレーズは

我を手放して世界と一体になった瞬間 腑に落ちます。

脈々と形を変え続ける命 それが我々の正体です。

イメージをいじって自我を落ち着かせるのが無駄とは言いませんが、

歪んだ状態を正当化するのはなかなかのエネルギーが要ります。

でも、自我はそういう作業に余念がないのです。

本当はそんなこと手放しても 世界は愛に満ちているのですが、

自我はなかなか自分を裁くことをやめません。

手放してリラックスしてみませんか?

瞑想に入る時 あなたは何者でもない命に戻ります。

瞑想から出てきてもそのまま命で居ていいのです。

あなたは何者でもない命のままで充分祝福されているのです。

どんな言い訳も必要ありません。

罪悪感も持たなくていいのです。

あなたが何かを裁くことをやめれば 

平和な世界と愛はそのまま実現します。

裁いているのは世界ではありません。

あなたの中のストーリーやカルマが うずいているだけかもしれません。

我々は 最初から自由なのです。

心は誰にも縛ることはできないのです。マインドコントロールは手放すことができます。

カルマも手放すことができます。

どうぞ あなた自身を自由にさせてください。

天灯

 

 

怒りと怖れを手放す

新しいシステムや技術や習慣に馴染むにはかなりのエネルギーが要りますね。

それが面倒で旧体制に留まりたがるものなのでしょうが、

最初の慣れるまでの苦労を越えると 快適な日々が待っています。

社会生活もマインドも原理は同じなんじゃないかと思います。

マインドは混乱が嫌いです。変化も未知のものが多いので不安になったりするのです。

マインドは未知を恐れます。

それがすごく良いものかもしれないのに、「悪いものだったらどうしよう⁉」と、

ネガティブな想像を優先してしまいます。

保護された猫が檻に入れられて、自分を捕えた人間が

自分を保護しようとしているのか、殺そうとしてるのかわからなくて

近づく人間全部に威嚇して来るのと同じです。

彼らは 人間を傷つけたいと思っているのではなく、

「怖い」のです。

攻撃は最大の防御 なのです。「寄らば噛みつくぞ!フーッ」

威嚇する猫

そんな時に 「せっかく助けようと思ったのに、なんだその態度は!」なんて怒っちゃいけません。

あ、、何叩いちゃってるんですか。 それは殺そうと捕まえた人と同じになっちゃってる・・・。

怖れて凶暴になっているものを力で抑えようとしてはいけません。

落ち着くのを待つ必要があります。

これは人間も同じです。

恐れが大きくなるほど 反発力が大きくなるのです。

互いに恐れ合っているからこそ 喧嘩や戦争になるんでしょうね。

解決の糸口は 冷静さと愛です。

愛のエネルギーの前では 恐怖やトラウマは溶かされてしまいます。

膨れ上がった恐怖は一筋縄ではいかないかもしれません。

以前、子育ての話を聞いた時に

「1のマイナス感情はプラスを10与えないと消せない」と聞いたことがあります。

愛が沢山必要なのでしょうね。

この世界に対して 愛になろうと思えば 全てを愛にすることは実は可能です。

怒りや怖れを手放すことが上手になれば 常に愛に戻ることができるようになります。

たとえ、愛でない思いが湧き上がることがあったとしても、

私やあなたの本質は 愛 なのです。

そこに戻ればいいだけなので、実は難しくはないんですよ。

あなたが愛でいれば あなたの周りに多くの愛の花が咲くでしょう

ほら もう春はすぐそこに。

春

自我の視点と真実

前回のブログで 

『自我が強いと 自分がどう扱われるかが最大重要事項になってしまうので、真実は見えません。』

と書きました。

真実って 何? と思った方、お一人ではなかったと思いますので もう少し書き進めてみたいと思います。

そもそも人間の意識、自分が見たものを自分の都合で解釈しております。

相手がどう思っているか、それはどういうことなのか、 結構誤解していたり、決めつけて固定してしまっていたり気持ちの行き違い そんなことがとても多いと思いませんか?

