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その他

解放して爽やかに

ある可愛い方が、 なぜかとっても自己評価が低くて

とても素晴らしい才能とインテリジェンスを持っているにも関わらず

「私なんか」という言葉をしばしば口にされるのが とっても不思議だったんですね。

本来なら 天狗になってもおかしくないような恵まれた状況なのに

なぜかいつも悲しんで寂しがっていました。

 

原因は親から愛された という記憶がほとんど無い ということ。

 

大事にされたという記憶が とても少なかったこと。

 

本当にそうなのかな?

 

表面的にはそうだったのかもしれない。 

お母さんに こっちを向いて笑って欲しかったのに

お母さんはいつも笑わなかった。体がしんどかったのか もしかしたら鬱だったのかも。

愛せる余裕が少なすぎる大人もいる いろんな境遇でそんな風になってる人

 

だけど、 外から見ると すごく恵まれてる

とっても勉強ができて 簡単に入れない学校に行くことができて 裕福な家庭で 立派な職業につき

キュートで可愛らしくて みんなから愛されても全然不思議じゃない

だけど 本人はそう思えない。

 

ふと 思い出したことがあります

私も若い頃は自己否定ひどかったな。

兄弟4人の中で一番可愛くなかったし。(若い頃可愛かった母は父親似の私を絶対可愛いって言わなかった)

顔が大嫌い、体形が大嫌い、性格が大嫌い、情緒不安定、嘘つき、根暗、生きてるのがイヤ、もう内側が真っ黒けだよ~ なんて

そんな時代もありました(笑)

今はまるで反対。

自分のことは大好き。自分が大好きになれることしかしない。

できないことは許す。誰にも得意でないことはある。 最初からうまくやれることばかりじゃない。

私にはできることと出来ないことがある。

そんな私でも好きでいたいと思うようになったんです。

 

完璧な人なんてないない。

完璧に見える人は隠してるだけかもしれないし、

そのことだけはすごいだけかもだし

私みたいに失敗しても騒がないで黙ってるだけかもしれないし、

失敗しても面白がって笑ってるのかもしれないし。

失敗したら気恥ずかしくてカッコわるいけど、 隠すのはもっとダサい

笑い飛ばそうぜ!

 

ここまで反対になれたのは瞑想のおかげ。

元々あった カオスな私の内面は、鬱積したエネルギーの塊だったんでしょうね。

自分のやることなすこと全てに ✖ をつけて、どんどん自分を嫌いになっていったけど、

それって基準を外に作っちゃったから。

何か外のものと自分を比べて、いつもいつも比べて、一喜一憂してたんだな。

比べられないものを比べて✖つけ。

相当つまらない作業を一生懸命やっちゃってたわけですね。

これは内側に渦巻くエネルギーが出口を失うと中でグルグルしちゃいます。

そんな逃げ場のないエネルギーを解放してくれるのが瞑想。

だから、時々瞑想は心地悪い時もあるんです。

ネガティブが去る時 それらは表面を通って外に出て行きます。。。

道を横切る牛の群れ・・・

通り過ぎるまで気長に待つことにしましょう。

 

今は 自分の感性に注意深く

何が心地よいのか 何が丁度良いのか 何が好きなのか 何がハッピーなのか

感じて選んでる。

 

そして出た結論は 愛 っていいなぁ  です。

 

純粋に 自分の命が 愛で出来ていると実感する時、

私はいつもハッピーなのです。

 

私は 愛 を選びます。


 

血液型に端を発するあれこれ(笑)

人は皆 困難なことに直面すると ジタバタします。

ジタバタしない人もいるかもしれませんが、

私は基本的に典型的なAB型性格?らしく・・・ 予想外の出来事は超苦手で。。。でした。(笑)

いざという時 役に立たないAB型  とか  壮大なる計画倒れ  とかいう (笑)

そんなAB型・・・ 

 

ww、 いえ、もちろんそうでない立派なAB型のみなさんも沢山いらっしゃることと思います。

血液型の性格は統計学で、そういう傾向がやや強い という割合の問題ですから。

決して決めつけではございません。

私がそれなだけです。。。でした。(笑) 

 

