2020年10月
失せもの
ご無沙汰してしまいました。
制作に入り出すと あっという間に時間が過ぎていきます。
もうすぐ圓應寺の法要イベントで 準備に手を取られています。
今回は、更に大きな絵を描こうとしていて、絵と紙と格闘状態です (^_^;)
できるのか? お楽しみに とも言えない微妙な緊張感と共にいます。
もう いまここにしか居れない状態
そういう時によく起きることなのですが、
物品の神隠し・・・
神様の手先で 物を隠しているのはたぶん自分自身なのでしょうが
もう本当に探しても探しても見つからない
謎~~~っ!!!
大半は 忘れた頃に出てくるので 諦めて放置するのですが
今回はそう暢気な事も言ってられない
忽然と消えた?のが 生徒さんの作品。
パネルに張った制作途中の作品で
どうやってなくなったのかがわからない。
かさばる物ですから 紛れている なんてことは起こりにくく
何かの手違いで どこかに移動してしまったのか
本当にありかがわからない。神隠しのようです
自分の物なら即効諦めますが、
もう本当になぜそんなものがなくなるのか 腑に落ちないこと極まりないのでした。
私は生徒さんが持って帰ったものとばかり思っていて
当の生徒さんは持って帰ってない とのこと。
お互いに家を探し回りましたが どこにもないのです。
誰かが間違えて持って帰ってしまった とかならいつか出てくるでしょうが
まだ、誰からも何のアクションもないのです
しばらく 気がかりな日が続きそうです。
でも、こういうことって、スピリチュアル的には心配を手放すのですが、
自分が無くしたかもしれないとなると、気にしない というのはあんまりだ と思うので
まだ当分は 探してみます。
これを機に 雑然とした収納スペースの中を片付けろ ということかもしれません。
やはりほとんど使わないものなんかは 断捨離していこう。
年内の課題かな と思います。
今年は12月に入ったら お掃除始めよう。
スッキリしたアトリエで 制作できるようにしよう。
絵画材料と作品 も 溜め込まないようにしたいものです。
欲しい作品があれば 交渉してくださいね。
まだまだお待たせしている注文品もいくつか保留にしたままだし
身辺をちゃんと整えたい欲求がどんどん大きくなってます
片づける時間と絵を描く時間を増やしたいなぁ と思う今日この頃です。
ほんっとに 断捨離したい。
頑張ります。
断捨離達人いらっしゃったら指導してくださーい(笑)
果たしてアトリエは片付くのか それが今年の課題かも
落ち着いたころに 探し物は出てくるでしょうね。
仏画の取り組み
ご無沙汰してしまいました。
週末、張り切り過ぎました。
昼間 通常の業務、夜中に制作と表装をしていて 睡眠時間がなくなってしましましたが、
日曜日は1日瞑想会の集中瞑想で だいぶ復活しましたが
調子に乗って次の日も徹夜っぽくなったら
さすがにくたびれました。(×_×)
欲張りすぎ注意ですね (^_^;)
歳を考えろ って感じです。(苦笑)
来月1日にライブペインティングがあるので
準備に追われています。
秋の念佛まつり -陰翳礼讃- 十夜一夜(Tenya Wanya)2020
ライブペインティングも回数を重ねていくごとに
徐々に欲が出てバージョンアップせねば という妙な義務感にとらわれ
簡単にすませられなくなっていますね。
単にシンプルなものを丁寧にやればいいんじゃないの?と思いつつも
テーマやコンセプトなどお聞きしてお寺さんのご希望を重視すると
なんだか適当には済ませられないという気がします。
大変だけど頑張ろう
他にも何枚かの仏画のノルマあり、
しなければならないことと したいことと
多すぎて全部こなせないでいますが
することが待っている というのは ありがたいことだと思います。
あれこれ 考えてる暇もない(笑)元々好きな事です やるっきゃない!
私にしかできないこと 頑張ろう ♪
仏画資料を改めて見返してみますと
敦煌莫高窟や雲崗の石窟仏像の美しさにハマっています
いつか実物を見てみたいものです。
Youtube動画が幸せな今日この頃です
趣味の話
雲仙リトリートのことを考えていたら
温泉のことが気になってきました。(笑)それは業務じゃなーいw
しかし、 雲仙行くのに 温泉に入らないわけがないのです! (゚Д゚)
というわけでFacebookには雲仙温泉情報をアップしました
お風呂の写真をクリックしますとFacebookページに飛びます
10月16日投稿記事をご覧ください
そんなでいいのかー(笑)
誰のせいでもない2
何か失敗したりすると、焦ったりパニくったり
凄い罪悪感と嫌だという気持ちが渦巻き
これは本当に私が悪いのか?