「あの人が怒っているのは私のせいだ」とか「こんなことをやらかしたら、おしまいよね」とか

「失礼な人!私をバカにしているわ」とか 。。。 本当にそうだと思いますか?

ちょっと古い意識となるとわかりやすいですよ

「結婚できない人は何か欠陥がある」なんて私の親の世代はそう思っていました

「出世しないと世の中から認めてもらえない」「大企業に勤めないと負け犬」などもそう

もっと古い時代の意識だと 忠義は最高の美徳だったわけです。

お殿様のために死ぬのは栄誉?

命よりプライドが大事とされた武士たち。ご苦労様です。

価値観に縛られる時代は終わって行きますね。

時代が変わってどんどん物差しも変わって行きますけど、そんな形を変わる物差しを頼りにすることほど心もとないことは無い。。。

みな、自分の信じていること以外の奇妙さはすぐにわかりますけど。

自分のことだけは よくわからないんですよね。 不思議。

これね、からくりがあるんですよ。

誰しも、自分の信じていることは 真実にしか見えないんです。

 

物事の流れは 信じているように展開する 宇宙の法則が働いていますからね。

あなたの信じていることがあなたの回りに起きます。

これ、すごく楽しくていい事ばかりでハッピーな人生なら ぜひそのままでいいです。

でも、そうでないとしたら あなたは何を信じてしまっているんでしょうか?

要らない思い込み 手放した方がお得です。

 

瞑想では、全ての思い込み 全ての幻想を手放してただ事象を眺めるモードに立ち返っていきます。

赤ちゃんみたいに 無垢に何の思い込みも持ち込まず、

でも、今のあなたはいろんなことを知った上で 思い込みにとらわれない生き方を選んでいくのです。

これは考え方の癖を修正するようなものでもありますので

瞑想でカルマを手放して反応を緩め、意識は、意識的に要らないものを手放します。

それができると、啓発したマインドで生きることが可能になります。

啓発(悟り)、 自由で軽い カルマの幻想にとらわれない意識 です。

 

真実とは何か 以前、あるお友達が分かりやすいお話をしてくれたのを思い出しました。

小学生の男の子を持つお母さん、

ある日、学校から電話がかかってきて担任の先生が言いました

「息子さんがお友達の喧嘩に巻き込まれて怪我をされました。ちょっと切ったので病院で処置をしました。酷い怪我ではなくお医者様も大丈夫とのことでした」

あら、嫌ねぇ、などと思ってしばらく待っていると息子が学校から帰って来ました。

頭に包帯を巻いています。

えっ?頭?大丈夫なの?思っていたよりひどい事になっていて お母さんはびっくり。

なんで他の子の喧嘩でうちの子がケガさせられなきゃいけないの?

お母さんは頭に来て 息子に聞きます。

誰があなたに怪我をさせたの?許せないわ。謝らせないと!

お母さん、大事な息子が悪くも無いのに傷つけられて怒り心頭です。

すると子供が言いました。

おかあさん、誰も悪くないよ。

A君とB君がふざけて取っ組み合いをしてたのに僕の足がひっかかってコケて怪我しちゃっただけだよ。

誰も僕を怪我させてないよ。先生やA君B君は心配してくれたたけど、僕は元気だよ。

と笑顔で言ったんです。

 

お母さんの 加害者ありき な視点と、息子くんの何の偏見も無い視点

この違いがわかりますでしょうか。

真実とは何なのか 改めて物事をとらえ直してみてもいいかもしれません。

それにしても 笑顔は無敵 かも。

ワンコ

反抗期?