で、  典型的AB型タイプといたしましては、

そんなパニくってる様子を悟られたくないために、

狼狽えまくっていることを顔に出さずに、必死で脳みそをフル回転させるわけです。

「この失態を騒いでは 周りにバレる」 とか 「みっともない様子を晒したくない」とか

「落ち着け!!どうしたらこの状況を回避できるのか!?」とか

「ど ど どうすればいいんだ!解決策はなんだ!???」と

頭がフル回転していたのでございました。

 

なるべく 顔に出さずに。。フリーズして 考えておるのです。

電子計算機並みのスピードの思考

使いすぎて疲れ果てることもしばしばあった・・・ような気がする。。。

超 思考優位。

 

いや、もちろん 思考で解決するわけではありません。

想定でのシュミレーションは 未熟な人間にとっては、、壮大なる計画倒れにも向かっていまいますので 

割と役に立ちません。

この世は予想外の事だらけなのでございます。

 

もうこの世を予想すること自体 無駄な抵抗なのです!と悟った!

 

必要なのは 臨機応変!

無駄な思考フル回転をやめて

全精神力を 今この瞬間の観察に注ぎましょう

 

今、何が起きているのか!?

偏見や決めつけ、狭い判断などしていては 真実は見えてこないのであります

 

かくして 度胸のなかったAB型はコントロールを手放して 観察に腰を据えるのでありました。

観察は 何も絡めないで あるがままを見る です。

意味など思考しません。

本質が見えて答えが見えるまで 狭い判断は手放します。

 

真相を知るまで 真実などわかりません。

真実を知るまで 中途半端な判断などしないがいいでしょう。

それはわからない というのが本当のところ、

今裁く必要はありません。 

 

この世界、いえ、この宇宙は ものすご~く広くて 

蟻よりちょっと大きいくらいの人間が 全てを知り、全てを把握することなど、到底できるものではありません。

マクロからミクロまで 可視領域外にも 私たちには見えていないことが山ほどあるのです。

うまくいこうがいくまいが、そう落ち込むことはありません。

なるようにしかならないものです。

 

いいじゃないですか そのままで

今、幸せでいることを選択してみませんか?

瞑想して お茶でも飲んで ほっこりしましょ。 cafe

 

瞑想のおかげで すっかり予想外のことも狼狽えない今日この頃です。(笑)

般若心経 現代語詳細

前回に引き続き、般若心経!

今度は 原文に近い現代語訳です。

本文を色文字 訳文を黒文字にしています。

お釈迦様の思いも表現してありますね。とても丁寧な訳文です

 

現代語訳『般若心経』


摩訶般若波羅蜜多心経(タイトル)
(まかはんにゃはらみったしんぎょう)

存在が存在することの意味を説いたお経

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
(かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみったじ)

観音菩薩は「自分が存在するとはどういうことなのか」という問いについてとことん向き合った末に、一つの真実にたどり着いた。
その真実について、お伝えしよう。

照見五蘊皆空 度一切苦厄
(しょうけんごおんかいくう どいっさいくやく)

私たち人間という存在は、身と心によって成り立っている。
だから私は、自分とは何かを知るために、この身と心のどこに自分が存在しているのかを確かめようとした。

しかし、物質的な肉体も、視覚・聴覚といった感覚作用も、それを受けとる知覚も、あるいは意思や認識といったあらゆる精神作用すべて、どれを詳細にみても「これこそが自分だ」というようなものを見つけることはできなかった。
確固たる自分は、どこにも存在しなかったのだ。
驚いたことに、「自分」という実体は、じつはこの世界のどこにも存在しなかったのである。
その真実を知って私は驚きを隠せなかったが、同時に苦悩から解き放たれるような安らぎを覚えた。

舎利子
(しゃりし)

(ブッダの弟子の)シャーリプトラよ。
私が知り得た真実とは、「自分が存在しない」という驚くべき事実のことなのだ。
今からその真意について簡潔に話をするから、よく聞いておくれ。

色不異空 空不異色
(しきふいくう くうふいしき)

まず私たちの体を詳細に観察すれば、これは「体」という固有の「もの」が存在するのではなくて、

たとえば原子というような、様々なものがくっついて出来上がっていることがわかるだろう。
つまり「体」が存在するのではなく、いろいろなものが集まってできた「物体」を、私たちは体と「呼んでいる」にすぎないのだ。
これは事実として理解できるね?

