2018年12月
般若心経 現代語詳細
前回に引き続き、般若心経!
今度は 原文に近い現代語訳です。
本文を色文字 訳文を黒文字にしています。
お釈迦様の思いも表現してありますね。とても丁寧な訳文です
現代語訳『般若心経』
摩訶般若波羅蜜多心経(タイトル)
(まかはんにゃはらみったしんぎょう)
存在が存在することの意味を説いたお経
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
(かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみったじ)
観音菩薩は「自分が存在するとはどういうことなのか」という問いについてとことん向き合った末に、一つの真実にたどり着いた。
その真実について、お伝えしよう。
照見五蘊皆空 度一切苦厄
(しょうけんごおんかいくう どいっさいくやく)
私たち人間という存在は、身と心によって成り立っている。
だから私は、自分とは何かを知るために、この身と心のどこに自分が存在しているのかを確かめようとした。
しかし、物質的な肉体も、視覚・聴覚といった感覚作用も、それを受けとる知覚も、あるいは意思や認識といったあらゆる精神作用すべて、どれを詳細にみても「これこそが自分だ」というようなものを見つけることはできなかった。
確固たる自分は、どこにも存在しなかったのだ。
驚いたことに、「自分」という実体は、じつはこの世界のどこにも存在しなかったのである。
その真実を知って私は驚きを隠せなかったが、同時に苦悩から解き放たれるような安らぎを覚えた。
舎利子
(しゃりし)
(ブッダの弟子の)シャーリプトラよ。
私が知り得た真実とは、「自分が存在しない」という驚くべき事実のことなのだ。
今からその真意について簡潔に話をするから、よく聞いておくれ。
色不異空 空不異色
(しきふいくう くうふいしき)
まず私たちの体を詳細に観察すれば、これは「体」という固有の「もの」が存在するのではなくて、
たとえば原子というような、様々なものがくっついて出来上がっていることがわかるだろう。
つまり「体」が存在するのではなく、いろいろなものが集まってできた「物体」を、私たちは体と「呼んでいる」にすぎないのだ。
これは事実として理解できるね?
体というものは、いや、体だけでなくあらゆる物体は、それ固有の実体が存在しているのではなく、あくまでも何かが集まった「状態」にすぎない。
不変の自分、つまり自性(じしょう)と呼ぶべきものはなく、すべて無自性なのだ。
この、「あらゆる物体に実体はない」という真実に、まず名前を付けてしまおう。
そうだな、「空(くう)」という言葉がいい。
「物体に実体は存在しない」という真実を、「空」と名付けることにするから、これから私が「空」と言ったら、
「物体に実体は存在しない」「自性がない」という意味であると覚えておいておくれ。
色即是空 空即是色
(しきそくぜくう くうそくぜしき)
私たちが感じとるあらゆる物体は、固定的な実体がなく「空」という性質をもっている。
存在を支配する根本の原理は、この「空」という真実なのだ。
そして存在は「空」であり、変化をする性質であるからこそ、あらゆるものは形をもつことができ、また形を変えることができるのである。
もしも固定的な物体が存在したら、その物体は何をどう加工しようとしても変化をしないことになる。
変化をしないから固定的な物体なのだ。
しかしそのようなものは、この世界のどこにも存在しない。
どのようなものであっても変化をし、だからこそこの世界には多種多様な姿や形をしたものが存在している。
受想行識 亦復如是
(じゅそうぎょうしき やくぶにょぜ)
そしてその「空」という性質は、物体だけでなく、精神作用にもあてはまる。
すなわち、感覚・知覚・意思・認識といったあらゆる精神作用も、形こそないが、変化をするという法則のなかにある。
つまり、物体である身も、精神作用である心も、どちらにも固定的な実体は存在しないということだ。
これが何を意味しているかわかるだろうか?
そう、自分とはこの身と心であるにも関わらず、身にも心にも実体としての「自分」が存在しないということなのだ。
固定的な存在としての「自分」は、どこにも存在しないのである。
ただ、私たちは脳という器官があり、「考える」という営みができ、「自分」という概念を想起することができるため、この身と心を具えた一つの物体、つまりが自分という存在を、自分だと認識することができる。
できる、というよりも、認識してしまっている、と言ったほうがより正しいかもしれない。
しかし真実としては、自分というものは存在しないのだ。
これはつまり、「自分」という存在は固定的な存在ではなく、流動的な「状態」の一つにすぎず、結局自分も「空」だということである。
舎利子 是諸法空相
(しゃりし ぜしょほうくうそう)
シャーリプトラよ、驚いただろうか?
