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熊本のヒーリングサロンさゆらを経営されておられる浅川路子さんと知り合ったのは何年前のことだろう、、

どれだけお世話になったかわからない。

本当に純粋で真摯な人柄の路子さんは お会いする回数は限られていたものの 深い信頼関係を感じている方です。

とても繊細な感受性と 物事を深く見つめ 嘘偽りなく向き合う姿は

清々しく 時に切なく 

そしてとても広く大きな愛を感じる人なのでした。

 

今日、路子さんの公開されたノートの記述を

みなさんにも読んでいただきたく、ご許可をもらって こちらにご紹介いたします。

先週土曜日にある映画を見に行きました。
映画自体は申し分なくすばらしかったのですが、意外と胸にがつんと響くものは無く、淡々と見終えた感じでした。
ところが、余韻に浸りながらエンドロールを眺めていた時に、なぜか突然に「自分という映画」のエンドロールを見ているという、すごくリアルな錯覚に陥りました。
すると急に嗚咽が込み上げて来て止まらなくなり、そのまま顔を隠すようにして劇場を出て、駐車場に停めていた車に乗り込みました。
車に乗ってからも涙はずっと止まりませんでした。
その時の感情を言葉にするのはなぜかすごく勇気が要るし伝える自信も無いけど、感じたことをそのまま書いてみようと思います。
その時訪れたのは「私個人の人生」というのは実は存在していなかったんだ、という理解でした。
自分という主体がいて、自分が考え、感じ、経験していくことの時間的な連続で形作られる、一人の人間という「中心」から成立する個人の人生。
その「私の人生」だと思っていたものは、強い強い思い込みでできていたこと、それが突然に実感をともなった理解として降って来た。そんな感じでした。
その時に感じたのは、あらゆるすべてが究極に完全に平等に、ただ現れているだけだということでした。
そう、ただ現れているだけ。
その中には自分の体も、そして「これが私だ」という個人としての自我も含まれていました。
個人としての意識・・・自我すらも、山があり木があり風が吹く、それらとまったく「同列」の現れにすぎないと感じられました。
そして、パラドックスとして、すべて同列に「現れていない」のだということも感じました。
現れは、まさにホログラムのように実体の無い儚いもので、その正体を知ってしまえばあっけなく消えてしまうような感じがしました。
それはまるで、知らず知らずのうちにかけられていた強い催眠術から、急に目覚めたような感覚でした。
それを全身全霊で感じた時に、すべてがただ愛おしく思えて涙がとまりませんでした。
それと一緒に、慣れ親しんだ世界とのお別れのような、悲しさと切なさがいっぺんに押し寄せて来ました。
その時にもうひとつ強く感じたのは、すべての人が、本当は決して欠けることなどできないのに、なぜか不完全な存在であるふりをしているということでした。
人だけでなく世界全体が、もともと完全でしかあり得ないものが、不完全であることで遊んでいるように感じました。
これまでの世界の見え方にはもう戻れないのかも。
そう思った時に、どうしても今すぐに家族に感謝を伝えたい衝動に駆られて、「こんな電話をしたら私が気が狂ったと思って心配するかな?」と不安になりながらも、車の中で何人かの家族に電話をして「どうしても今言っておきたくなって。本当にありがとう。」と伝えました。
似たもの同士の家族なので、こんな突飛な電話も不思議とすんなり受け止めてくれてほっとしました。
人も、世界も、思考も、感情も、人間関係も、社会で日々巻き起こる出来事も、そして「個人の人生」も、ほんとうにすべてが究極的にまったく平等な現れなのだと思いました。
そこには、何かの現れが何かよりも重要ということは一切ありません。
何かの現れが何かより優れているということも無ければ、何かの現れが何かより、より愛されているということもありません。
なぜなら、それを「現わしている」何かは、意図も思考も価値判断も概念も持たないからです。
その何かはとても言葉にできるものではないけど、人間が作り出した言葉でそれに一番近いのは「愛」だと思います。
人間が「愛」と言う時、どうしても人間的な視点のフィルターがかかりますが、ここで言いたい「愛」はそれとはずいぶん違うものかもしれません。
愛は、意味を知りません。意図もありません。目的も無ければ何かを目指すこともしません。
意味、意図、目的は、必ず何かを選び何かを排除します。
けれど、この現れの背後にあるのは意味、意図、目的という収縮した意識を持つことのない、無限に開かれた底無しの受容性なのだと思います。
愛にはどんな形もなく、時間的、空間的制限からも自由で、生まれもせず死にもしない。
意味、意図、目的もなく、まるで遊ぶように、愛は現れという見かけの形をとることがある。
だから、見かけの形、個性、違いに彩られた世界(自我・・・感情や思考も含めて)のすべてが、ただいっときの遊びの中で現れて、また無尽蔵の愛の中に溶けて消滅するだけなのだと思います。

無尽蔵の愛だけが存在の本性。
だから個人であるという現れの錯覚の中にあっても、突然に催眠術が解けて、無尽蔵の愛という本性の方が顔を出すことがあるのだなと思いました。

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