体というものは、いや、体だけでなくあらゆる物体は、それ固有の実体が存在しているのではなく、あくまでも何かが集まった「状態」にすぎない。
不変の自分、つまり自性(じしょう)と呼ぶべきものはなく、すべて無自性なのだ。
この、「あらゆる物体に実体はない」という真実に、まず名前を付けてしまおう。
そうだな、「空(くう)」という言葉がいい。
「物体に実体は存在しない」という真実を、「空」と名付けることにするから、これから私が「空」と言ったら、

「物体に実体は存在しない」「自性がない」という意味であると覚えておいておくれ。

色即是空 空即是色
(しきそくぜくう くうそくぜしき)

私たちが感じとるあらゆる物体は、固定的な実体がなく「空」という性質をもっている。
存在を支配する根本の原理は、この「空」という真実なのだ。
そして存在は「空」であり、変化をする性質であるからこそ、あらゆるものは形をもつことができ、また形を変えることができるのである。

もしも固定的な物体が存在したら、その物体は何をどう加工しようとしても変化をしないことになる。
変化をしないから固定的な物体なのだ。
しかしそのようなものは、この世界のどこにも存在しない。
どのようなものであっても変化をし、だからこそこの世界には多種多様な姿や形をしたものが存在している。

受想行識 亦復如是
(じゅそうぎょうしき やくぶにょぜ)

そしてその「空」という性質は、物体だけでなく、精神作用にもあてはまる。
すなわち、感覚・知覚・意思・認識といったあらゆる精神作用も、形こそないが、変化をするという法則のなかにある。
つまり、物体である身も、精神作用である心も、どちらにも固定的な実体は存在しないということだ。
これが何を意味しているかわかるだろうか?
そう、自分とはこの身と心であるにも関わらず、身にも心にも実体としての「自分」が存在しないということなのだ。
固定的な存在としての「自分」は、どこにも存在しないのである。

ただ、私たちは脳という器官があり、「考える」という営みができ、「自分」という概念を想起することができるため、この身と心を具えた一つの物体、つまりが自分という存在を、自分だと認識することができる。
できる、というよりも、認識してしまっている、と言ったほうがより正しいかもしれない。
しかし真実としては、自分というものは存在しないのだ。
これはつまり、「自分」という存在は固定的な存在ではなく、流動的な「状態」の一つにすぎず、結局自分も「空」だということである。

舎利子 是諸法空相
(しゃりし ぜしょほうくうそう)

シャーリプトラよ、驚いただろうか?
それとも、言っている意味がよくわからないだろうか?
もしくは、当たり前のことを言われたような気がしただろうか?

まあ、今はどれでもいい。
あらゆる存在が「空」であるという理解は、当たり前のもの、普遍の事実であるから、今すぐ理解できなくても大丈夫だ。消えてなくなることはない。
これを知ろうと志せば、必ず知ることができる。
ただ、世界の在りようをしっかりと見つめて真実を見抜いていこうとする態度だけは失ってはいけないよ。
このことは人生を生きる上で本当に重要な理解となるから、くれぐれも忘れないでおくれ。

不生不滅 不垢不浄 不増不減
(ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん)

あらゆる存在が「空」だとわかると、面白い事実に気がつくことになる。
私たちは、命は生まれて死ぬものだと考えがちだが、それも違うのだ。
あらゆる存在は、いろいろなものが集まって形を為し、そこに形以上の「はたらき」が生まれて「生きる」という活動をしている。
私たちが、自分を自分だと認識して生きていることも、形以上の不思議な「はたらき」のなせるわざである。
「命」もまた実体として存在するものではなく、それは神秘としか言いようのない、不思議は「はたらき」なのである。
「個」が集まってできた「和」には、単なる個の集合以上の不思議な「はたらき」が具わることがある。
それが、命だ。