いや私だけが悪いんじゃない!あの人だって その人だって関係あるじゃん、
私がやらかしてしまったのは、周りの人だって悪いじゃん・・・なーんて
やり場のない怒りを誰かに向けたくなるのは
すごく 人間っぽいです(笑)
とても大勢の人が そんな心当たりがあるかもしれない。
誰かのせいにしておきたいのは
自分の責任と思いたくない思い です。
責任かかると責める、責められる と 思い込んでしまってます。
現代社会は責め合う関係が主流だからね
でもね、ほんとは誰の責任でもない。
たまたま その位置にいて
その体験をしてしまっただけ、
誰かが代わりにしたかもしれないその体験を
たまたま あなたが した。
もしかしたら、別の瞬間は
「ああ、私じゃなくてよかった」なんて胸を撫でおろしているかも。。
こういう時 私はこう思うようになりました。
ああ、これが私でよかった。
他の人だったらその辛さに耐えられないかもしれない
私は意外と平気。
だって 試練は乗り越えていくものだから。
どんな出来事を体験するか『宿命』が初めから用意されていた とも言われますよね。
聞いたことがありますか?
宿命なら避けられない。 いつかどこかで遭う運命。
だから起きるなら仕方ない。
そういうことが起こりうる可能性の環境の中に生きていて
たまたま それが自分の目の前で起きた ということ。
自分が当事者だったり、被害者だったり、加害者だったり、
色んな立場になります。因果の流転
それらはたまたま、流れとカルマの条件が揃った時にハマります。
どんなに回避したくても 起きてしまう時は起きてしまうし、
どんなに願っても 起きないものは起きない。
計り知れない広大な 世界全体のエネルギーが
大きくも微細にも流動し続けている中で
人間はそれを100%コントロールしきれるものではないのです。
予想外のことは 常に起こります。
関知しない微細な動きや 及ばない大きな流れを
全部把握することなど 不可能です。
だれでも、当事者になりえます。
起こさない努力をしたとしても、
キツく監視すればするほど、キツく取り締まれば取り締まるほど
100%の回避は不可能
締め付けた息苦しさの中ででは
ある水準を越えた時に
過失は起こりやすくなるのです。
オーバーフロー のように。
それ(罪)を責め合って責任の所在を押し付け合うことは
世界にとっては無意味です
それを有効に感じているのはそれぞれの自我だけ。
私は悪くない ということにできれば、真実などどうでもいい と思っているかのように。
問題解決よりも 責任の所在だけを気にする って。
え?修正処理を負わされる
そんなもの他の誰かがやればいい?
なるほど。
みんながそう思っていると ひとしきり押し付け合いの乱闘?が始まっちゃいますね。
暴力的な世界だなぁ。
「そうだよ、油断ならない世界なんだ」
そう思っているあなたが その世界を創り出しているとも知らず。
そんなエネルギーがあるなら もっと効率の良い方法がありますよ。
今一番 何が大切で どんな課題をクリアしたらいいか
気付いて取り組む
改善できることを見つけることの方が
ずっとこの世界を居心地のよいものにするのですけどね。
自我は自我のためのことしか見つけ出せません。
どっちが上か下か
目先の損得
それしか見えていないようなら
その未来は暗いです。
その流れは豊かさから離れてしまっているからです。
あなたの心、あなたのいる環境や 周囲の人々の心を豊かにすること
美しい自然は 常に一緒にあります
自然の流れと共に。
誰のせいでもない1
この世界で起きていること
私達人間は 人間目線の都合だけで世界を見てきましたが、
それだけでは済まない時代に入ってきました。
人間が増えすぎて 人間の都合でエネルギーを消費していると
足らなくなることももうすでに多くの人々に認識されています。
そんなエネルギー問題だけでなく、
私たちの日常で私たちが発する微細なエネルギーや波動に関しても
認識されるようになってきました。
私たちが 波動でできている ということも
少しづつ理解する人が増えています。
原子を構成する陽子や中性子を作るクォークという超微細な微粒子が回転運動をしていてその振動体の集積で出来ているのが物質界なのです
物質とエネルギー
地球上のあらゆる命が発生して それぞれの性質を生きていると
相互にぶつかり、混じり合い、関係性とエネルギーバランスで
全体を形作っていく
その形状や構成の加減は 偶然の集積によります。
自然の造形美 というわれるものです。
私たちはその法則性にたびたび感動します。
その偶然を神の意思 とも呼びますね。
人間たちは自分たちがまるで神であるかのように思っていたりしますが、
そうではありません。
人間の思考や動きもその一つ(自然の造形)に他なりません。
人間を生きていると、
いろんなエネルギーバランスの中で心の内にいろんな感情が湧き起こり
色んなはずみでいろんな決断をしつつ、
その瞬間瞬間が出来上がっていく
それが経験です。