それとも、言っている意味がよくわからないだろうか?
もしくは、当たり前のことを言われたような気がしただろうか?
まあ、今はどれでもいい。
あらゆる存在が「空」であるという理解は、当たり前のもの、普遍の事実であるから、今すぐ理解できなくても大丈夫だ。消えてなくなることはない。
これを知ろうと志せば、必ず知ることができる。
ただ、世界の在りようをしっかりと見つめて真実を見抜いていこうとする態度だけは失ってはいけないよ。
このことは人生を生きる上で本当に重要な理解となるから、くれぐれも忘れないでおくれ。
不生不滅 不垢不浄 不増不減
(ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん)
あらゆる存在が「空」だとわかると、面白い事実に気がつくことになる。
私たちは、命は生まれて死ぬものだと考えがちだが、それも違うのだ。
あらゆる存在は、いろいろなものが集まって形を為し、そこに形以上の「はたらき」が生まれて「生きる」という活動をしている。
私たちが、自分を自分だと認識して生きていることも、形以上の不思議な「はたらき」のなせるわざである。
「命」もまた実体として存在するものではなく、それは神秘としか言いようのない、不思議は「はたらき」なのである。
「個」が集まってできた「和」には、単なる個の集合以上の不思議な「はたらき」が具わることがある。
それが、命だ。
だから生き物は、生まれて死ぬのではなく、はじめから実体が存在しない「空」という存在のしかたをするなかで、ただ変化を繰り返している。
この、「存在は変化を繰り返す」という真実には、「無常(むじょう)」という言葉を当てるとしよう。
「存在」「空」「自性がない」「無常」「変化を繰り返す」「常なるものは存在しない」
これらのキーワードはすべて、互いに深く関係しあっているものなのだ。
そして存在には「変化」があるばかりで、生まれもしなければ死にもせず、垢がつくこともなければ浄らかなのでもなく、増えもしなければ減りもしない。
ただ、変化を続けるだけである。
是故空中 無色 無受想行識
(ぜこくうちゅう むしき むじゅうそうぎょうしき)
これまでのことを繰り返すことになってしまうが、もう一度言おう。
身も心も、すべては「空」であり、固定的な実体などというものはどこにも存在しない。
私たちを含むあらゆる存在は、変化するなかで「今はこの状態として存在している」というふうな存在のしかたでしかこの世界に存在することができない。
つまり存在には自性がなく、すべて無自性なのである。
無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
(むげんにびぜっしんに むしきしょうこうみそくほう)
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、心。
そのどこにも不変のものはなく、みな「空」である。
見えたもの、聞こえた音、嗅いだ臭い、食べた味わい、触った感触、抱く思い。
それらもまた「空」であり、不変の実体として存在するものではない。
無眼界乃至無意識界
(むげんかいないしむいしきかい)
私たちは感覚器官で周囲の世界を感じとる。
つまり私たちが理解できる世界とは、自分の感覚器官で感じた世界であって、世界そのものを感じているわけではない。
世界とは、私と世界とが互いに関係し合うところに生まれるものなのだ。
そうした世界もまた、「空」であることに違いはないのだがね。
無無明 亦無無明尽
(むむみょう やくむむみょうじん)
私たちは、真実に眼を向けずに、自分本位の誤った認識で生きることで「苦」という感情を抱く。
真実とは、存在は「空」だということ。
誤った考えとは、自分を含む様々な存在が実体として存在していると思ってしまうこと。
なぜ世界が「空」という真実のもとに存在しているのかは、私にもわからない。
ただ、世界は現にそのように「空」として在るわけだから、これは事実として受け止めるしかない。
あらゆるものは、有るようで無いのである。
それは、ただ無いのとも違う。
やっぱり、有るようで無いのだ。
乃至無老死 亦無老死尽
(ないしむろうし やくむろうしじん)
だから、老いや死ということも、本当は存在しない。
老いや死とは人間の眼から見た、概念としてのみ存在するもので、実際には「空」である存在が変化をして形を変えているだけである。
老いないわけではないが、死なないわけではないが、それはやはり老いでも死でもない。
無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故
(むくしゅうめつどう むちやくむとく いむしょとくこ)
あらゆるものに実体は無いから、苦しみだって本当は無いし、苦しみを無くす方法だってない。
それらはすべて概念でしかなく、その概念を抱く自分という存在もまた、概念でしかない。
じゃあ、あらゆるものは概念なんだと理解すればいいかというと、それも違う。
ここはとてもややこしいところだが、頭で理解するという営みが、すでに虚構なのだ。
これらを知識として理解したところで、それは何も理解していないのとほとんど変わらない。
私たちは知識で何でも得ようとするが、存在の本質に関わる部分では、知識としてこれを得ることなどできはしない。
真実を受け取るとは、知識で理解することではない。
だから、得ることなどできないのだ。
菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
(ぼだいさった えはんにゃはらみったこ)
無い無いばかりで申し訳ないが、やはり無いと言うほかに方法がない。
誤った認識の発端は、「有る」と思うことだから、やはりどうしても否定の形をとらざるをえないのだ。
心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖
(しんむけいげ むけいげこ むうくふ)
ただ、存在の本質が「空」であり、私という概念が取り払われ、世界と自分とを隔てる虚構が崩された認識というのは、すがすがしいものである。
わだかまりを抱くことが何もない。
わだかまりを抱く私が存在せず、わだかまりという心もまた、本当には存在しないから当然といえば当然か。
心に何の恐れも生じないのだ。
遠離一切顚倒夢想 究竟涅槃
(おんりいっさいてんどうむそう くぎょうねはん)
人は普通、自分のことは自分でしていると思っていることだろう。
だが、本当にそうだろうか。
たとえば、心臓が絶えず拍動を続けているのは、自分の意思か?
この体を作ったのは、自分か?
熱い物を触ったとき手を引っ込めるのは、はたして考えた上でのことか?
自分の体でありながら、それらは自分の意思とは関係のないところで自ずとはたらき続けてくれているのではないか?
それなのに、多くの人は自分の体は自分のものであり、自分の意思で自分は生きていると思っている。
存在しないはずの自分を「有る」と疑うことなく所有し続けているからだ。
このような誤った考えから離れるだけで、心はずっと安らかになるというのに。
三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提
(さんぜしょぶつ えはんにゃはらみったこ とくあのくたらさんみゃくさんぼだい)
いつの時代であっても、どの国であっても、いかなる宗教を信じていても、この「空」という存在の真理を知っている者は心が安らかでいられる。
よく、「仏」という言葉が使われるが、その仏とはこの「空」を知る者を指す言葉でもあるのだよ。
仏とは「真実に目覚めた者」という意味の言葉だからね。
真実を感得するのに仏教徒でなければならない理由などないのだ。
誰の眼の前にも真実は姿をあらわしているのだから。
故知 般若波羅蜜多 是大神咒 是大明咒 是無上咒 是無等等咒
(こち はんにゃはらみった ぜだいじんしゅ ぜだいみょうしゅ ぜむじょうしゅ ぜむとうどうしゅ)
だからいいかい、存在が存在することの真実を見抜く「般若波羅蜜多」という智慧は、あらゆる人に平等にもたらされるこれ以上ない尊いものなのだ。
人は、「生きる」ということの意味を真剣に考えたとき、必ずこの真実に向き合うことになる。
存在が存在することの意味を知らずして、存在が生きることの意味なんてわかるわけがないからね。
能除一切苦 真実不虚
(のうじょいっさいく しんじつふこ)
あらゆるものは「空」である。
この真実を本当に知る者は、どんな苦しみも、それが概念でしかない自分が築き上げた、さらなる概念であることに気がつくだろう。
だから苦しみから逃れようとして苦しむことなど、あるはずもない。
病などによる痛みや疼きが消えるわけではないが、それらを「苦」と認識して「苦」から逃げようとすることはないという意味だ。
故説般若波羅蜜多咒 即説咒曰
(こせつはんにゃはらみったしゅ そくせつしゅわく)
最後に、この真実を見抜く般若の智慧を、短い咒文で讃えたい。
これだけは意味を訳さないで、古代の言葉のまま読んでほしい。
昔のままの言葉で読むことに意味があるのだ。
だから言葉の細かな意味は知らなくてもいい。
「尊ぶ」という心でもって唱えるだけでいい。
頭で理解することが、理解の全てではないのである。
では、その咒文(真言・マントラ)をここに記しておく。
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
(ぎゃていぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼじそわか)
ギャーテーギャーテー
ハーラーギャーテー
ハラソーギャーテー
ボウジーソワカー
般若心経
(はんにゃしんぎょう)
これで、存在が存在することの意味を説く、般若心経の教えを終わる。
以上 曹洞宗僧侶でエッセイストの佐藤隆定氏の訳文でした。
※ 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 を
「行こう行こう 彼岸へ行こう みんなで苦の無い菩提の道へ 彼岸へ行きましょう」と訳した方もありましたが
これはマントラですから本来は何語にも訳せないのでしょうね。
言語サンスクリット語をカタカナ表記すると
ガテガテ パラガテ パラサムガテ ボーディスワハ です
前回の若者言葉般若心経 の ラスト「心配すんな 大丈夫だ」は
人々の心を緩める 同じ効果を持つ言葉 ということでしょう。
何気に貼ってみました。
超訳般若心経 現代若者語
ネットではもうかなり出回っている ラップ調 若者語の般若心経の訳をご紹介したいと思います。
かなり意訳してあるので 本当の現代語訳を読んでおられる方は ちょっと戸惑われるかもしれません。
明日は本式 現代語訳をアップしますので
今日は この般若心経を味わってみてください。
なかなかいいと思いませんか?