だから生き物は、生まれて死ぬのではなく、はじめから実体が存在しない「空」という存在のしかたをするなかで、ただ変化を繰り返している。
この、「存在は変化を繰り返す」という真実には、「無常(むじょう)」という言葉を当てるとしよう。
「存在」「空」「自性がない」「無常」「変化を繰り返す」「常なるものは存在しない」
これらのキーワードはすべて、互いに深く関係しあっているものなのだ。
そして存在には「変化」があるばかりで、生まれもしなければ死にもせず、垢がつくこともなければ浄らかなのでもなく、増えもしなければ減りもしない。
ただ、変化を続けるだけである。

是故空中 無色 無受想行識
(ぜこくうちゅう むしき むじゅうそうぎょうしき)

これまでのことを繰り返すことになってしまうが、もう一度言おう。
身も心も、すべては「空」であり、固定的な実体などというものはどこにも存在しない。
私たちを含むあらゆる存在は、変化するなかで「今はこの状態として存在している」というふうな存在のしかたでしかこの世界に存在することができない。
つまり存在には自性がなく、すべて無自性なのである。

無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
(むげんにびぜっしんに むしきしょうこうみそくほう)
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、心。
そのどこにも不変のものはなく、みな「空」である。
見えたもの、聞こえた音、嗅いだ臭い、食べた味わい、触った感触、抱く思い。
それらもまた「空」であり、不変の実体として存在するものではない。

無眼界乃至無意識界
(むげんかいないしむいしきかい)

私たちは感覚器官で周囲の世界を感じとる。
つまり私たちが理解できる世界とは、自分の感覚器官で感じた世界であって、世界そのものを感じているわけではない。
世界とは、私と世界とが互いに関係し合うところに生まれるものなのだ。
そうした世界もまた、「空」であることに違いはないのだがね。

無無明 亦無無明尽
(むむみょう やくむむみょうじん)

私たちは、真実に眼を向けずに、自分本位の誤った認識で生きることで「苦」という感情を抱く。
真実とは、存在は「空」だということ。
誤った考えとは、自分を含む様々な存在が実体として存在していると思ってしまうこと。
なぜ世界が「空」という真実のもとに存在しているのかは、私にもわからない。
ただ、世界は現にそのように「空」として在るわけだから、これは事実として受け止めるしかない。
あらゆるものは、有るようで無いのである。
それは、ただ無いのとも違う。
やっぱり、有るようで無いのだ。

乃至無老死 亦無老死尽
(ないしむろうし やくむろうしじん)

だから、老いや死ということも、本当は存在しない。
老いや死とは人間の眼から見た、概念としてのみ存在するもので、実際には「空」である存在が変化をして形を変えているだけである。
老いないわけではないが、死なないわけではないが、それはやはり老いでも死でもない。

無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故
(むくしゅうめつどう むちやくむとく いむしょとくこ)

あらゆるものに実体は無いから、苦しみだって本当は無いし、苦しみを無くす方法だってない。
それらはすべて概念でしかなく、その概念を抱く自分という存在もまた、概念でしかない。
じゃあ、あらゆるものは概念なんだと理解すればいいかというと、それも違う。

ここはとてもややこしいところだが、頭で理解するという営みが、すでに虚構なのだ。
これらを知識として理解したところで、それは何も理解していないのとほとんど変わらない。
私たちは知識で何でも得ようとするが、存在の本質に関わる部分では、知識としてこれを得ることなどできはしない。
真実を受け取るとは、知識で理解することではない。
だから、得ることなどできないのだ。

菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
(ぼだいさった えはんにゃはらみったこ

無い無いばかりで申し訳ないが、やはり無いと言うほかに方法がない。
誤った認識の発端は、「有る」と思うことだから、やはりどうしても否定の形をとらざるをえないのだ。

心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖
(しんむけいげ むけいげこ むうくふ)

ただ、存在の本質が「空」であり、私という概念が取り払われ、世界と自分とを隔てる虚構が崩された認識というのは、すがすがしいものである。
わだかまりを抱くことが何もない。
わだかまりを抱く私が存在せず、わだかまりという心もまた、本当には存在しないから当然といえば当然か。
心に何の恐れも生じないのだ。

遠離一切顚倒夢想 究竟涅槃
(おんりいっさいてんどうむそう くぎょうねはん)

人は普通、自分のことは自分でしていると思っていることだろう。
だが、本当にそうだろうか。
たとえば、心臓が絶えず拍動を続けているのは、自分の意思か?
この体を作ったのは、自分か?
熱い物を触ったとき手を引っ込めるのは、はたして考えた上でのことか?
自分の体でありながら、それらは自分の意思とは関係のないところで自ずとはたらき続けてくれているのではないか?