そして それもやはり偶然の集積であるのです。
しかしそこに性質という法則性が存在しますから
それは偶然であって 必然なのです。
誰が当事者になるかは なってみないとわかりませんが。
悟り の 真我の意識で見ている時、
見ている私は世界そのもので、
この体はその一部でしかありません。
たとえこの体をうしなったとしても、意識は世界を見続けるのです。
その時はエゴからも解放され
ただただ観察していることでしょう。
肉体の苦は存在できません。
点描曼荼羅展
今日はFacebook繋がりの友人 松石恭子さんの点描曼荼羅の個展に伺いました。
松石さんの作品、Facebookで拝見している時から、
その抜群のセンスに注目していたんですが、
実物がすごかった。
もう宝石ですよね。とにかくオシャレでハイセンスです。
点描曼荼羅の作家さんの作品はちょくちょく拝見しますが
松石さんのはデザインに個性があって、点だけでなく線や面なども活用していて特徴があるんです。
メヘンディみたいでもあり、オリエンタルな雰囲気
それで実物を見てみたかったんですよね。
お話を聞いてみると、ゼンタングルも制作経験アリとのことで納得。
バリエーションが幅広い。
この方、これからもっとメジャーになりそうな予感です。
大きな作品作らないかな?
現代美術作家にもなれそう。(美大出ならきっとなってる)
写真では写しきれない美しさなので 近隣の方は見に行かれるといいと思います。
今日はワークショップもされていました。
松石さん長身でカッコイイ美女
個人的に青い作品が好みです(笑)
アトリエ霽月に来て下さるとのこと、楽しみにお待ちしてます
カルマは手放すだけ
解放 手放すこと
信頼
その昔、私がまだ悩みだらけだった頃、
スピリチュアルなお話会で講師の方がこうおっしゃいました
「神とあなたの関係は、あなたとあなたのご両親の関係と同じなんです
あなたがご両親をどう思っているか は あなたが神をどう思っているかと同じです
そこに信頼関係があるのか 不信感に満ちているのか・・・」
これを聞いた時、とてもショックでしたね
「ダメじゃん」と思いました。
当時私は両親が嫌いだったのです。
機能不全家族と言いますか
私の病気は親の接し方が原因だったということもあり
私は親に怒りを持っていました。
なぜこんなに苦しまなければいけないのか
私は神にも怒りを持っていたと思います。
そんな
信頼感どころか 拒否感しかない相手と
信頼関係など築けるわけがありません。
「ガーン、神との断絶だぁ・・・」
「終わってるやん・・・」
と 思いましたが
終ってはいませんでした。
それから、カルマの浄化を始めます。
その時は強力な浄化の光を通したのですが、
大きなつまりが取れました。
不思議なことに夢で父と和解したのです。
何が起きたのか分かりませんでした。
目覚めると解放で泣きじゃくっていて、
しばらく泣き続けて それが夢だったことに気付きました
「なんだ、夢じゃん」
呆然としていました。
その瞬間から 私の中の親に対する怒りが消えました。
「あの人たちは子育ては上手じゃなかったけど、彼らなりに一生懸命育てようとしたんだ」と思いました。
自分たちのような苦労はさせまい として 甘やかしたり とか(笑)
苦労させまい失敗させまい として いろんなことを禁じたり とか (^_^;)
ひもじい思いをさせまいと 必死で働いて 子供がどんなことを感じていたか に気付く余裕がなかった。
でも、自分自身も寄り添ってもらったことなどなかったのですから
それを知らないのは無理もないことなんでしょうね。
彼らは私たちより何倍も辛い思いをしていました。
どうやってそれを責めることができるでしょうか。
「反抗してごめんなさい。責めてごめんね」と 思いました。
こんなに必死に こんなに一生懸命やってきたのに 何が悪かったの?と思ったでしょうね
一番いい方法が分からなかったんですよね
自分も親を信頼したことはなかったのでしょう。
カルマは連鎖していくのです。
でも、それは終わりに出来ます。
自分の所で終わりにできるものなのです。
怒りは 悲しみから来ていて
それらを解放して手放してしまうと
そこには 愛 が残ります。
怒りや悲しみの手放し方が分からない方は
瞑想やEFT療法をお薦めいたします。
その苦しい感情から解放されて
愛で神と繋がってください。
今、私は猫を飼っているのですが、
その子たちを見ていてよくわかることがあります。
信頼を寄せて委ねてくる子と
警戒してくる子では
してあげられることが何倍も違います
神様は きっと もっともっと沢山与えたいと思っているかもです
でも、私たちが警戒していると遠慮して
嫌がることはしないであげよう と そっとしていてくれるのかもしれません。
私たちは変化に戸惑いますからね。
無意識に「私たちが怖がらないことしかしてくれなくていい」と
発信しているのかもです。
私たちが喜べば 沢山の豊かさが舞い降りてきます
受け取ったものを喜ぶ 可愛がられ上手になれるといいですね!