SNSのみなさんの投稿を見ていると時々しばしばとても好い事が書いてあって嬉しくなります。

ある方の投稿で 「反抗期って子供が親に逆らう時期、ではなくて、親が子供の成長に抵抗する時期なんですね」って書いてあって、

あ~、そうよ、そうそう。って笑いました。

私も子供の成長の際には抵抗を感じる時があって、

自分のやり方が受け入れてもらいにくい時とかに「う~む」と「どうしたらいいのじゃ」と困惑する事がありました。長女次女共に高校生の頃ですね。

当時の私は丁度、『あるがままにさせておく』という取り組みをしていたので

ああしろこうしろ と口を出すことを必死にガマンしていました。

と言っても しばしば 自分の考えを言ってしまうようなことはありましたので

これはジッと見ていたら、ぜったい言ってしまう と思いましたので、a

あまり見すぎないように頑張っていましたね。

小学生の間は まだ幼いので生活のルールなど、いろんなことを教える時期だと思いますけど、

中学高校になって来ると(若いですが)もう子供(児童)ではないので

自分で考えて行動させる、自分のすることに責任を持たせる ということをしていました。

これは、この頃、私も自分の仕事を再開する取り組みをしていたので家事や子供の世話が行き届かないということも一因でしたが、

子供のすることに口出しをしすぎて良いことなど何にもない ということは分かっていたので

放っておく というよりは、いろいろ娘たちに頼む ということをしていました。

一番最初は、してもらうことは 逆に手間がかかったりします。

やり方を教えたり、ちょっとの労力だけで出来るようにお膳立てしたりと下準備がかかりましたからね。

でも、子供自身が自分たちの生活を自分で回せるようになる ということは大人になって行く上で大事な事だと考え、親がなんでもやってしまわない ということが私自身にも必要でしたので頑張りました。

そんなこんな経過があり、長女が大学2年の頃、私はチェンマイでの2ヶ月の瞑想教師コースに行ってしまうのです。

当時の最初の夫は 家事をしてくれる人ではなかったのですが、娘たちが食事を作れるようになっていたので 大丈夫だ と思ったんですね。

何事もなく平穏無事?というわけではありませんでしたが(笑)

私は途中で帰らされることもなく 瞑想教師の資格を取って帰国しました。

2011年のことです。

正直言うと、私は子育ては苦手だったんですね。

子供が大好き とは言えなかった。

私の母はずっと「子育ては大変だ。子供はすごく手がかかって親の自由はなくなる」なんてことを私に言って聞かせていたので、小さな子供は苦手だったんですよ。

でも、実際に結婚して産んでみると、それはそれは可愛かった。

確かに子育て、超寝不足になりますし「え”え”~っ」って言うほど大変な時期もあるんですが、

手がかかる時期ほど 子供って可愛いので、これはしんどさもチャラだな なんて思った。

ただ、自分の性格に問題を感じていましたので、充分覚悟してかからないと ちゃんと育てられないかもしれない って 危惧してたんですよ。

なので、ずっと家に籠って子育てだけする ことは避けました。

保育園に預けて仕事をしたんです。

そのくらいの時間が自分には合っていたと 思いますし、

子育てが上手な保育士さんに預けることは 安心の一つでもあったんですね。

担任の先生は素晴らしい方も「ん?」という方もおられましたが、

多くの子供たちと関わりながら育った娘たちは とても健全に育ってくれて

私はそれが一番幸せなことだと思っています。

何かに抜きんでていようがいまいが、

大きな欠点があろうがなかろうが

その個性を持って 自由に羽ばたいて欲しい 成功も失敗も 自分の意志で選んで

人生を味わい尽くしてほしいのです。

私自身がエゴが強い子供だったので、そもそも人の言う事をあまり聞かない方なので

親が言う事を聞かそうとしたら余計に悪いことになる ということは分かっていました。

反発していた頃は わざと言われる事と反対のことをしていたこともありますし(ひどいshock

私のことを勝手に決めるな!って思ってたんですね。

嫌な事は絶対できないし、納得しないで言う事を聞く ってことはあり得ない という

超面倒くさい小賢しい子供で、(-_-;)