それなのに、多くの人は自分の体は自分のものであり、自分の意思で自分は生きていると思っている。
存在しないはずの自分を「有る」と疑うことなく所有し続けているからだ。
このような誤った考えから離れるだけで、心はずっと安らかになるというのに。

三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提
(さんぜしょぶつ えはんにゃはらみったこ とくあのくたらさんみゃくさんぼだい)

いつの時代であっても、どの国であっても、いかなる宗教を信じていても、この「空」という存在の真理を知っている者は心が安らかでいられる。
よく、「仏」という言葉が使われるが、その仏とはこの「空」を知る者を指す言葉でもあるのだよ。
仏とは「真実に目覚めた者」という意味の言葉だからね。
真実を感得するのに仏教徒でなければならない理由などないのだ。
誰の眼の前にも真実は姿をあらわしているのだから。

故知 般若波羅蜜多 是大神咒 是大明咒 是無上咒 是無等等咒
(こち はんにゃはらみった ぜだいじんしゅ ぜだいみょうしゅ ぜむじょうしゅ ぜむとうどうしゅ)

だからいいかい、存在が存在することの真実を見抜く「般若波羅蜜多」という智慧は、あらゆる人に平等にもたらされるこれ以上ない尊いものなのだ。
人は、「生きる」ということの意味を真剣に考えたとき、必ずこの真実に向き合うことになる。
存在が存在することの意味を知らずして、存在が生きることの意味なんてわかるわけがないからね。

能除一切苦 真実不虚
(のうじょいっさいく しんじつふこ)

あらゆるものは「空」である。
この真実を本当に知る者は、どんな苦しみも、それが概念でしかない自分が築き上げた、さらなる概念であることに気がつくだろう。
だから苦しみから逃れようとして苦しむことなど、あるはずもない。
病などによる痛みや疼きが消えるわけではないが、それらを「苦」と認識して「苦」から逃げようとすることはないという意味だ。

故説般若波羅蜜多咒 即説咒曰
(こせつはんにゃはらみったしゅ そくせつしゅわく)

最後に、この真実を見抜く般若の智慧を、短い咒文で讃えたい。
これだけは意味を訳さないで、古代の言葉のまま読んでほしい。
昔のままの言葉で読むことに意味があるのだ。
だから言葉の細かな意味は知らなくてもいい。
「尊ぶ」という心でもって唱えるだけでいい。
頭で理解することが、理解の全てではないのである。
では、その咒文(真言・マントラ)をここに記しておく。

羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
(ぎゃていぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼじそわか)

ギャーテーギャーテー
ハーラーギャーテー
ハラソーギャーテー
ボウジーソワカー

般若心経
(はんにゃしんぎょう)

これで、存在が存在することの意味を説く、般若心経の教えを終わる。

 

 

     以上 曹洞宗僧侶でエッセイストの佐藤隆定氏の訳文でした。

釈迦三尊像

 

※ 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 を

   「行こう行こう 彼岸へ行こう みんなで苦の無い菩提の道へ 彼岸へ行きましょう」と訳した方もありましたが 

   これはマントラですから本来は何語にも訳せないのでしょうね。

    言語サンスクリット語をカタカナ表記すると

     ガテガテ パラガテ パラサムガテ ボーディスワハ  です

 

   前回の若者言葉般若心経 の ラスト「心配すんな 大丈夫だ」は

  人々の心を緩める 同じ効果を持つ言葉 ということでしょう。

  

サンスクリット語 般若心経音読(ヴェーダ)動画はこちら

何気に貼ってみました。 

お寺

若い方々も集印張を持って寺社巡りをすることが趣味 という方が増えてきたそうで

雑誌などに神社情報の特集が組まれているのもよく見ます。

神社は神道、お寺は仏教 という宗教の違いがあり、

お寺と神社は目的やエネルギーがちょっと違います。

今日はお寺について ちょっとお話してみます。

 