そうでもないことは、そっとスルーしましょう。
小さな喜びを大きく増幅させる
あなたの波動が あなたを豊かにします。
そうさせないカルマの感情を瞑想でお掃除しています。
ハッピーな毎日を。
豊かさをもたらす ゴールドタラ です。
秋
朝夕が肌寒く感じるようになってきましたね。
10月も半ばです。
秋桜は花盛りでしょうか。
10月16日は亡き母の誕生日なのですが、秋桜が好きだった母を連れて秋桜畑へ何度か行きました。
10月16日は毎年秋晴れでした。「私の誕生日はいつも晴れなの」とよく母が言っていました
最期の方は 車椅子だったかな。
身体が不自由になってからは 旅行好きだった母も出かけるのを億劫がるようになっていました。
それで小さな秋桜の鉢植えを買ってきたりして 母の部屋に置いたりしたりしました。
春は桜 秋は秋桜です。どちらも桜ですね
母は病気をする前は すごい働き者で、
もう過剰に働く人だったのですが、
休むということやゆったりした時間を楽しむことがとても苦手でした。
これは働いていないと不安になる というカルマからの衝動です。
前半生、戦後の日本の中で 周囲のご家庭も貧しかった中で
更に貧しい家庭の長女として生きていたからでした。
家族のために働き続けなければならない
お金が無いことはとても辛い という思いがこびりついてとれなかったのです。
戦争 という体験は 多くの庶民に苦しいトラウマを与えました。
そのカルマを背に 努力をして豊かさを手にしていきましたが、
カルマはその後も残り続けたんですね。
多くの日本人たちは得ても得ても 安心しきれなかったのです。
また どんな不幸がやってくるか わからない と。
この世界に不信感を持って 怖れを軸に生きると
満たされる ということがありません。
不安は無尽蔵に湧き上がってくるからです。
私たちが生きているのは 過去でも未来でもありません
ただ、今 この瞬間にしか存在しません。
私たちが取り組めるのは 今 この瞬間だけなのです。
今 という真実を冷静に受け止めることから始まります。
どんな辛いことも 今の私が それをどう受け止めるか で
あなたの見ている世界は 不安なものにも 大丈夫なものにも 変わることができるのです。
出来事は 波のようなものです
上がったり下がったりします
一喜一憂が激しすぎると疲れてしまいますね。
まぁ 成り行きを眺めましょう
真の解決策は冷静な観察力から生まれます。
感情に呑まれないように
手に負えないことは サレンダー(降参)していいですよ。
この世界(ユニバース)が起こしていることは
ちっぽけな一人の人間にはコントロールできません
でも、流れは 不必要なものを淘汰していきます。
個々の都合はお構いなしにですが。
流れを読んでください。
私達人類は 新しい意識の世界へと進化していきます。
そうでなければ摩擦の苦しみと付き合うことになります
世界をこちらに合わさせるのではなく
私たちが柔軟に世界に沿って 共存していくのです
世界のバランスが 私たちの環境を守ります
バランスがとても大事です
エネルギーバランスです
この世界を構成するもの
すべてが あなた自身です
世界は あなた そのものです。
あなたの内側に豊かさを満たしてください。
お金や物質は必要ありません。
幸せに感じるものへ意識を向けるのです。