いや、まだ親とのバトルが あれだけだったのは 辛抱強いいい親だったんじゃないか って ほんと思いますよ。coldsweats01

子供は思い通りにしようとすればするほど、反抗します。

自分が生んだかもしれないけど、別の魂だ ということをしっかり理解した方がいいですよね。

成功や安全だけがすばらしいこと なのではないのです。

特に若い魂、いろんなイレギュラーを味わう時期なので 

揉まれた方がいいです。

決して枠にはめないであげてください。

世間に出れば それなりに頭を打って 角が取れて行きます。

 

そう、角が取れないと生きづらいですよ。

そのとんがった エゴというトゲトゲで他者を攻撃したり、自分がヒリヒリしたりして

守ろうと思えば思うほど生きづらい。

枠は首輪のように自分を締め付けます。

自由は、物理的なものではありません。

あなたの意識が自由かどうかが大事です。

目をつむって、世界を感じる時、無限に広がれる自由さです。

 

どんな物理的不自由があろうとも

魂が自由ならば あなたのストレスは霧が晴れるように取れて行きます。

本当は自由だった 制限を設けていたのは 私の意識だった。

誰かから言いつけられたかもしれないそのルール

採用するもしないも あなたの自由なのです。
 

あ、法律?

それは、法律の場合は、破るとペナルティーがある というだけのことです。

ペナルティーあるなら 引き受けて自由でいればいいんじゃないでしょうか。

私はそう思っていましたね。

どういう結果であろうとも なるようになっていくものなのです。

あなたの意識が 愛である限り、あなたの周りには愛しか集まりません

愛じゃないものがあったとしても 愛に戻って行けばいいだけなのです

 

子供にそう教えたかったんですね。

伝わっているのかどうかわかりませんけれども 

自由で素敵な大人でいてください。

マーガレット

フィーリングとマインド

ふとしたことで、昔 感じていたことを思い出しました。

まだ20代の頃だったと思います。

その頃 自分のことを理解してもらいたい と強く望んでいたことがありました。

自分のことを分かって欲しい

気持とか事情とか、苦しさとか、なぜそうなっているのか とか

伝えたいけど伝わらない焦り みたいなものがありました。

言葉にするのが難しい ということもありましたが、

そもそも 自分が何をどう感じているのかを 自分でもわかっていませんでした。

自分のことを説明するのに 自分の生い立ちとか体験を話すことを必要だと思い込んでいましたが、

どれだけ言葉を重ねても伝えきったという感覚が全くもてませんでした。

たとえ、相手が わかったよ と言ってくれたとしても 

本当のことを分かっていないとすぐに不安になってまた 説明したくなる

というような 超めんどくさいジレンマに陥っていた 感じがします。

今の自分がそれを振り返ってみると

そりゃそうでしょうよ と 言いたくなります(笑)

だって、自分で これはNGだ こんなんじゃダメだ と思っていることを

それは事情があってしょうがない ということにしたかった(無意識の意識)があったのです。

これは 当時の私だけがそうなのではなくて、

多くの人間の自我さんたちはそれをしているんですね。

こんなんじゃダメなんだけども、自分の意志ではどうにもならない避けられない事情があってそうなっている ということを他者に証明したい  と言う願望。

そうでもしないと自己承認ができない 自己イメージの低さから来ている思い なんですよ。

自分のことを否定するジャッジ。

これ、必要ないんですよね。

なぜ? かと言いますと、

自分の衝動 と言うのは、そういう風な生き物に生まれてきているから  なんです。

でも、社会生活を送る上で 不都合な衝動は 抑えるように訓練されているのが大人だったりするわけですが、

自分の内なる欲求や身体の求めるものをマインドが過剰に抑え込んだ結果が

強烈なストレスになるわけです。

これ、過剰適応 って言うんですね。

そのルールを採用しているのは他ならぬ自分自身なんですが・・・

最初は親の意向だったかもしれませんし、学校の先生とか

周りの大人とか ともだちとか 環境に適応しようとしてそれを採用したかもしれませんが、

そのルール

使うも使わないも あなた次第なのです。

この自由選択ができているか自分に許してないか の違い。

え?? それ外しちゃダメでしょ? 生きていけないでしょ?