現代若者語訳「般若心経」
超スゲェ楽になれる方法を知りたいか?
誰でも幸せに生きる方法のヒントだ
もっと力を抜いて楽になるんだ。
苦しみも辛さも全てはいい加減な幻さ、安心しろよ。
この世は空しいモンだ、
痛みも悲しみも最初から空っぽなのさ。
この世は変わり行くモンだ。
苦を楽に変える事だって出来る。
汚れることもありゃ背負い込む事だってある
だから抱え込んだモンを捨てちまう事も出来るはずだ。
この世がどれだけいい加減か分ったか?
苦しみとか病とか、そんなモンにこだわるなよ。
お気に入り
詳細を見る
見えてるものにこだわるな。
聞こえるものにしがみつくな。
味や香りなんて人それぞれだろ?
何のアテにもなりゃしない。
揺らぐ心にこだわっちゃダメさ。
それが『無』ってやつさ。
生きてりゃ色々あるさ。
辛いモノを見ないようにするのは難しい。
でも、そんなもんその場に置いていけよ。
先の事は誰にも見えねぇ。
無理して照らそうとしなくていいのさ。
見えない事を愉しめばいいだろ。
それが生きてる実感ってヤツなんだよ。
正しく生きるのは確かに難しいかもな。
でも、明るく生きるのは誰にだって出来るんだよ。
菩薩として生きるコツがあるんだ、苦しんで生きる必要なんてねえよ。
愉しんで生きる菩薩になれよ。
全く恐れを知らなくなったらロクな事にならねえけどな
適度な恐怖だって生きていくのに役立つモンさ。
勘違いするなよ。
非情になれって言ってるんじゃねえ。
夢や空想や慈悲の心を忘れるな、
それができりゃ涅槃はどこにだってある。
生き方は何も変わらねえ、ただ受け止め方が変わるのさ。
心の余裕を持てば誰でもブッダになれるんだぜ。
この般若を覚えとけ。短い言葉だ。
意味なんて知らなくていい、細けぇことはいいんだよ。
苦しみが小さくなったらそれで上等だろ。
嘘もデタラメも全て認めちまえば苦しみは無くなる、そういうモンなのさ。
今までの前置きは全部忘れても良いぜ。
でも、これだけは覚えとけ。
気が向いたら呟いてみろ。
心の中で唱えるだけでもいいんだぜ。
いいか、耳かっぽじってよく聞けよ?