お釈迦様が説かれた仏教の教えの大きな目的は、真理(この世界の本当の在りよう、法則)に目覚め、悟りを開くことが目的なのですが、

お寺は その教えを教え聞かせることと同時に 従事する僧侶や 祀られている仏様の修行の場でもありますので、菩薩業 といって、悩み苦しむ人々を苦しみから救う という修行が行われています。 そのために苦しみから救ってください とお寺を訪れる人々も多いのです。

本来は苦しみというのは心の持ちようで手放すことができる というのが仏教的思想ですので、仏教の 苦しみから救う というのは物質的に救うのではなくて 心から苦しみを取り除く教えを得る場所 ということになりますが、 実際には 物質的願いを叶えます とうたわれているお寺も多く これは 難しい話が分からない人々も祈ることで安心を得る = 救われる ということなのでしょう。 

 

実際は、安心した心の波動が 良い流れを導きますので、これはけっこう理にかなっていることでもあります。

つまり 憂いを手放す場所 が お寺であるとも言えましょう。

ですから、我欲を満たしたい と願うことや 他人を呪ったりするような願いは聞き届けられないばかりか、因果応報によって 自分自身がその念を受けることになりますので

お気をつけください。

自分や人が救われることを願い、試練を乗り越える強さをください とお祈り下さい。

 

もし、あなたが与えられた試練を乗り越えることが出来ましたら

仏さまも喜び、そういうあなたに喜びのご褒美が与えられることでしょう。

 

宗教は日々を清々しく生きるための教えです。

もし、あなたが宗教に煩わされたり裁かれたりすると感じましたら

それは真の宗教とはちょっと違うものかもしれません。

神仏は 人を裁きはしません。

人は自ら放った自分の毒を受け苦しむのです。

この世の苦しみは身に覚えがないかもしれません。

ですが、 過去、前世の償いであるかもしれませんし、根性で魂を磨く学びだと理解すれば、何も恨むことはないのです。

この因果応報の法則から 今あなたがすることがあなたの未来をつくりますので、

沢山の人へ温かいお気持ちをお配りください。

そういうあなたは、きっと沢山の人から愛されることになるでしょう。

高野山根本大塔

小林麻央さん

昨夜 市川海老蔵さんの妻 小林麻央さんが亡くなられた というニュースを聞き

先ほど 海老蔵さんの会見を拝見しました

 

涙が止まりませんでした。

 

乳がん闘病中の麻央さんのブログのことをご存じない方の方が少ないと思うのですが、

麻央さんのブログは 開始当初からずっと読ませて頂いていて

本当に毎日 ご苦労や思いをつづられていて でもその内容は明るく前向きで好きでした。

たくさんの人々が勇気づけられていたでしょうこのブログを 私も楽しみに読ませていただいていました。

応援したい気持ちで読んでいた私たち自身が 麻央さんに応援されていて 

愛をわけてもらっているようでした。

 

いろんな思いや気づきが去来しますが

愛は言葉ではないな と思いつつ

 

今は 静かに 心より小林麻央さんのご冥福をお祈りし

麻央さんの愛に 心より感謝の気持ちをお伝えしたいです。

麻央さんありがとう。 

 

 

https://ameblo.jp/maokobayashi0721/entry-12285272947.html#cbox

BLOG はじめました。

羽ばたく

こんにちは。 初めまして。

アトリエ霽月(あとりえせいげつ) 瞑想教師の 野津寿子(のつひさこ) と申します。

教師と言うより瞑想インストラクターと言ったほうがしっくりきます。

 

このたび 晴れてホームページを開設させていただくこととなりました。ご協力いただいた皆様、お待ち下さったみなさま、

お待たせしました~!

すごくワガママを言いながらデザイナーさんを困らせつつ、

 

crown素敵なホームページを作って頂きました。crown

 

感激です。shine (*´ω`*)

 

本当にありがとうございます。

一生懸命頑張りますので 今後とも どうぞご愛顧くださいますよう よろしくお願いいたします。

 

毎日あれこれ、 瞑想のお話や、アトリエのご紹介、日々の徒然 を 書き綴ってみたいと思います。heart01

shineよろしくお願い致しますshine

 

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