な~んて いつの間に思いこんでしまっていたのか。

生きていけます。 そんなルール無くても 生きてる人が沢山います。

私はダメなの なんて 自分で制限かけるほど バカバカしいことは無いんです。

え? なぜかって?

そんなの生きづらいから ですよ。

生きやすいように生きましょう。

それはダメ っている呪いを解いちゃいましょう。

だって、宇宙には良いも悪いもないんです。

ただ、因果という あなたの行動による結果があるだけ。

あなたの選択と結果

どっちもどっちな

究極の選択になるかもしれませんが、

ほとんどがそんなものです。

だから選択するんですよ。

マインドは 安全無難リスク回避を重視しますが、

その結果 あなたがワクワクする体験を禁じてしまいます。

無味乾燥な感動の無い人生はつまらない

だから ハートは「あちらに面白い事がある!」と あなたを駆り立てるのです。

そこには人生の学びや気付きが山盛りです。

リスクはいやだ と思っても 安全策の方に落とし穴が無いわけでもなく

どのみち いろんな出来事があります。

どうせなら 楽しくて魂がキラキラと輝く時間を選んでください

何があなたをそうさせるかは あなたにしかわからないのです。

他者は あなたを感じることはできません。

自分で感じて選んでみましょう。

わからない なんて言わないで 

毎日の瞬間瞬間 全てが 選択の連続です。

それをするのもしないのも それを飲むのも飲まないのも

新しい事をするのもしないのも どっちでもいいんです。

感じる ということへ意識を向けるようになると

他者の感じ方も分かるようになってきます。

こんな時はこう感じるのだな

こうされるとこんな風な気持ちになるのか

あなたの経験は あなたの人生を豊かにしていきます。

だからネガティブな感情も無駄にはなりません。

今 辛いことがある方は それをしっかり味わって そして手放してください。

そうすると あなたの魂は経験を積んで一回り大きくなるのです。

あなたは 人間の人生 というものを味わいに この世に生まれてきたのですから。

 

全ての体験にありがとうと言いたい。

それが私の心に愛を育ててくれたから。

この道筋は 全ての魂が何回も生れ変って学んでゆく道なのです。

魂が成長したら何があるのか?って?

それは 存在の至福 という大きな幸福感です。

あなた自身が愛そのものになるのです

そこは不幸が存在できない状態になります

 

自我の意識は 私たちにいろんなチャレンジをさせてくれています。

自分を禁じたり 自分を罰したり そんな体験も知っていれば 他者の苦しみを理解することができますし。

ただ、この世界全てを知ろうとしなくても大丈夫です。

全部を知るにはこの世界は大きすぎ広すぎなのです

だから意識は何十億もの身体に分かれて体験しているのでしょう。

あなたのこの瞬間を工夫してあなたのために生きてください。

何をするかは あなたのフィーリングと環境の具合のバランスです。

あなたは 自分で選び

他者には自分で選ばせてください。

注意することは 他者を傷つけると 自分も傷つけられます。

そう 悪気が無くても人を傷つけることもある。

そして、他者を許すと 他者に許されます。

あなたがこの世界を作っているから 

あなたの行動を躊躇させる心の傷は

癒すしかない。

それは 癒えます。

だから 安心してください。

癒すことには熱心でいてください。

強くても弱くても どちらでもいいんです。

生きやすい生き方、しましょう

どんな生き方がいいのかは 人それぞれです。

あなた自身にしかわかりません。

もしくは 

あなた自身にも分らないかもしれません (笑)

流れは神のみぞ知る。 お任せできれば 味方してくれますよ。

神とも信頼関係で繋がっています。

内なる神を信頼してください。
神の手段は突飛ですけどね。すごいです。

瞑想の光

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