『唱えよ、心は消え、魂は静まり、全ては此処にあり、全てを越えたものなり。』
『悟りはその時叶うだろう。全てはこの真言に成就する。』
心配すんな。大丈夫だ。
意識の世界2*海のような意識のつながり
私たちの意識を 海に例えますと
今、この世界を見ている私たちの意識は海面の波のようなものです
海の表面から外の世界を見ています。
自我の意識は小舟に乗る人 のようなものです。
小さな自分が広い世界を見ています。
身の回りの環境が自分の世界の全てです。
コミュニティは大きな船です。
大勢の人が乗っていて、丈夫ですが他者と一緒に載っています
海面が静かに凪いでいる時、
それは平和で 美しく穏やかな世界
そして、ずっと変化が無いと ちょっと退屈かもしれません。
感情の波は 風や波紋に刺激され起こります。
波は伝わって全体に拡がります。
意識は周囲のバイブレーションを受けています
でも、私たちの意識は 海面だけじゃないということを
色 この世の変化する状況やその景色 空 全てを包括する広大な宇宙 物事を捉えて一喜一憂していた意識は 空に入ると 即座に宇宙そのものになってしまう。 ミクロの視点の小さな憂いにスポットを当てて悩むことを止めて 宇宙を感じなさい 行こう行こう みんなで 宇宙意識になろう というのが般若心経です。 明日は般若心経の現代語訳をご紹介しましょう
意識の世界


霊の話題


霊は、肉体のない意識です。
人生を終えた後、魂は身体から抜けると通常は魂の故郷に吸収されてしまいます。これを成仏と呼んでいます
成仏したくない魂は、この世に強い執着を残していて、元々いたあちら(彼岸)に戻ることを拒否して人間の世界に留まっています。
自然な成り立ちに逆らうのですから かなり強力なエネルギーがあります。思いが強い ということです。
人々の意識には波動とエネルギーがあります。
物質として存在しなくても 波動は存在します。
他人の感情がそれとなく分かる 怒っている人の近くに行きにくい 、
なんとなく行きたくない場所があるなど、私たちはそれを感じとる能力があります。
空中を電波が飛んでいるように 波動も世界の中に沢山存在しています。
これは物質ではなく バイブレーション(振動波)です
人々が強い念を持つ時、感じる時に
その強い波動が周りを共振させて波動だけ残してしまうんですね。
そこに来た人は、波動を被って同調してしまうことがあります。
波動が強ければ強いほど多くのものを巻き込みますが
通常は波動は、元々持ってる波動と似た波動にしか同調しませんので、全ての人が影響を受けるわけではありません。
霊でなくても、
実在する人間が出す波動にも私たちは影響を受けています。
視覚や聴覚も加わるので生きてる人間を直接会う方がより強く影響を受けますね。
波動は特に肌や第六感に響いて来ます。フィーリングです
見えない波動のみの場合は、
受ける側のセンサーが感度が良いか、
チャンネル(周波数、波動)が 元々あるものに近い時に特にキャッチしてしまいます。
ラジオのチャンネルを回すと周波数の合うところで声が聴こえてくるのと同じです
自分と近いもの、好きなものを集めてしまいます。
成仏できない霊(思いの記憶)に憑依される人は、ある意味その波動の中に居ることを選んでいます
被害者 という立場
怨み という思い
自分を憐れんでいる、
誰かに助けてもらいたい、
または誰かのせいにしたい
鬱憤を晴らしたい(感情の解放)
などの思いがあります。
霊というのは、成仏していない全体と分離した魂 です。
霊はこの世に思いを残して何かをしたいというエゴを持っているので、同調してくれて乗っ取れる身体は都合が良いのでしょう。
霊自身は身体を持たないので誰かに憑依して動きたい。
そこまで強力な霊はごく僅かなのだと思います。生きてる時はすごい念を持ったエゴイストだったのでしょうね。
そういう意味では死んだ者より生きている者の念の方が強いと思います。
でもこれは、波動の周波数が合わない人間にとっては チャンネルの違う別世界の出来事です。
仏教でいう天国や地獄などの六道はチャンネルの違いで、それぞれがこの世界の中に重なって存在しています。
ラジオやテレビの中にいろんな局があるのと同じことです
同じ場で、違う景色を見ているんです。
私たちの脳は受信機です
憑依は、気持ちの波動を落としてしまった人が、悪い友達にそそのかされてしまうようなものです。
肉体を持たない意識(霊)と友達になってしまい、相手に執着されてしまうことを許してしまったのかもしれません。
本人が毅然と断らなければ立ち退いてくれません。
まずは、本人が抜けると決意することと、
幸福であることを選択する意思が必要です。
病気であることは、ある意味、現実と向き合わなくてよいので 病気を心地よいと無意識に感じている人も少なくありません。
その人たちは口で治りたいと言い、症状が無くなることは望みますが、現実と向き合う覚悟は出来ていませんので、治ることを選びません。
無意識に病気を必要なものとしているんですね。
でも そのことは表面の意識には上がりません。
どんな状態も 学びの1つなんです。
この状態を作り出しているのは自分だった。もうこんな状態はこりごりだ。抜けられるなら何でも手放す
そう覚悟すると 身体は 自分が握りしめていた思いを手放して 回復を始めます。
この手放すことに抵抗する思いが強い念や執着となり カルマ として残ろうとします。
どれも 波動の世界 思いの世界のことです。
悟りは これらの思いを手放してしまいますので 波動が変わり、カルマの縁がなくなってしまいます。
思いを手放す というのは 消し去ることではなく、どうにかすることを
ダルマを信頼してお任せすることです。神や仏にお任せする というのも同じことです。